最終章

 一六二二年八月――マカオの戦いから約ひと月後。

 

 万吉のいない家は、静かで広かった。ふとした瞬間にいつものように話しかけて答えが返ってこない時、万吉がいないことを実感して切なさが募った。一人きりの食事が味気なく、怒ったり、笑ったり、喜びあったりして、これまで共に重ねてきた月日がたまらなく大切で貴重な瞬間の連続だったと感じる。万吉がいつも座っていた椅子や作業していた部屋は、ついさっきまで彼がそこにいたような気配がした。家中なにも変わらないのに、万吉だけがいない。

 

 人はいつか死ぬ。でも、お前がこの世からいなくなるとは思わなかった。そこにいてくれるのが当たり前で、心のどこかでお前が死ぬことはないと思い込んでいたよ。

 

 万吉の死を突きつけられるのが辛くなり、龍之進はいつも開けっ放しだった万吉の作業部屋の扉をそっと閉めた。

 

 その時だ、ベルが訪ねてきたのは。「相談したいことがある」という沙羅の伝言を預かってきたと言った。

 

 沙羅の伝言で指定された聖ロレンソ教会前の浜辺にいくと、黒いドレスを纏った沙羅が海を向いて立っていた。

 

 その姿になにか声をかけようとも、いい言葉が見つからず、つい足取りが重くなった。ベルの話では、沙羅は普段と変わらないように振る舞っているが、食事が細くなり、やつれたということだった。

 

 声をかけるのを躊躇っていると、沙羅が振り返った。

 

「龍之進、きてくれてありがとう。お願いがあって……あなたも大変なのに、こんな時にとは思うけど、あなただから頼めることなの」

 

 沙羅がなにを言い出すのか、少し緊張した。でも、温かい気持ちが充満する。

 

「シルバ商会をあなたに預けたいの。あなたが船主となって、商会を切り盛りしてほしい」

 

 あまりに思いもよらないことで、どう考えたらいいのかわからない。

 

「でも、シルバ商会は沙羅そのものじゃないか。それなのに、俺に任せて、その後どうするんだ」

 

 やっとのことで反応した。

 

「アンドレアスを連れて、ポルトガルに行くわ。アンドレアスにリスボンで学問を身につけさせたいの。カリバーリョ家の跡取りはあの子だけよ。ポルトガル人として本国での暮らしに慣れてほしいし、あの子の将来のためにもそのほういいと思うの」

 

 沙羅がポルトガルに行ってしまう。戦の前夜トリスタンが話してくれたことが真実なら、長年の俺の想いは届いているはずなのに、沙羅はここを去ってしまうのか。

 

「シルバ商会を託せるのはあなただけ。父が興して、わたしが引き継いだ。わたしにとって家族同然の、とても大切な存在だから」

 

 これにどう答えたらいいんだろう。「わかった」とすんなり承諾できるわけもなかった。シルバ商会を引き受けることもだが、ポルトガルへ行って沙羅は幸せなのだろうか。本国に行けば、日本人の血を引く異分子の沙羅はなにかと気苦労は絶えないだろう。それを覚悟の上でマカオを離れようというのか。守ってくれる夫トリスタンもいないのに。

 

 行くな。口に出したい気持ちをまずはぐっと堪えた。

 

「それで……いいのか。沙羅は」

 

 沙羅を問い詰めている。そんなことをしてはいけないと思ったが、言わずにはいられなかった。

 

「ええ」

 

「俺は……トリスタン殿から……」

 

 次の言葉を呑み込んだ。俺はなにを言おうとしている。トリスタンから沙羅を頼まれたとでも? 亡くなってひと月しか経っていない時に、トリスタンの遺した言葉を告げれば、沙羅は俺の言うことに応じざるを得ないだろう。それは卑怯だ。トリスタンの名を借りるのも、沙羅を従わせるのも、本意ではない。それに、もしそうすれば、たとえ俺のそばにいたとしても、彼女の心は離れていく。なにより「頼まれた」には、あたかも俺の意志がないようじゃないか。トリスタンに頼まれなくても、いつも沙羅の助けになりたい気持ちはあるのに。

 

「龍之進、どうか分かって。トリスタンの意向でもあるの。アンドレアスを本国でも生きていける人に育てたいというのは。だから、彼の望みは叶えたい」

 

