人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

第十話

 エリカが雇われママをしているスナックは、駅に近いさびれた飲食街の片隅にある。

 店の前に自転車を止めた仁美は、マスコミの人間に尾行されていないか周囲を確かめてから、『本日貸切』の札が掛けられた重い扉を恐る恐る開けた。

 入口正面にカウンターが、左手には十人ぐらい座れそうなコーナーソファを配した大きなテーブル席があり、その真ん中にどかっと座った会長が、隣にエリカをはべらせ、酒を飲んでいる。

 会長が計画していた被害者の追悼会が、先日の集会が揉めたせいで無期延期となってしまった。納得のいかない彼が規模を縮小し参加したい人間だけでやると断行したのが今日のこの会だ。主催者の会長はすでにかなり出来上がっている様子だが、周りを取り囲む近所のおじさんたちは、皆、成富建設に勤める彼の部下なので集会の時のようなごたごたは起こりそうになく、仁美は胸を撫でおろす。

「仁美ちゃん!」

 呼ばれて右手を見ると、四人掛けのテーブル席で涼音が手を振っていた。その向かいにいた修一郎が「あれ、仁先生は?」と目を瞬かせる。

「ちょっと疲れてるみたいだったから、無理しなくていいつって、私だけ来た」

「そっか。うちの親も同じ。そんな気分じゃないよな」

 涼音の隣に座ろうとした仁美の背中に、少し低めのセクシーな声が飛んできた。

「仁美……」

 振り返ると、シンプルな黒いドレスを纏ったエリカがソファから立ち上がる。

 照明を落とした薄暗い店内で、そこにだけスポットライトが当たっているかのように、エリカの姿がきらきらと浮き上がって見えた。

 彼女のやつれた顔は見たくないと思っていたが、いくぶん頰がこけたものの、その痛々しい危うさのせいかエリカの美貌はさらに凄みを増して、匂い立つようだ。

 テーブルの間をすり抜け近づいて来たエリカは、いきなり仁美の体をぎゅっと抱きしめた。

「ごめんね、仁美、私のせいで千草さんまで……」

 捨てられた猫みたいに哀しげなエリカの瞳が、みるみる涙の膜に覆われていく。謝られるなんて思っていなかった上に、エリカが泣く姿を初めて見た仁美は動揺し、ただオロオロと涼音を見た。

「ママ、仁美ちゃん、困ってるから」

 涼音に注意されてもエリカは仁美から離れず、小さな子供のようにしゃくり上げる。

「私が時間通りにおしるこ配ってたら、こんなことには……」

「エリカちゃんのせいじゃないって、何回言ったらわかってくれるんだよ」

 心配そうに近づいてきた会長が、泣きじゃくるエリカの肩をそっと抱く。

「逆に」と修一郎が声を発した。「去年みたいに行列ができてからおしるこを配ってたら、もっと多くの犠牲者が出ていたはずですよ」

「さすが、修一郎、よく言った」

 会長は修一郎の背中をバンバン叩き、部下のおじさんたちにも拍手を強要する。

「修一郎の言うとおりだ。エリカちゃんは被害者なんだから、責任を感じることなんてないんだよ。とにかく今日はパーッとやろう」

 会長に腰を抱かれ、もとの席へいざなわれていくエリカに、ようやく我に返った仁美が声をかける。

「エリカちゃん! エリカちゃんが悪いなんて私も全然思ってないから。私がテントにいても、きっとエリカちゃんと同じことしてたよ。だから……」

 もう自分を責めないで――。

 そう言いたかったけれど、みんなが見ている前で口にするのはこっ恥ずかしく、直前で言葉を変えた。

「……だから、飲みすぎんなよ」

 それでも思いは伝わったらしく、エリカはその美しい顔をくしゃくしゃにして駆け戻ってくると、仁美をもう一度ぎゅっと強く抱きしめた。しなやかな肉体とそこから立ち上る南国の花のような甘い匂いに魅了され、頭がくらくらする。香水をつけているのだろうが、それだけではないエリカ自身が発する匂いと相まって生み出された得も言われぬ香りに、女の仁美までもが蕩けて膝から崩れ落ちそうになる。

