「直さん、ずいぶんと余裕ですね。第二の刺客と向き合っても、その余裕を保てるといいんですが」
 海東が冷笑を浮かべ、含みを持たせた言い回しをした。
「もったいぶってねえで、第二の刺客とやらを早く……」
 ドアの開閉音が、直美の言葉を遮った。
 直美を運んできたときと同じ、二人の平半グレが運搬台車を押してきた。
 台車には、縦百五十センチ、横一メートル、奥行き五十センチほどの大型の音響機材ケースが載せられていた。
 二人の平半グレが、オクタゴンに運搬台車を素早く運び込んだ――守を連れて外へ出ると、扉の外側から南京錠をかけた。
「お、おいっ、ちょっと待て! まだ俺がいるだろう! 開けろ! おい! 開けろって!」
  滑稽なほどに動揺したセラミック男が、金網にしがみつき二人の平半グレに叫んだ。
 セラミック男の叫び声に、衝撃音が重なった。
 運搬台車の上の音響ケースが、ガタガタと揺れていた。
「おいっ、ホワイトニング差し歯野郎っ! ビビらねえでも、てめえみてえな雑魚は相手にしねえって言っただろうが。さっさと、第二の獲物をその箱から出せや」
 直美が、余裕の表情で言った。
「おい、第二の刺客って奴は本当に大丈夫なんだろうな? 直の野郎、余裕綽々じゃねえか? 刺客が全員やられちまったら、俺らがターゲットにされちまうぞ!」
 下呂が逼迫した表情を海東に向けた。
「まあ、見ててください。直さんの余裕は、すぐになくなりますから。どうしても心配なら、お帰りになっても構いませんよ」
 海東が、冷めた目で下呂を見据えた。
「まるで、俺が直にビビってるみてえな言いかたをするんじゃねえ。まあ、そこまで言うならもう少し付き合ってやるよ」
 下呂は強がっているが、声が上ずっていた。
 無理もない。
 下呂はこれまでに、直美が怒り狂ったときの凄まじさを嫌というほどに瞼に焼き付けている。
 鎖で繋がれていても、至近距離にライオンがいたら恐怖を覚えるのと同じだ。
 セラミック男が、恐る恐る音響機材ケースに歩み寄った。
 相変わらず、音響機材ケースの内側からドンドンという殴りつけるような音がしていた。
 セラミック男が震える手で南京錠を外した瞬間、音響機材ケースの蓋が勢いよく開いた。
「えっ!?」
 転がり出てきた全裸の男を、譲二は二度見した。
「若頭!」
 直美が叫んだ。
「野崎か!?」
 下呂が叫びながら立ち上がった。
 全裸男――野崎がすっくと起き上がり、セラミック男に掴みかかった。
「馬鹿っ……相手は俺じゃ……」
「ほぉうわーっ! 殺られる前に殺す!」
 野崎が奇声を上げながら、セラミック男を投げ飛ばした。
 二メートルほど先の金網に、セラミック男が叩きつけられた。
「え……野崎は、あんなに怪力だったか?」
 下呂が狐に摘ままれたような顔で呟いた。
「殺られる前に殺す! 殺られる前に殺す! 殺られる前に殺す! ほぉうわぁーっ!」
 セラミック男に駆け寄った野崎が、胸倉を掴んで引き摺り起こした。
 七十キロはゆうに超えていそうなセラミック男を、野崎はまるでぬいぐるみでも扱うように軽々と振り回した。
 二回、三回、四回、五回――セラミック男の身体が金網に叩きつけられる衝撃音が、室内に響き渡った。
「はぅあーっ! ほぉうわーっ!」
 野崎が円盤投げのように身体を回転させると、セラミック男が反対側の金網に叩きつけられた。
「おい、ありゃ、いったいどうなってるんだ!? 直みてえな怪力になってるじゃねえか!」 
 下呂が譲二の疑問を口にした。
 野崎の身体は薬物の影響で不健康に痩せ細り、肋骨が痛々しく浮いていた。
 あの貧弱な身体のどこに、そんなパワーが秘められているのか?
