人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。引きこもりの息子・聡介を家に抱えていた。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

流星…小学六年生、ウタの孫。修一郎の妹と仲が良かった。

宅間巌…かつて焼身自殺した町民。小学生の間では彼の幽霊が出ると噂されている。

第十三話

『毒入りしるこ事件関係者宅が火事 放火か!?』

 センセーショナルなテロップとともに、燃える博岡邸の様子がテレビで繰り返し報道され、仁美は胸が苦しくなる。

 昨夜、燃えさかる炎は隣家の壁をも焦がし、一時は二軒先の仁美の家にまで回るのではと危ぶまれたが、消防隊員の迅速な消火活動によって延焼は免れた。

 父の訴えを聞いて助けに飛び込んだ勇敢な隊員のおかげで、博士は救出された。

 だが、画面の中のアナウンサーは、病院に搬送されたものの、博士は現在、意識不明の重体だと報じている。

 火元となった一階の和室の窓が割られており、放火の疑いが極めて高いらしい。

 リポーターからマイクを向けられた住民たちは、もしこれが放火だとしても、この町の住人の犯行ではなく、外部の人間の仕業だと口々に訴えている。

 だが、本当にそうだろうか。

 集会で博岡家を非難し、この町から排除したいと願っていた誰かが、火を放った可能性もあるのではないか。

 自分たちはおしるこに農薬など入れていない、信じてほしいと懇願する博士の姿が脳裏によみがえり、仁美は苦い思いとともに深い息を吐いた。

 こんなときくらいそばにいてほしかったのに、父は今朝もいつも通り病院へ出かけた。

「眠れてないんだから、仁美は学校を休んで寝ていなさい」と言いおいて。

 確かに昨日の深夜、火事だと叩き起こされてから、一睡もできていない。

 でも、マスコミの人間がコメントを求めてひっきりなしにチャイムを鳴らす中、眠れるわけなどないではないか。

 それに、家の中がひどく臭い。どこから入り込んだのか焦げ臭い異様な臭いが今も強く残っていて、消臭スプレーをいくら撒いても消えず、仁美は途方に暮れる。

 ママがいてくれたら――。

 事件以来、何度思ったかしれない叶わぬ願いをまた胸の中でつぶやいてしまう。手は無意識に、母がくれた涼音とペアのネックレスを握りしめていた。

 きれい好きだった母なら、この悪臭の対処法も心得ていて、てきぱきと消してくれたのではないか。なにかを手伝ってとお願いされるたび、いつもえーっと文句をたれ、嫌々やっていたけれど、今なら喜んで母に従う。

 家がきれいなのは当たり前だと思っていたが、流しもトイレもすぐ汚れるし、風呂場にはカビが生え、部屋の床には驚くほどの速さでホコリが溜まる。母が毎日どれほどの時間と労力をかけ、家族のために快適な空間をつくりあげていたのか、喪って初めてわかるなんて……。

 どうにも気持ちが沈んでしまい、仁美はバタッとベッドに倒れ込んだ。さすがにあきらめたのか、チャイムがならなくなったから、臭いを我慢して寝てしまえば少しは楽になるかもしれない。

 そう思って目を閉じたものの、まぶたの裏に浮かぶのは赤く燃え上がる博士の家だ。炎に焼かれているのはなぜか博士ではなく自分自身で、仁美は恐怖に跳ね起き、窓の外に目をやる。誰かが火のついた紙切れを庭に投げ込むだけで、それはいとも簡単に現実のものになる。

