人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第十五話

 

 翌日、涼音からかかってきた電話に心臓が大きく跳ねた。

 もしかしたら琴子が、あるいは彼女から話を聞いた元同僚の新聞記者が、涼音の家を訪ねたのかもしれない。景浦の家に農薬があったかどうかを確かめるために――。

 大事な秘密をなぜうっかり口走ってしまったんだろう。ただでさえ住民の反感を買っているエリカが、仁美のせいで、完全に窮地に立たされてしまうかもしれない。 

 ためらっているうちに、電話は切れた。

 かすかに眉尻を下げた涼音の姿が脳裏に浮かぶ。表情の乏しい彼女が困ったときに見せる顔だ。自分のせいで涼音が苦境に追い込まれているのだとしたら、逃げるわけにはいかない。

 意を決して電話をかけなおす。ワンコール待たずに「仁美ちゃん」と応じた涼音の声は、やはりいつもより少し硬かった。

「涼音、ごめん、電話出られなくて。……なにか、あった?」

「あ、ううん、なにかあったわけじゃないんだけど、ちょっと……仁美ちゃんの声が聴きたくなったっていうか……」

 農薬の件ではないとわかってホッとすると同時に、この間大泣きした仁美を心配して電話をくれたのだと察し、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 昨夜の自分の失態を涼音に話して謝らなければ……。そう思いながら、どう話せばいいのかわからず、仁美は途方に暮れる。

 言い出せないまま、とりとめのない会話を続け、「じゃあ、そろそろ切るね」という涼音の言葉にどこか救われたような気持ちで、「うん」と応じた。

 通話を切る直前、涼音がなにか言った。よく聞き取れず、「なに?」と訊き返す。

「仁美ちゃん……」

「ん?」

「……修一郎君のこと、好きなんだよね?」

 このタイミングで全く想定していなかったストレートな問いかけに面食らい、あたふたして声が上擦る。

「ちょっ、涼音、いきなりなに言ってんの? そんなことないって。修一郎、年下だし。って、これ、前にも言ったじゃん。あ、そういえばさ、ちょっとかっこいい人に会ったって話したっけ? 週刊誌の記者なんだけど、私が他の記者にしつこくつきまとわれてたら助けてくれて、なんかキュンとしちゃって……」

 異常なテンションでどうでもいいことをベラベラ喋りながらも、頭の中では農薬の二文字が点滅し続けていた。だが結局、打ち明けることも謝罪することもできずに電話を切り、仁美は深いため息をつく。

 昨夜、誰にも言わないでとあれほど頼んだのだから、琴子は景浦家に農薬があったことを黙っていてくれるかもしれない。

 それに、琴子が帰ってから、落ち込む仁美に父が言ってくれた。

「涼音ちゃんの家にあった農薬が、うちにあったものと同じとは限らないから大丈夫だ」

 父の言うとおりだと、仁美は自分自身に言い聞かせる。

 そもそも、聡介も夫人も、警察から帰されていないのだ。

 おしるこに入っていた農薬が、聡介がネットで買ったものと一致するなら、どこの家にパラコートがあろうが、そんなことはどうでもいいのではないか。

 そう思うことで、仁美はなんとか心の平安を保とうとしたが、やはりうまくはいかなかった。



 次の日、涼音とエリカに直接会って謝ろうと、学校帰りに景浦の家に寄ってみた。

 だが、玄関チャイムを鳴らしても応答がない。携帯もつながらず、涼音のお気に入りの場所、ツリーハウスまで覗いてみたが、彼女の姿はどこにもなかった。

 不安を感じ、修一郎に電話をかけたけれど、なにも聞いていないという。

 ツリーハウスで少し待ったが、涼音もエリカも帰ってこない。まだ遅い時間ではないし、母娘で買い物に出かけただけかもしれない。諦めて家を出たところで、門扉の前の植え込みに腰掛けている麗奈と武蔵に鉢合わせた。