「シルバ商会を引き受けるのはかまわない。でも、その……」

 

 沙羅がアンドレアスの将来を案じ、トリスタンの生前の意志を叶えたいと思う気持ちもよくわかる。しかし、トリスタンは、沙羅の幸せも望んでいた。沙羅がアンドレアスとポルトガルへ行く……それでいいのだろうか。それで彼女は幸せなのか。

 

 そこで立ち返ってみた。そもそも、俺は、このまま沙羅と別れることになってもいいのか。いや、このままでは……俺の気持ちは行き場を失う。

 

 言ってはいけない。ただ沙羅を困らせるだけだ。でも、これを逃したら、もう機会はない。

 

 意を決した。

 

「それで、いつ戻ってくるんだ?」

 

 口から出てきた言葉は、〝行かないでくれ〟ではなかった。いけない、と思いながら口が思うように動いてくれなかった。

 

 すると、沙羅から思いがけない答えが返ってきた。

 

「アンドレアスが大きくなったら、ここに戻ってくる。それまでシルバ商会をお願いしたいの。とても勝手なことを頼んでいるわよね。それはよくよくわかっているつもりよ」

 

 沙羅は、申し訳なさそうに少し俯いた。

 

 永遠の別れではない。沙羅はここに戻ってくるんだ。それを知っただけで、心が救われた。

 

「そうか。それは何年待てばいい?」

 

「十年、十年待って。そうしたら、必ず帰ってくるから」

 

 

 

 大神学校から出ると、パードレ・原が多聞を追ってきた。

 

「セバスチャン、ほんとうにいいのか」

 

「はい。私が長年望んでいたことですから」

 

 新たな司教代理により、多聞がバレンテに言い渡されていた異端者としての破門と逮捕は取り下げられた。日本の宣教活動が苦境にあるのはバレンテが指摘していた通りで、新司教代理は、これからは日本人宣教師の派遣を推進するつもりだと聖職者や神学生を集めて話した。

 

 そして、多聞は、つい先ほど新司教代理に呼び出され、「近々パードレに叙階する。その後、年内に宣教師として日本へ向けて旅立つように」と言い渡されたのだ。

 

「私はお前の身を案じているのだ。日本ではキリシタンの迫害が厳しくなってきているからね。われわれが長崎を追われた時以上に。覚えているかね? 八年前、長崎で誰が日本に残るかをイエズス会で話し合った時のことを。パードレ・中浦は強い意志をもって残留を決めた」

 

 パードレ・原は、パードレ・中浦の身をいつも案じている。

 

「中浦は、マカオ行きが決まったわたしに殉教を恐れて日本を離れるのか、学問に逃げるのかと問うた。信仰に生きるのなら、上長がなんと言おうと、ここに残るはずだと。私は、何も言い返せなかった。あの時、確かに殉教は怖いと思った。しかし、それ以上に中浦とわたしは、果たすべき役割が、神から与えられた使命が違うのではないかと常々感じていた。わたしは、人の中に入っていき、教えを広めるのは不得手だ。人好きのする中浦とは違う」

 

 パードレ・原の苦悩を初めて知った。学究の徒とは思っていたが、中浦との間に信仰について悶着があったとは思いもしなかった。

 

「人生にはこうとしか生きようがないと思ってはいても、これでよかったのかと悩む時がある。セバスチャン、後悔のないようにな」

 

 大神学校に戻っていくパードレ・原の背中を見ながら、高山右近を思い出した。彼は、『信仰の形は人それぞれ。一つではない』と言った。日本へ行くことに躊躇いはない。長崎で人々にキリストの教えを説きながら、迫害の最中に信者たちを残して日本を去ったことが心残りだった。自分の行いは信者を迫害の苦しみに導いただけなのではないか。自分も同じ境遇に身を置くのが本来の姿ではないかと思っていた。

 

 心残りといえば……。あることを思い出し、原を呼び止めた。

 

「パードレ。お願いがあるのですが」

 

 

 

 沙羅と別れて聖パウロ聖堂前の広場までくると、多聞が長い階段を上っているところだった。多聞を追って声をかけた。

 

「龍之進、なあ、この神の家はいつ完成するのだろう。これだけ大きな教会堂だ。さぞかし立派な御堂になるだろうな」

 