 覗いた窓から庭に走り込んでくる人影が見え、心臓が大きく跳ねた。助けを呼ぼうとつかんだ携帯電話が手の中でぶるりと震え、思わず取り落としそうになったが……。

 玄関先に立っていたのは大きな紙袋を抱えた涼音だった。

 その姿を目にした途端、強張っていた仁美の身体は安堵でゆるゆると溶けだしそうになる。すぐに招き入れ、ドアと鍵を閉め、チェーンまでかけた。

「大丈夫だった、仁美ちゃん? どこも火傷とかしてない?」

 博士の家の火事を知り、心配して来てくれたらしい。

「涼音こそ、大丈夫? マスコミにつかまらなかった?」

「うん、博士の家の前、野次馬みたいな人が大勢来てたから見つからずに済んだみたい」

「とにかく上がって。あ、でも、信じられないくらい臭いけど」

「この臭い、なかなかとれないんだよ。でも、少しはマシにできるんじゃないかと思って」

 そう言って、涼音が袋の中から取り出したのは洗剤や雑巾などの掃除道具だった。

「え? 涼音、なんで火事の臭いのことなんて、知ってるの?」

「東京にいたとき、母が煙草でボヤ出しちゃって」

「エリカちゃんが?」

「たいしたことにはならなかったけど、臭いはしばらく残ってたから」

「……それで、来てくれたの?」

 洗剤のボトルを手に目だけで微笑む涼音に、亡き母の姿が重なる。困っている仁美のために、母が涼音を遣わしてくれたのではないか……。ジンと胸が熱くなったが、涼音は感傷に浸る暇を与えてくれず、腕まくりしながら階段を上っていってしまう。

「仁美ちゃん、脚立持ってきて」

 降ってきた声に慌てて目頭を拭い、仁美は脚立を抱えて二階へと運ぶ。仁美の部屋のシーツと布団カバーを外し終えた涼音は、「はい」とそれを手渡してきた。

「仁美ちゃん、仁先生のシーツとか外して、これと一緒に洗濯してくれる? 一階は外から覗かれると嫌だから、まずは二階の部屋を換気して、寝具のあと、カーテンも洗おう」

 言い終わらないうちに仁美から受け取った脚立を立て、涼音はカーテンを外し始める。

 言われたとおり、父の部屋の窓を開け、外した寝具を洗濯機に放り込んで戻ってくると、涼音は丁寧に網戸の拭き掃除をしていた。

「涼音、私がやるよ」

「じゃあ、仁美ちゃんは窓をお願い」

 道具を渡された仁美は涼音と並んで窓を拭き、その後も天井、壁、床と一心に拭き掃除していく。てきぱきと働く涼音に倣ってなにも考えず身体を動かしていると、自分の中に渦巻いていたどろどろした不安や恐怖といった負の感情が汗と一緒に流れ出ていくような気がした。

 その感覚が心地よく、休憩も取らずに何時間も働き続け、気づいたら日が傾きかけていた。

「わ、洗濯もの取り込まなきゃ。涼音、疲れたでしょ? 少し休もう。っていうか、もういいよ。ここまでやってもらったら、あとは自分でできるから」

 涼音の言葉どおり、火災がもたらした焦げ臭さや煙の臭いは簡単に消えるものではなかったけれど、掃除をしたことで気分的にかなりすっきりした。

「まだ大丈夫だよ。私も身体動かしてたほうが楽なの。余計なこと考えなくて済むし。あ、仁美ちゃん、疲れたなら、パウンドケーキ持ってきたけど、食べる?」

「食べる、食べる!」

「じゃあ、お茶淹れるね」

 洗濯ものを取り込み、洗い立てのカーテンを窓に取り付けていると、自転車で走ってくる学生服の男が目に入った。その瞬間、気持ちが波立ち、仁美はカーテンフックを握りしめたまま動けなくなる。

 昨夜、業火のように燃え盛る炎を前に立ち竦んでいたときも、駆けつけて来てくれた。名前を呼ばれ、振り返った先に修一郎の顔を見つけた途端、苦しいほど胸が熱くなった。

 今日も来てくれた……。

 あたたかいものが心を満たしていく。

 自転車が家の前に停まり、博士の家の様子を気にしながら駆け込んでくる修一郎の姿を仁美はずっと目で追っていた。息をすることさえ忘れて――。

 チャイムの音でようやく我に返り、キッチンでお茶の支度をしている涼音に知らせてから、鏡の前で髪を整え、色付きのリップクリームを塗り直す。

 階下に降りてリビングのドアを開けると、紅茶のいい香りが鼻を抜けていく。その先で、制服姿の修一郎が「よっ」と片手を上げた。鏡を覗いていた時間はそれほど長くなかったはずだけれど、すでに彼は涼音が切り分けたパウンドケーキを口に運ぼうとしている。お礼を言うつもりでいたのに、違う言葉が口からこぼれた。

