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 薄暗い地下室の中央に設置された手術台――仰向けに横たわる野崎の遺体の鼻は曲がり、右の頬はテニスボールが嵌るくらいに陥没し、前歯は全損していた。

 野崎の身体はミイラのように痩せ細り、浮き出た肋骨が痛々しかった。

 手術台の傍らに立ち尽くし、修羅の形相で遺体を睨みつける直美に譲二は声をかけることができなかった。

 地下室に遺体を運び込んでおよそ三十分、直美は同じ姿勢で微動だにしなかった。

 直美が睨みつけているのはもちろん野崎の遺体ではなく、野崎をこんな姿にした相手に違いない。

 ここは和久井の診療所の地下室だ。

 和久井は新大久保で開業医をしており、直美が「東神会」にいた時代からのつき合いだ。

 和久井の表の顔は普通の開業医だが、裏では警察沙汰にできない「東神会」の組員の怪我の治療を行っていた。

 といっても和久井が受けるのは、当時若頭だった野崎の依頼だけだった。

 

 ――わしはヤクザは嫌いだ。理由は人を苦しめるからだ。医者は苦しんでいる人を助ける商売だから、人を苦しめる輩は生理的に受けつけない。だが、お前んとこの若頭は違う。弱きを助け強きを挫く漢だ。だから、特別に引き受けているんだよ。

 

 和久井は野崎を人として認めていた。

 野崎が息子のようにかわいがり信頼していた直美の依頼も、いつの頃からか受けるようになった。

 譲二は直美の逆襲が不安だった。

 野崎が殺され、このままで終わるわけがなかった。しかも、ミクがさらわれているのだ。

 このまま終わらせるわけにはいかないことくらい、わかっていた。

 わかっていたが、直美を犯罪者にしたくはなかった。

 工藤に大怪我を負わせてしまったが、一命は取り留めただろう。

 それに、工藤には刃物で三ヵ所も刺されているのだ。

 だが、ここから先は話が違ってくる。

 直美は海東を追い詰め、殺すつもりだ。

 海東は非道なヤクザで、目的を果たすためにこれまで数多くの命を葬ってきた。

 だからといって、海東を殺しても無罪というわけにはいかない。どんなに冷徹な悪党でも、手にかけてしまえば殺人罪に問われる。

 直美は凶暴で下品で無茶苦茶な男だが、熱い正義感の持ち主だ。五百を超える男達を半殺しにしてきたが、それは誰かを助けるためか誰かの仇討ちのためだった。ただの一度でも、私利私欲で人を傷つけたことはない。

 子供の頃からの夢――人を幸せな気分にするショコラティエになりたいというのが、直美の本質だ。

 直美の夢は叶った。日々、ショコラ作りに専念し、多くの人を甘美な幸せに誘っている。

 直美の夢を壊したくなかった――直美とともに、夢の続きを見たかった。

「直さん……。絶対に無理だとわかっていますが、言わせてください」

 譲二は恐る恐る切り出した。

 直美は修羅の形相で野崎の遺体を睨み続けていた。

「警察に任せるわけには……」

「いま俺が誰をぶっ殺してえかわかるか?」

 譲二を遮り、直美が押し殺した声で訊ねた。

「海東ですよね? 気持ちはわかりますが、あんな奴のために直さんが人生を棒に振るのは……」

「俺は俺をぶっ殺してえ……。若頭を守ることができなくて、こんな無残な最期にしちまった。若頭がいたから、いまの俺がいる。若頭がいたから、呑気にショコラティエをやってられる。若頭がいなかったら、十代で野垂れ死にだ。俺は恩を仇で返しちまった……無力な自分が許せねえっ。いますぐに腹をかっ裂いて、内臓を引きずり出してえ!」

 直美の怒気を孕んだ声が地下室に響き渡った。

「直さんのせいじゃないですよ! 仕方ないじゃないですか! 野崎さんやミクちゃんが人質になってたんですから! あの状況だと仕方がないですよ!」

 譲二は懸命に訴えた。

 慰めでもなんでもなく、直美が自責の念を抱く必要はどこにもない。

「なぜ腹をかっ裂かねえかわかるか!? いま死んじまったら、海東の包茎野郎をぶっ殺せねえからだ!」

 直美が鬼神のような形相で叫んだ。

「海東を殺しても、野崎さんは帰ってこないんですよ! 野崎さんだって、直さんが人殺しになることを望んでいないはずです! ショコラティエとして、みんなを笑顔にする直さんを望んでいるはずです!」

