第三章 漱石の写真 SOUSEKI(承前)

 今回発見されたガラス乾板を修復している国立写真センターは、渋谷区の住宅街にあった。比較的空いた地下鉄の車中で、山田は円花と並んで座り、分かったことと分からなくなったことを整理する。

「まず、小川一真は大正元年、千円札になった写真の他に、三枚も撮影していた。いずれも明治天皇が崩御した直後で、左腕に喪章をつけている。服装も髪型もほとんど同じ。けれども謎なのは、じつは三人でうつった群像写真と、一人きりの肖像写真とでは一週間の開きがあるというわけだ」

 そのあいだの一週間を整理すると、こうだった。

 十二日、漱石は二人の友人とともに、避暑に訪れていた鎌倉から東京に戻った。そしてその足で小川写真館を訪れ、記念写真を撮影した。

 十三日から十五日にかけて、明治天皇の大喪の礼があった。そのあいだ、一真は皇室関係の撮影に追われ、写真館は臨時休業する。

 十六日、多忙のうちに撮影を終えた一真は、大喪の礼の写真を整理。

 十九日、小川写真館をふたたび訪れた漱石が、今度は一人で撮影することに。そのときも喪章をつけているが、前回の群像写真に比べれば、顔をアップにした胸像で、出来栄えも優れていた。とくに旧千円札の写真には威厳があり、撮られることに積極的に臨んでいるようにもうつる。

「つまり、大喪の礼の直前に、三人で写真を撮っていたのに、なんらかの理由があって、その直後にまた写真館に行き、改めて撮影をお願いしたわけだ」

「……まさか、乃木大将が理由?」

 考え込んでいた円花が、ぽつりと呟いた。

乃木のぎ大将ってたしか――」

「明治天皇の大喪があった九月十三日の夜に、奥方とともに殉死した軍人だよ!」

 思いがけない指摘だったが、たしかに激動の一週間のなかでも、乃木大将の殉死は大事件だったと言われる。棺を運ぶ轜車じしゃが青山の斎場に向かった合図の弔砲とともに、乃木大将は殉死した。鎮魂のために乃木神社が建てられ、乃木邸のあった坂は乃木坂と呼ばれるようにもなった。

「乃木大将の殉死には、多くの人が心を動かされて、森鷗外は歴史小説を多く書くようになったとされているし、芥川龍之介だってこのエピソードをN将軍として小説にしているんだから」

「ということは、漱石は乃木大将の死をきっかけに、なにか思うところがあって、写真を撮り直したということか? というより、自分だけの正式な肖像写真を残しておきたくなったとも言うべきか」

「その可能性は高いよ。だって今まで旧千円札になった、威厳ある一枚にばかり注目していたけど、同時に撮られた他の二枚の方は、めちゃくちゃ物憂い表情と仕草をしてるじゃない? その二枚の方こそが、当時の心境を反映してるのかもね」

 たしかに有名な『こころ』にも、乃木大将がくり返し登場していた。

 さっそくスマホで電子版を確認すると、後半にあたる「先生と遺書」の一番のクライマックスで、大喪の礼のあとに聞いた弔砲のことや、乃木大将の殉死について、多くの行数が割かれていた。そして作中の先生も、自ら死を選ぶ。

 じつは旧千円札の一枚ではなく、物憂い二枚の写真の方こそが、明治天皇崩御からつづく乃木の事件に、大いに影響されているとすれば――。

 山田は改めて、スマホに保存してあった二枚の画像を観察した。

 洋装に喪章をつけた文豪は、髪の毛や布地まで克明なピントと、鼻筋を中心軸にした完璧な構図で捉えられている。この人はなにを考えているのだろう、と見る側の想像を膨らませる一方で、わざとらしすぎない絶妙な表情。瞬間を切りとるタイミングだけでなく、光の当て方も完璧だ。まさしく一真の腕前の賜物だろう。写真として優れているからこそ、いまだに人々の記憶に刻まれている。

「やっぱり、思っていた通りだね」と言って、円花は意味深な笑みを浮かべた。

「思っていた通り?」

「写真ってさ、いい撮影者であるほどに、予想もしなかった無意識の身構えがうつりこんでしまうものだと思わない? ときには、被写体も隠そうとしていたような事実を明らかにしてくれるというか。だから写真から歴史を辿るっていう行為は、面白くもあり、怖くもあるんだろうね。撮影者が被写体に寄せる思いが、つい滲みでてしまうなんてことも、身に憶えがあるでしょ?」

「それは、そうかもな」

 被写体との関係性が違えば、カメラに向ける表情も変わって当然だ。それと同じで、初対面であっても間合いによって変化する。これまで円花が撮った写真は、どれも魅力的だったことを思い出した。

