江戸の出島は、日本橋本石町にある。

 本石町は古くは石町と呼ばれていた。米問屋が集まっていたからだ。けれど、神田に新石町が出来て以降、本石町と呼ばれている。

 毎年、如月末になると、雛人形や雛道具を扱う床店が、十軒店の道の中央に背中合わせに一町(約百九メートル)も連なり、沢山の人々が集まった。

 その賑わいは、薬種問屋長崎屋の前まで続いていた。こちらは、雛人形を買い求めに来た客ではなく、紅毛人こうもうじんを一目見ようと押しかけた人々だった。長崎屋は、江戸へ参府するオランダ商館一行の定宿だった。

 オランダ商館とは、海の果ての異国にまで商いを広げる、オランダ連合東インド会社が日本に置いた拠点である。

 西洋諸国のうち、ご公儀が交易を許したのはオランダ一国であった。その窓口として交易を独占する、オランダ連合東インド会社が得る利益は少なくなかった。ご公儀は、カピタン(オランダ商館長)に交易の謝意を示させるために、江戸への参府を義務づけていた。

 カピタンは毎年弥生朔日に、千代田の御城で上様と世継ぎの若君に御目見得し、異国より携えた品々を献上する。ご老中や側用人、若年寄、寺社奉行などにも進物を贈り、日本との商いが末長く続くよう願う。

 今年も十軒店の雛市と時期を同じくして、カピタン一行が長崎屋に到着した。

 雛市の売り物の桃の枝から落ちた花びらと、商家の塀越しに伸びている彼岸桜から散った花びらが、往来を桃色に埋めていた。

 現オランダ商館長、カピタン・ヘンドリキ一行百余名は、船首で大海を割って進むように人々をかき分け、長崎屋へ入っていく。

 小倉、下関、大坂、京と上ってきたが、どこでも人波と好奇の目にさらされて、一行はうんざりしていた。一人の男を除いては。

『デポー、江戸の人々は面白いね』

 後尾で長崎屋に入る順番を待っていたオランダ商館医、ヤン・デ・ヨングが弾んだ声を出した。

『どこがだ?』

 横に立つ蘭方医、柳生泥穂は訝しげに眉を寄せ、阿蘭陀口で答えた。

 柳生家は長崎で通詞を務めている。しかし泥穂は、十五歳で見習通詞として出島に詰め始めた頃から、商館医の蘭方医術に心をうばわれ、医術の習得ばかりに励んだ。おかげで、通詞よりも医者として重宝されるようになり、今回も長崎奉行から、通詞ではなくヤパンネル(日本人)の随行員の医者に任命された。

『興味津々なのに眼を合わせると、慌てて、おのれは見物人ではありません、という顔をする』

『ホランデル(オランダ人)に眼を合わせられたら、怖じ気づくのは当たり前だろう』

 泥穂は、淡青いびいどろ玉を嵌め込んだような眼をもつ商館医を呆れた顔で見る。

 泥穂は三十九歳、ヤンの齢はその十も下だ。

 若くして商館医に抜擢され遠い異国の地に送られたのは、優秀だからか厄介だからか。泥穂は後者だと踏んでいる。

 ヤンは医者らしく、いつも何かを推し量っていた。お天道様の位置、空気の湿り気、風の匂い、薬の効き目、病の成り行き。そこには必ず、一抹の嘲りが交じった。ヤパンネルにも、ホランデルにも分け隔て無く向けられるそれは、人を揶揄せずにはいられない、悪餓鬼のようなヤンの性分だと泥穂は考えていた。

『それにしても、江戸は長崎よりも埃っぽいね』

 ヤンは咳払いをして、額の汗を首元の白い襟布で拭った。一つに束ねた黄褐色の波打つ髪は日を浴びて金色を帯びている。まだ朝晩は寒いが、今日のように柔らかい日が注ぐと、体温の高いホランデルには暑いだろう。

『江戸は人が多いからな』

『人も色も、匂いも、音も、何もかも多すぎる』

 長崎、特に出島では、潮の匂いに交じり、香料の色や、薬種、皮革の匂い、海鳥の声や阿蘭陀口、日本口が、まだ輪郭を持っている。けれど江戸は、すべてが一緒くたになり、身体に纏わりつく。