 立ち止まった多聞は、教会を見上げて感慨深げに言った。

 

「なにかあったのか。なんだか物憂げだぞ」

 

「お前に話しておきたいことがあるんだ。私は、晴れてパードレに叙階されることになった」

 

「おい多聞! そうか! おめでとう! 俺もうれしいよ。とうとうお前もバードレか」

 

 多聞の両手を強く握り締めた。

 

「ありがとう。そして、日本へ戻ることになった。数か月のうちにマカオを出ることになるだろう」

 

 途端に表情が固まったのが自分でもわかる。多聞がここを去る。また離れ離れになるのか。

 

「司教代理からさっき申し渡された。私は大神学校で学び終えたし、日本での宣教には日本人のほうがいいというのでね」

 

「日本からいまだ迫害された信者がマカオへ逃れてきているのに、日本へ行く?」

 

「龍之進、マカオに着いてから、私はずっと日本へ戻ろうと思っていた。日本には、私の帰りを待っている信者がいる。私は長崎を離れる時に約束したんだ。パードレになって皆のもとへ帰ると」

 

「はじめからそのつもりで? やめてくれよ。てっきり俺はずっとお前がここにいるものだとばかり」

 

「すまない。なかなか言い出せなくて。私も龍之進のそばにいたいし、また離れるのは淋しい。ほんとうだ。でも――」

 

「慈愛堂はどうする? 彼らにもお前が必要だよ。やめろよ、残ってくれよ」

 

「医術のできる者は他にもいる。それに、お前がいれば大丈夫だ」

 

「俺にだってお前が必要なんだよ。大体、日本に戻ったら命の保証はないじゃないか」

 

「私がいなくてもお前はやっていけるよ。日本にはパードレとしての私を待っている人たちがいるんだ」

 

 それ以上、頑なな多聞を引き留める術が見つからず、龍之進は困り果てた。このままで、行かないでほしいのに、それ以上の言葉が見つからない。

 

「多聞、なぜ厳しい道を進むんだ。俺は心配なんだ。お前には……無事でいてほしいから」

 

「ありがとう。そうだな、日本での宣教は厳しいものになるかもしれない。でも、人生は、報われるとわかっていることだけをするのではないだろう? 道は険しく、たとえ思うような結果に終わらなくても、進む時はきっとうまくいく、よりよくなると信じて立ち向かう。それが生きるということだと私は思う」

 

 力強い目つきで多聞が龍之進を見つめる。

 

「人生はそもそも報われるより、報われないほうが多い。こうなって欲しいと願い、努力しても、なかなかそうはならない。いくら手を尽くしても、病人やけが人が神の身許に召されてしまうようにね。誰もがいつかは必ず死ぬが、それでもできる限りのことをしようと思うだろう? 龍之進もいつも全力で、たとえうまくいかなくても、また立ち上がって前に進むじゃないか。報われようと、報われまいと、そうやって今までやってきたんだろう? それと同じだ。私はいつもお前を見て奮起するんだよ。お前の存在がいつも私に勇気をくれる。関ケ原でいつも私の前を駆けていた時のように、お前は永遠にわたしのしるしだ」

 

 多聞の聡明さ、穏やかで信念の強いところは、自分にない要素で、羨ましく思い、頼りにしてきた。その多聞が自分をそんなふうに見ていてくれた。

 

 目が潤んだ。自分を理解してくれているのは多聞しかいない。そう思えるほど大切な友だから、ますます離れがたさを感じる。しかし、その多聞の望みがわかるからこそ、もうこれ以上はなにも言えなくなった。なんなんだこの感情は。

 

「神がわれわれ一人一人に用意してくださる場は違う。お前にマカオで人々を助けるという道があるように、私には私の道がある。お前がいるべきなのはここで、私がいるべきは日本なんだ」

 

 多聞は、龍之進の肩に腕を回した。

 

「関ケ原で私が熱心に無常寺に通っていたのを覚えているか。ある時、和尚様が私に故郷で別れた友を思い出すと仰られて、天涯比隣という言葉を教えてくださった。たとえ遠く離れていても心は通じ合っている、それを天涯比隣というと。私たちは、その天涯比隣だ。これまでずっとそうだったろう。だから、祝福して私を日本へ送り出してくれ、頼む」

 