 それに、この大粒の真珠のような涙。普段はクールでズケズケ物を言うエリカが、子供のように泣く姿なんて想像したこともなかった。目の前でこんなエリカを見たら、どんな男も骨抜きにされてしまうだろう。

 がっつり骨抜きにされた会長が、世界で一番壊れやすい宝物を見るような目で、エリカを眺めている。

 妻を亡くし独身とはいえ、七十過ぎの会長をエリカが本気で相手にするとは思えない。成富会長は間違いなくこの町で一番の金持ちで権力者だけれど、エリカの再婚相手や再再婚相手と比べれば、雲泥の差どころか、比較するのもおこがましいレベルなのだ。  

 かつて仁美はエリカと涼音の新居に遊びに行かせてもらい、度肝を抜かれた。

 保険会社の重役だった二番目の夫がエリカのために購入したのは、東京の夜景が一望できる六本木のタワーマンションだったし、資産家である三番目の夫の家は、プール付きの豪邸だった。

 老いらくの恋が実を結ぶ可能性は低いというかゼロだと思うが、こんな田舎町にエリカのような女性が現れたら、舞い上がってしまう会長の気持ちもわからなくはない。

「会長、今日、博士は?」

 エリカに見惚れていた会長は、尋ねた修一郎に目もくれず、上の空で答えた。

「博岡か? 声かけたから、後で来るだろ。そんなことより、エリカちゃん、そんなに泣くと化粧がとれちゃうよ。まあ、エリカちゃんはすっぴんでも、化粧を塗りたくったそこらへんの女どもより何万倍も綺麗だろうけどな」

「あ……、やだ、私、ひどい顔してる?」

 仁美にそう尋ねたエリカは確かにマスカラが滲んでパンダ目になりかけていたけれど、それさえも逆にチャーミングだと感じさせるなにかがこの人にはある。

「お化粧なおしてこよ。あ、そうだ、仁美、修一郎、なに飲む?」

「だから、エリカちゃんは気を遣わなくていいんだって、今日はエリカちゃんを励ます会なんだから」

 と、会長がエリカの背中を化粧室へと優しく押しやる。

『追悼会』のはずが、いつの間にか『エリカちゃんを励ます会』になっていたけれど、酔った会長は気づかず、部下のおじさんたちをどやしつけた。

「おまえら、なにボサッと酒飲んでんだよ。未来ある若者たちにドリンク用意してやれよ。ったく気が利かねえな」 

 会長に一喝され、慌てて走ってきた取り巻きのひとりは真壁家の隣人のおじさんだった。

「仁美ちゃん、大変だったね。修一郎君も涼音ちゃんも。みんな、なんでも好きなもの飲んでね、会長のおごりだから」

 最後だけ声を潜め、おじさんは引き攣った笑顔で汗を拭う。

 涼音が自分でやると断ったが、「いや、おじさんが会長に怒られちゃうからさ」とまた汗を拭い、おじさんはそれぞれが頼んだ飲み物をおつまみのお菓子とともに四人掛けのテーブルに運んで、またそそくさと会長の席へ戻っていった。

 その後ろ姿を見つめ、修一郎がポツリとつぶやく。

「会長、酔うとめんどくさいな」

「だね」

 町内会を仕切る彼は、親分肌で頼りがいがあるのだが、強くもないのに酒好きで、その上、酒に飲まれやすい。

「博士、また警察で事情聴取されてるのかな?」

 つぶやいた仁美に、修一郎がうなずく。

「ここに来てないってことは、その可能性が高いんじゃないか」

「来たら、博士に訊いてみたいな。博士は看守なの?って」

「囚人なのかもしれないしな。ツリーハウスで音無さんに言われたことがずっと気になってしかたないんだ」

 なんの話かわからず、仁美は眉を寄せて、修一郎の顔を見る。

「ほら、『修一郎さんならもう気づいていると思った』って、音無さん言ったろ。あれ、なんのことだったんだろうって。それがわかれば、博士が警察にマークされてる理由につながる気がするんだけど……」