 直美の逆鱗に触れて半殺しの目に遭ったとしても、止めなければならない。

「お前ら、仏さんの前で騒ぐんじゃないよ」

 ぶかぶかの白衣姿の白髪の男――和久井が地下室に姿を見せた。

「それにしても、これがあの野崎か。クスリってやつは恐ろしいものだ」

 和久井が変わり果てた野崎を見下ろした。

「若頭が好きでやったんじゃねえ。海東の包茎野郎に無理やりシャブ漬けにされちまったんだよ」

 直美が怒りに震える声で吐き捨てた。

「だから、怖いと言ってるんだ。本人の意思とは関係なしに、肉体も精神も支配されて奴隷にされてしまう。そして最後は見る影もないほどに変わり果てた屍になる」

 和久井が暗鬱な表情で言った。

「じいさん、ごちゃごちゃ能書き垂れてねえで若頭の顔をなんとかしろよ。こんなひでえツラで送り出す気か?」

 直美が野崎の崩壊した顔に視線をやった。

「無茶を言うな。わしは納棺師じゃないんだ」 

 和久井がにべもなく断った。

「だったら、その納棺師って奴を呼べや!」

 直美が苛立った口調で言った。

「直よ。お前、どうして野崎をここに連れてきた?」

 和久井が野崎から直美に視線を移した。

「どうしてって、若頭は殺されたんだぞ!? 表に出せるわけねえだろ! そんなこともわからねえのか!?」

 直美の苛立ちに拍車がかかった。

 直美は行き場のない怒りを和久井にぶつけているようだった。

「納棺師なんて呼んだら、翌日には警察サツが踏み込んでくるぞ」 

 対照的に和久井が落ち着いた声で言った。

「じいさんみてえに闇の納棺師を呼べば……」

「いるわけないだろう? それに、わしも闇の医者ではない。野崎を助けたいから引き受けていただけの話だ」

 和久井は物静かな口調だが、直美を見据える眼は厳しかった。

「俺が頼んだ奴らも引き受けてたじゃねえか?」

「野崎から頼まれていたんだよ。直には、俺と同じようにしてやってくれとな」

 なにかを言いかけた直美が言葉を呑み込んだ。

「腹を立てるがいい。哀しむがいい。だが、復讐なんてことは考えるな」

 和久井が直美の心を見透かしたように釘を刺した。

「じいさんが口を出す問題じゃねえ! とにかく、若頭を送る前に綺麗にするんだ。戻ってきたときもこのままだったら、年寄りでも容赦しねえからな!」

 直美が捨て台詞を残し、出口へと向かった。

 譲二はダッシュして、直美の前に回り込んだ。

「なんだ? どけ」

 直美が吊り上がった眼で、譲二を睨みつけてきた。

「絶対に、行かせませんよ!」

 譲二は直美から眼を逸らさず、両手を水平に伸ばして行く手を遮った。

「なんのまねだ? おめえと遊んでる暇はねえ。早くどけ」

 直美が肩を軽く押しただけで、譲二は尻餅をついた。

「絶対に、行かせませんよ!」

 譲二は直美の右のふくらはぎに両手でしがみついた。

「怪我しねえうちに、悪ふざけはやめろ」

「悪ふざけじゃありません! どうしても海東のところに行くんなら、俺を殺してください!」

 譲二は直美の右足にしがみついたまま叫んだ。

 もちろん、殺されたいと思っているわけではない。だが、殴られても蹴られても意識があるかぎり手を離すつもりはなかった。  

「はぁ!? なに言ってんだ、おめえ! いい加減にしねえと、マジに……」

「直には日本を代表するチョコレート屋になってほしい」

 和久井の言葉に、直美が弾かれたように振り返った。

「野崎の口癖だった」

 和久井が直美を見据えた。

「いきなり、なにを言ってやがるんだ?」

「あいつはどうしようもなく凶暴で、どうしようもなく女好きで、手のつけられない獣みたいな男だ。だが、誰よりも純粋で、誰よりも正直で、誰よりも正義感に溢れた男だ。百人に訊いたら、百人が言うだろう。ヤクザが天職の男だと。しかし、俺にはわかっている。直にヤクザは向いてない。酒を呑むたび壊れたテープレコーダーみたいに、いつもそう言ってたよ」

「年寄りの昔話を聞いてるほど、暇じゃねえんだ。思い出にばっかり浸ってねえで、たまにゃ若いねえちゃんでも抱かねえとちんぽがするめみてえに干からびちまうぞ」

 高笑いして一歩踏み出そうとした直美の足に、譲二はふたたびしがみついた。

「絶対に、海東のところには行かせません!」 

 譲二が叫んだ。

「直! 野崎の遺志を無下にするつもりか!?」

 和久井の悲痛な声が、直美の背中に浴びせられた。 

「てめえら、さっきからなにを勘違いしてやがる! 誰が海東のところに行くと言った!」

 直美は和久井と譲二を怒鳴りつけた。

「じゃあ、どこに行くんですか!?」

「春江ババアのところだ! わかったら、とっとと放しやがれ!」

 譲二が右足から手を離すと、直美が地下室を出た。

 譲二はすっくと立ち上がり、直美のあとを追った。

(第20回へつづく)