人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

第十二話

 四回目の集会に、仁美ははじめて父、仁とともに出席した。

 集まった住民の数は今までで一番多かったけれど、そこには前回感じたギリギリまで引き絞った弦のような張り詰めた空気は流れていない。

 町内会館に並んでいるのは、どこか安堵したような住民の顔だった。 

 もとの穏やかな生活にすぐに戻れるわけではないけれど、とにかく犯人が捕まった。もう農薬の入ったおしるこを食べさせられることはない。

 終わりの見えない恐怖と緊張をずっと強いられてきた人々の気持ちがようやくホッと緩んだようだった。

 その中に警察に連れて行かれた博岡家の三人の姿はもちろんない。そして、あの記事の影響だろう、エリカと涼音も来ていなかった。

 壇上に立った会長は一同を見渡し、開口一番、博岡聡の辞表を受理したと告げた。

「縁が切れたとはいえ、事件当時、博岡が我が成富建設の副社長であったのは事実で、博岡がわしや守に聡介のことを相談してくれてさえいれば、こんなことにはならなかったのにと慚愧の念に堪えない。いや、本来ならわしが博岡の家の異変に気づいて、聡介が事件を起こす前に手を打たなければならなかった。わしの不徳の致すところだ。今回の事件で家族を亡くした真壁家、岸田家、景浦家、そして、不安と恐怖の中で生活しなければならなかったここにいるみんなに心から詫びたい。本当にすまなかった」

 深く頭を下げた会長に、住民たちは驚き、慌てて声を上げる。

「会長のせいじゃねぇって」

「そうだよ、あんたも孫を殺されかけた被害者じゃないか」

「頭を上げてくれよ、会長」

「私たちだって、誰もあの家のことに気づけなかったんだ。そんなこと言ったらこれはみんなの責任だよ」

 皆、会長に同情的で、彼を責める人間はひとりもいなかった。この町には成富建設で働いている人間が多いし、そうでなくても会長や彼の会社からなんらかの恩恵を受けている者がほとんどだ。

「いや、会長は悪くないけど、みんなの責任ってのも違うだろう。悪いのは博岡と夫人だ。あいつらが息子をちゃんとしつけてさえいればこんなことにはならなかったんだから、責任はすべて親が取るべきだ」

 強い口調でそう言い切ったのは、和菓子屋こやぎ庵のおじさんだ。 

「確かに、そのとおりだな」と乗っかったのは、前回つかみ合いの喧嘩をしかけた蕎麦辰の店主だった。

「俺が博岡なら家も土地も売って全財産を被害者遺族とこの町に捧げて腹を搔っ切るね。そんなことされたって怒りはおさまらねぇが、この事件がこの町に与えた損失は計り知れない。やつらのせいで、ここは呪われた町って呼ばれるようになっちまったんだからな」

「そうだよ、ここの出身ってだけで、子供や孫がいじめにあうかもしれないんだぜ」

「移住者を募ったって、これだけ悪いイメージがついちゃ、もう誰も来ないだろうしな」

「博岡と聡介は、当然死刑になるんだよな?」

 尖った声で恐ろしいことを言い放ったのは、やはりこやぎ庵だ。

「そりゃ、そうだろ。四人も殺してるんだから」と、また蕎麦辰が応じる。

「だよな。それは当然として、実際に手を下していない夫人はどうなる? すぐに出所して、この町に戻ってくるんじゃねぇだろうな?」

「冗談じゃねぇよ。もし戻って来ても、うちの店の蕎麦は二度と食わせねぇ。おい、八百作さんよ、あんたんとこに買い物に来たらどうするよ?」

「え……、うち?」

 町に一軒だけのスーパー八百作のおじさんは突然の指名に口をもごもごさせる。

「まさか、犯罪者に食料を売ってやる気か?」

「あ……、いや、その、うちだって、そりゃ、買い物してほしくはないけど……」

「ちょっと待ってくれ」と、さすがに会長が止めに入ったが、蕎麦辰の暴走は止まらない。

「もしかしたら、音無のばあちゃんを崖から突き落としたのも、聡介なんじゃねぇか?」

「ありうるな。他にそんなことするやつ、ここにはいねぇんだからよ」

 あんなに太った男が街中を歩いていたら人目につかないはずがないし、そもそもあの体ではやぎ山へ登ることなどできないだろう。にもかかわらず、多くの住民が頷いて賛同し、ウタを殺害しようとしたのも聡介だと本気で思い込んでいるように見えた。