 修一郎の言葉を、会長の豪快な笑い声がかき消す。

「いい飲みっぷりだねぇ。さすが、エリカちゃん。さ、さ、もう一杯行こう」

 化粧室から戻ったエリカにやたらと酒を飲ませようとする会長を、仁美は思わず睨みつけた。

「エリカちゃん、思ったより元気そうで安心したけど、あんなに飲まされて大丈夫?」

「飲まされてっていうか、自分から進んで飲んでる気もするけど、なるべく早めに切り上げさせて、連れて帰るね」

 涼音の言葉の途中で、スマホが震え、修一郎はそれを手に外へ出て行く。誰からだろうと気にしながら、その背中を見つめていた仁美に、涼音がささやいた。

「たぶん、また、おばさんじゃないかな」

「え? またって?」

 親からの信頼が厚い修一郎は、帰りが遅くなろうと、電話がかかってくることなどまずなかった。

「かすみちゃんが亡くなってから、おばさん、修一郎君を心配してやたらと電話かけてくるようになっちゃったみたい」

「そう……だったんだ」 

 修一郎の母親は知的で気丈な女性だが、息子まで失うまいと神経を尖らせているのだろうか。いたたまれない思いでため息を吐いた仁美に、涼音がウーロン茶のペットボトルを差しだす。開栓されていないか確認してから、仁美はキャップを捻り、口をつけた。

「よーし、今日はエリカちゃんのために、高い酒入れてやろう」

 会長の浮かれた声と取り巻きの拍手が、やかましく店内に響き渡る。 

 深紅を基調としたこのレトロな場末のスナックは、どう考えても、エリカにふさわしい場所ではない。

「涼音、訊いてもいい?」

「うん、なに?」

「エリカちゃん、どうして離婚したの?」

 涼音の父とは死別し、二番目の夫に関しては、他の男――それが三番目の夫となる人だが――と恋に落ちたエリカが離婚を切り出し、すったもんだの末、別れたと耳にしていたが、三番目の夫と離婚した理由を聞いたことがなかった。 都内のプール付きの豪邸での贅沢な暮らしを捨て、なぜエリカはこの町に戻ってきたのだろう。

「……私もよくわからないんだ」

 恋多きエリカのことだから、前回同様、好きな男性ができたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。それどころか、涼音の話では、決定的な離婚理由があったわけではないようだ。

「噓、理由がないのに、あんなにゴージャスな生活を捨てて子ども三人抱えてここに帰ってくるなんてありえなくない? エリカちゃんにちゃんと訊いたの?」

「訊いたよ。私も学校辞めたくはなかったから」

 そうだ、母親が離婚してここに帰ることになったせいで、涼音は必死に勉強して合格した都内でも有数の難関お嬢様中学を辞めざるを得なくなってしまったのだ。

「エリカちゃん、なんて答えた?」

「『飽きた』って」

「はぁ?」

 思わず大きな声が出て、会長やエリカがこちらを見たので、仁美はへへっと愛想笑いを浮かべて声を落とす。

「信じらんない。それ、私だったら、ブチ切れてる」

「私も必死に頼んだし、三番目の父はせっかく合格したんだから、離婚後も卒業するまで涼音だけこの家に残ったらって言ってくれたんだけど……」

「三番目のパパ、金持ちなのに、めっちゃいいヤツじゃん」

「でも、結局、許してもらえなかった」

 涼音の淡々とした口調の中に、仁美は抑圧された苛立ちを感じる。エリカをじっと見つめる人形のような瞳の中にも、怒りとも哀しみともとれる複雑な色が滲んでいた。

「やっぱり……、恋していたのかも」

 会長になにか言われて笑っているエリカから視線を逸らすことなく、涼音が唐突につぶやいた。

「恋?」

「こっちに帰ってきてからは、ああ、また恋してるんだなって思ってたの。ものすごくわかりやすく顔や態度に出る人だから。始まったのはここに来てからじゃなく、離婚する前から誰か好きな人がいたのかもしれない」

