第三章 漱石の写真 SOUSEKI(承前)
地下鉄の出口から徒歩十分ほどの古い商店街に、綿部写真館はあった。
綿部写真館とは、一真の弟子だった綿部彦弥の店であり、今はその孫が継いでいる。
明治期からつづく写真館なので、文化財にでも指定されていそうな、いかにもなイメージを勝手に膨らませていたが、実際に訪れてみると、現代の街並みに溶け込んでいた。ただしよく見ると、レトロな字体の看板やショーウィンドウに飾られた家族写真は、けっこう時代を感じさせる。いつ撮影されたのだろうか、セピア色がかって味わいがあった。
「こんにちは」と円花はガラス戸を開ける。
あちこちに段ボールが積まれ、棚は布で覆われていた。片付けの真っ最中らしい。しかし名残を惜しむように、この店に訪れたお客さんたちの写真が、店内のあちこちに飾られたままになっていた。多くはショーウィンドウの家族写真よりも、真新しく鮮やかだ。
店内を見回していると、初老の男性が奥から現れた。
「新聞社の方ですね? 綿部和夫です」
綿部彦弥の孫にあたる和夫は、この写真館の三代目だったが引退したと聞いている。店を継ぐ者はおらず、交渉を持ちかけられていた不動産会社に、土地ごと売ることにしたという事前情報だった。
閉店するのは残念だと伝えると、和夫は肯いた。
「一眼レフが普及したんだから、写真館まで撮りにくる物好きは減っているだろうと揶揄されたこともありますが、意外といらっしゃるんですよ。逆に、わざわざ遠方から来てくださる方や、あえて昔の技術で撮影してほしいという方もいてね」
「そりゃそうですよ!」となりから円花が語気を強めて言う。「プロの技は全然違いますからね。しかも百年以上もつづく店での記念写真だなんて、私も撮っていただきたかったくらいです」
そう言って円花は、店内を取材用カメラで撮影する。
スタジオに使用されていたらしき広々とした空間には、素人には使い方さえ分からない古い機材が揃えられていた。
多くの人が、自分や大切な誰かの、そのときだけの姿を一生の宝物にするために、この店を訪れたのだろう。そう想像すると、写真館ならではの、レンズを向けられると背筋が伸びるような緊張感と、仕上がりへの期待感を、客でもないのに追体験してしまう。
「小川一真氏は、
「今回発見されたのは、その一部ですね?」
「ええ、梱包材に記された覚書からして、一真が使用したもので間違いないでしょう」
「なるほど……お宝が眠っていそうな気配がありますね」
円花は言いながら、周囲を見回す。
店のあちこちに、物珍しい置物や絵が飾られていた。
「一真は美術品を集めに歩くのが趣味だったという話です。作家モノだけじゃなくて、伝統的なお土産とかね。祖父の弥彦は、一真とともに全国の寺院を巡って、それらの撮影を手伝っていたので、いくつかもらい受けていたようです。蔵にもまだ残っているので、ご覧になりますか?」
「ぜひ。ただ、その前に一真の写真集も拝見できるとか?」と山田は確認する。
「そうでしたね」
和夫が見せてくれたのは、十巻つづりの分厚い写真集だった。明治期に小川一真が刊行した、宝物調査の記録だという。多くの寺院で秘蔵されていた絵画、彫刻、工芸、古文書などがドラマチックな光の演出で撮られている。
じつは一真は、漱石の肖像写真だけでなく、宮内庁の命で全国の美術品を撮影するプロジェクトを手掛けたことでも知られる。
近代の幕開けと同時に、西洋化の波に押され、日本古来の文化は失われつつあった。それらを撮影した一真の写真は、ただの記録という役割を超えて、貴重な宝物を目にする機会のなかった人々の心を動かしたという。
山田はメモを構え、準備していた質問をする。
「お訊ねしたいのですが、小川一真は、千円札に使用された写真を撮る前に、若いときの漱石のことも撮っているんですよね? つまり、漱石の写真を二度にわたって撮影した、という認識で正しいでしょうか」
「その通りです。二人の出会いは、漱石が帝国大学に通っていた明治二十五年だったそうですね。そのときに一真は、学生服姿の漱石を撮影しました」
ここに来る前、山田は漱石の写真をほとんどすべて目に焼きつけてきた。その四年前に撮られた東京大学予備門時代の集合写真では、だらしなく和服の襟をくつろげている。しかし帝国大学時代の漱石は、詰襟を正しく着こなして別人のように凛々しかった。
「二人はどういう経緯で出会ったんです?」
ちょっとお待ちくださいね、と言って和夫は本棚から、いくつかファイルを出した。めくっているのを覗くと古い写真も挟まれており、取材対応用らしい。和夫が出したのは、一枚のツーショット写真である。