「お前は命を狙われている。殺られる前に殺れ。こんなふうに、誰かに吹き込まれたんじゃないんですか? 重度のシャブ中に短時間に大量のシャブを打てば錯乱すると、誰かに聞いたことがあります。錯乱したシャブ中は常人の数倍の力が出るそうですからね」
 海東が、他人事のように言った。
「惚けたこと言いやがって。お前がやらせたんだろう?」
 下呂が疑念に満ちた眼で海東を見据えた。 
「やめてくださいよ。私が、尊敬していた若頭にそんなことするわけないじゃないですか」
 海東が白々しく言った。
「若頭の座から引き摺り下ろすために覚醒剤密売の濡れ衣を着せ、破門に追い込み、シャブ漬けにして直潰しに利用する……恐ろしい男だ」
 下呂が吐き捨てた。
「刑事さんは創作が得意ですね。小説家になれますよ」
 海東が右の口角を吊り上げた。
 野崎に大量の覚醒剤を注射して錯乱させる……。
 海東は、人の皮を被った悪魔だ。
「シャブ中がとんでもねえ力を出すのは俺も知ってるが、あんなガリガリのロートルが直に勝てると思ってんのか?」
 下呂が呆れた口調で訊ねた。
「直さんが本気で攻撃すれば相手にならないでしょうね。ですが、直さんは尊敬する野崎さんを攻撃できません。しかも、鎖で両手が使えませんからね」
 海東の言葉に、譲二の脳内で警報ベルが鳴った。
 たしかに、直美が野崎を本気で痛めつけるとは思えない。
 加えて、上半身の自由が利かない。
 覚醒剤で錯乱してパワーアップした野崎の攻撃を一方的に受け続ければ、直美といえども相当なダメージを被る。
 
「若頭! やめるんだ」
 失神しているセラミック男に襲いかかろうとする野崎の前に、直美が立ちはだかった。
「お前っ、香港の殺し屋! 俺を殺しにきた! 俺を殺しにきた!」
 目尻が裂けそうなほど充血した眼を見開いた野崎が、直美を指差し叫んだ。
「なにわけのわからねえことを言ってんだ? シャブの幻覚か? 海東に乗せられて馬鹿な真似をするんじゃねえ」
 直美が野崎を諭すように言った。
「お前っ、香港の殺し屋! レイモンドチャン! お前、香港の殺し屋! レイモンドチャン!」
 野崎が口角沫を飛ばし、妄想を叫び続けた。
「は!? レイモンド? おいおい、しっかりしてくれ。俺はレイモンドでもアーモンドでもねえ、あんたといろんな女と3P、4Pした舎弟の直だ!」
直美が、もどかしげに言った。
「殺られる前に殺す! レイモンドチャンを殺す! あふぅあーっ!」
 野崎が奇声を発し、直美を拘束する鎖を掴むと上半身を捻った。
 直美の巨体が四、五メートルほど吹き飛び、金網に衝突した。
 受け身を取れないので、かなりの衝撃に違いない。
「あんなガリガリのくせに、直を投げ飛ばしやがった……」
 下呂が、信じられないといった表情で呟いた。
 それは、譲二も同じだった。
 そもそも、誰かに直美が投げ飛ばされるのを見たのは初めてかもしれなかった。
「若頭、そのへんに……」
「ほぉうーわーっ!」
 三段跳びのステップで、野崎がジャンプした。
「すげえ跳躍力!」
 下呂が興奮気味に叫んだ。
 飛び蹴り――四、五メートル離れた直美の頬を、野崎の爪先が抉った。
 直美が背中から金網に叩きつけられた。
「痛ぇな、美貌に傷が残ったらどうすんだよ」
 言いながら、直美が赤い唾を吐いた。
「俺は死なない! 殺されない!」
 野崎が白目を剥きながら叫んだ。
「なに言ってんだ! 殺すわけねえ……」
「死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! 」
 叫びと奇声を交互に発しながら、野崎が物凄い勢いで左右の拳を繰り出した。
 野崎のパンチは、プロボクサーさながらのスピードだった。 
 直美は金網を背に、サンドバッグのように一方的に殴られていた。
 鎖で縛られているので、直美は顔面の防御もできなかった。
 いや、その気になれば足だけで野崎を破壊できるはずだ。
 だが、直美は兄貴であり恩師であり親である野崎には反撃できない。
 両手が使えれば野崎の動きを封じることもできるが、それも不可能だ。
 すべては、海東の思惑通りだ。
「死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね! ふぁっ! 死ね!」
 野崎のパンチは、もう二十発以上直美の顔面に打ち込まれていた。
 直美の顔は腫れ上がり、鮮血で赤く染まっていた。