 彼らの顔からはここに来たときに浮かんでいた安堵の表情が消え、嫌悪と怒りが綯い交ぜになったような形相で、ここにいない博岡家に対し、口々に悪罵を吐く。

「正直、俺はもともとあの家族、虫が好かなかったんだ。ちょっと頭がいいからって博岡は偉そうだし、女房も気取りやがっていつも上から目線だしよ」

「俺もだ。息子がああなっちまったのもあいつら、親の責任だろ」

 同意する声が上がる中、ひとりの女性が「でもさ」と顔をしかめる。

「……夫人も、ちょっと気の毒なんじゃない?」

「気の毒? なに言ってんだよ、気の毒なのは家族を殺された仁美たちだろ」

「それはもちろんそうだけど、夫人が息子にべったりだったのは、だんなとうまくいってなかったからじゃないの? 浮気されてたんでしょ?」

「言えてる。悪いのは博岡さんだよ。こんな狭い町で不倫するなんてさ」

「でもよ、それはしょうがねぇんじゃないの。相手が相手なんだから。毎日、夫人の顔見てうんざりしてるとこに、あれだけの美女が現れたら、そりゃ行っちゃうだろ、男は」

「ちょっと、あんた、あたしの前でよくそんなことが言えるわね! あんたもあの女とデキてんじゃないでしょうね?」

 近所のおじさんとおばさんがヒートアップし、夫婦げんかが勃発しそうになる。

「バカ、なに言ってんだよ。俺なんか、エリカちゃんに相手にされるわけないだろ」

「えっ!?」と驚く父の声が、思いのほか大きく響き、周囲の人間がこちらを振り返った。

「なによ、仁先生、知らなかったの? ここのとこ、その噂で持ち切りだったじゃない」

「そうそう、博岡さんとエリカさん、いい仲だったんですってよ。ホント夫人が可哀想」

「やめましょうよ、そんな根も葉もないデマを流すのは」

 エリカを庇おうとした父を、おばちゃんたちが含み笑いでからかう。

「あら、ちょっと、仁先生まであの女にたぶらかされちゃってるんじゃないでしょうね」

「週刊誌にちゃんと書いてあるんだから。仁先生、あとで貸してあげるわよ」

「週刊誌なんて、デタラメばっかりじゃないですか。そんなの事実とは限りませんよ」

「仁先生、あんな泥棒猫の肩を持っちゃダメよ。痛くもない腹を探られることになるわよ」

「あれ、そういえば……」と、八百作のおじさんが口を挟んだ。

「仁先生、この間、エリカさんの家から出てきたよね? 確か……、ああ、そうだ、最初にここで住民集会が開かれた日だ」

 景浦家の近所へ配達に行き、そこから集会に向かう途中で父を見たという八百作の言葉に、「ああ、それは……」と、短い間ののち、父が口を開く。

「仁美からエリカさんが酒……、あ、いや、体調があまりよくないって聞いて、それでちょっと寄らせてもらっただけですよ」

「やだ、仁先生、あの女のところだけはひとりで訪問診療なんてしないでちょうだい。危ないわ。相手が妻帯者だろうが、見境いないんだから、先生も襲われちゃうわよ」

 吊るし上げのターゲットが、博岡家からエリカに移り、今度はおばちゃんたちがこぞってエリカを糾弾する。あれだけエリカにご執心だった会長も、博士との関係を知って気持ちが冷めたのか、エリカを庇おうとすらしない。可愛さ余って憎さ百倍の境地なのかもしれない。このままでは、エリカと涼音もこの町で暮らせなくなってしまう。焦った仁美は、おばちゃんたちに訴えた。

「でもエリカちゃんがそんなことしたのは、いや、してたと仮定してってことだけど、涼音のパパが亡くなって不安でたまらなかったときでしょ。だったら、仕方ないんじゃ……」