両方の人物とも正装に身を包んでいる。右側で椅子に腰を下ろしているのは、眼鏡をかけて白髪に口ひげを生やした小川一真であると分かった。
「聞いた話によりますと、一真のとなりに立っている
「丸木利陽ってたしか、明治大正期の代表的な写真師ですよね?」
「よくご存じですね」
記憶に残っているのは、『坊っちゃん』の作中に名前が出ていたからだ。しかも釣りのシーンだったので、余計に印象的だった。赤シャツから坊っちゃんが釣りに誘われ、ゴルキという架空の名の魚を釣りあげるという場面で、こんな記述がある。
〈ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だらう。〉
十代の頃に読んだときは、丸木って木材? 芝生? しかも米のなる木ってなんだろうと意味が分からなかった。でも今回調べると、丸木は人物名、芝は東京タワー近くの地名であり、米のなる木はただの韻を踏んでいるだけだと判明した。
「丸木は一真の先輩にあたります。そうそう、漱石が採用される前の旧千円札の、伊藤博文を撮った写真師が、まさに丸木なんですよ」
「なんと! すごい共通点ですね」
そこまで調べていなかった山田は、バラバラだった点が線になる感覚をおぼえる。
「二人とも手がけた肖像写真が紙幣に採用されたわけですからね。明治天皇や大正天皇の御真影も、二人が手がけたそうです。一真が学生時代の漱石を撮る一年前に、丸木は富士山を登りに出かける前の漱石のことも撮影しているんですよ。それだけじゃなく、漱石の親友だった正岡子規や、漱石の妻になった鏡子の見合い写真も手がけました」
山田はペンを走らせながら、漱石やその周囲にいた人々を多く撮っていたのは、一真だけではないのだなと実感する。
「丸木は、同じく腕の立つ写真師だった一真を、漱石に紹介したようです。そこで、漱石は一真のことを信頼したらしく、それ以来たまに連絡を取りあう仲になりました。そして二十年後に、この有名な喪章をつけた四枚を生みだしました」
和夫はファイルから四枚の写真を取り出し、テーブルのうえに並べた。
一枚目は、千円札に採用されたもので、カメラ目線である。
二枚目は、右手をこめかみに添え、物思いにふけるポーズをとりながら、斜め上を見あげている。
三枚目は、右手をひざ掛けに置き、目を伏せている。わけても憂鬱そうだ。
四枚目は、漱石の単独ではなく、二人の友人と並んでいる。和夫の話によると、友人は南満州鉄道会社のお偉いさん方らしい。各々ポーズをとっているが、《考える人》のような漱石はとくに芝居がかっている。
いずれも左腕に、黒い喪章をつけていた。
旧千円札のデザインでは、トリミングされている部分である。
「これら四枚はすべて、明治天皇が
「え、違う日付なんですか!」
山田は円花と顔を見合わせた。
和夫いわく、群像写真に参加した他の二人が漱石と会ったという記録は、九月十二日になっている。一方、千円札になった写真の印画紙には、九月十九日に撮影されたという旨が漱石の世話役によって裏書きされているという。
円花はカメラを首から提げて、腕組みをした。
「どうして漱石は、わざわざ二度も小川写真館を訪れたんだろう。しかも大きな節目のタイミングで、小説内に登場させた丸木写真師でなく、他でもない一真にお願いしたのには、なにか理由があったのかな」
同じ疑問を、山田も抱いていた。
明治天皇の大喪の礼が行なわれたのは、九月十三日から三日間。お札の写真を含む、漱石の単独で三枚が撮られたのは、その直後である九月十九日だった。しかもその日付は、渡英中の一九〇二年に訃報を聞いた正岡子規の命日にもあたった。
さまざまな背景の錯綜するこの時期、小川写真館を一週間でふたたび訪れたのには、明治天皇や子規への弔意以外にも、なにか特別な理由がありそうだ。しばらく考え込んでいた和夫が、閃いたように言う。
「じつは一真から弥彦へ送られた手紙も、ガラス乾板と一緒に見つかって、国立写真センターに引きとってもらったんですよ。一真の写真をたくさん所蔵している経緯もあって、担当の方は当時のことに詳しくて。そちらに目を通されてはどうでしょう」
「そうでしたか! ちょうどこれから訪問するので、お願いしてみます」
やる気に燃えていると、円花がじろじろと見てきた。なにかおかしかっただろうか。「なんだよ?」と責めるように訊ねても、「なんでもなーい」と答えるだけだった。そして円花は、和夫から見せられた資料を閉じて、改まった様子でこう訊ねる。