 多聞は、いまだ前面の普請は終わっていない聖パウロ聖堂を見上げ、その目に焼き付けるかのように眺めた。

 

「この御堂の完成を、私の代わりに見届けてくれ」

 

 もう引き留められない。淋しくなる。きっとマカオは俺の中で寂寥の町と化すだろう。どれほど胸が痛んでも、今は多聞を空の果てへ放つ時なのだ。

 

「龍之進、必ずまた会おう」

 

 そう言って多聞は龍之進の背中を叩いた。

 

 ただ涙を流す龍之進に、その言葉だけが、希望であり、救いだった。

 

 

 

 

 

 二十二年後――一六四四年。

 

 早朝から、マカオの町はお祭り騒ぎだ。聖パウロ聖堂前面の彫刻が完成し、それを祝うキリシタンたちが、ポルトガル人もスペイン人もイタリア人も日本人も、大勢入り混じって太鼓を叩き、笛を吹いて町中を練り歩いていた。

 

 龍之進は、シルバ商会の二階の窓から下の広場を眺めた。身ぎれいにした若い男女が集まって笛の音に合わせて踊っている。五十四歳にもなると、彼らのような若者が眩しく、懐かしく、時々過去の自分を見ているかのように感じられる。

 

 机に戻って、広げていた聖書を閉じた。その拍子に挟んであった薄い和紙の包みがはらりと床に落ちた。包みには多聞が日本から送ってくれたシャラの花の押し花が入っている。

 

 そっと拾い、また聖書に挟んだ。

 

 日本へ戻った多聞は、商人を介して消息をよこした。しかし、三十年前離れ離れになっていた時ほど頻回ではなかった。日本はキリシタンの迫害がさらにひどくなり、他者に書簡を託すのも命にかかわるからだ。むろん、龍之進から多聞に返信を出すことはできなかった。

 

 十年前、関ケ原に行ったという消息が届いた。多聞の実家のようすを物陰から見たそうだ。老いた兄がいて、おそらく兄の倅夫婦、孫と暮らしていたとあった。それから、無常寺に行き、シャラの木の花を拾い、それを押し花にして送ってくれた。

 

 この押し花を見るたび、二人であの寺の境内で遊び、学んだ頃を思い出した。あの頃は、こんな波瀾の人生を歩むことになろうとは思いもしなかった。

 

 

 

 外に出て、聖パウロ聖堂に向かった。道行く人々は、次々と敬愛の念を込めて挨拶してきた。それは、シルバ商会を引き受けた龍之進が交易と工場事業を発展させ、マカオでも指折りの豪商となり、ポルトガル人タデウス・カルバジャルの名で、今では元老院の相談役を務めるようになったからだ。

 

 

 

 沙羅は、約束した十年後にマカオに戻ってこなかった。ポルトガルに渡って九年目に流行り病で亡くなったのだ。それを伝えるためにベルがマカオへ帰ってきた。ベルは沙羅が亡くなったのを機に、マカオに戻ることにしたのだという。彼の話では、ポルトガル人同士の間に生まれた子女ではない沙羅は肩身の狭い思いをし、慣れない環境下の暮らしでなにかと心労が絶えなかったらしい。しかし、アンドレアスに自分の故郷であるマカオと日本のことを話し、ベルと二人きりの時はよく龍之進との思い出話をしたと言った。

 

 ベルから話を聞くまでは、時々、沙羅が俺のことを忘れているのではないかと不安に思っていた。きっとリスボンは洗練された町で、心奪われる品々や人々に囲まれ、マカオのことも俺のこともどうでもよくなり、帰る気が失せてしまっているかもしれない。それに、近況を伝える書簡には、アンドレアスの成長ぶりの他、いつもマカオを懐かしみ、再会を楽しみにしていると記してあったが、文面なら何とでも書ける。それこそ心にもないことも……。だから、もし書簡で沙羅の訃報を知らされたら、誰からであってもたぶん信じなかっただろう。実際にベルと会い、訃報を聞いたからこそ事実だと悟ったのだ。

 

 でも、もう沙羅はいないのか、いまだ信じられない時がある。別れてから二十二年経つ今も、沙羅は帰ってくると言ったのに、約束を忘れたのか。いつまで待たせるつもりなんだろう。そんなことを時々無意識に思う。