「仁美、なら訊くけど、仁先生が亡くなったとして、千草さんがそんなことしたと思う?」

 ……いや、母なら、絶対にしなかったろう。

「やめてください。子供にするような話じゃないでしょう。それに、今の仁美にそんなたとえ……」

 つらそうに顔を歪める父に、おばちゃんも我に返ったようにハッとし、頭を下げた。

「ごめん、無神経なこと言っちゃって……」

「もうそのへんにしときましょうよ」

 そう言って立ち上がったのは、会長の息子の守だった。

「エリカさんは犯罪者ってわけじゃないんだから」

「そうだよな、彼女だって子供を亡くした被害者なんだし」

「守社長の言うとおりだ。犯人は博岡親子なんだから」

 守に追従するおじさんたちの言葉に、「そうなのかな?」と、修一郎が疑問を呈した。

「修一郎、そうなのかな? って、なにがだ?」

 守に問われた修一郎に、住民たちの視線がいっせいに集まる。

「博士と聡介君が本当に犯人なのかなって」

「は? どうした、修一郎、彼らは逮捕されたじゃないか」

「逮捕って、別件逮捕でしょ」

「聡介も夫人も認めてるんだぞ。農薬を使って犬を毒殺したことを」

「犬だけですよね。人を毒殺したことは認めていない」

「まだな。それを認めたら死刑だってわかってるから、簡単には認められないんだろ。でも、時間の問題だよ。日本の警察は優秀だからな」

「いくら優秀でも、状況証拠だけで逮捕できるのかな」

「三人を別々に事情聴取して話の食い違いやほころびを執拗に追及し、刑事は犯人を落とすんだよ。夫人あたりが耐え切れずにもうゲロっちゃってると思うぜ」

 守のそばにいた自警団メンバーで唯一の中学生、武蔵も、彼の言葉に巨体を大きく揺らし、うなずいている。

 仁美と修一郎は、罰ゲームでかすみに告白させられたと流星から聞いたのち、武蔵を呼び出し、なぜそんなことをさせたのか問い詰めた。武蔵は命令したことは認めたが、悪ふざけでやってしまったことで、流星とかすみを選んだことに意味はないと言い、今は自警団の仕事にやりがいを感じているから、そんなバカなことは二度としないと詫びた。

 確かに武蔵は自警団の活動に熱心で、最近は小学生を子分のように引き連れている姿を見ることはなく、代わりに自分が守の子分であるかのようにいつも彼に付き従っている。

 今も守に歯向かう修一郎にいくらか敵意を孕んだ視線を向け、武蔵は低く野太い声をぶつけた。

「守さんの言う通り、博士たちが犯人に決まってるんだから、変なこと言わないでくださいよ、修一郎君」

「ああ、そうだ、そうだ」

「消去法で考えたって、他にそんなことするヤツ、この町にはいねぇんだから」

 守と武蔵に加勢するおじさんたちに、修一郎は冷ややかに言い放つ。

「ついこの間まで、消去法で、犯人は音無のばあちゃんだって言ってたじゃないですか」

 痛いところを突かれたおじさんたちは、「いや、それはさ……」と口をもごもごさせたが、なにも言い返せず気まずそうに目を伏せた。

 修一郎がちらと向けた視線の先には、琴子がいる。気づいた周りの人間が居心地悪そうにする中、琴子は表情を変えず、ただ黙ってなにもない宙を見つめていた。

 その晩遅く、仁美は階下の物音で目が覚めた。

 泥棒かと驚き、急いで父の部屋へ向かったが、ベッドはもぬけの殻だ。足音を忍ばせ、階段から様子を窺うと、紙袋を手に玄関を出ようとしている父の姿が見えた。

 もう深夜零時を過ぎているのに、こんな時間にどこへ……?