「ちょっ、修一郎、それ、働いた私たちのご褒美なんだけど」

「いいとこ来たと思ってさ」

 ケーキに食らいつき、「うまっ」と相好を崩す修一郎の目は少し眠そうだ。昨夜はほとんど眠れていないはずだが、それでもちゃんと学校へ行ったのだ。そんな中、今日もまたこうして来てくれたことが嬉しくてたまらないのに、素直になれない仁美は憎まれ口を叩く。

「なんで働いてないヤツが先に食べるかな」

 甘いものに目がない修一郎は少しも気にすることなく、「おかわり」と涼音に皿を差し出した。

「ちょ、私の分がなくなるでしょ!」

「大丈夫、仁美ちゃんの分も仁先生の分もちゃんとあるから。はい、お疲れさま」

 涼音が手渡してくれた皿を受け取り、修一郎に見せびらかすようにパクッとほお張る。

 ほどよい甘さの柔らかな生地が口の中でとろけ、なぜかまた目頭がじわっと熱くなった。

「……なんか、懐かしい味」

「だって、千草おばさんに教わったレシピだから」

 ああ、だからか。だからこんなに心が揺さぶられるのか。

「涼音、これ、つくるの、難しい?」

「ううん、そんなことないよ」

「じゃあさ……」

 言いかけて黙ってしまった仁美に、涼音がささやく。

「今度、一緒につくらない?」

「……え?」

「仁美ちゃんと一緒につくりたい。あ、千草おばさんに習ったレシピ、ふたりで全部チャレンジしようよ」

 教えてもらう機会を失い、後悔していた母の料理を涼音に習って自分の手でつくることができる。父に食べさせたら喜ぶに違いないし、もしかしたら、いつかは自分の子供に教え、大好きだった母の味をずっと伝え遺すことができるかもしれない。

 涼音のおかげだ。素直になれない自分をいつも気遣ってくれる涼音は本当の妹みたいだ。

 喉の奥から込み上げてきた熱いものを、仁美は慌てて紅茶と一緒に飲み下す。

「じゃあ、僕も参戦する。食べる係で」

 二つ目のパウンドケーキを早くも平らげようとしている修一郎に、仁美は呆れる。

「食べる係なんていらないっつーの。そんなんやるくらいなら、自警団にでも入って……」

 冗談のつもりで口にしたのに、昨夜、駆けつけてきた守や武蔵ら自警団の姿とともに、燃えさかる博士の家が、なにかが爆ぜる音と消防車のサイレンが、そして、肌を焦がすような熱さと臭気が、ふいに自分の中に蘇ってくる。

「どうした? 大丈夫か?」

 修一郎に顔を覗き込まれ、仁美は頭を振ってそれらを追い払おうと努めたがうまくいかなかった。

「誰が……、火を付けたんだろう」

 話題にしたくないけれど、ひとりで抱えているのもつらく思わず口にする。

「昨夜、僕が来る前、博士の家の前には誰がいた?」

「えっ? 誰って、うちの父親と私と、あと、隣のおじさん。そこへすぐに消防隊員の人たちが来て……」

「他には? 正確に思い出して」

「なんで? 正確にって言われても、パニクってたし」

「放火犯は現場に戻るって言うだろ」

「……ああ、野次馬を撮った写真の中に犯人がいたとかって、ドラマで見るやつ?」

「燃えるところを見て喜ぶのはストレス解消のための放火だろうから、今回のとは違うのかもしれないけど」

 仁美は火災現場の状況を必死に思い返し、近所の家々から飛び出してきた人たちや自警団の守や武蔵の名前を上げたが、あそこにいることが不自然な人間はひとりも思い当たらなかった。

