銭湯図解は、平均1週間で完成する。第3回で紹介した小杉湯図解のような、入り口から浴室まで建物全てを描く場合は10日〜2週間ほどかかるが、男女どちらかの浴室だけならそこまで時間はかからない。制作の内訳は、下書きが3.5日、ペン入れが1日、着彩が1.5日といった塩梅だ。

 下描きでは、取材で記録した建物の寸法を元に、“アイソメトリック”という建築図法を用いて建物を機械的に描いていく。アイソメトリックは、大まかにいうと、1/100や1/50といった縮尺をつけてひしゃげた平面図を描き、そこに垂直方向の線を加えて俯瞰図的に建物を描く技法だ。大学一年生で習う描き方なので難しくはないのだが、手書きとなるとなかなか根気がいるので、銭湯図解の制作で一番時間がかかる工程だ。

 消したり描き直したりして、紙がすっかりヘタヘタになっているので、ペンでキレイな水彩紙に改めて描き直す。下から光を照射するトレース台に下書きの紙と水彩紙を重ね、光で浮き出た線を頼りに水彩紙に描き写していく。下描きと違って直しが利かないので、一つ線を引くだけで相当な集中力が必要になる作業だ。

 最後に、ペン入れを終えた水彩紙に着彩していく。取材で撮影した写真を参考に、柱はこの色、タイルはこの色、という風にそれぞれパレットに色をつくり、コツコツ塗り進める。ここも失敗が許されない作業ではあるが、白黒だった絵に少しずつ色が灯っていく様子をみるのは楽しいし、まるで自分がこの世界を創っているかのような気持ちになってワクワクする。それどころか、あまりに着彩作業が楽しすぎて脳内麻薬がジャンジャン出るのを感じるし、絵の途中に話しかけられると「アッ……あぁ……」と言葉の出し方が分からなくなったり、自分と他人の境界が分からなくなるヤバイ没入具合になることもある。あまり入り込みすぎると現実社会に戻れなくなるので、最近では没入しすぎないように、長時間鍋を煮込んだり、動画を流しながら作業するなどして対策を立てている。



 書籍『銭湯図解』発売予定日の半年ほど前から、自宅に引きこもって銭湯図解の制作に専念していた。日の出と共に目を覚まし、パジャマのまま寝ぼけた頭で手を動かし始める。昼時に思い出したようにちゃんとした服に着替え、昼食休憩。1時間ほど休憩をとったら、食後のぼんやりする頭を頑張って動かして午後も制作。

 好きなBGMをかけて絵を描いていると、だんだん頭も手も冴えてきて、このまま無敵モードで仕上げてしまおうか! というタイミングで、私のアパートの真向かいの家からゲームの音が流れてくる。ベランダごしに向かい合っているアパートの住人は、大学生らしく夏場になると窓を開けて友達たちとゲームやお喋りに興じている。これまで不動産屋にクレームを入れたり警察に相談したりと熾烈な争いを繰り広げているが、全く懲りていない様子なので「毎日小さな不幸に見舞われろ……足の小指をぶつけるとか……焼きそばの水切りでそのまま流しに落とすとか……」など日頃から呪いの念を送っている。制作モードの集中を途切れさせるわけにはいかないので窓を閉めて耳栓をつけ、せめてもの嫌がらせにスピーカーを真向かいに向けテクノを爆音で流しておいた。しかし向こうの音量が上がるだけだったので「よろしい、ならば戦争だ」と不動産会社にまたクレームの電話をかけた。早く引っ越したい。

 そのまま夜までぶっ通しで作業を続け、集中しすぎてヨロヨロの体で小杉湯のお風呂に入って、身体中の疲れを癒しそのまま眠りにつく。これが銭湯図解制作中の毎日のスケジュールだ。たまに気分転換に喫茶店でコラムや挿絵の作業を挟んだりして、書籍のための素材をコツコツと作り上げていった。



 銭湯図解や各銭湯のエッセイもほぼ仕上がってきて、ゴールはあと少しという時に大きな話が飛び込んできた。ドキュメンタリー番組「情熱大陸」からの取材依頼だ。制作を始める1年以上前から、情熱大陸のプロデューサーの方から取材の話はいただいていたが、放送できる枠の調整と撮影のタイミングを見計っていたのだ。それが、『銭湯図解』制作の佳境のところで、目処が立ったという連絡を突然いただき、たまたま『銭湯図解』発売のほぼ一週間後に放送されることとなった。まさかこんな絶好のタイミングで情熱大陸の話が浮上するとは思わず、編集担当者も営業担当者も、出版社の他の社員も全員が色めきたった。情熱大陸の撮影に関する連絡をもらった直後、出版社内で会議が行われて初版部数が10000部増えたほどだ。

 情熱大陸の取材は、『銭湯図解』の色校正の作業から始まった。色校正とは、実際に本として印刷された際の色味を確認する作業で、アナログの水彩作品は再現が難しく、試し刷りを著者である私が一度目を通す必要があった。撮影は、色校正の作業を行う出版社のビルに入るところから行われた。ディレクターさんから受け取ったピンマイクを胸に取り付け、ビルの3つ手前の建物のあたりに立ってスタンバイ。ディレクターさんが手をあげたら、カメラを見ずに入り口に向かうという手筈だ。落ち着けと深呼吸をしているとディレクターさんが手をサッとあげた。カメラを意識しないように、カメラを意識しないように……そうは思っても、どうしてもカメラが気になってしまう。この歩き方、不自然じゃないか? 鞄の持ち方、ダサくないか? そもそもビルに入る時ってどんな表情が合ってるの!? などと自意識が大暴走しつつ、カチカチの状態でビルに入っていった。オッケーです! とディレクターさんは爽やかに笑っていたけれど、何もオッケーとは思えない。