「えー、エリカちゃん、誰とつきあってるの?」

「さぁ。訊いてないから、わからない」

「なんで訊かないのよ? 四番目のパパになるかもしれないのに」

「バツ3がすぐにバツ4になるだけだよ」

「もしかして、その人……」

 言いかけたが、仁美は途中で言葉をのんだ。

「もしかして、なに?」

「ううん、やっぱ、いいや」

「え、なによ、仁美ちゃん。気になるから、言って」

 涼音にせがまれ、仁美はしぶしぶ口にする。

「いや、ちょっと思っちゃっただけ。博士……ってことはないのかなって。ほら、琴子さんが、夫人がエリカちゃんに嫉妬してるみたいなこと言ってたから」

「え……、さすがに、それはないよ。博士は結婚してるんだし」

「だよね。ごめん、忘れて。不倫はダメだけど、そういう人がいてくれたら、今のエリカちゃんにとっては支えになるのかもって思っちゃったんだ。このお店で働くのだって、しんどいだろうし」

 人形のように無表情のまま、涼音は「しんどい?」と、声のトーンだけで驚きを表した。

「そんなはずない。あの人は、しんどいことや嫌なことは絶対にやらない主義だから」

 冷めた口調で言い切る涼音に、仁美は驚く。ふいに、小学生のころ、涼音の家に泊まりに行ったときの記憶が蘇った。

 仁美は、涼音とエリカと三人で、ボードゲームをして盛り上がっていた。

 たいていの大人は、子供につきあってやりたくもないゲームをやってやっているという思いが顔や所作に出てしまい、子どもに見透かされるものだが、エリカは大人げなく本気で勝ちにきて、負ければ地団駄を踏んで悔しがり、勝てば喜びを爆発させて仁美に抱き着いてくる。楽しむことに貪欲なエリカが一緒だと、どんな遊びをしても、いつもの三割増しで面白かった。

 その日も楽しさのあまり時間を忘れて夢中で遊び、気がついたときにはもう外は真っ暗になっていた。仁美のお腹がぎゅるぎゅると鳴ったのを聞き、「パパ、遅いね」とエリカが唇を尖らせる。

「ごはん、つくってもらおうと思ってたのに」

「えっ? パパがごはんつくるの?」

 仁美は驚いて思わず訊いた。涼音の父は普通に会社務めをしていたからだ。

「そうだよ。だって、私もう疲れちゃったから、ごはんなんかつくりたくないもん」

 仁美の家では食事はいつも母、千草がつくる。どこかに出かけて疲れて帰ってきたときでも母がつくるのが当たり前だったから、その発言は衝撃的だった。

 涼音の父から仕事で遅くなると連絡が入り、ピザでも取ろうかとメニューを探しに行ったエリカが「ねぇねぇ」と、顔を輝かせ戻ってきた。

「いいこと思いついちゃった」

 後ろ手になにか隠し持ち、近づいてくるエリカの顔にはいたずらっ子のような笑みが浮かんでいる。

「なになに? エリカちゃん、なに持ってるの!?」

 ジャーン!とエリカが披露した袋の中には、クッキーやチョコレートなど、パチンコの景品だというお菓子がぎっしり詰まっていた。

「お菓子の家をつくろう!」

 エリカの提案にわーっと盛り上がり、仁美と涼音は目を輝かせ、夢中になってお菓子の家をつくった。

 ホイップクリームを挟んだ食パンをベースにして、レンジで温めたチョコレートを接着剤代わりにサブレをぐるりと周りに貼り付けて壁にする。三角屋根はウエハースで土台をつくり、その上に四角いチョコレートックッキーを重ねて並べた。

 おやつはいつも母親の手づくりで、市販のお菓子を食べさせてもらえなかった仁美は、つくりながらクッキーやチョコをつまみ食いして、幸せを嚙みしめた。体に悪いからと買ってもらえなかった毒々しい色のジャンクフードほど、打ち震えるほど美味しかった。

 ワインを飲みながら参加していたエリカが、チョコ棒を煙突に見立てて屋根に差し、周りにカラフルなチョコレートを散りばめていく。それがすごくきれいで素敵で、センスのいいエリカを真似て仁美と涼音も手伝った。最後にエリカが黒い屋根の上に粉砂糖をふりかけると、雪をまとった可愛らしいお菓子の家が完成し、仁美は歓声を上げた。