「手記や絵だと記録者にとって大事じゃないところは見落とされるけど、写真は目の前にあるものを忠実にうつすからね。もちろん、時代が下がるほど合成されることもあるけど、今回のガラス乾板はずっと蔵に眠っていたわけだし期待できるよ」

「そうだな!」

 現実の出来事が漱石という作家に与えた影響を、作品ではなく写真から辿る――。今までにない記事になりそうだ。興奮しながら頭で構成を組み立てていると、また円花がこちらをじろじろと見つめてきた。

「なに?」

「餡子のおかげかな? 珍しく頼りになるじゃない!」

 珍しくって、失礼なやつだと思いながらも、つい上機嫌になる。

「へんっ。俺だって、そろそろ結果を出さなくちゃと思ってるんだよ。どうすれば文化部をめぐる不安な状況を打開できるのか。まずは自分が頑張らなくちゃいけないだろ? 空気を読んでばっかりじゃなくてさ」

 真剣な顔でこちらを見ていた円花が、思わずといった感じに「山田」と呟いた。やっと先輩らしいことを言ってのけられたぞ。山田はますます得意になり、(照れるだろ、そんな目で見るなよ)と、円花を見返して、にやにやする。

「というより、どの駅で降りるんだっけ」

 いつのまにか車両は降りるべき駅を過ぎていた。

「ごめんよ、つい口を挟むタイミングを逃しちゃって」

 山田は頭を抱えた。

 

 国立写真センターは坂道になったオフィス街の一角にあった。歴史的価値のある写真を収集、保存するために二〇〇〇年代に設立された施設である。受付に声をかけると、作業室に案内された。

 窓が広くとられた開放感のある部屋には、壁越しに機材が並んでいる。なかには「取扱注意」とか「立入禁止」といった張り紙もあり、実験室を連想させた。何人かのスタッフがそれぞれの作業をしている。

「お待ちしてました」

 そう言って、磨りガラスで隔たれたスペースから、丸眼鏡をかけた男性が顔を出した。眼鏡のデザインも分厚さも、自分のものと似ているので、山田は勝手に親近感を抱く。名刺を交換すると、「新村博之 国立写真センター研究員」と記されていた。

「星野くんとは同期なんですって?」

「はい、大学の頃からの友人で」

 星野からは写真マニアだと聞いている。シャッター音でカメラの機種を判別したり、色や風合いでフィルムや印画紙のブランドを見抜いたりできるとか。そんな新村は、山田たちを応接室らしき磨りガラスのスペースに案内した。

「漱石と一真の関係について調査していらっしゃるそうですね。これは綿部写真館さんから提供いただいた手紙を、私の方で読みやすくしたものです。未発表の資料ですが、特別にお持ち帰りください」

 礼を伝えると、新村は真剣な顔になった。

「古いフィルムやガラス乾板は、まだ国内にたくさん眠っているんです。明治大正期から現存するものは、とくに歴史的価値が高くなっています。それなのに、今回割れて発見された一真のガラス乾板のように、多くが劣悪な状況に置かれたまま、誰の目にも触れずに朽ちようとしていて。価値を理解してもらうためにも、ぜひ記事にしてください」

「こちらこそ、取材させてくださって助かります」と山田は頭を下げる。

「お二人には優先的に協力したいと思っていますから。いえね、じつは他社の記者の方にもお知らせしたんです。しかし今回発見された乾板に、なにがうつっていたのか分かったら詳しく取材させてほしいなどと虫のいい返答をされ、がっかりしていたんですよ。正体が分かるまでの過程がスリリングなのにね。ここだけの話、絶対になにかがうつっていると私は確信しているんですよ」

「なにか?」と思わず鸚鵡返おうむがえししてしまう。

「明治大正の歴史を、今も目に見えるかたちで学べるのは、彼をはじめ当時の写真師のおかげです。一般的な知名度は低くても、この国をこの国たらしめた陰の功労者だ。そんな人物がうつした写真には、思いもしないような新発見があるでしょう」

 新村の熱弁を聞いて、山田は自分が追いかけているネタを全面的に肯定されたようで、意気込みを新たにした。

 

 社に戻ると、まずは漱石の肖像写真を、改めて時代順に並べた。一真が撮ったものも含めれば、生涯のあいだに何十枚と撮影されている。顔斜め左側からのアングルが多いのは、鼻の右側に顕著な天然痘の跡を気にしたからだと言われる。

「いろいろ調べてから見ると、若い頃と比べて小川一真が撮影した大正元年の漱石は、息遣いまで聞こえてきそうな迫真性があるね。でもこうして並べれば、私は個人的にこの写真も好きだな」