「こんなところで、なにして……」

 言葉の途中で麗奈が手にしている小さなかわいい花束が目に入った。

「あ……、もしかして、お見舞い?」

 隣の流星の家を見上げたが、二階の彼の部屋はカーテンが閉め切られている。

「流星君、いなくて、ここで待ってるの?」

 麗奈は小さく首を振り、力なく答えた。いると思う、と。

 そういえば、麗奈は少し前から流星に避けられていると言っていたが……。

「仁美ちゃん、流星君を呼んでみてくれないかな。麗奈や武蔵君じゃダメだから」

「それは、いいけど」

 音無家の門柱のチャイムに手を伸ばしたとき、走ってきた自転車が背後で急ブレーキをかけた。

「えっ、修一郎! 来てくれたの? あのね、涼音は帰ってないんだけど、麗奈ちゃんと武蔵が」

 修一郎にはふたりを尾行したことや、そのとき聞いた話をすべて伝えてあるので、それだけで事態を把握したらしい。自転車を壁に立てかけ、仁美の代わりにチャイムを鳴らす。

 少し待っても応答はなく、修一郎は門をくぐり、前回同様に玄関のドアを乱暴に叩く。

「流星君、いる? 岸田修一郎だけど。ちょっとだけ話せない? 流星君、いるよね?」

 大声としつこさに観念したようにドアが細く開き、流星が顔を覗かせる。以前よりもさらに痩せ、体調が良くないことはすぐに見て取れたが、病みやつれた流星にはどこか耽美な色香のようなものが漂っている。仁美はぞくりと息を呑んだ。

「ごめんね。具合どう?」

 修一郎の言葉に、流星は「あまり」と力なく首を横に振る。すぐに麗奈が駆け寄り、「流星君、大丈夫?」と声をかけたが、彼はただ顔を強張らせただけだった。

「これ、お見舞い。それから、お休みしてる間の授業のノート」

 差し出された花束とノートにも、流星はなんの反応も示さない。たまりかねたように武蔵が麗奈の手から花束とノートを奪い取り、流星に突きつける。

 それでも受け取ろうとしない流星に、武蔵は声を荒らげた。

「ふざけんなよ! せっかく麗奈が持ってきたんだから受け取れ」

「武蔵」

 修一郎がいさめたけれど、花束とノートは流星の胸に強引に押し付けられた。

 明らかな拒絶に、目に涙を溜めてうつむく麗奈の姿が痛々しく、仁美は思わず口を挟む。

「流星君、どうしちゃったの。麗奈ちゃんとかすみちゃんと三人で、あんなに仲良くしてたのに」

 うつむいたまま、流星は形の良い唇を嚙む。口を開いたのは武蔵だった。

「おまえ、やっぱりイワオにとり憑かれてるんだろ!」

 一瞬、顔を強張らせた流星が、挑むように武蔵を見た。

「そうかも……、しれないね」

 小さいけれど、はっきりと聞き取れる声だった。修一郎がふたりの間に割って入る。

「流星君、それ、どういう意味?」

 静かだが強い問いかけに、流星の唇が開きかけ、そのまま力なく閉じる。

「どうして君が親しくしていたイワオにとり憑かれるの? かすみの日記に書いてあった。公園で一緒に星を観たりしてたんだろ?」

「イワオ君は……」

 流星がなにか言いかけたとき、背後で物音がした。

「人殺し!」

 叫び声に驚いて振り返った一同は、そこに、鬼のような形相のウタと琴子の姿を見る。

「人殺しの娘がうちでなにやってるんだ!? 出ていけ! 今すぐここから出てけ!」

 まだ三角巾で腕を吊っているのに、ウタはものすごい勢いで仁美につかみかかってこようとする。必死にそれを止めながら、琴子が言った。

「仁美さん、皆さんも、悪いけど、今日は帰ってもらえる」

 琴子に懇願される前から、ウタの怒りに恐れをなし、仁美たちは逃げ出していた。

 麗奈と武蔵と別れ、仁美は修一郎と、涼音の家のツリーハウスに避難する。

「大丈夫か?」

 気遣う修一郎にうなずいたが、「人殺しの娘」という言葉がいつも以上に重くのしかかっていた。振り払うように、仁美は話題を変える。

「涼音とエリカちゃん、まだ帰ってないね。大丈夫かな?」

 近くに買い物に行ったにしては、時間がかかり過ぎている。

「この町の人になにかされてるとか、ないよね?」

 不安になって口にすると、修一郎も眉を曇らせる。

「まだそれほど暗くないし、さすがに大丈夫だと思うけど……」

 ふたりは一緒にいるのだろうか。この町は今、なにが起きてもおかしくないほど、異常な事態になっている。もし、涼音とエリカになにかあったら……。じっとしていると、悪い想像ばかりがどんどん膨らんでいってしまう。