「一一九に通報したのは、隣のおじさんだったよね?」

「うん。博士の家の火災警報器の音で火事に気づいたって言ってた」

「気になる人は本当にいなかった?」

「うん、こやぎ庵や蕎麦辰のおじさんは見てない」

「え?」

「だって、そういうことでしょ? 集会で死刑だとか切腹しろとか言ってたし、博士を排除したがってた人たちがやったんでしょ」

「あの人たちは博士が自宅に帰ってきていることを知らなかったんじゃないかな」

「どうして?」

「知ってたら、その時点で騒ぎになっていたと思わない?」

 確かに修一郎の言うとおりだ。気づいた時点で、彼らは博士の家に乗り込み、騒ぎ立てていただろう。

「仁先生と仁美は博士が家にいるって知ってたんだよね? そういう人、他にもいた?」

 わからないと仁美は首を横に振る。

「少なくとも、隣のおじさんは知らなかった。父が消防隊員の人に博士を助けてくれって言ったの聞いて、びっくりしてたから」

 父は博士が家に戻るところを偶然見かけ、声をかけたらしいが、彼の身を案じ、誰にもそのことを話していないと言っていた。

「博士がいるのを知っていて狙ったのか、知らずに聡介君たちの帰る場所を奪う目的で火を付けたのか……」

「修一郎、もし博士を狙ったのだとしたら、前に言ってたみたいに、まだ終わってないってこと? これからもこの町の人が殺され続けるの? それ、どうしたら止められる?」

 息もつかずにまくし立てる仁美を、修一郎は両手を開いて押しとどめる。

「ちょ、ちょっと落ち着こう。それ、僕に訊かれても……」

「あ……、だよね、ごめん」

「私、仁美ちゃんの気持ちわかる」

 涼音が静かに口を開いた。

「おしるこに毒をいれたのは博士で、博士の家族が逮捕されてやっと終わるって思ったのに、こんなことになって、すごく……怖い。博士は犯人じゃなかったの?」

「まだわからないけど、警察が家に帰したってことはその可能性が高いんじゃないかな。だから、真犯人が博士に罪をかぶせようとして火を付けたってことも……」

「誰!? 誰がそんなことしたの!?」

 思わず感情的な叫びが口からもれてしまい、仁美はすぐまた「ごめん」と謝った。

「このあたりにも都内みたいに監視カメラがあれば、すぐに捕まるんだろうけどな……」

 彼が悪いわけじゃないのに、修一郎の声は沈んで聞こえる。自分だけじゃない。修一郎も涼音もどうしようもなく怖いし、疲れ果てている。

「ネットでまたイワオの幽霊の呪いとか書かれてたね」

 そうつぶやく涼音の声はため息交じりだ。火事だけに、焼身自殺した幽霊が放火したと面白おかしく書かれているに違いない。

「あ……、それで思い出した、ちょっと見てくれる」

 修一郎が学生鞄から取り出したのはピンク色の携帯電話だった。

「なに、これ?」

「かすみの携帯。つっても、最近のじゃなくてかなり前の、小二とか小三のときに使ってたやつだけど。かすみ、身体弱かったから、そのころから親に携帯持たされてて」

 そう言いながら、修一郎は画面に呼び出した写真をふたりに見せる。

 写っているのは犬を胸に抱き、カメラ目線で微笑む幼い麗奈の姿だ。

「麗奈ちゃん、可愛い。小二とか小三に見えない。すでにできあがってるよね。かすみちゃんが撮ったのかな。で、これが?」

 首をかしげる仁美の目の前で、修一郎が写真をピンチアウトで拡大する。後ろにやぎのベンチが現れ、そこがメーメー公園であることがわかった。よれよれのコートをまとい、ヤギのベンチに座っていた大柄な男は――。