 

 思い返してみると、沙羅の本心を確かめたことがなかった。十年後、沙羅はここへ戻ってくるとは言ったが、俺のことをどう思っていたのだろう。

 

 今となっては、確かめようがない。沙羅の心は、永遠にわからないままだ。

 

 

 

 聖パウロ聖堂前の広場は、信者たちでごったがえしていた。

 

 長い階段の脇に、大人の身長くらいのシャラの木が二本、支え合うようにして生えている。シャラの木を見るたび、無常寺と多聞を思い出した。

 

 多聞は、マカオを離れる前、パードレとなった自分は信仰を捨てることはないと言った。日本人にもキリストの教えは根付く。身をもってそのことを異国のキリスト教徒たちに示すのも、自分に課せられた役目だ。迫害下の日本で神への愛が真であるか否か、常に自らの心に問いかけ、戦うことになるだろうと話していた。

 

 しかし、多聞がマカオを離れた年の十月に、長崎で宣教師とキリシタン五十五人が火炙りになり、翌年には江戸で宣教師とキリシタン五十人が、さらにその翌年には奥州で百人以上、平戸で三十人以上ものキリシタンが処刑されたという知らせを耳にした。

 

 そんな不穏な知らせを聞くたび、龍之進はマカオのイエズス会本部に行き、殉教者の中に多聞が含まれているかいないかを確かめた。そして、報告書に多聞の名がないのを見て胸を撫でおろすのだった。

 

 七年前の多聞の書簡には、「有馬のキリシタンたちが代官を襲い、島原半島の原城に籠った。天草のキリシタンが首謀者となって大勢のキリシタンや農民らを率いている。その城に喜久たちキリシタンが立て籠もるというので、私も付き添うつもりだ」と書いてあった。

 

 それを最後に、多聞からの書簡は途絶えていた。

 

 ――多聞、今、どこにいるんだ。なによりお前の心は満ち足りているか。

 

 お前がマカオを発って七年後、パードレ・原が天に召された。亡くなる数日前、二十二年前にお前がバレンテに破門された、その真の理由を教えてくれた。異端者として捕らわれた俺を救うためにバレンテに直訴して不興を買い、俺の代わりに異端審問所送りになったのだと。真実を知ったら、俺が引け目を感じるだろうから黙っていてほしいと、マカオを去る前パードレ・原に頼んだそうだな。パードレは、ずいぶん時が流れたからもう明らかにしてもいいだろうと言って、すべてを話してくれた。

 

 お前はいつも見返りを求めず、当たり前のように人に尽くす。俺はそんなお前になにをしてやれただろう。命を賭けて俺を救おうとしたお前に、俺は報いていただろうか。

 

 多聞がいてくれたから、前に進めた。お前は俺を先へ行く導だと言ったが、お前がいつもそばにいるとわかっていたから、安心して闇の中でも進めたんだ。

 

 お前がマカオを去る時、無事にお前はやっていけるだろうかという不安と我が身の淋しさから船出を心から祝えなかった。そう、淋しかったのだ。あの年、万吉を失い、ポルトガルに行く沙羅を見送り、お前とも遠く離れてしまうのがどうにも辛く、切なくて、表向きお前にはなむけの言葉を口にし、偽りの笑顔を浮かべていたが、本心では行ってほしくないと思っていた。それが今でも口惜しい。

 

 お前が望むことをやろうとしているのなら、その望みが叶うよう心から願い、送り出してやるべきだった。俺がこの世でたった一人になっても、お前が満足し、幸せならそれでいいのだから。

 

「龍王、リスボンからいらした方をご紹介しますよ」

 

 聖堂前広場で元老院議員の一人に声をかけられ、現実に引き戻された。彼は、二十代くらいのポルトガル人の若者を連れていた。

 

「マカオへようこそ」

 

「とても壮麗な聖堂ですね。父や母がいた頃から普請していたと聞いています。お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか。アンドレアス・デ・カリバーリョです」

 

 アンドレアスだって!?