「すごい、すごい、こんなに可愛いのがつくれちゃうなんて、信じられない。もったいなくて食べられない」

 興奮してはしゃぐ仁美にニヤリと笑い、エリカが涼音にささやく。

「仁美は食べられないって言ってるから、ふたりで食べようね、涼音」

「えっ! 噓、噓、食べる! でも、食べる前に写真撮って、写真!」

 あのときお菓子の家を囲んで三人で撮った写真は今でも大切に飾ってあるし、切り分けて食べたお菓子の家の目が丸くなるような美味しさも鮮烈に記憶に刻み込まれている。

 確かにエリカはしんどいことや、やりたいと思えないことはやらない人だ。

 けれど、家事能力が低いわけでは決してなく、翌朝、彼女がつくってくれたスープやオムレツはシンプルなのに味わい深く、仁美を驚かせた。

「エリカちゃん、お料理上手なんだね」

「これが美味しいのは、仁美に食べてほしくて、私がつくりたくてつくってるから。昨日みたいに、つくりたくないときにつくると、面倒くさくて最悪って気持ちが料理に入っちゃって、クソまずいものしかできない。だから、最初からやらないの」

 それは冗談だったのだろうが、エリカはやらないだけで、やろうと思えばなんでもできてしまう万事においてセンスのよい人なのだと、仁美は思っている。

「よっしゃ、エリカちゃん、罰ゲーム!」

 会長のしわがれた声が、仁美を現実に引き戻す。彼は取り巻きを煽って、一気コールをかけ、エリカに水割りを一気飲みさせようとしていた。

 怒りを覚え、仁美はすっくと立ちあがる。手を叩きながら、「一気、一気」と連呼する会長に歩み寄ろうとした仁美の前に、いつの間に来たのか博士が立ちはだかった。

「ちょっと、博士、邪魔しないでよ」

 博士は「シーッ」と人差し指を自分の口の前に立て、仁美を四人掛けのテーブルへと押し戻しながら、ささやく。

「大丈夫、あのお酒、ほぼウーロン茶だから」

「えっ?」

「エリカさんが病み上がりなのわかってるし、水割りは全部極薄でつくってるから心配しなくていいよ。邪魔されると、会長が怒って飲みの時間が長くなっちゃうから、これで」と、博士はふたたび人差し指を口の前に立てて見せた。

「……わかった。ありがとう。博士。今日も警察に呼ばれてたの?」

「え……? ああ、まあ」

 誤魔化して目を伏せた博士の顔は、町内会館で会ったときよりずいぶんと頰がこけ、眠れていないのか、目の下にくっきりとクマが刻まれている。

「どうして? なんで博士が疑われてるの?」

「さぁ……、それは私にも……」

 わからないよと疲れた笑みを浮かべ、首を振る。博士にもわからないことがあるんだ、と、仁美はぼんやり思った。

「警察で、なにを訊かれたの?」

 しつこく食い下がる仁美から博士を助けようと思ったのか、手洗いに行きかけていた隣の家のおじさんが、「仁美ちゃん」と、突然会話に割って入ってきた。

「おじさんとこにも昨日また、警察来たよ。でさ、誰が怪しいと思うかとか、お決まりの質問したあとにさ、変なこと訊いてきたんだよ」

 隣の家のおじさんの話には一ミリも興味がなかったが、最後の変なことに、ちょっとだけ反応してしまった。

「あ、仁美ちゃん、今、気になったでしょ? 聞きたい? 変なこと、聞きたい?」

 面倒くさくなって聞きたいと答えると、犬の話だという。

「うちで飼ってた犬が、なんで死んだのかって」

「どうして死んだんですか?」

 背後から食い気味に尋ねたのは、電話を終え店に戻ってきた修一郎だった。博士がいることに気づいていながら、犬の話に食いついている。

「どうしてかはわからないんだけどさ、半年くらい前、朝起きて犬小屋覗いたら、泡吹いて倒れてたんだよ。まだ若い犬だったし、その前の晩までは元気だったのに、突然でびっくりしちゃってさ」 

