第三章 漱石の写真 SOUSEKI

「さきほどメールでお送りした案、読んでもらえました?」

 声をかけた山田に、深沢デスクは「読んだけど」と渋い表情を浮かべた。

 梅雨入りの発表を間近に控えた頃、山田がデスクに提出したのは、夏目漱石の写真に関する記事の案だった。きっかけは、写真映像部にいる同期の星野から、数日前に聞いた興味深い話である。

 都内の老舗写真館が、閉店の際に倉庫を整理していたら、昔のガラス乾板かんぱんを発見したという。ガラス乾板とは、明治大正期のカメラに使用された感光材料だ。平成初期まで一般的だった、巻き上げ式のフィルムよりも当然、古くからある。

 さらにその写真館の店主は、かつての千円札にもなった夏目漱石の肖像写真を撮影した小川一真おがわかずまという写真家の、弟子筋に当たるらしい。一真が使用したガラス乾板を引きとっている経緯から、一真の遺品である可能性が高かった。

 明治大正期を支えた写真家の、いにしえの技術をよみがえらせたい。そう考えた専門家が、都内にある国立写真センターで復元作業を行なっている。その専門家は、星野の先輩に当たるとのことだった。

「漱石ゆかりの写真館というのは面白そうだが、その店主は子孫とかじゃなくて、ただの弟子筋なわけだろう? 仮に当時のフィルムが残っていても、特別な写真という保証はないんだから、復元の結果を待ってなにがうつっているかが分かってから、取材の検討をすればいいんじゃないか」

「それは、そうかもしれませんが」

 窓の外に広がる、どんよりした雨雲に目をやった。通りを行きかう人は、傘をさしたり汗を拭ったりしている。

 うまく論破できそうにない。けれど今日はデスクに言い返されても、強く押し切ろうと決意していた。とるにたらない取材と決めつけて諦めるのでなく、直感の赴くままに事実を追求してもいいのではないか。そう強く思えるようになったのは、悔しいながら、円花の影響だった。

 あの、と山田は外の風景から、デスクの方に視線をうつして言う。

「話題性があるかはともかく、漱石と撮影者の関係性をたどるという趣旨で、古い写真をよみがえらせる技を紹介することは、意義があると思うんです! 実際、漱石の写真は誰もが知るわけですし、とっつきやすいんじゃないでしょうか。それに、フィルムじゃなくてガラス乾板です!」

 深沢デスクはこちらの顔をしげしげと眺めたあと、企画書をぽんと机上に置いた。

「分かった、そこまで言うのなら、取材してくるといい。いいネタだったら、次回の〈知られざる日本の技へ〉のテーマは、明治大正期のガラス乾板にしたらどうだ。漱石の肖像写真ともうまく絡められれば、それなりに面白くなるだろう」

「ありがとうございます!」

「おまえのやる気に期待してるからな」

 自分の机に戻りながら、山田は円花とコンビを組む前に、円花のような熱意が足りないとデスクから言われたことを思い出す。あのときの自分を考えると、一度ダメ出しされた企画に食い下がるなんて考えられない行動だった。

 取材のスケジュールを立てていると、となりの席の円花が戻ってきた。

「おっつー、山田」

 またしてもコンビニの袋を下げている。とり出したのは、きな粉のまぶされた、わらびもちだった。「今年のはすっごく美味しいの」と力説するが、山田が気になるのは味よりも、ぱらぱらと机に落ちるきな粉の方だ。あとでちゃんと掃除するのだろうか。それ前提ゆえに落としまくっているのだろうか。

「あ、ひとつ食べる?」

「いりません。それより、つぎのテーマを探してきたぞ」

 山田は深沢デスクとのやりとりを報告した。円花はあっという間にわらび餅を完食すると、「ご馳走様でしたっ」と手を合わせてから、パッパッと適当にはらっただけだった。全然机がきれいになってないし、床に落ちてるし。「あのな――」と注意しようとする前に、円花の声がかぶってくる。