 長崎屋に入っても、喧噪は止まなかった。町内の一角を占める大屋敷の長崎屋は、幾棟もの土蔵や離れを抱え、門からは奥まで見通せない。裏から入った人足たちが、通り庭で荷駄馬からカピタン櫃や献上品を収めた大小の荷箱を下ろし、次々と土蔵へ運び込んでいる。

 ヤンは、歩を進めるたびに軽く眉を寄せ、膝まで届く紺羅紗の上衣を揺らしていた。上衣が乱れると臙脂の胴着がよく見えた。脚衣は膝下で絞られ、灰白の長靴下が覆う足の力は頼りない。ついに被っていた三角帽を脇に抱え、首を振る。

『大丈夫か、ヤン。診立ては』

『長旅の疲れだよ。さすがに正月に長崎を出て、もう三月だ。船旅なら、酒を飲んでいれば良いけれど、陸路はきつい』

 そう言いながら、脇腹を押さえている。

『何だよ、デポー。ホランデルの部屋まで着いてくる気かい』

 案じる泥穂に、ヤンは肩をすくめ、おどけた顔をした。

 ホランデルは長崎屋の母屋に泊るが、ヤパンネルは離れに泊まる。泥穂と共に歩くヤンも、宿ではホランデルと泊る。

『エリキシルは?』

 エリキシルは異国の薬酒だ。気付け、強壮に効くとされている。

『それより、ローデ・ウェイン(赤ワイン)が欲しい』

 ヤンは、乾いた唇を舌で湿らせた。

『飲み過ぎるなよ、ヤン。そして江戸ではデイホと呼べ』

 泥穂の声に答えずに、ヤンは背中を向けた。

 ヤンは、酒に身を蝕まれていた。

 長い航海で積み込んだ水は濁り、腐ってゆく。そのため船には麦酒や葡萄酒も積まれ、水代わりに配られる。ヤンは医者として、わずかでも清い水を病人に渡そうと、航海中は酒しか口にしないそうだ。

 ヤンがほかのホランデルたちと行動をともにしたがらないのも、酒が切れると震え出す手を、笑いものにされたくないからだ。

『デポーはデポーだよ』

 背中越しにヤンが言う。

 南蛮の言葉で、葡萄酒の底に溜まる澱を「デポー」と言うらしい。三年前、来日したばかりのヤンは、泥穂の名を聞くなり嬉しそうに笑った。

『デポーだって? 私の友にぴったりの名前だ。よろしく、デポー』

 そのころ、泥穂の阿蘭陀口はまだ拙く、意味を問いただせなかった。以来、ヤンは何かと泥穂のそばへ来た。おかげで、泥穂の阿蘭陀口は格段に上達したが「澱」と呼ばれて、良い気分はしない。

 離れの与えられた部屋で、泥穂は江戸間の小さな畳の上に腰を下ろした。

 昔、ヤン以上に同じ歳月を過ごし、寝食をともにした男がいた。痩身でいつも顔色が悪かった。ホランデルたちはスポーク(幽霊)と呼んでいたが、泥穂はヘースト(霊魂)が近いと思っていた。あの男を動かしていたのは、生き物としての欲ではなく、医術を究めようとする執念だった。

 貞森十内。

 その男との思い出は、泥穂の胸の底に澱のように重苦しく沈んでいた。

 

 カピタン一行と上様の御目見得が無事に済み、長崎屋にはご公儀の役人や蘭学者たちが、ホランデルたちに会うために押しかけていた。特に、上様からオランダ文字学習の命を受けていた儒者の青木昆陽と御目見得医の野呂元丈は、足繁く通っていた。

 弥生五日の宵の口。長崎屋の大座敷ではカピタンの宴が催されていた。

 畳の上には長机と椅子が用意され、上座にはカピタン・ヘンドリキが座っている。彼はホランデルとしては小柄で、顔の彫りも深くない。髪と眼の色が黒ければ、ヤパンネルの男盛りに見えただろう。けれど、鈍い銅色の髪と翡ひ翠すい色の眼は、からくり人形のような不思議な怖さを感じさせる。しかし、口を開けばヤンと同じように屈託がなく、ヤパンへの好奇心を隠さない。

 机の上には、出島から連れてきた料理人が作った南蛮料理が並んでいた。

「こちらはラーグー、鶏団子汁でございます。こちらはスペーナン、ほうれん草と牛乳を練り固めた油で炒めたもの。こちらはタルタ、野菜の麦粉包みです。こちらはカステイラブロード、かすていらの盛りあわせでございます」