 パジャマ代わりのスウェットのまま、仁美は父の後を追い、外へ出る。

 人通りのない深夜の町で素人の尾行が成功するとは思えなかったが、気づかれることなく、父の行き先を突き止めることができた。しかし、なぜここに? という驚きが、仁美を動揺させる。

 周囲に人影がないか確認してから門扉を開け、父が入って行ったのは、二軒隣の博岡家だった。灯りのついていない玄関のドアを静かに叩くと、ドアはすぐに中から開いた。その隙間に体を滑り込ませようとした父は、再度用心深く人目がないか背後を振り返り、ビクッと体を硬直させた。月明りの下に立つ仁美と目が合ったからだ。

「……なにしてるんだ?」

 ごくごく小さな声で問いかけてきた父に、仁美は呆れる。

「それは、こっちのセリフでしょ。お父さんこそ、なにやってんの? ママを殺したかもしれない人の家……」

 シッ! と口の前に人差し指を立て、父は仁美の言葉を遮った。

「あとで話すから、とにかく帰れ」

「イヤだ」

 仁美が博岡家の玄関に歩み寄ると、父は困ったように顔を歪めたが、隣の家の玄関に灯りが点ったのを見て、仁美を中へ引き入れ、急いでドアを閉めた。

 上がりかまちにペタンと座り込んでいる人の姿に、仁美は悲鳴を上げそうになり、また「シッ!」と父に睨まれる。

 真っ暗な家の中、光源は彼が手にした懐中電灯だけで、その灯りに浮かび上がったのは、げっそりとやつれた博士の顔だった。

「え? なに、これ? どうして博士がここに? 脱走したの?」

「バカなこと言うんじゃない。博岡さんは任意同行に応じただけで、犬殺しに関わっていないから、逮捕なんてされてない」

 声を潜めて仁美を?ってから、父は博士に顔を向ける。

「娘がついてきちゃって、すみません」

 疲れきった博士の顔が、かすかに左右に揺れた。

「博岡さん、これ、よかったら……」

 父が差し出した紙袋の中には、栄養調整食品や果物などがぎっしり詰め込まれていた。

「仁先生……」

 目を潤ませ、博士はなにか言いかけたが、それ以上言葉が出てこない。

「どうして? なんで、お父さんがこんなことを?」

 仁美は憮然とした表情を父に向ける。

「博岡さんが店に買いものに行ったらどうなるか、今日の集会に出てればわかるだろ」

「だからって、どうしてお父さんが? 意味わかんないんだけど。だって、ママは聡介君に……」

「仁美ちゃん、違うんだ」

 消え入りそうな弱々しい声で、だが、はっきりと博士は言った。

「聡介をあんなふうにしてしまったのは私たちの責任だ。だが、あの日、聡介は毒を入れてこいなんて一言も言ってないし、私も妻もそんな恐ろしいことはしていない。できるわけないじゃないか」

「噓よ、犬には毒を飲ませたんでしょ?」

「それは……」

 額が床に着いてしまうほど、博士は深く頭を垂れた。

「……知らなかったとはいえ、本当に申し訳ないことをした。お詫びのしようもない。妻もひどく後悔していたんだ。だから、おしるこに毒なんて入れられるはずがない。どうか、信じてほしい。どうか……」

 ボロボロと涙を流す博士の姿に、仁美は胸を衝かれ、なにも言えなくなってしまった。

「こんなことをしているのが誰かにバレたら、今度はお父さんが吊るし上げられるよ。それでもいいの?」

 自宅に戻るや否や、仁美は心配を父にぶつけた。

「仁美は博岡さんを放っておけっていうのかい?」

「別にうちがやらなくても……」

「誰かがやってくれるとでも?」

 なにも答えられない仁美を、父はじっと見つめる。

「確かに、バレたら仁美にも迷惑がかかるかもしれない。だけど、お父さんは間違ったことはしていない、だろ?」

「それ、本当?」

「なにがだい?」

「お父さん、本当に間違ったことしてない?」

「どうしたんだ、仁美?」

「今日の集会で、お父さん、噓ついたよね?」

「……え? 噓なんて、ついてないよ」

 答える父の目がわずかに泳いだ……ような気がした。

「ついたよ。お父さん、なんでエリカちゃんの家に行ったの?」

「それは……、仁美が言ったからじゃないか。エリカさんがお酒を飲み過ぎてるみたいで心配だって」

「言ったけど、そう言ったのは、あの最初の集会から帰った晩だよ。お父さんがエリカちゃんのところへ行ったのは、その前でしょ? 仕事が忙しいから集会には行けないって言ったのに、エリカちゃんとこに行って、帰ってきてから、私の話を聞いたんだよね?」