「おじさん、原因を調べなかったの?」

 驚く仁美に、おじさんも驚いた顔を返す。

「だって、犬コロだぜ」

 このあたりのおじさんにとって、犬は愛玩動物ではなく、番犬の犬コロなのだ。

「でも、そのあとで、裏の佐倉さんとこでも同じように犬が死んだって聞いてさ」

「あ……、佐倉さんちのタローが死んじゃったのは覚えてる。おじさん、警察はそれについてなんて言ってた?」

「なんてって、こっちに訊くだけ訊いて、とっとと帰っちまったから……」

「おーい、氷がないぞ!」

 会長に呼ばれたおじさんは慌ててカウンターに走って消えた。

「修一郎、タローが死んだとき、うちの父親が言ってた。なにか盛られたんじゃないかって」

「犯人が犬にパラコートを飲ませていたかもしれないってことか?」

「えっ、でも、さっきおじさん、犬が死んだのは半年前って言ってたよね?」

 涼音の言葉を受け、「それが本当なら……」と、修一郎が眉間のしわを深める。

「犯人は事件を起こす半年も前に、犬で実験していたのかも」

 毒入りしるこ事件は、周到に計画された犯罪だったのだろうか――?

 意見を求めたかったのに、気づいたら、博士も姿を消していた。

 調子っぱずれな会長のがなり声が、張りつめた空気を破る。

 いつの間にか、店の奥の小さなステージでマイクを握り、カラオケでエリカへの愛を熱唱していた。

「うわ、また始まっちゃったよ、ジャイアン」

 白い目を向ける仁美たちのことなどおかまいなしに、気持ちよさそうに一曲歌い上げた会長は、部下のおじさんたちに割れんばかりの拍手でヨイショされ、すぐさま次の曲をリクエストしている。

「ほら、エリカちゃん、早く、早く」

 ムーディーな音楽が流れると、エリカをステージに招き上げて、今度はデュエット曲を歌い始めた。エリカの腰を抱きよせ、ささやくように歌う会長はかなり気持ち悪かったけれど、酒に酔ったのか、エリカもそんな会長にしなだれかかっている。

「エリカちゃん、大丈夫かな?」

 仁美は心配したが、いつものことなのか涼音は動じず、「カラオケ好きだから」とほんの少し肩をすくめただけだった。

 音程を外しまくった会長のパートが終わり、エリカが歌い始めると、その澄んだ歌声に仁美は息をのんだ。

「うわ、エリカちゃんって、こんなに歌うまかったの? 歌手になれるレベルじゃない?」

 これだけ美人で歌がうまいなら、歌手にだって女優にだってなれたはずなのに、それもまたエリカのやりたくないこと、だったのだろうか。

 うっとりとエリカの歌に聴き惚れていた仁美に、会長が身振りでなにか伝えてくる。ピースサインを出されてもなんのことやらわからず困惑していると、「動画だよ、動画!」と怒鳴られた。なんで私が?と思いながら、仁美は仕方なくスマホを取り出し、歌うふたりの姿を動画に収める。カメラのレンズも美しいものに吸い寄せられるようで、エリカばかりを撮影し、会長は添え物のようになったが、別にかまわないだろう。

 デュエットが終わると曲調ががらりと変わって、アップテンポの曲が流れだし、会長と取り巻きからエリカコールが巻き起こった。唸るようなコールに煽られて、エリカがひとりでステージに立つ。十八番と思われる曲をノリノリで歌い踊るエリカに、会長の指示でスマホを向けたが、いつしか仁美は彼女の魅力に心を奪われ、陶然と撮影を続けていた。

 ひとしきりカラオケで盛り上がったのち、手洗いに立ったついでに酔った会長が絡んできた。

「おい、おまえら、なにシケたツラしてんだよ? あ、なんだこれ? ウーロン茶じゃねぇか。こんなもん飲んでるから辛気臭くなるんだ。酒を飲め、酒を!」

 勝手なことを言い散らかし、席に戻ろうとした会長を、修一郎が呼び止める。

「会長、会長も毒を入れた犯人は、音無のばあちゃんだと思ってるんですか?」

「ちょっ、修一郎、おまえ、せっかく楽しく飲んでるのに、酔いが醒めるようなこと言うなよ。たとえそう思ってたとしても、わしの立場で、そうだ!とは言えんだろうが。早急に犯人を逮捕するよう警察に言いつけてあるから、事件は間もなく解決する。大船に乗ったつもりでいろ」