 通詞が、南蛮料理を説明する。

 招かれたご公儀の役人や学者たちはホランデルの一挙手一投足を窺い、長崎から同行した商人たちは、さりげなく商いの芽を探している。長崎屋に詰める町奉行所の普請役二人と南北町奉行所から一人ずつ出役している同心二人が、目だけは油断なく不届き者を探していた。

 ヤンは、手にした盃を燭台の火に照らす。わずかに残る赤黒い液の底に、不揃いの細かい粒が沈んでいる。ご老中への進物の残りのローデ・ウェイン、日本口では珍陀酒だ。

 ヤンは舌を使い、盃の底の澱まで舐め取った。

『あさましい飲み方はやめろ』

 ヤンの隣に座っていた泥穂は眉を顰めた。いくら末席とは言え、商館医の振る舞いとしてふさわしくない。

『ひさしぶりのローデ・ウェインだぞ。一滴でも残したらもったいない』

 ヤンの口から、黴臭い香りがした。その中に腐りかけた果実のような甘さが混じる。

 ヤンは珍ちん陀た酒しゆに目がなかった。出島では珍しくないが、道中や江戸では、オランダ宿で振る舞われる日本の酒しかない。ヤンは三月ぶりに珍陀酒にありつけたのだ。

『だからと言って、デポーまで飲むとは』

『デポーにはその酒の歴史が詰まっている』

 ヤンは珍しく、にやけ笑いを消して、真面目な顔で言った。

『上澄みだけを飲んでも、それはその酒の真実ではない。上澄みだけ診る医者がどこにいる? ねえデイホ。デポーこそ、酒の過ぎし日の記憶。医者が味わうべきものなんだよ』

 泥穂は返す言葉を失った。ヤンの眼差しには、ヤンらしからぬ優しさがあった。

『今、デイホと呼んだか?』

『デポー、何を真面目に聞いているんだ。私の言うことを真に受けないでくれよ』

 ヤンは照れくさそうに笑い、女中に新しい珍陀酒を注がせた。泥穂もおのれの盃に注がれている珍陀酒に口を付ける。目が覚めるほど酸っぱくて、喉の奥がぎゅうっと締まった。

『こんな味だったか?』

 咳き込みながら泥穂が言った。出島で飲んだ珍陀酒は、もっと酸味が弱く、甘みがあった気がする。

『そのまま飲めばね。ヤパンネルはよく、生の珍陀酒を有り難がって飲むなあ』

 意地悪な笑顔で、嘲りを含んだ声を出す。いつものヤンに戻っていて、なぜかほっとする。

『ヤンはどうやって、飲んでいるんだ』

『そりゃあ、プーデルを入れるのさ。甘くて旨くなる』

『プーデル?』

 泥穂は首をかしげた。プーデルとは粉という意味だ。甘くなると言うからには、砂糖の別の言い方だろうか。

 ヤンは上着の内側から、包紙を取り出した。包みを開けると、白い粉がのっている。

『それは何だ?』

『プーデルだ』

 いや、砂糖なら「スイケル」と言うはずだ。プーデルとは何だ? もっと阿蘭陀口に精通していれば分るのだろうか。泥穂はヤンに、阿蘭陀口の拙さを知られたくなくて、聞き返せなかった。

『有平糖あるへいとうを砕いたものか?』

 有平糖は、砂糖を煮詰めて固めた砂糖菓子だ。庶民には手の届かぬ高価な菓子で、泥穂も数えるほどしか口に入れたことがない。

 もしかしたら、砂糖そのものではなく、砂糖菓子を砕いたものをプーデルと言うのかもしれない。

『有平糖? プーデルのことをヤパンでは有平糖と言うのか?』

 そう言いながらも、ヤンは菓子の名前に興味は無いようだった。注がれた珍陀酒に、白い粉をつまんで落とす。白い粉は珍陀酒の表面に滑らかに広がった。ヤンが盃を揺らすと、底へ沈んでいく。

 南蛮には珍陀酒に有平糖を入れて飲む習慣があるのか。いや、まさに酒を水のように飲む、ヤンだけの習慣かもしれない。酒を好まない泥穂には、どちらでもよかった。

「さあさあ、カピタン。盃の空いとりますばい」

 同行した長崎の薬種問屋、鳴海屋藤兵衛が、膳もあらかた片付いたのを見計らってカピタン・ヘンドリキに近づいた。齢は五十路を過ぎたばかり。大柄で顔の彫りが深い。泥穂と同じ長崎の生まれで、西国に少なからずいる、渡来人の血が混ざる鼻筋の通った、大陸的な顔立ちをしている。