「イワオ!?」

 思わず大きな声が出た。麗奈の背後で、ベンチに腰掛けたイワオが笑みを浮かべている。

「うわっ、これ、麗奈ちゃんを見て、ニヤニヤしてるってこと?」

 麗奈が深夜、イワオにやぎ山に連れていかれたのは、小学二年生のときだったはずだ。

「よく見て。ちょっと麗奈ちゃんの影になってるけど、イワオの隣」

 修一郎の説明に焦れた仁美が自分の手で写真をさらに拡大させると、そこには半分見切れた幼い男の子の顔があった。

「これ……、流星君?」

 写真を覗き込んだ涼音もうなずく。

「そうだね。流星君も笑ってるみたい。……笑ってるからかな」

「ん? なに?」

「イワオって人、身体は大きいけど、そんなに怖い人に見えない気が」

「うちの母親は気味悪がってたよ」と修一郎が携帯を取り戻しながら言う。

「イワオは仕事がないとき、よく公園に来ていたから、一緒に遊ばないようかすみに言いきかせていたらしい。女の子を持つ母親は、みんな心配していたみたいだ」

「流星君は大丈夫だったのかな? イワオ、話すふりして、麗奈ちゃんを狙ってるようにも見えるけど」

 そう言いながら頭にふっと思い浮かんだことを、仁美はそのまま口にしてしまう。

「イワオの幽霊が犯人だったらよかったのに。放火も、音無のおばあちゃんを崖から突き落としたのも、毒しるこ事件も」

「は?」と修一郎と涼音がそろって怪訝な顔をこちらに向けた。

「だって、イワオだから、幽霊だから仕方ないって思えるでしょ。生きてる誰かが……、この町で仲良くしていた誰かがやったって思うの怖すぎて、気持ち悪すぎなんだよ!」

「仁美……」

「ごめん、わかってる。私、おかしくなってる。昨日の火事でなにかが切れた。もう限界。誰でもいいから犯人捕まって、終わりにしてって思ってる」

 戦争やテロ、殺人事件、世の中には恐ろしいことがあふれていて、悲惨な出来事を毎日のようにニュースで目にしてきた。でも、それは遠い異国の話だったり、映画やドラマみたいに安全な場所から眺めていられるものでしかなく、この町がそんな世界と地続きだったことにただただ驚いている。

 今、自分はその渦中にいる。家族を殺され、親戚みたいだった人たちを疑い、自分や大切な人たちも狙われ、殺されるのではないかと怯えている。

 毒しるこ事件以降、怖いことが起こり続け、心が麻痺するのではと思ったけれど、少しも慣れない。恐怖は日々積み重なって、自分の中で大きく膨らんでいき、もはやパンク寸前だ。

「もうやだよ。殺されたくないし、誰かが死ぬのももう見たくない。博士、死んじゃうかもしれないんだよ。昨日からずっと、博士がしてくれたことばっかり、頭に浮かんできて、夏休みの宿題手伝ってもらったこととか、やぎ山や自然公園で星や花や虫や動物について教えてもらったこととか……」

 ふいに喉の奥から込み上げてきた熱い塊を今度は押し戻すことができなかった。止める間もなく、感情がこぼれる。

「博士、死んじゃやだよぉ。涼音も、修一郎も、エリカちゃんも……、みんな、ママみたいに死んじゃ、やだ……」

 いつも無表情な涼音が驚いて目を見開いたが、後から後から涙が溢れ、なす術がない。

「ごめん、なに、これ、ちょっと待って……、情緒がめちゃくちゃで」

「仁美ちゃん……、我慢しないで泣いて」

 いつも我慢しまくっている涼音に言われたくない。そう思ったけれど、嗚咽で声にならない。 

 そんな仁美の背中を涼音の手が優しくさする。幼いころ、母がよくそうしてくれたことを思い出し、余計に涙が止まらなくなった。

 仁美が少し落ち着くのを待って、修一郎がポツリと言った。

「博士に連れてってもらったな、やぎ山。星、すごかったよな」

「うん、流れ星がいっぱい見られたよね」と、涼音が応じる。

 人工灯のないやぎ山は、この辺りで一番星がきれいに見られるスポットだ。 

「そうそう、仁美、めちゃくちゃテンション上がって、願いごとしまくってな」

「私だけじゃないよ。みんな、してたじゃん。一番はしゃいでたの、エリカちゃんだし」

 ふたりの前で大泣きした恥ずかしさをごまかすように、仁美も声を張る。

 やぎ山へ星座観測に連れて行ってもらったのは涼音の父が生きていたから、六年前のことだ。博士が主催し、夫人とエリカ夫婦、そして仁美の両親も参加した。普段は控えめな母も降るように美しい星空にわーっと少女のような歓声を上げ、博士の星座の話に熱心に耳を傾けながら、いつまでもうっとりと星を見上げていた。

