人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。
博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。
音無ウタ…息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。
琴子…息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。
流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。
宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。
第十四話
「え? お父さん、今日の集会行かないの? 六時からだから診療終わってるよね」
博岡家を放火した犯人はいまだ捕まらず、不安で疑心暗鬼になっている住民のために、また集会を開くと会長からお達しがあった。
修一郎は塾で欠席だし、涼音もエリカのことでなにを言われるかわからないから来ないはず。ひとりで行くのは気が重く、仕方なく父を誘ったのだが、急ぎの仕事があるという。
本当だろうかと、仁美はいぶかしむ。父は前回はじめて集会に参加して、懲りてしまったのではないか。争い事を好まない父にとって、今まで仲良くしてきた隣人たちが博士やエリカを口汚く罵る姿は衝撃だったろう。あんな場所に身を置きたくないと思うのはわかるが、それは仁美だって同じだ。
「だったら、私も出ないけど、いい? うちから誰も行かないと、まずいんじゃない? なに言われるかわかんないよ」
「いいよ。仁美も行かないほうがいいと、お父さんは思う」
そんな会話を今朝交わし、間もなく集会が始まる六時になろうとしているけれど、やはり父は病院から帰ってこない。そして、仁美もどうにも行く気が起きず、うだうだしている。
今日の集会は、博士の家に放火した犯人は誰かという話題で持ち切りになるはずだ。
それなのに、あの場にいなくて大丈夫だろうか? 二軒隣に住む自分たちが疑われることもあるのでは? それに警察に任意同行を求められたエリカのことも心配だ。誰かが止めないと、おばちゃんたちのエリカ攻撃はとめどなくエスカレートする。
しばらくぐずぐずしていたけれど、行かなければ行かないで、いったいどんな話し合いがなされているのかと気になって仕方がない。ついに耐えられなくなった仁美は、自分の小心さに苛立ちながら、携帯をポケットに突っ込み、家を出た。
外はすでにとっぷりと暮れ、あたりに人影はない。風がメーメー公園の木々を揺らし、不気味な音をたてる。
公園を斜めに突っ切れば、集会が開かれている町内会館はすぐそこなのに、植え込みの陰に誰かが潜んでいるような気がして、足がすくむ。
生まれたときからここで暮らし、今、目の前にあるのは十七年間見続けてきた景色だ。にもかかわらず、まるで見知らぬ町のようによそよそしく、恐ろしい。一連の事件が、人だけでなく、この町までも変えてしまったみたいに。
やっぱり戻ろうと踵を返しかけた仁美の背後で、女性の声が響いた。
「やめて!」
びくりと身体を震わせ、振り返ったが人影はない。公園で女性が襲われているのだろうか。
またしても事件かと身構えたが、恐怖に縛られ、助けに行くことができない。とにかく警察に通報しようと携帯を手にしたとき、また声が聞こえた。
「余計な事しないで!」
その声に恐怖や緊迫感は感じられない。すぐに衣擦れの音がし、なにかもめながらやってくる男女の姿が、公園の灯りの下にあらわになった。
会長の孫娘の麗奈と、自警団に所属する中学一年生の山田武蔵だ。
武蔵の低い声はもごもごして聞き取りづらいが、麗奈の甲高いソプラノは闇に響く。
「そんなこと二度と考えないでよ」
事情はわからないが、麗奈がひとつ年上で体の大きな武蔵をしかりつけているように聞こえる。
事件ではなかったことにホッとし、声をかけようと近づきかけたそのとき、低い武蔵の声が風に乗って届いた。
「でも、流星はイワオの幽霊にとり憑かれてるのかも」
その言葉が、仁美の足を止める。
「だから、そういうのやめてって言ってるでしょ」
公園を出たふたりは、そこにいる仁美に気づかず、住宅街を歩いていく。
流星がイワオの幽霊にとり憑かれている――?