「ちょっと、そのあたりチャリで見てくる」

「そのあたりって?」

「だから、蕎麦辰とかこやぎ庵とか町内会館とか」

「僕も行く」

 ツリーハウスから下り、ウタがいないか隣の様子をうかがいながら外に出ると、先に自転車にまたがった修一郎が家を振り返って、ポツリと言った。

「玄関に監視カメラをつけたほうがいいな。わかるように取り付ければ、抑止力になるはずだし」

 放火された博士の家が脳裏によみがえり、仁美は何度もうなずく。

「女ふたりだし、涼音とエリカちゃんが心配。守君たちに見回り強化してもらうよう頼んでみ……」

 言葉の途中でメッセージの受信音が響き、慌ててスマホを取り出す。

「涼音からだ! 今、エリカちゃんと二番目のパパと一緒にいるって」

 三人はこのあたり――といっても車がなければ行けない距離だけれど――で一番高級なホテルのラウンジにいるらしい。

「よかったぁ。涼音もエリカちゃんも無事で」

 全身から力が抜け、仁美は自転車のハンドルに突っ伏す。

「だな。でも二番目の父親って東京に住んでるんだろ。仕事でこっちに来たのかな」

「エリカちゃんと涼音のことを心配して、来てくれたんじゃない?」

 言いながら、そうだといいなと思う。エリカと離婚した後、彼が再婚したのかどうかは知らないけれど、できることなら、エリカも涼音も一時的にこの町を離れたほうが安全かもしれない。

「じゃあ、帰るか。送ってくよ」

「いいよ、修一郎、模試があるんでしょ」

「でも……」

「大丈夫。たいした距離じゃないんだし。じゃ、試験がんばって!」

 手を振り勢いよく自転車を漕ぎだしたものの、強がって甘えなかったことを悔やんで、仁美は振り返る。だが、すでに修一郎の姿はそこになかった。ため息をつきながら前を向いた仁美の視界に、手をつないで歩く幼い兄妹が入った。

「危ないから、気をつけて帰るんだよ」

 顔見知りのふたりに声をかけながら追い越そうとし、慌ててブレーキをかける。

 幼稚園生の妹の手に、見覚えのある花束があった。

「それ……、どうしたの?」

 幼女は満面の笑みを浮かべ、「きいちゃんが見つけたの!」と自慢げに花束を掲げる。

「どこで? どこにあったの、それ?」

 小学生の兄のほうが咎められないか心配するような表情で振り返り、今歩いてきた道の側溝を指す。

 麗奈にもらった花束を、すぐさま側溝に捨てたということ?

 流星はそこまで、麗奈を拒絶しているのか――? 

 

 その日の晩、警察の会見がニュースで報じられた。

 分析の結果、おしるこの鍋から検出されたパラコートと、聡介がネットを通じて購入した農薬が同一のものではないことが判明した、と。

 博岡の人間が犯人と確定する証拠が出て、事件が収束すればいい。そんな仁美の身勝手な願いは、脆くも崩れ去った。

 博士が言ったことは、やはり嘘ではなかったのだ。

 聡介と夫人は犬を毒殺したけれど、毒しるこ事件の犯人ではない。もちろん、博士もだ。

 にもかかわらず、彼は家に火をかけられ、重傷を負って今も病院のベッドの上にいる。



 すべてが振り出しに戻ってしまった。

 そしてそれは、仁美と父にとって、最悪のタイミングだった。

 前回の集会で、真壁家の物置に農薬があり、仁とエリカは千草の生前から不倫していたのではないかという疑惑が、住民の記憶にしっかり刷り込まれていたのだから。

 自分を取り巻く町の空気が変わったことを、仁美は肌で感じた。

 いつも笑顔で鬱陶しいほど話しかけてきていた近所のおじさん、おばさんたちの態度が明らかによそよそしくなった。井戸端会議に興じていても、仁美が通りかかると、ピタッと口を閉ざし、仁美と目を合わせないよう顔を伏せたり背けたりして、挨拶しても曖昧な反応をされる。だが仁美が通り過ぎるや否や、またヒソヒソ話を再開させるのだ。こちらをチラチラと嫌な感じで見つめながら。

 真壁医院を訪れる患者も減っているようだった。

 どうしても治療が必要な患者は来るものの、それまで体の不調を訴えながらも、父との世間話を楽しみに来院していたような多くのおじいちゃん、おばあちゃんたちは姿を見せなくなった。