 

 黒髪の若者の顔には、確かに沙羅の面影があった。

 

「明では反乱が起きて、皇帝が北京を追われたそうですね。ポルトガルの南方事業を含めて巡視するためにここにきました。まだ幼かったので、マカオで過ごした頃の記憶はあまりないのですが、砂浜やこの大きな教会はぼんやりと覚えています。母の故郷で、父が亡くなったところですから、一度は来なければと思っていました。母からあなたの話を聞いています。幼いわたしとよく遊んでくださったとか」

 

 アンドレアスは、そう言って恥ずかしそうに笑った。そこに微笑む沙羅が見えた。

 

「実は、母からあなたに渡すようにと頼まれていたものがあるのです」

 

 アンドレアスは上着の中に手を入れて、小袋を取り出した。

 

「母は、十代の時、よく長崎の海岸を散歩したそうで、その時の思い出の品だそうです。亡くなる前、母からマカオに行くことがあったら、これをあなたに渡してほしいと託されました」

 

 小袋の中には、光沢のある桃色の小さな貝殻が一つ入っていた。

 

 見覚えがあった。

 

 鮮やかにその時の思い出が蘇った。沙羅と海岸を歩いていた時、龍之進がこの貝を見つけた。色が美しく、形もきれいだったので渡したとき、目を輝かせて沙羅は喜んでいた。

 

 これをずっと持っていてくれたのか。

 

『沙羅は、龍王を想っている。たぶん、ずっとだ……』今になって、トリスタンの言葉を思い出した。

 

「母は、それを箱に入れて大切にしていました。わたしにも滅多に触らせてくれなくて。その貝にどんな意味があるのですか」

 

 じっと龍之進を見ていたアンドレアスが不思議そうに尋ねた。

 

「これは……母君からわたしへの伝言です。約束を果たしたという。あなたのおかげで、母君は安心されたことでしょう」

 

 龍之進は、教会堂に向かうアンドレアスと元老院議員の背中を見送りながら、小袋を握り締めた。

 

 病の床で沙羅は、この貝に想いを託した。こうするしかなかった沙羅の心を思うと、胸がつまった。

 

 思いが晴れた。

 

 長い間、沙羅の気持ちがわからなかった。だが、この貝を大切に持っていてくれて……沙羅はずっと思ってくれたのだ。想いが通じ合っていないかもしれないと思っていたが、伝わっていなかったのは俺のほうだった。

 

 涙が溢れた。

 

 すまない。背を向けていて。今ようやく気づいた。沙羅は、ずっと俺のそばにいてくれたんだな。

 

 目を閉じると、沙羅が微笑んでいた。声が聞こえてくる。

 

『龍之進。約束通り、あなたのもとへ帰ってきたわ』

 

「お帰り……沙羅」

 

 そう呟いて、両手で小袋をそっと包み込んだ。それから、人目を避けるように階段の陰に寄って、小袋を両手に持ったまま忍び泣いた。

 

 しばらくして心が落ち着いた後、龍之進は、他の信者たちに紛れて聖パウロ聖堂までの長い階段を上がった。

 

 完成した前面の石造りの装飾を見上げる。五層に分かれた豪華な彫刻だ。五層のてっぺんに十字架が輝き、聖母や聖人、天使、イエス像があり、太陽と月、星、海と船が彫られ、これまで普請に費やされてきた歳月を思うと、この御堂が過去から未来へと続く悠久の存在のように思えてくる。

 

 俺がマカオに着いた時からここにあり、年月が流れて町並みが移り変わっても、この御堂は変わらずこの地に堂々と立っている。俺のここでの三十年間見守ってきて、喜びや悲しみ、苦悩、過去のすべてを知っている。多聞や沙羅、万吉やトリスタンとの思い出すべてを。

 

 そして、この町のできごとを、この大きな御堂はじっと見届けてきた。いったい何人もの人々がこの御堂の前を通り過ぎていくのだろう。

 

 木と土と石でできたこの聖パウロ聖堂は、俺がこの世を去ってからもここにあり続けるに違いない。

 

 しかし、この世に永遠はない。

 

 俺も今ある肩書も財産もすべてこの世に置いて、いつかは土へ還る。ただ現世に生きた、その証だけが束の間どこかに残り、それもまた歳月を経て消えていく。

 

 人は生まれてから、自らを活かす場所を求めてさまよい、どこかに根を下ろし、風にそよぎながら精一杯生きる。

 

 人々のそのありさまを、この御堂は延々と見守り続けるだろう。

 

 石の躯体がこの世で朽ち果てるまで。

(了)