 藤兵衛は上等な羽織の袂が濡れるのも気にせず、手にした徳利を勢いよく傾けた。幇間ほうかんも顔負けのおどけた調子でホランデルたちの笑いを誘うが、その眼は相手の懐を値踏みしている。

 泥穂は鳴海屋を使ったことがない。珍しい薬種を揃えているが、高価すぎて泥穂の病人には使えなかった。昔から面識はあったが、ヤンが鳴海屋から薬種を取り寄せるので、近頃は一緒にいる泥穂にも打算に満ちた眼を向ける。

 そういえば、藤兵衛は貞森には、厚意の眼を向けていた。

 十年以上前、藤兵衛が病人に高価な薬種を売りつけたことがあった。医者仲間で抗議しようという話になったが、貞森だけは異を唱えた。

「間違った薬種を売りつけている訳ではないのでしょう。病が治れば、あとはいかようにもなるではないですか」

 その迷いのない声に、医者仲間は返す言葉を失った。藤兵衛への抗議は有耶無耶になり、それを聞きつけた藤兵衛が、謝礼の金子を貞森に渡そうとしたが、貞森は礼をされる覚えがないと受け取らなかった。それがまた藤兵衛を喜ばせた。貞森が長崎を発つ日は、日見宿まで駕籠に乗せたほどだ。

 貞森はいつも正しかった。そこに情けが入り込む余地はなかった。情けのない正しさが人をひどく傷つけることに貞森は、気づいていなかった。

 藤兵衛が席へ戻ると、泥穂のそばの襖が開いた。長崎屋の女中に案内され、一人の男が現われた。黒羽二重の小袖の上に十徳をまとい、鼠色の袴をつけている。いかにも医官らしい姿だったので泥穂は油断した。通り過ぎる男の顔をふと見上げ、思わず声が漏れた。

「十内!」

 泥穂が見習通詞ではなく、蘭方医として認められ始めた十五年前、出島に来たのが貞森だった。優秀な見習医師として、ご公儀の命で各藩を渡り歩いていた貞森は、最後の地として、蘭方医学を学びに出島に来た。歳の近い泥穂が貞森の世話係に任命され、二人の交流が始まった。

 貞森は泥穂を見ても顔色を変えなかった。おそらく、泥穂も同行しているだろうと、思っていたのだろう。

 精気の無い眼も、痩せた頬も、血色の薄い唇も変わっていなかった。若い頃から老け顔だったせいで、ようやく年齢が顔に追いついたように見える。

 貞森はカピタン・ヘンドリキの前まで進むと、右手を胸元に置き、左足をわずかに引いて、深く身を折った。

『小石川養生所医師、貞森十内にございます。ドクトル・カワグチの代理で参りました』

 通詞の口を噤ませるほど流暢な阿蘭陀口だった。十年を経てなお、衰えないその響きに、泥穂の胸元がざらついた。

 カピタン・ヘンドリキは、貞森が長崎を去ってから来日した。面識はないが、橘平の名で貞森に心を許したのか、気安く声をかける。

『おお、キッピは達者ですか?』

 河口橘平は、やはり一昨年まで長崎に遊学していた御目見得医の子息だ。出島に来た当初は、まだ前髪が残っていた。高禄の武士の子息らしい歳不相応の畏まった振る舞いが、カピタン・ヘンドリキの歓心を買った。カピタン・ヘンドリキは橘平をおのれの息子のように可愛がり、別れの日には、高価な南蛮のメスを贈ったようだ。

『はい、素晴らしい腕で、養生所の病人を救っております』

 貞森はわずかに口元をほころばせた。カピタン・ヘンドリキが「キッピ」と呼んでいるのが面白かったのだろう。「キッピ」とは阿蘭陀口で鶏のことで、日本口で言えば「鶏どの」と呼ぶようなものだ。

『そうですか。キッピはなぜ来ないのですか? 会いたかったのに』

『ドクトル・カワグチもたいそうお会いしたがっておりましたが、なにぶん、多くの病人を任されております故』

『さすがは、私のキッピだ!』

 カピタン・ヘンドリキは、今日一番の笑顔を見せた。他のホランデルたちは苦笑している。たしかに橘平は優秀だったが、カピタン・ヘンドリキはいささか、親の欲目が過ぎている。