「……え? いや、違うはずだよ。お父さんは仁美から話を聞いて、それで景浦さんのお宅へ……」

「さっき、集会で八百作のおじさんがはっきり言ってたじゃない! 最初の集会に来る途中で見たって」

「いや、さっきはみんなヒートアップしてたから、そんな細かいことまで突っ込まないほうがいいと思ったけど、八百作さんが勘違いしてるんだよ」

「本当に?」

「どうしたんだ、仁美? そんなことで噓をついたってしょうがないだろ。いろいろあったから、仁美も神経が立ってるんだ。今日はとにかく早く寝たほうがいい。ホットミルクでもつくろうか?」

「いらない」と、父の申し出を断り、仁美は自分の部屋に戻る。

 父のつくるホットミルクはただレンジで牛乳をあたためただけの代物だ。

 眠れない夜、母はいつも弱火にかけたミルクパンをスプーンで丁寧にかき混ぜながら、生姜とほんの少しのハチミツを入れて、ホットミルクをつくってくれた。仁美がなにも言わなくても、落ち込んでいるときはマシュマロを足し、ダイエット中はシナモンを入れて。

 仁美が今飲みたいのは、母がつくるホットミルクだ。母が仁美のためにつくってくれるホットミルクが、今、無性に飲みたかった。 

 そんな騒ぎがあったせいで翌朝は寝坊し、寝癖がついたまま、制服姿で自転車にまたがったが、家の敷地を出たところですぐにブレーキをかけた。

 二軒隣の博岡家の前に、またマスコミが群がっていたからだ。すぐさま昨夜の博士の様子が脳裏に蘇り、なにかあったのかと案じたが、彼らが撮影しているのは人ではなく、壁だ。博岡家をぐるりと囲む白い壁に、赤や黒の毒々しいペンキで派手に落書きがされていた。その言葉に、仁美は息をのむ。

『人殺しの家』『鬼畜』『毒飲んで死ね!』

 いったい誰がこんなことを――?

 呆然と見つめる仁美の耳に、リポーターの女性の声が響いた。

「ご近所の方にお話を伺いたいと思います。すみません、この落書き、どなたが描いたんでしょう? この町の住人の方だと思われますか?」

 慌てふためいて自転車を方向転換させた仁美の背後で、それに答える男の声がした。振り返ると、報道陣の影に、壁の落書きを消している守の姿があった。今の質問は自分にではなく、守に向けられたものだったのだと安堵の息を吐き、仁美は急いでその場を離れた。

 

「ねぇ、仁美、今朝、テレビに出てた守って人、知り合い?」

 教室に入るなり、それほど仲が良くない女子に声をかけられ、仁美は驚く。

「えっ? 守って、成富守君のこと、かな?」

「あの人、やばくない? 毒殺犯の家の落書き消してあげるなんて、超優しい」 

 朝の情報番組ですでに彼の映像が流れたらしく、他の女子からも守について尋ねられた。彼女たちの興味の対象は、犯罪者にまで優しい気遣いを見せるイケメン社長であって、まだ毒殺犯と決まったわけでもない博士の家が落書きされた事実については、誰ひとり関心を持っていなかった。

 放課後、まっすぐ自宅に帰る気になれず、仁美は涼音の家に寄る。

 エリカと博士の不倫が週刊誌で報道されて以降、中学を休みがちになっていた涼音は、その日も家にいて、かすかに口角を上げ、仁美を招き入れてくれた。口の端の角度はほんの少しだけれど、それでも、涼音が喜んでくれていることが伝わってくる。