なぜ武蔵はそう思ったのだろう? 以前流星に告白を強要した理由を問い詰めたとき、単なる悪ふざけだったと武蔵は詫びたが、イワオの霊がなにか関係しているのだろうか。
直接訊いてもはぐらかされる気がして、仁美は彼らのあとをつけた。
人気のない夜の住宅街は尾行に適した場所とはいえない。相手が振り向いても気づかないくらい安全な距離を保ってついていくと、ボソボソした武蔵の声はまったく聞き取れない。仕方なく仁美は足音を殺して、少しずつ距離を詰めていく。
「イワオ」と「流星」ふたりの名前が武蔵の口から途切れ途切れに聞こえてくる。「麗奈のために」という言葉も。それを「やめて」とか「違う」とか、麗奈が打ち消し続けている。
今はわからないが、少し前まで麗奈は流星のことが好きだったはずだ。
そして、おそらく武蔵はそんな麗奈に好意を寄せている。美女と野獣だし、交際しているようには見えないけれど、麗奈が武蔵にこんなに辛辣な口を利くような関係だとは思っていなかった。
聞こえない会話にイライラし、さらに距離を縮めようとした仁美の目の前で、ふたりが突然走り出した。まかれてなるものかと、駆け足で後を追う仁美は、高い塀の角を曲がったところで、悲鳴を上げる。
暗がりで武蔵の大きな身体が待ち構えていたからだ。
「なにしてんすか?」
麗奈と接していたときとは明らかに異なる、凄みをきかせた声で武蔵が睨む。
「……え? え? なにって……、ちょっとこっちに用があって」
「尾行バレバレっすよ。俺、一応、自警団なんで」
中学生離れした巨体だけでなく、武蔵の目にも声にも迫力がある。
「なにが目的で俺らをつけてたんすか?」
仁美ははーっと息を吐き、どうせバレバレならと尾行の理由をぶっちゃけた。
「流星君がイワオの霊にとり憑かれてるって聞こえたから」
「は?」
「それ、どういうこと?」
「ちょっ、訊いてるの、俺なんすけど」
「だから、こっちもちゃんと答えてるじゃん。そんな話聞かされたら、気になって当然でしょ? 私、事件で母親殺されてるんだから」
仁美の言葉に圧され、武蔵がはじめて目を逸らした。
「ふたり、仲良かったんだね? 武蔵は麗奈ちゃんのことが好きなの?」
「なっ、なに言ってんすか? 関係ないっしょ、んなこと」
低い声が跳ね上がり、顔も上気している。めちゃくちゃわかりやすい反応だ。
「それで流星君に噓の告白させたりして、いじめたわけ?」
「は? んなわけないっしょ。いじめって……、先に麗奈のこと無視したのは、流星のほう……」
「武蔵君」
麗奈が初めて鋭く声を上げ、武蔵を止めた。
「麗奈ちゃん、それ、ホント? あんなに仲が良かった流星君が麗奈ちゃんを無視するなんて、いったいどうして?」
大きく息を吐き、麗奈は仁美に向き直る。
「わからない。麗奈が訊きたい」
「いつから?」
「あのお祭りの二か月くらい前からかな」
武蔵がなにか言おうとしたのを遮るように、「仁美ちゃん」と麗奈が仁美をじっと見る。
「流星君の家に行ったんでしょ? 流星君、どんな感じだった?」
「どんなって?」
「ずっと学校も休んでるから、大丈夫なのかなって」
「熱があって、身体もしんどそうだったよ」
「本当にそうなんだ」
「心配?」
「もちろん。友達だもん」
「じゃあ、お見舞いに行ってみたら」
「麗奈は行きたいけど……」
「なんで無視されたのかわからないけど、流星君、おしるこの事件ですごくショックを受けたみたいだから、麗奈ちゃんの元気な姿見たら喜ぶんじゃないかな」
「……だといいけど。麗奈ね、今日もおじいちゃんがみんなに元気な姿を見せろって言うから集会に出たんだ。でも人が多くて気分悪くなっちゃって、それで武蔵君に家まで送ってもらうところだったの。だから、もう行くね」
体調が悪いようには見えないのに、それを理由に立ち去ろうし、麗奈は武蔵を目で促す。仁美は麗奈ではなく、武蔵を呼び止めた。
「待って、武蔵。さっきの答え、聞かせて。どうして流星君がイワオの幽霊にとり憑かれてると思ったの?」
「それは……、あいつが急におかしくなったから。麗奈を無視するとか」
「イワオの幽霊、関係なくない?」
「流星はイワオと仲良かったし」
「えっ? そうなの?」
かすみの携帯に残されていたベンチで笑い合う流星とイワオの姿が、脳裏によみがえる。
「仲が良かったって、どんなふうに?」
「仁美ちゃん」と、麗奈が割って入ってきた。
「この間、幽霊なんていないって、麗奈に言ってくれたよね」