「あのとき、博士、なんの話してくれたっけ?」

「星座にまつわるギリシャ神話の話だったよね。オリオン座がどうしてできたか、とか」

 仁美の質問に、涼音が答える。

「そうだっけ、全然覚えてないや。どんな話?」

「えっと……」と首を傾げた涼音に代わり、修一郎が話しだす。

「オリオンは月と狩りの女神アルテミスに好意を寄せられるんだけど、それに嫉妬したアポロンがアルテミスに遠くの黄金の岩を弓で射ることができるかって挑発するんだ。でもそれは岩じゃなくてオリオンの頭で、アルテミスは大切な人を射殺してしまうっていう」

「なに、その悲惨な話」

「だから、アルテミスはゼウスに頼んで、オリオンにいつでも会えるように星座にしてもらったって話だったよ、確か」

 全く覚えていなかったが、博士はその当時からエリカのことが好きだったのだろうか。それで、嫉妬とか三角関係の話をしたと勘ぐるのは考え過ぎか……?

 ふいに、星降る頂きに着いた直後、テンションの上がったエリカがキャーッと叫んで博士に抱きついた光景を思い出した。「ありがとう、こんな素敵なとこに連れてきてくれて!」と。

 エリカは嬉しいと喜びを爆発させて、よく抱きついてくるので深い意味はない。しかし、抱きつかれた博士は、そして、夫人は、自分の美しさに無自覚なエリカの行動をどんな思いで見ていたのだろう。

「エリカさん、大丈夫だったか?」

 突然、修一郎がエリカの名前を出したので、同じ場面を思い出していたのかと驚いたが、涼音の答えはそれにつながらないものだった。

「うん。さっき家に戻ったって連絡あったから」

「エリカちゃん、どこか出かけてたの?」

「……警察。任意だけど」

「えっ? どうして、エリカちゃんが?」

「博士とのことがあるからじゃないかな」

 博士と不倫関係にあったことを認めたエリカが、放火を疑われたってこと? 昨夜、火災現場に駆け付けた刑事に、仁美も父も話は訊かれたが、任意同行は求められていない。

「エリカちゃん、昨日の夜、家にいたんだよね?」

「いつもどおりお酒と眠れる薬飲んで寝たはずだから外へ出られるわけないって、刑事さんに言ったんたけど、家族の証言はアリバイにならないから」

「涼音、ごめん、そんなときに。エリカちゃん戻ってきてるなら、今すぐ帰ってあげて」

「でも、まだ、掃除が……」

「そんなのいいよ。もう外暗くなってきてるし」

 一瞬、きょとんとしたのち、ちらりと修一郎を見て、「あ……、うん、わかった」と涼音が立ち上がる。「私、先に帰るから、修一郎君、あとはお願いね」

「ちょっ、違うって」

 勘違いして気を利かせようとしている涼音を慌てて止めた。

「こんなときにひとりで帰るなんて危ないよ。修一郎、涼音を送っていって」

「大丈夫だよ。仁美ちゃんのほうが心配だから。修一郎君、仁先生が帰ってくるまで、仁美ちゃんと一緒にいてあげて」

 黙って聞いていた修一郎が、「わかった」とうなずく。

 いきなり泣き出すほど情緒不安定な仁美を心配してのことだとわかっていても、アルテミスの矢に射抜かれたように胸が震えた。でも、今はダメだ。

「なに言ってんの、家より外のが危ないに決まってるでしょ。この町は今、マジでおかしくなっててなにが起きるかわからないんだから、涼音にひとり歩きなんて絶対にさせられない。もしも涼音になにかあったら、私が困る。耐えられない。だから、お願い、ふたりで帰って」

「仁美ちゃん」

 改めて涼音と修一郎に礼を言い、ふたりの背中を押して、笑顔で送り出す。

 ちょっとだけかっこつけることができたし、なにより涼音を危険な目に遭わせずに済んでよかったと、自分の決断に心が満たされた。

 だが……、後になって、仁美はこれを心の底から悔やむことになる。

(第14回へつづく)