 譲二は直美の変形した顔を見るのも初めてのことだった。 
「直が血塗れになって一方的に殴られるなんて、信じられねえ……」
 下呂が幻でも見ているような顔で言った。
「どんなに凶暴な獣も、毒を飲めば事切れます。しかし、多くの人間は毒を呑ませる前に餌食にされてしまう。私は、猛獣が必ず飲む毒を差し出しただけですよ」
 海東が抑揚のない声で言った。
「直は恩義を感じている野崎の前では、ライオンじゃなく猫になる。飼い主を引っかくことはあっても、絶対に致命傷は与えない。直が必ず飲む毒っつうのは、野崎のことだな?」
 下呂が訊ねると海東が頷いた。
「直さんの敗因は、本物の獣と違って情があるということです。彼が鎖に拘束されたのも、『歌謡曲』のママの娘を助けるためです」
「なんだって!? お前、ミクちゃんに手を出したのか!?」
 下呂の血相が変わった。
「工藤の仲間が、ちょっと連れ出したようです。ご安心ください。もう、母親のもとに帰っているはずですから」
 海東が、下呂を小馬鹿にしたように言った。
「何度も言うが、俺が新宿署のマル暴だってことを忘れるんじゃねえぞ」
 下呂が押し殺した声で言った。
「だったら、こいつらを逮捕しろよ! 刑事のくせにヤクザや半グレとつるみやがって! あんた、恥ずかしくないのか!」
 譲二の鬱積した感情が爆発した。
「あ? なんだ、チョコパンチいたのか?」
 下呂が振り返り、嘲るように言った。
「おめえは、なんにもわかってねえな。俺みてえな恥ずかしい刑事がいるから、直が好き放題できるんじゃねえか? 直がこれまでにやってきたことを考えてみろや。どんだけの人間の骨をへし折って内臓を破裂させてきたと思う? お? どんだけの人間の頭を叩き割って耳を引き千切ってきたと思う? お? そんだけの傷害事件を起こしておいてシャバで呑気にチョコレート屋をやってられんのは、俺が見逃してやってるからだろうが!? おお!?」
「あんただって直さんを利用して、こいつらを牽制していた腐れ刑事だろうが!? いまだって、そうだろう!? 直さんと海東に潰し合いをさせて共倒れになるのを待ってるから、好きにやらせてるんじゃないのか!?」
「なんだとこら!」
「まあまあ、楽しくショーを観戦しましょう。あまりムキになると、本当のことだと認めているようなものですよ」
 立ち上がり譲二に掴みかかろうとする下呂の腕を、海東が押さえた。
 海東の口調は穏やかだが、瞳はぞっとするほど冷たかった。
 オクタゴンの中――顔面血塗れの直美と激しく肩を上下させる野崎が対峙していた。
 殴られていた直美より、殴り続けていた下呂のほうがスタミナを消耗していた。
 直美は出血して顔が腫れているが、ダメージはまったく感じられなかった。 
「シャブの神通力もここまでのようですね」
 海東は言うと、小さく右手を上げた。
 平半グレの一人が、金網の隙間から野崎の足元になにかを投げ入れた。
 野崎の足元に転がるナイフ――譲二の視線が凍てついた。
「あ、落としちまったよ。おい、早く拾わねえとレイモンドチャンに刺されるぞ!」
見え透いた猿芝居――平半グレが叫ぶと、野崎が素早くナイフを拾った。
「おいおいおい、ナイフなんか与えてなにをやらせる気だ!? 答えろっ、海東!」
 下呂が、海東を問い詰めた。
「見てたでしょう? 与えたのではなく、落としたんですよ」
 海東が人を食ったような態度で言った。
「海東っ、あんまり俺をナメてると……」
 気色ばむ下呂の顔面を、海東が右手で鷲掴みにした。
「刑事さん、直さんがいなくなったあとのことをよく考えてください。誰に尻尾を振ったほうがいいのかを」
 海東が、鋭い眼で下呂を睨みつけながら恫喝した。
 下呂が何度も頷いた。
 海東は、下呂の顔面を鷲掴みにしていた手を離した。
 
「アレックス……チャン! 殺す!」
 野崎がナイフを両手で構え、喘ぐように言った。
「アレックス? レイモンドじゃねえのか? まあ、どっちでもいいが、それだけはやめとけ。後戻りできなくなるぜ」 
 直美が野崎を諭すように言った。
「直さんっ、攻撃してください! 若頭は、昔の若頭じゃありません! シャブで錯乱してるから、マジに刺してきますよ!」
 堪らず、譲二は叫んだ。
 できるなら、そんなことを譲二も言いたくなかった。
 直美ほどではないにしても、譲二も野崎には世話になっていた。
 だが、直美に言ったように野崎は壊れている。