「言ったけど、今、幽霊じゃなくて、生きてたイワオと流星君の話を訊いてるし。あのね、小二のころ、かすみちゃんがメーメー公園で撮った麗奈ちゃんの写真のバックに、仲良さそうな流星君とイワオが写ってて、気になってたんだよね」
仁美が諦めそうにないと思ったのか、麗奈がしぶしぶ口を開く。
「公園で話したりはしてたよ。流星君とイワオ」
「どんな話してたのかな?」
「さぁ……」
「さぁって、麗奈ちゃんやかすみちゃんは一緒に話さなかったの?」
「麗奈もかすみも、イワオとは遊んじゃダメってママに言われてたから」
「それなのに、麗奈ちゃんは流星君がイワオと話すの、止めなかったの?」
「やめたほうがいいよって言ったけど……、流星君のお父さんが病気になって、お母さんもお祖母さんも大変で流星君のことあんまりかまってあげられなかったとき、公園でイワオと一緒にいたみたい」
男の子で、父親が闘病中のため家族の目が行き届かなかった流星だけが、イワオと親しくしていたのか。
「ふたりは話してただけ? 遊んだりは?」
「流星君とは話してただけじゃないかな。イワオが来てすぐのころは、他の子たちと鬼ごっことかしてたけど、みんな、遊んじゃダメって言われるようになったから」
「イワオって、小学生の子供が話して楽しい人だったの?」
「わからないけど、大人なのに子供みたいだったし、自分の好きなこととかは詳しかったんじゃない?」
「好きなことって?」
「知らない。仁美ちゃん、もう行っていい? イワオのこと話してたら、気持ち悪くなってきちゃった」
仮病ではないらしく、本当に顔色が悪い。武蔵は非難がましい目を仁美に向け、そんな麗奈の背中を押す。行きかけた麗奈が振り向き、「仁美ちゃん」と呼んだ。
「流星君がイワオの霊にとり憑かれてるっていうのはこの人の思い込みで、なんの根拠もないから。幽霊なんていないしね」
そう言い残し、麗奈は武蔵に支えられるようにして去っていった。
ふたりを見送りながら、仁美は思う。流星が共通の趣味の話かなにかで盛り上がれる友達のように思っていたイワオに自分の父親を殺されたのだとしたら、彼の心にはより深い傷が残ったことだろう、と。
麗奈と武蔵の姿が見えなくなり、暗闇にひとり取り残された仁美は、急に心細くなって、家へと走り出す。
真壁医院が視界に入り、ホッと足を緩めたとき、病院の門扉が内側から開き、髪の長い女性が出てくるのが見えた。
「エリカちゃん……?」
なぜ診療時間外の病院からエリカが出てきた? 父が集会を欠席したのは、エリカと会うためだったのか――?
反対方向へよろよろと歩いていくエリカに声をかけようとして、思いとどまる。
街灯に照らされ、一瞬はっきりと見えたエリカの横顔がひどく憔悴し、泣いているように見えたからだ。
いつもの仁美なら、そのまま真壁医院に乗り込み、父を詰問していたはずだ。
けれど、仁美はそれをせず、自宅へと歩き出す。
なんだかすごく疲れていたし、父を問い詰めるのが怖かった。
とにかく今は、なにも考えず、あたたかいお風呂に身体を沈めたい。
しかし、そんなささやかな夢さえも、叶えることができなかった。
家の前に、女が立っていたからだ。
「仁美さん」
そこにいたのは、琴子だった。
それに気づいた瞬間、仁美は新たな恐怖に襲われる。ここに立っていたなら琴子にも見えたはずだ。診療時間外の真壁医院からひとりで出てきたエリカの姿を。
「仁美さん、遅くにごめんなさい。仁先生にお話ししたいことがあって」
そのとき、真壁医院の灯りが消えた。ほどなくして父がドアを開け、施錠を終えて、こちらに歩いてくる。そして自宅の前に立っている仁美と琴子に気づき、足を止めた。
「音無さん? どうされたんですか、こんなところで?」
父の声に動揺は感じられない。人の好い父は、困っている人がいれば、時間外診療も厭わない。もしかしたら、エリカから酒や眠れる薬の相談を受けていただけかもしれないと、仁美は自分自身に言い聞かせる。
「仁先生、お疲れのところ大変申し訳ありません。実は、またお詫びしなければいけないことが……」
琴子はその場で深く頭を下げる。驚いた父が、こんなところじゃなんですから、とにかく中へと促した。
父に頼まれ、キッチンでお湯を沸かす仁美の耳に、ふたりの会話が聞こえてくる。
「実は、義母が今日、退院いたしまして」
「ああ、そうでしたか。おめでとうございます。ウタさんの具合はいかがですか?」
「痛みはあるようですが、おかげさまでなんとか」
「それは、よかった」