「ガラス乾板、いいじゃない! それに漱石って、近代の文豪にしては、たくさん写真が残っているから、深掘りすると面白そうだし」

「……一面を飾れるスクープになるといいんだけどな」

 気をとり直して詳細を詰めようとすると、円花が眉を上げた。

「おやおや、急に奮い立ってない?」

「小杉部長に鼓舞されたばかりだからさ」

「へー、なんて言われたの?」

 きょとんとしている円花に、「君も一緒に聞いてただろ」と呆れ果てる。

 日陽にちよう新聞社が買収されるという噂は、思った以上に真実味を帯びはじめていた。昨日、週に一度ひらかれる文化部内の定例会議で、いつもの報告事項が終わったあと、小杉部長が神妙な面持ちで語りはじめたのである。

 ――文化部のみんなには、一面を飾れるようなスクープをとってきてほしい。

 ただならぬ空気を察した山田は、横でうつらうつらしていた円花を、思わず小突いたほどだった。

 UuRLウールという企業の傘下に入ろうと、経営陣が画策しているという星野の話は本当かもしれない。経済紙の重要性を説いている彼らに買収されれば、文化部がこのままでいられるとは限らない。最悪の場合、解体されるだろう。

 ――君たちが頑張っているのは百も承知だけれど、今まで以上に文化部の存在感を示してほしいんだよ。

 小杉部長は暗い表情で言った。

 買収の件を明言されたわけではないが、もし文化部がなくなったら――そう考えると、山田は居ても立ってもいられなくなった。円花との連載をはじめ、記者の仕事の面白さに気がつきはじめた矢先である。豊かな社会には文化や芸術は欠かせない、と新聞を通して伝えたい。

「君はいいのかよ? 文化部がなくなってもさ」

「だって別にこの新聞社じゃなくても、他にも文化に関することを取材できる仕事はあるじゃない」

 前にも言っていたが、天下の全国紙に就職したことに執着しないなんて、と山田はあらためて衝撃を受ける。自分としては必死に就活して、やっと射止めたこの仕事を手放すものかという気持ちでいるのに。やはり円花は只者ではない。

 しかしまだ納得がいかず、こう反論する。

「小杉部長からあそこまで言われて、なんとかしたいと思わないのか? 君に今回の連載を任せてくれたのだって、他でもない部長らしいのにさ」

 円花はきょとんとした顔で、こちらを見つめた。

「部長のことは好きだけど、そういう時代だもん。仕方ないよ」

 とんでもないドライさに絶句した。

 新聞なんて堅苦しいし文化面以外読まない、と豪語もしていた。新聞そのものへのこだわりを、彼女はまったく持っていないようだ。好きではないものに無頓着な性格上、説得は難しいだろう。

「君ってさ、空気を読んで集団のために自己を捧げるとか、そういう発想がゼロなタイプだよな。たとえるなら、犠牲フライとか送りバントとか試みずに、毎回フルスイングでホームランを狙っていく打者っていうかさ」

「伊勢海老フライ? おくりばんこ?」

 大真面目にそう返す円花に、こいつにはスポーツ比喩は通じないのだった、と疲れをおぼえる。伊勢海老はともかく、おくりばんこって、かわりばんこ的ななにかだと思ったのだろうか。

「それを言うなら、私だって山田はもっと杓子定規というか、頭が固くて、つまらない人間だと思ってたよ」

「つまらないってなんだ、つまらないって!」

 こちらが言い返すのを遮り、円花は人差し指を立てた。

「でも小杉部長のためって考えても、漱石ってネタは悪くないと思うよ。小杉部長って、もとは近代文学に耽溺していた文学少年らしいからさ。うちから刊行された『おそらくダイヤモンド』も担当してたんだって」