 父に不安を訴えても、仁美はなにも悪いことをしていないのだから、堂々としていればいいといなされてしまう。 

 恐る恐る尋ねたエリカとの関係も、心配するようなことはなにもないと父は言う。

 そう答えるまでに一瞬の間があったが、仁美はそれを指摘できなかった。

 毒しるこ事件はもとより、博岡家放火犯も音無ウタを崖から突き落とした犯人も捕まっていないのだ。そんな中、仲良くしていた近所の人たちが手のひらを返したように冷たくなって、こちらに疑いの目を向けている。父のことだけは信じたい。

 父が言うように堂々としていたかったが、そんな生活が続くうち、仁美は外へ出るのが怖くなり、学校も休みがちになった。 

 その日も学校をさぼってベッドの上で悪い想像ばかりしていたら、玄関のチャイムが鳴った。

 週刊誌の記者かテレビ局のリポーターが父とエリカの関係を訊きに来たのではないか。

 もしくは、近所の人が父と仁美を吊るし上げに来たのかも……。

 動けずにいると、ピシッと窓になにかが当たった。

 締め切ったカーテンを細く開けた瞬間、こちらを見上げていた背の高い少年と目が合う。転がるように階段を降り、玄関のドアを開けた仁美に、こやぎのイラストが描かれた紙袋が突き付けられた。

 修一郎から受け取ったその小さな袋を胸に抱え、仁美はその場にしゃがみ込んでしまう。

「な……、おい、どうした?」

 同じように屈んだ修一郎が、心配そうに顔を覗きこんでくる。

 嬉しかった。震えて立っていられないほど。

 伝えたくて口を開いたのに、照れ臭さが違う言葉を喉から押し出す。

「……おなか、すいた」

「は?」

 呆れたように一瞬歪んだ修一郎の顔が、すぐに笑み崩れた。 

「だと思った」

 お茶の支度をして二階の仁美の部屋に上がり、こやぎ庵の紙袋を開ける。

「わー、みたらし団子だ!」

 中にはみたらし団子が一本と、こやぎの顔を象った最中がふたつ入っていた。

「涼音の湯飲みも持ってきとけばよかった」

「なんで?」

「え? だって、来るんでしょ? 三人分のお菓子……」

「僕の分、盗られそうな気がしたんで買っただけだよ」

「嘘、これ、私の? こやぎの最中も食べていいの? やったー、朝からなんも食べてなかったんだ」

 さっきカーテンを開けたとき、外がすでに薄暗くなっていたことに驚いた。今日も朝から生産的なことをなにひとつしないまま、きちんと学校へ行ってしっかり授業を受けてきた修一郎が帰宅する時刻になってしまっていたのだ。

 みたらし団子に毒が入っていないか少しだけかじってみる。この癖は治らない。用心しながらも、あまりの美味しさに思わず食らいつく仁美を見て、修一郎がふっと微笑む。

「それだけ食い意地が張ってりゃ、大丈夫だな」

 その一言に鼻の奥がつーんと痺れ、目頭がじわじわ熱くなる。

 修一郎はこの状況を心配し、わざわざ仁美の好物を買い、訪ねてきてくれたのだ。

 たとえ、町中の人間が敵になろうとも、私には修一郎がいてくれる。そして、涼音も。それがどれほどありがたいことか、今の仁美には身に染みてわかる。

 もしかしたら、仁美のことを心配した涼音が、修一郎をひとりでここに来させたのかもしれない。

 涙を堪えようとして、頬張ったみたらし団子にむせた。

「なにやってんだよ。お茶飲め、お茶」

 お茶で団子を飲み下す仁美を見つめ、修一郎はぽつりと言った。

「なにを言われても気にするな。仁先生はすごい人だ。僕は、あの人を尊敬してる」

 医者を志す修一郎は、幼いころから真壁医院によく出入りして、父に様々な質問をしていた。今でも診療の合間に勉強を教わりに来ることがある。

「修一郎……、うん、噂になってるようなことはなにもないって、お父さんが……」

「だろ。信じようぜ、仁先生を」

 修一郎に言われると、素直にうなずくことができた。 

「ありがと。あのさ……」

 仁美はその勢いで、ずっと訊きたかった質問を修一郎にぶつける。

「あれ、なんだったの?」

「は? あれって?」

「あの日……、あのお祭りの日……、ふたりだけで話したいことがあるって……」

「あ、ああ、それ」

 修一郎はなにか考えるように宙に視線を彷徨わせる。

 答えを待つ仁美の左胸でまた小さな生き物が皮膚を破って飛び出してきそうなほど暴れた。とんでもなく大きな音が彼の耳にまで届いてしまいそうで、思わず胸を押さえる。修一郎の視線が仁美の上でぴたりと止まる。暴れていた生き物も死んだように動きを止めた。