 直美のことを、自分の命を狙っている香港人の暗殺者だと思い込んでいるのだ。
「馬鹿野郎! やるんだったら、こんな顔になる前に端からやってるぜ。俺はな、受けた恩は忘れねえ男だ。グラインド騎乗位がうまい女、プリケツの女、裏筋フェラが得意な女、巨乳で乳輪の小さな女。若頭には、ずいぶんといい女を回してもらった」
 直美が、真面目な顔で卑猥な思い出を口にした。
「あいつ、絶体絶命の状況でなに言ってやがるんだ……」
 下呂は、直美にたいして明らかに引いていた。
「騙されない! お前、暗殺者! お前、俺を殺しにきた! 殺られる前に、殺す!」
 野崎が喚き散らした。
「いい加減にしねえか! 若頭は、海東に嵌められたってことがわからねえのか! いまだって、俺が若頭に手を出さないのをいいことに捨て駒にされてんだぞ!」
 直美が、野崎に活を入れた。
「騙されない! 騙されない! 騙されない! 殺られる前に、殺す! 殺られる前に、殺す! 殺られる前に、殺す!」
「目を覚ませや! 若頭がナイフを手にしたからにゃ、今度は俺もやられっ放しってわけにはいかねえ。工藤って雑魚頭に腹を刺されたばかりでよ。傷口を縫ったら厨房が血塗れになっちまった。神聖な厨房を、これ以上汚すわけにゃいかねえ」
「あいつ、てめえで刺し傷を縫ったのか……っつーか、刺されたくないのは厨房を汚したくねえのが理由かい!」
 下呂が直美にツッコミを入れた。
「行くところのねえガキだった俺をここまで育ててくれた若頭に、手を出したくはねえ! 若頭、ナイフを捨て……」
「きぃふぁーっ!」
 野崎が奇声を発しながら、ナイフを構えて直美に突進した。
「わからねえ人だ!」
 直美の前蹴りが、野崎の胸にヒットした。
 蹴り飛ばされた野崎は、物凄い勢いで直径七、八メートルはありそうなオクタゴンの反対側の金網に背中から叩きつけられた。
 金網が凹み、野崎の身体がすっぽりと嵌った。
「手を出したくねえって言ってた割には、過剰防衛にもほどがあるだろうが……」
 下呂が呆気に取られた表情で、凹んだ金網に嵌ったまま身動きが取れなくなっている野崎をみつめた。
 突然、ゆっくりとしたテンポの拍手が聞こえた。
「お見事です。さすがは、直さんですね」
 拍手の主――海東が立ち上がり、金網越しに直美に語りかけた。
「第三の刺客は俺が指名する。海東、余裕かましてねえでさっさと入ってこいや。一人目は子供で二人目は師匠だからやられてやったが、おめえには手加減なしだ。鎖で手が使えねえ俺が怖いか? ほかの奴に痛めつけさせてからでねえと、ちんぽが縮み上がって金網に入れねえか? 刺客があと百人いようが、おめえが入ってくるまで俺は倒されねえ。海東、観念して、こっちにこい」
 直美が、ニヤつきながら海東を挑発した。
「残念ですが、直さんの挑発には乗りませんよ。勘違いしてほしくないのは、あなたを恐れているからではありません。殺すだけなら、直さんを眠らせているときにできたわけですから。ただ、それだと私が殺人教唆の罪に問われてしまう。あくまでも、試合中の事故で死んで貰わないと刑事さんに迷惑をかけてしまいますからね」
 海東が、薄笑いを浮かべた顔を下呂に向けた。
「おいっ、包茎野郎! 能書きばかり垂れてねえで、さっさとこっちに……」
「うるさいから、少し黙っててくれないかな?」
 スマートフォンのゲームをしながら、工藤が立ち上がった。
「雑魚頭はママのおっぱいでも吸ってろ」
 直美が工藤を嘲笑った。
 工藤は相変わらずスマートフォンのディスプレイに視線を向けたままオクタゴンに歩み寄ると、扉の南京錠を外して足を踏み入れた。
「おい、雑魚頭、なんのつもりだ?」
 直美が、怪訝な表情で訊ねた。
「さっさと、始めようよ。 第三の刺客は僕だから」
 工藤がスマートフォンをヒップポケットにしまい、気だるげに首を回しながら言った。
「おもしれえ。どっちにしろ、おめえと海東は潰すつもりだった。手間が省けて助かるぜ。おい、包茎野郎! 弟子のほうが、よっぽど肚が据わってる……おぅわ!」
 海東を嘲る直美の眼に、工藤がスプレーをかけた。
 直美が苦悶の表情で眼を閉じ、片膝を着いた。
「熊撃退の唐辛子スプレーだよ。おじさん、猛獣なんだろ? 僕は、勝つための手段を選ばないって言わなかったっけ?」
 工藤が無表情に言いながらサミング――ピースサインを作った指を直美の双眼に突き刺した。

 

(第17回へつづく)