「あの伝説的ベストセラー小説を⁉」

「私って情報通でしょ」

「無駄に飲み会に行きまくってるわけじゃないんだな」

「そうだよ、ちゃんとネタを仕入れてるんだから」

 社交にばかり気合いを入れていることをからかったのに、円花は真面目な顔でこうつづける。「ところで、次回のテーマを漱石にするのはいいとしても、せっかくやるなら、秘められたストーリーを解き明かさないとね。誰もが当たり前に知っていると思い込んでいたものを覆すことが、この連載のねらいだから。雄勝硯おがつすずり大津絵おおつえもそうだったし」  

 翌週にアポをとった山田は、円花とともに、文京区にある当の老舗、綿部わたべ写真館まで、汗を拭きながら徒歩と地下鉄で向かった。

 例によって、円花は早めに会社を出発し、近辺のグルメを味わいたいという。しかしランチの時間とはズレている。代わりに彼女が選んだのは、最寄り駅の目の前にある甘味処だった。そう来たか、と山田は考え込む。

「ランチならともかく、勤務中に甘味ってどうなんだ」

「全然いいでしょ! 脳に栄養いるでしょ!」

 山田の苦言もどこ吹く風で、円花は元気いっぱいに店の戸を開けた。

 一階は昔ながらの和菓子屋であり、木造の柱と土壁の風合いが歴史を感じさせる。二階の喫茶へとつづく奥の階段をのぼると、何組かのカップルがお茶を楽しんでいた。円花は鼻唄まじりに、座布団の敷かれた奥のベンチに腰を下ろす。

「冷たい抹茶ぜんざいが美味しそうだけど、あんみつが名物らしいね」

 きょろきょろと無遠慮に見回して言う。

「本当に君ってやつは、毎度毎度――」

 小言をもらす山田に向かって、円花は手のひらを掲げた。

「ここはね、漱石行きつけの喫茶店だったわけ。漱石はこの店の餡子あんこを、小説のなかでもたびたび登場させてるんだ。その味を確かめるのは、もちろん取材でしょ。なんせ、おしるこを食べすぎて盲腸になったって言われるくらいの甘党だし」

 おしること盲腸の因果関係は、どうやって証明できるのだろう。不可解だったけれど、自信たっぷりに言うからには、よく知られる逸話らしいので触れないでおく。

「誰々の愛した味ってよく聞くけど、結局は集客のためのキャッチコピーに過ぎないんじゃないの? なんせ漱石が通っていたのって今から百年以上も前のことだろ。味も変わったに決まってるじゃん」

「分かってないね、山田は。ネームバリューだけで営業してる店も多いけど、ここはグルメブロガーからの評価も高いし、前から来てみたかったお店なの。それに、味に多少の変化があっても、餡子がカスタードクリームに変わったわけじゃないんだから。たまには人を信じて、名物を味わってごらんなよ」

 分かるようで分からない反論だ。

 しかし山田が言い返す隙も与えず、円花は店員にあんみつを二つ注文する。そして店員が置いていった湯呑を手にとると、「おや、これは江戸時代の古伊万里じゃないの。漱石も使ったことがあったりして!」と、嬉しそうに茶をすすりはじめた。

 古伊万里だなんてよく分かるものだ。山田は黙って受け流しながら、どの特徴を見てそう判断したのか、気になってまじまじと湯呑を鑑賞してしまう。だがよく考えれば、本当かどうかを疑うことなく、円花の言うことを無意識のうちに信用しているではないか。慌てて首をふった。

「そうそう、いいものを持ってきたんだ」

 円花は山田の動揺に気がつかぬ様子で、「じゃじゃーん」と言って、紙きれをテーブルのうえに置いた。

「漱石の千円札じゃないか!」

 思わず手にとって裏面に返すと、白抜きの中央部に向かって、雪原で翼を広げる二羽の鶴がデザインされている。野口英世に切り替わったとき、山田は十代半ばであり、それなりに見慣れていた。しかし発行停止から十数年経った今では、お札というよりも骨董品にしか見えない。新鮮な感覚だった。