「あれ? 今日、エリカちゃんは?」

「それが……、いつの間にか出かけちゃったみたいで」

 携帯にも出ないというエリカを仁美は案じたが、涼音にとってはいつものことらしく、気に病んでいる様子はない。

「仁美ちゃんが心配して来てくれたのは、この間の集会であの人がいろいろ言われたからでしょ?」

「知ってたの?」

「修一郎君に教えてもらった。気をつけたほうがいいって」

「そっか。エリカちゃんもそれ知ってるの? 知ってて出かけたの?」

「うん。でも、なにも感じてないみたい。博士との不倫が町中に知られてたら、普通は恥ずかしくて外なんか歩けないと思うけど、あの人には羞恥心とかないから」

 優しい涼音がかなり辛辣な口を利く。彼女自身もこの騒ぎで相当まいっているのだろう。

「よりによってどうして博士とって思う。怜音と萌音を殺した人だよ」

 その一言で、博岡家の惨状を思い出した。

「涼音、ごめん、ちょっとテレビ見ていい?」

 断ってチャンネルを報道番組に合わせると、ほどなくして、朝見た博岡家の外観が映し出された。

「なに、これ……?」

 ほとんど表情を変えない涼音も、驚いて顔をしかめる。

「昨日の夜はなんにも書いてなかったのに、朝学校行くときにはこうなってた」

「誰がこんな落書きを?」

 涼音の声に、朝、仁美が聞いたリポーターの質問が重なる。テレビ画面の中の守は、壁の落書きを消す手を止めることなく、きっぱりと答えた。

「この町の住人が、こんな落書きするわけないでしょ。最近、面白半分にこの町を見に来る人たちがいる。この間も夜中にバイクを連ねて来た連中がいたんで、注意したばかりだ。落書きをするとしたら、人の痛みのわからないそういう人たちなんじゃないですか」

 そう言い切る守を見つめながら、涼音がつぶやく。

「本当にそうなのかな?」

 守が言うとおり、外部の人間の犯行であってほしい。でも……。

 仁美は黙って首を振る。たぶん、違う、と。

 だって、まだ守の手が届いていない壁に、赤い文字ででかでかと書いてあるから。

『ここから出て行け』――と。

 博士、大丈夫だったかな……。

 思いが口に出ていたらしく、涼音がこちらを見た。

「どういうこと?」

「あ……、うん、博士、あの家に帰ってきてたから」

 昨夜、父が訪ねて差し入れをしたことを話すと、涼音はかすかに目を見開いた。

「仁先生、どうして……? 千草おばさんを殺した人たちなのに……」

「聡介君はそんなこと命じてないって、だから農薬も入れてないって、博士が言ってた」

「仁美ちゃん、それ、信じるの?」

「わからない。でも……」

 噓をついてるようには見えなかったのだ。

 テレビに目をやると、画面が陰惨な落書きをされた博岡家から、愛らしいキャラクターが歌い踊るディズニーランドへといつしか切り替わっていた。

 東京に遊びに行ったとき、涼音の二番目の父親にディズニーランドへ連れて行ってもらったことがある。三、四年前のことなのに、もうずっと昔のことのような気がした。

「楽しかったね、ディズニー」

 気分を変えたくてそう言ってみたけれど、声が届かなかったのか、涼音は疲れた顔でボソッとつぶやいた。

「いったい、いつまで続くんだろう……」

 みんな、限界ギリギリまで追い詰められている。だから一日も早く終わりにしたくて、博士と聡介の逮捕を待ち望んでいる。

 陰惨な日常が一瞬にして夢の世界に切り替わったらいいのに、現実は陰惨なままだらだらと続いていく。

「仁美、起きなさい!」

 その晩、深い眠りに落ちていた仁美は、体を揺する手を無意識に振り払った。

「仁美、起きるんだ!」

 無理やり腕をつかまれて引き起こされ、不機嫌極まりない声が出た。

「なによ、今、何時?」

「火事だ」

 一瞬、父がふざけているのかと思った。だが、消防車のサイレン音が近づいてくる。

「えっ、本当に火事?」

「早く!」

 父は仁美の腕をつかみ、そのまま階段を駆け下りる。その間、炎はもちろん煙らしきものも見えないし、異臭もしなかった。

「火事って、どこが燃え……?」 

 玄関から外へ連れ出された瞬間、その答えが眼前に現れた。燃えているのは二軒隣りの博岡家だ。

 父はすぐさま集まった近所の人たちの中に博士の姿を探す。

「博岡さん! 博岡さん、いませんか!?」

 隣の家のおじさんがそんな父の腕をつかんで制する。

「仁先生、博岡さんがここにいるわけないじゃない。警察に留置されてるはずだろ」

 その手を振り払い、父は消防隊員に駆け寄り、訴えた。

「中に男性がいるはずです。助けてください!」

 炎は壁を舐めて広がり、家を呑み込もうとしていた。

(第13回へつづく)