「いえ、それが……」
退院早々、音無のおばあちゃんがまたなにかやらかしたのだろうか。お茶を淹れてリビングに運ぶと、琴子が父に深々と頭を下げていた。
「仁先生、申し訳ございません。私のせいで……」
「音無さん、なにがあったのかわかりませんが、どうか顔を上げてください」
父が優しく声をかけても、琴子はひれ伏したままだ。
お茶を出しながら、仁美も「琴子さん」と呼びかける。
「おばあちゃんがまたなにか言ったんでしょ? だとしても、それ、琴子さんのせいじゃないから」
「いいえ」と首を振りながらようやく顔を上げ、琴子は仁美を見た。
「違うの、仁美さん。私のせいなの。私が義母を集会に連れて行ったりしなければ……」
「もしかして、おばあちゃん、集会で私に崖から突き落とされたって言ったの?」
琴子はさらに激しく首を振り、「実は……」と話し始める。
今日の午後、退院の手続きをしてウタを自宅へ連れ帰った琴子は、彼女を寝かせ、その間に集会に出ようとした。だが、ウタは一緒に行くと言ってきかなかったという。
「噓をついてごまかしてでも、義母を流星にまかせ、置いていくべきでした。最終的に同行を許してしまったのは、私の中に義母を疑った人たちへの意趣返しのような気持ちがあったからだと思います」
琴子がウタを連れて町内会館を訪れると、ウタに自首してくれとまで言ったこやぎ庵の店主たちは一様に気まずそうな表情を浮かべた。一方で、ウタを気遣い、無事に退院できてよかったと優しい言葉をかけてくれる人たちも少なからずいたそうだ。
「義母の体調もいつもより良くて、はじめのうちは穏やかな笑みを浮かべて会長たちの話を黙って聞いていたんです。話の内容がわかっているのかどうかは微妙なところでしたが」
やはり今日の集会は、誰が博士の家に放火したのかという話で持ち切りだったらしい。
「守さんたちはよそから来た人間が火をつけたに違いないと言い、成富建設にお勤めの方々はそれに倣っていましたけど、やはり、この町の住人が犯人ではないかと不安に思う人もいて、義母を崖から突き落とした人物と同一犯ではないかという声も上がって……」
やぎ山で背中を押されたときの状況を質問され、ウタが答えたそうだ。
自分を突き落としたのは、イワオかもしれない――と。
「不快に感じた方もいたと思いますが、母の認知機能に問題があることはすでに知れ渡っていますから、思い違いということでその話はいったん終わったんです。でも……」
それはまだ序章に過ぎなかったということらしい。
「誰かが言ったんです。『押したのは、イワオじゃなくて、博岡だったんじゃないか』って」
真犯人である博士か聡介が、ウタに罪を着せて口を封じるために崖から突き落としたのではないか、と同調する声が次々に上がったと琴子は話す。
「博岡さんが犯人と決まったわけではないのに。だったら放火は誰がやったっていうんだ」
苦々しい顔で独りごちた父に、琴子は答えた。
「それも、自作自演だったんじゃないかって。博岡さんが自分で火をつけて、犯人は他にいると思わせようとしたか、もしくは、死んでお詫びをするふりをして、同情を買おうとしたのかもしれない、と」
「なにを言ってるんだ、博岡さんは今なお危険な状態だっていうのに」
父は声を荒らげたが、すぐに怒りを露わにした自分を恥じるように目を伏せ、残念です、とつぶやいた。
集会では追随するように、博岡家を非難する声が次々に上がり、誰かが言ったそうだ。
博岡はおしるこに農薬を入れて四人も殺したんだから、自業自得だ――と。
「それまでおとなしくしていた義母が、突然、その言葉に反応したんです。『おしるこに農薬を入れたのは、博岡さんじゃない。あの家には農薬なんてあるはずがない』って」
近くにいた人間が、博岡の息子が犬を毒殺するためにネットで購入したのだとウタに説明したらしいが……。
「義母はネットなんてわかりませんから、あの家に農薬はないって言い張って、みんなの前で大声で叫んでしまったんです」
騙されるな! 農薬があるのは、博岡の家じゃない。真壁の家だ――、と。
仁美は息を呑んだ。周りの酸素が急に薄くなったような気がして、思わず喉を押さえる。
動揺しちゃダメだ。涼音のように感情を殺し、なにごともなかったような顔をしていなくては……。だがそう思って焦れば焦るほど、仁美の顔は不自然に強張り、引き攣ってしまう。
「仁美……さん?」
異変に気づいた琴子が、仁美の顔を覗き込んでくる。
「どうかしたんですか?」
「う……、ううん」