 お札になったのは、四十五歳のときの漱石である。胃潰瘍で死去する、四年前の姿だ。作品でいえば『彼岸過迄ひがんすぎまで』の連載が終わった直後で、『こころ』を著す二年前。今日はこれを撮った小川一真という写真師――当時は写真家のことを写真師と呼んだ――の弟子が、初代店主をつとめた写真館を取材させてもらう。

「一真本人も、これを撮ったときには、お札に使われるなんて思わなかっただろうな」

 旧千円札を観察しながら呟くと、円花は「そうかな?」と首を傾げる。

「だって小川一真は、日本写真史の黎明期を支えた第一人者だったんだよ。自分の撮った文豪の姿が、将来いろんなところで使われる可能性も、ちょっとは念頭に置いていたんじゃないかな。漱石の生前から、あの肖像写真は国民的なアイコンだったわけだし」

「……それもそうか」

 普段はどこかズレているくせに、時折鋭い指摘でこちらを唸らせる。

 たしかに小川一真は、明治政府がもっとも信頼する写真師の一人だったといっても過言ではないだろう。

 今の埼玉県行田市近辺にあたる忍藩おしはんの武士の子として生まれた一真は、藩主の支援を得て土木工学を勉強するなかで、写真という魔術のとりこになった。まだ写真が普及していない一八八〇年代の明治期に、水兵としてアメリカ、ボストンに渡ることに成功。そこで、いち早くガラス乾板をはじめとする、最先端だった写真技術を習得した。

 帰国後、東京に構えられた一真の写真館は、方々で評判になったという。当時珍しかった写真館には、名だたる人物が自らの姿を後世に残すべく出入りをした。また一真は撮影者としてだけでなく、国産の撮影機材や感光材料の生産にも、早いうちから力を入れた人物でもある。

「それにしても、旧千円札に使われた写真って、肝心なところが見えにくいよね」

 円花はお札を手にとり、しげしげと眺める。

「左腕の喪章のことだな?」

「おっ! 山田、勉強してきたね。だよね、当時の漱石の心境を表す、とても大事なヒントなのにね――」

 盛り上がってきたところで、店員が「あんみつです」と運んできたので、ひとまず会話を中断させた。

 涼しげな切子のガラス器に、自家製の小倉アイスがこんもりと丸く盛られている。まわりには、つややかな白玉、抹茶色の求肥ぎゆうひ、杏やミカン、さくらんぼ、ふっくらした餡子がいろどりを添えて、宝石箱のようだ。

 贅沢にも、そのうえに黒蜜をたっぷりとかけてから、山田はごくりと喉を鳴らした。まずはスプーンで、アイスと白玉、そして餡子をすくう。口に入れると、冷たさと温もりが絶妙にほどけた。

 一口食べるだけで、しゃきりと目が覚めるほどに甘く、外の蒸し暑さや午後までの仕事による疲れが吹き飛ぶ。

 それに、ただ甘いだけではなく、お膳に添えられた塩昆布が、小休止となって箸をさらに進ませる。甘いものから、辛いもの。そして温かいほうじ茶へ。気がつくと、幸せのループができあがっていた。

 なんといっても、やわらかくて素朴な味わいの餡子が、すべての点数を引きあげてくれている。白玉だけでなく、フルーツの爽やかな酸味ともぴったり合うので、主役にも、名脇役にもなれる優秀さだった。

「あー、美味しかった! なーんだ、山田も甘党なんじゃないの。これで写真館にもベストな状態で行けるね」

 満面の笑みで、円花は言う。

 ベストなのかなぁと疑問に思いながら、自身の足取りもどこか軽くなっていた。それにしても円花は、さきほど披露した旧千円札を、なぜ持ち歩いているのだろう。取材先には当たり前のことだろうし。まさか「じゃじゃーん」をやりたいがために持ってきたのか。謎である。

(第10回へつづく)