 

 

 そのまま撮影スタッフの方たちと一緒に、出版社の会議室に向かう。中に入ると、複数並べられた机に、A4サイズに印刷された数十枚の銭湯図解がずらりと置かれていた。早速、担当さんとデザイナーさんと共に、一枚一枚色味を確認していく。担当さんもデザイナーさんもいつもよりもしっかりメイクをして、すごくキレイだ。わかる、私も今日は自慢の一張羅だ。

 持参してきた銭湯図解原画と照らし合わせながら、これは少し赤い、これはちょっと青すぎるなどと細かく指摘を続けていく。その間も、後ろからビッチリ情熱大陸のカメラが張り付いていて、だんだんと顔がカチコチになっていく。私は人前で喋る時もあまり緊張するタチではないのだが、こんな風に「自然な顔でいいんですよ」と日常生活を撮影されるとなると、自然な顔ってこれかナ!? と謎の自意識が出てくる。もうこの時点で自然な表情ではない。ちなみに、情熱大陸では素の表情を捉えるために、長くカメラを回して、自然な顔が出た瞬間を取り上げるのだそうだ。確かに、1ヶ月弱撮影されたのに、9割は使われなかったのは、その瞬間を撮るためだからなのだろう。じゃああの9割はなんだったのさ! と若干憤慨したが。

 その日の色校正は順調に進んだが、水彩の色味を完全に再現するのはなかなか難しく、結局書籍化に至るまで5回直しが入った。印刷所の人は泣いたそうだ。ごめんね。



 発売予定の1ヶ月前になると、こちら側の作業は全て終えてあとは出版社さんにお任せする状態だった。その間も、情熱大陸による、小杉湯で働いている様子や銭湯に行く様子などの密着取材は続けられていて、そこでもず〜っと“自然な顔とは?”という自問自答を繰り返していた。そして、発売まで数週間となった時、『銭湯図解』の見本ができたということで、『銭湯図解』のお披露目も兼ねて身内を集めた出版パーティーを企画した。銭湯を教えてくれた大学時代の先輩、大学や高円寺の友達、『銭湯図解』を出すまで支えてくれたオンラインサロンメンバーなど沢山の人を定休日の小杉湯の浴室に集め、お酒やご飯を食べたり、取材時の苦労話をするなど大いに盛り上がった。当然、その日も情熱大陸のカメラは回っていた。

 パーティーも中盤に差し掛かったところで、いよいよ『銭湯図解』をお披露目をすることになった。担当さんは満面の笑みで、大切そうに胸にだいた茶色い封筒から『銭湯図解』の見本を取り出し、私に手渡した。それに触れた瞬間、ポロッと涙が溢れた。「よかった、よかったねえ…」思わずそんな言葉をこぼしたことを覚えている。ようやく本ができてよかったね、というだけではなくて、これまで苦労してきた自分に対しての労いの言葉だったんじゃないか、と今になって思う。前職の設計事務所で体調を崩して、死んでしまおうかとすら思っていた自分が、銭湯に出会って、銭湯の絵を描いて、それが本という形になったことで、今までもがいて頑張り続けた自分に“よかったね”という言葉が零れたのだと思う。この瞬間に辿り着くまでに、色んな出来事があった。それを思うと、本はあまりにも重たく両手では支えきれないほどだった。

 


 

 本が発売されてからは、出版イベントや、サイン会、書店の挨拶回りなど毎日毎日忙しくてもうヘトヘトだった。そんな中、2019年の3月3日に情熱大陸が放送された。友人たちと共に、ドキドキしながら情熱大陸のOPを眺めていると、意外なことに『銭湯図解』の見本を受け取るシーンが一番最初に流れた。情熱大陸が撮影する中で、自分でも最も感動的なワンシーンだと感じていたのでてっきり一番最後に持ってくる流れだと思っていた。その後、体調を崩したことや銭湯に出会った経緯が語られつつ、小杉湯での番台の仕事や、銭湯を取材して描くシーンなどが次々と映し出された。最後には小杉湯の浴室を掃除する様子が映し出されて、「自信を取り戻すことができた場所だからこそ、いつもピカピカにしておかなければ……」というナレーションと共に私の情熱大陸は終わった。

 本を出したことが、自分の人生のクライマックスのようにその時は感じていた。それが、情熱大陸をみて“本を出したのはあくまで一つの経過でしかなくて、その先には新しい日常が続いている”というエールをもらったような気がした。本を出したことは私の中でとても大きかったことだと思う。だけど、それに満足してその栄光に縋るような生き方をするのは何か違うなと感じている。本を出してから、もう2年経つ。本を出したこと、情熱大陸に取り上げられたこと、それを今も誇りに感じているが、その気持ちを胸に新しい挑戦を続けてきたと思っている。私は銭湯と絵が好きで、その気持ちの先に銭湯図解という形があって、その姿を情熱大陸で放送されたに過ぎない。自分が何が好きか、何をしたいのかをいつも考えて、これからもその時自分ができる事を続けていきたい。その先にまた、今度は体中使っても持てないぐらいの重さの、何かと出会えるんじゃないかと思っている。

(第9回へつづく)