 円花が指した一枚は、晩年の書斎、早稲田の「漱石山房」で撮られていた。

 壁一面の書棚には、和洋漢の書物がびっしりと収納され、仕舞いきれない分は、絨毯じゅうたんの模様がほとんど隠れるほどに、多数の山になって平置きされている。その手前にある火鉢では鉄瓶がたぎり、傍らには紫檀したんの文机がある。文机には、硯や筆立ての他、開かれた本があって、その前に腰を下ろした漱石がこちらを見あげる。喪章の漱石に比べて、親しみやすい一枚だ。

「千円札になった写真を境にして、レンズへの向きあい方が変わったようにも見えないかな? 明治期までは証明写真っぽくて表情も固いけど、大正元年以降に撮られたものはどれも文豪然と堂々としていたり、素顔でくつろいでいたり、漱石像のバリエーションが増えてるというか」

「そうだね。時代を経るにつれて、写真の受容のされ方が、社会的に変わってきたせいもあるんだと思う。明治期は今みたいにスナップ写真を撮る習慣がなかったけど、大正期になって少しずつ、うつされる方の心構えも変わったんだよ」

 円花の意見に、山田は肯いた。

「今回見つかったガラス乾板に、破顔一笑した漱石がうつってでもいたら、それこそ大スクープなんだけどな! 『吾輩は猫である』のモデルになった福猫や、『硝子戸のうち』に登場する飼い犬のヘクトーをニヤつきながら撫でてたりさ」

「ニヤついているといえば、たしか『硝子戸の中』のなかで、笑顔を撮られるのは嫌だって書いてあったよね」

 円花いわく、一九一五年という最晩年の随筆『硝子戸の中』に、こんなエピソードが登場する。

 ある雑誌社が漱石の写真を撮りたいと依頼してくるが、その雑誌では人物がわざとらしく笑っている写真ばかりを掲載している。漱石は撮影を断ろうとするが、相手があまりにもしつこいので、笑わないことを条件に引き受けた。

 すると書斎にやってきた写真師は、案の定、笑ってくださいと注文してくる。それに対して漱石は、馬鹿なことを言う男だと憤り、最後まで取りあわない。押し問答があったものの結局、本人いわく「気味のよくない苦笑をもらしている」写真を撮られてしまった。

「その写真師に比べれば、小川一真が撮ったものは、ずいぶんと漱石の好みだったんだろうな。偽りやつくり笑いを嫌う漱石の本音のところが、一真の写真にはうつっている感じがするし」

 山田はそこまで話すと、写真を脇に置いて新村から受けとった資料をテーブルのうえに出した。A4に印刷された紙には、「小川一真から綿部弥彦に宛てた手紙」という題名の下に、一真本人による文章がつづいていた。

 昭和四年九月 弥彦へ

 

 私の遺品を預かってもらう君に、伝えておくべきことがあります。漱石さんの肖像写真を撮った頃の話です。あのとき君は、まだ小川写真館で働いていませんでしたね。漱石さんがなにを語り、私をどんな気持ちにさせたのか――。

 あの年、七月に明治天皇が崩御して、東京は、いや、日本全土が喪に服していました。
 とても静かな夏でした。両国の川開きを筆頭に、人々はあらゆる行事を自粛しましたからね。日射しにじりじりと焼かれながら、ずっと夜がつづいているような、奇妙な夏だったことを憶えています。

 秋の気配とともに、街が活気をとり戻しつつあった九月十九日の夕刻。

 漱石さんがとつぜん一人で、小川写真館を訪ねてきました。私は驚いて「なにか忘れものですか」と訊ねたほどです。というのも、ほんの一週間前に、漱石さんはご友人二人と、うちで写真を撮っていったばかりでしたから。

 来店した漱石さんは、ずいぶんと暗い表情をしていました。もちろん、大喪の礼がとり行なわれた直後なので、明るい顔をしている方が不謹慎と言われます。それでも、その物腰に只ならぬものを感じた私は、彼を迎え入れました。

「お忙しいところ、突然すみません」

「いえいえ」

 そう答えながらも、実際、数日にわたって皇室行事を撮影していた私は、目が回るような忙しさでした。宮中の関係者がひっきりなしに写真館を出入りし、機材を持ってあちこちに外出せねばなりません。店もほぼ留守にしていたので、漱石さんの来店時に居合わせられたのは幸運でした。

「一真さん、じつはあなたに折り入って、お願いしたいことがあります。私の遺影を撮っていただけませんか」
 

 

(第12回へつづく)