「もう少し待って」

「え……?」

「今はまだ話せるタイミングじゃないから」

「タイミング……って?」

 はぐらかされたのかと思ったが、修一郎は仁美の目をまっすぐに見つめながら続ける。

「こんなことがあって、今、そういう話をするのは不謹慎だと思うし」

 不幸があったこの状況で口にするのは、不謹慎な話ということ……?

「えっと、じゃあ……、聞かせてもらえない、の?」

 修一郎は静かに首を左右に降る。

「……話すよ。この騒ぎが落ち着いたら」

 左胸に巣食う生き物が、また大きくどくんと跳ねた。



 その晩、仁美は父のために晩ごはんをつくった。

 もちろん、母のようにつくれるはずもなく、焦げて見た目が悪い上に味もいまいちだったけれど、病院から帰った父は驚き、美味しい、美味しいと喜んで食べてくれた。

「これも、いい味だ。仁美は料理のセンスがあるよ」

「いいよ、そんなお世辞言わなくても」

「いや、本当だって。食欲なかったけど、これならいくらでも食べられるよ」

 確かにここのところ父は食が細くなり、仁美は案じていたのだが、今夜の彼はぶかっこうな料理に次々と箸を伸ばす。それは、三人で食卓を囲んでいたころの父みたいで、仁美は反射的に母の席を見た。でも、そこはぽっかりと空いたまま、穏やかな笑みを浮かべながら料理を取り分けてくれた母の姿はどこにもない。

「あのさ、今度涼音に教わって、ママのレシピ作るから、食べたいものがあったら言って」

「え……」

 もっと喜んでくれると思ったのに、父の顔が一瞬翳った。

「そうか。すごいな。それは楽しみだ。食べたいもの、考えておくよ」

 取り繕うような笑顔を浮かべる父の姿に、高波のような不安が押し寄せてくる。

 なにか言わなくてはと口を開きかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。立ち上がろうとした父を、仁美は制する。

「出ないで。きっとマスコミだから」

「そう……かな? もしかしたら、患者さんかもしれない」

 仁美が止めるのも聞かず、父は玄関へ向かう。

 父とともに現れた男の姿に、仁美はホッと息を吐いた。

「守君……」

「あ、食事中だったのか。悪かったな、仁先生」

「今日は仁美がつくってくれたんだ。守君は食事済んだ?」

「ああ、家で食ってきた。本当は親父も一緒に来るって言ってたんだけど、ビール一杯飲んだだけなのにコロッと寝ちまってさ。ガーガーいびきかいて、いくら起こしても起きなくて。やっぱり親父も歳だな」

「いびき?」

「あ、守君、なんか飲む? コーヒーとか?」

「おう、仁美、さんきゅ。ごめんな、メシ食ってるとこ」

 仁美が席を立つと、守は父に向き直り、小声で話し始めた。

「仁先生、今日来たのは、一応、ちゃんと確認させてもらおうと思って。ぶっちゃけ、エリカさんとどうなってんのか……」

「それは……、どうもなってないけど、それより、守君、会長は普段もいびきを?」

「いや、うるさいと思ったことはないな」

「なのに、今夜はそんなにひどいいびきをかいていたの?」

「ああ。今回の件で、親父も相当疲れてるんだな。ストレスも溜まってるだろうし」

「今、家にいるのは会長だけ?」

「え? 離れに姉貴と麗奈がいるけど」

「電話して、会長の様子を見に行くように言ってもらえる? あ、いびきかいてたら、絶対に体を揺さぶったりしないで、大きな声をかけて起こしてみてって」

「なに、仁先生、親父、なんかやばいの?」

「わからないけど、ちょっと気になるから、電話をかけながら私たちも行こう。仁美、戸締りちゃんとして、留守番頼んだよ」

 守の背を押し、慌ただしく出て行く父を仁美は見送る。

 父が残した料理は、帰ってきたときすぐに温めて食べられるようラップをかけておいた。

 しばらくして玄関のチャイムが鳴り、父だと思って扉を開けたが、そこにいたのは――。

(第16回へつづく)