「一真が漱石の肖像を撮ったのは、確認できる限り、生涯で五枚ということですが、それ以外にも撮っていた可能性はありませんか」
「その質問は、国立写真センターの方からもされました。もちろん、撮影していたと思います。でも残念ながら、修復中のガラス乾板を含めても、現存しないはずです。もし漱石がうつったガラス乾板を受け継いでいれば、弥彦や父が知らないはずありませんから」
山田は落胆したが、それでも漱石と一真の関係には、掘り下げるべきなにかがあるという確信は変わらない。
「ところで、さきほどガラス乾板があった蔵には、美術品もたくさんあるとおっしゃっていましたが、少しだけ拝見できますか」と円花が訊ねる。
「いいですよ、散らかっていますが」
よほど興味があったのか、円花の「ありがとうございます」という声は弾んでいた。
草木の茂る裏庭を突っ切ると、蔦に覆われた土蔵が現れた。
「すごい! 立派な蔵ですね。上にのぼってもいいですか」
和夫から承諾を得ると、円花は使い込まれた木の梯子をのぼって、吹きぬけになった二階に移動する。「あれ、山田は来ないの? こんな蔵はそう見せてもらえないよー」と上から呼ばれるが、階下にいる和夫に気を遣ったのと、二階が二人分の体重に耐えられるのかも分からないので断る。
蔵には、大小の桐箱や段ボールが所せましと並べられ、すべてを開梱するのは、かなり大変そうだった。訊けば、和夫は途方に暮れてしまい、先祖に申し訳ないと感じつつも、業者に一括で引き取ってもらうことにしたという。
和夫の話を聞いていると、頭上から円花の声がする。
「あの、明の時代につくられたっぽい色合いの青磁があるんですけど、私に売っていただけないでしょうか」
コラッ、なに言ってるんだ! 関係ないじゃないか!
大慌てでフォローを考える山田のとなりで、和夫はにこやかに言う。
「ああ、いいですよ」
え、いいの?
「じゃあ、この弥生土器も」
まったく厚かましいやつだ。
しかし山田の焦りも気にかけず、円花は「本当に素晴らしいものばかりですね。この誕生仏なんか、飛鳥時代のじゃないですか? さすが、
「雨柳さんのお話を聞いていたら、急に手放すのが惜しくなってきた。せっかくだし、鑑定でもしてもらおうかな」
「ぜひ喜んで!」
和気あいあいと打ち解けはじめた二人の傍らで、山田はふと額装された一枚の絵に目を留める。なんとも素朴な水墨画だった。裸で放置されているが、暗闇に保管されていたせいか、ほとんど退色している様子はない。
興味を引かれたのは、一匹の魚が描かれていたからだ。釣り好きとして、魚類を見れば自動的に種類を推定してしまう。スズキに似ているけれど、少し違う。おちょぼ口で細かい模様を持っている。
貧弱そうで、哀愁を帯びた描かれ方だ。素人の落書きと言われれば、素直にそう受け止めるだろう。けれども山田は、その一枚にどこか心惹かれた。他の名品然とした絵よりも、身近な印象を受ける。
「あれも一真のコレクションですか」
「え、どれ?」
和夫ははじめてその絵の存在に気がついたとでもいうように、しげしげとその絵を見つめた。
「分からないですね。一応、額の裏には『昭和四年』と手書きされていますけど、どこの誰が描いたのやら……こういう作品ばかりなんですよ。祖父は戦前に亡くなったので、確認もできなくて」
そこまで話したとき、和夫の携帯が鳴った。
束の間、和夫が店に戻った隙をついて、いつのまにか梯子を下りた円花が小声で
「山田ってば、しょぼい絵に目をつけるね」
「し、失礼だろ!」
たしかに自分も、簡単に描けそうだとは思ったけれど。
昭和四年――一九二九年といえば、とっくに漱石は亡くなっているが、大恐慌が起こって世界各地で戦争がはじまった時代だ。それほど古いものを扱ったことのない山田は、少し緊張しながら、傷をつけないようにそっと元に戻した。
しばらくして蔵に戻ってきた和夫は、「すみません、業者さんから早速電話があって」と言った。
「売却はいつなさるんです?」と円花は訊ねる。
「なるべく早くにお願いしています。引きとってもらえないものは、思い切って処分する予定です」
「そうですか……」と山田はしんみりする。
スズキらしき謎の魚を描いた水彩画と、買収の危機にある日陽新聞社とが、頭のなかで重なったのである。見れば見るほど切なくなる。頑張れよ、スズキの絵。そんなに悪い出来栄えじゃないと思うぞ。
和夫にことわり記念としてスマホで絵を撮影したあと、蔵の見学を終えた。