声が掠れて上擦り、仁美は必死に顔を左右に振った。助けを求めて父を見ると、彼もまた顔色を失い、呆然としている。仁美の視線を追った琴子も、それに気づいてしまったようだ。
「もしかして、本当にお宅にあったんですか、農薬が?」
否定しなければいけない。今こそ顔を左右に振らなければならないのに、見えないなにかに押さえつけられているかのように体が固まり、自分の意思で動かせない。
「義母が言っていました。真壁医院の先代の院長先生が畑をやっていらしたときの農薬が、真壁の家の物置に絶対あるはずだって。仁先生を逆恨みしている母の妄想だと思っていましたが、それは、本当のことだったんですね?」
静かに尋ねる琴子の言葉を、父も否定してくれず、ただじっと黙っている。以前、修一郎が言っていた。沈黙は、肯定を意味する、と。
琴子もそう受け取ったのだろう、驚きを表さないよう自分を抑えているのがわかる。
「音無さん……」
ようやく呪縛から解かれたように、父が口を開いた。
「警察はもう知っています」
「お父さん!」
否定してほしかったのに、父ははっきりと認めてしまった。琴子は新聞社と通じているのに……。焦る仁美を目で抑え、父は琴子に向き直って続ける。
「だから、それについて他言しないでいただきたい」
父に懇願された琴子は身じろぎせずになにか考えていたが、返事の代わりに小声で父にささやく。
「ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが、ふたりでお話しさせてもらえないでしょうか?」
「どうして?」
父が答えるより先に仁美が叫んだ。「なんで私が聞いちゃダメなの!? 私も聞く!」
琴子は困ったように父を見る。仁美が諦めないことを知っている彼は、かまわないからここで話してくださいと琴子を促した。少し逡巡したのち、彼女は口を開く。
「義母が集会で、真壁家に農薬があったと話したとき、皆さん、私と同じ反応で、また音無のおばあちゃんが仁先生を貶めようとしていると、誰も聞く耳を持ちませんでした。でも……」
真壁家の隣に住むおじさんが、言い出したのだそうだ。
仁先生は、博岡家と特別親しい間柄だったのではないか――と。
火事の際、博岡が家の中にいると消防隊員に訴えたのは仁先生だ。彼が自宅に戻っていることは誰も知らなかったのに、彼だけが知っていたのはおかしい、と主張した。
そのときはまだ、二軒隣に住んでいる仁先生が帰宅する博岡をたまたま目撃したのかもしれないと、父を擁護する声があったという。だが、今度はスーパー八百作のおじさんがおずおずと発言したらしい。
「仁先生が特別親しくしてたのは、博岡さんじゃなくて、エリカさんだ。あのふたりは、千草さんが亡くなる前から、その……、デキていたんじゃないかと思う」と。
「え……?」
驚く仁美から琴子は目を逸らす。自分もそう言われて驚いたし、そんなはずはないと思ったが、八百作の店主に続いて、仁とエリカの関係を疑っていたと言い出す人間が何人か現れたのだと、言葉を選びながら話した。
「なんで? 誰がそんなことを……?」
動揺する仁美に琴子は説明する。診療時間が終わった遅い時間に真壁医院から出てくるエリカの姿を見た人がいたようだ、と。琴子にどんな顔をすればいいのかわからず、仁美はうつむく。あれは今日だけのことではなく、複数の人に目撃されてしまうほど頻繁にあったことなのか。
「それは、診療が長引いてしまっただけで……」
父の弁明に、琴子はうなずいた。彼女がなにを考えているのかわからないが、先程目にしたことを父に話すつもりはないらしい。
「集会は途中からその話で持ち切りになってしまって、もともとは義母が真壁さんのところに農薬があると噓を言い出したせいだと思い、謝罪にうかがったんですが、まさか本当にあったなんて……」
「え……、でも、私、聞いたよ。農薬がある家は他にもたくさんあるって」
「いいえ、そんなことはないはずよ。おしるこに入れられた農薬はかなり古いものらしいから」
強い口調で琴子に言い切られ、仁美は思わず反論する。
「そんなことないよ。だって、涼音の家にもあったって言ってたもん。疑われないようにおじいちゃんが持って帰ったって……」
「仁美!」
鋭い父の一喝にハッとして、仁美は口をつぐむ。
だがすでに時遅く、不用意な自分の口から飛び出した言葉は琴子に届いてしまっていた。
「それ、本当?」
問いかけてくる琴子は記者の目をしている。
仁美は思わず顔を背けた。