『こちらは、ドクトル・カワグチからお預かりした、贈り物でございます』

 貞森が合図すると、女中が藍染めの風呂敷をカピタンに差し出し、風呂敷を解いた。紅白の水引がかかった桐箱が現われ、カピタン・ヘンドリキへうやうやしく差し出される。

 カピタン・ヘンドリキは固く結ばれた水引に苦戦していたが、やがて水引を解くと、蓋を開けた。箱の中には、紅、琥珀、淡緑に染め分けた小指の先ほどの有平糖が、行儀よく納められていた。宝玉のように艶めいている。

『おお、スイケルフート(砂糖菓子)か。花と枝と葉の色。とても綺麗だ』

『有平糖と申します』

 貞森の声を聞き、先ほど、泥穂も有平糖のことを考えたことが、不快だった。

 カピタン・ヘンドリキは、琥珀色の有平糖を口に含む。しゃり、と軽やかな音がして、カピタン・ヘンドリキは眼を細めた。

『なんと。軽やかでありながら、脳髄まで蕩けるような甘さだ』

 カピタン・ヘンドリキは恍惚の笑みを浮かべている。

『皆も食べてみよ、こんなに旨いスイケルフートは食べたことがない』

 カピタン・ヘンドリキは桐箱を、隣の上席商館医に手渡した。桐箱が、次々とホランデルたちの手を渡っていく。

 貞森は、ホランデルたちの間に席を作られ、カピタン・ヘンドリキから逃れられなくなっていた。

『デポー。彼を知っているかい?』

 ヤンに尋ねられ、泥穂は我に返った。

『ああ。昔、出島で修行していた男だ。面識はある』

 嘘を言ってしまった。

『そうか、だから阿蘭陀口が話せるのか』

 ヤンの眼は、医者の目になっていた。

『出島にいたころ、彼はホランデルたちに、何と呼ばれていた? ドクトル・サダ?』

『いや、ドクトル・スポーク、だ』

 ヤンが『見つけた』と呟いた気がした。

『なぜ、そんなことを聞く?』

 ヤンは答えなかった。貞森を見ているようで、見ていない。思いに深く沈んでいる。

 泥穂はそれ以上、声をかけなかった。

 ヤンが何を考えているか知りたい気持ちもあるが、それを聞き出すのは面倒だ。

 きっと貞森なら、腹落ちするまで問い続けただろう。けれど、それはヤンへの興味ではなく、人は何に我を忘れるのか、という身体への興味であるはずだ。泥穂も、学び始めたばかりの子供のように、なぜ、と問い続ける貞森に医者として憧れたこともあった。嫉妬の眼差しを向けたこともあった。

 宴もたけなわになり、泥穂は疲れていた。実のない話をするより、脈を診るほうがどれだけ楽か。

 泥穂は座敷を後にして庭先に出た。

 大座敷から溢れる灯が、灯籠や手水鉢を照らしていた。弥生とはいえ夜気には冬の名残があった。冷えた風が、庭木の葉擦れの音を乗せて、泥穂の火照った頬を撫でる。座敷の奥では、まだ笑い声が続いていた。

 ヤンもやって来て、泥穂の横に立った。ヤンが酒席を中座するとは珍しい。ヤンに顔を向けると、口元が緩み、意地悪な笑みが消えていた。

『飲み過ぎたか?』

 顔は黄色く、目の下は褐色に染まっている。唇は乾き皺が目立つ。首筋にはわずかに汗の粒があった。

『心配ない。少し、気分が悪いだけだ』

 ヤンは、震える手で腹のあたりを押さえながら言った。息が少し浅い気がした。

『吐くか?』

『酒のせいじゃない。江戸に当たった』

『もう八日も経つのに?』

 いつもの軽口は出なかった。二人は暫く、黙って闇を見つめていた。

『そろそろ寝よう。デポー』

 ヤンが泥穂の背中を軽く叩いた。

『よく、ママに言われたんだ。寝る時間よ、ヤン。早くベッドに行きなさい、って。ママは元気かな』

 ヤンは眼をこすりながら濡縁に上がる。

『ヤン、部屋まで行こうか?』

『ネーン』

 ヤンは首を振ると、ふらつきながら廊下の闇に消えた。

 泥穂は、そのまま庭を進み、離れに向かう。ヤンを案じながらも、脳裏には座敷にいる貞森の顔がちらついていた。

 

(つづく)