「もし本当に音無のばあちゃんが犯人だったとしたら、琴子さんと流星はどうなります?」

「琴子と流星? どうなるってそりゃ、家族は連帯責任だからな。一昔前なら、村八分よ」

「村八分?」

「いや、今はそんなことはせんが、ばあちゃんが四人も殺しとったら、当然、ここには居れんだろ。琴子はいい嫁だし、流星もデキがいいから惜しいがな」

 会長の話を聞きながら、仁美は琴子の言葉を思い出していた。

 自分が被害者でいるために誰かを加害者にして、この町から排除しようとしている――。 

 これ以上訊いても無駄と思ったのか、修一郎が話題を変えた。

「会長、聡介君はアメリカから帰ってこないんですか? こんな騒ぎになってるのに」

「は? 博岡の息子? なにおまえまで、刑事みたいなこと言ってんだよ。聡介はデキが良すぎて向こうで大変な仕事を任されてんだよ。そうそう簡単に帰って来られるわけがないだろ」

 突然、「あ!」と叫んで、会長は背後から仁美に近寄ってきた。

「そういや、この間、悪かったな。孫が世話になって」

 言いながら、なぜか会長は仁美の肩を揉む。首筋がぞわぞわしたが、それに耐えつつ、仁美は答えた。

「ああ、麗奈ちゃん、大丈夫でした?」

 隠し切れない不快感が露骨に顔に出ているはずなのに、会長は肩を揉むのをやめない。

「あんなひどい目に遭った小さな女の子からしつこく話を聞こうとするなんて、その記者、ろくなもんじゃねぇよな。おまえ、鬼畜か!?って、怒鳴り散らしてやったわ」

 その日のうちに会長が修一郎の家に押しかけてきて記者の名刺を持ち帰り、苦情の電話をかけたという話は仁美も聞かされていた。

「うん、麗奈ちゃんが狙われたなんて本人に言っちゃう記者は怒鳴られて当然だよ」

 言葉の途中で、肩に置かれた会長の手が、ピタッと動きを止めた。

「麗奈が狙われた? なんだ、それ? どういうことだ?」

 どうやら孫娘からなにも聞かされていなかったらしい。

「あ、会長、そう言ってる小学生がいたってだけで、本当のことじゃないから大丈夫。麗奈ちゃんを狙ってイワオが毒を入れたって、小学校で噂になってるみたいで」

「イワオ……? って、宅間巌……か?」

 仁美がうなずくと、酔いが吹き飛んだのか、会長は急に真顔になった。

「そ、そんなバカな話があるか! イワオは死んでるんだぞ!」

「だから会長、小学生の噂話なんだってば。でも麗奈ちゃん気にしてるみたいだったから、幽霊なんて絶対にいないって言って、最後にはわかってくれたし、心配ないよ」

 慌てて説明する仁美に、唸るような声で、会長は訊く。

「どうして、イワオが出てくる? あいつはなんの関係もないのに……」

「関係なくても、子供たちはなにか怖いことが起こると、なんでもかんでもイワオの幽霊がやったってことにしちゃってるらしいの」

 この町の出来事で恐ろしかったことといえば、イワオが起こした事件くらいだから、その衝撃が強すぎたのだろう。

「子供だけじゃないですよ」と、修一郎が口をはさむ。

「ネット上でも、おしるこの鍋に毒をいれたのはイワオの幽霊って噂が飛び交ってる」

「は? どこのどいつがそんなくだらんことを言ってるんだ?」

「誰が書き込んだかなんて、僕にはわかりませんよ」

「それを調べられんのか、修一郎? 調べてすぐにやめさせろ」

「無茶言わないでくださいよ。書き込まれた内容が個人の権利を侵害するような場合は情報開示を求められますけど……」

「侵害してるじゃないか、現に、麗奈を狙ってイワオの幽霊が毒を入れたと言ってるバカがいるんだろう?」

 ポケットから取り出そうとした煙草を床に取り落としてしまい、会長は怒りを露わにダン!とテーブルを叩いた。

「会長、なにをそんなに動揺しているんですか?」

 尋ねた修一郎に、会長は声を荒らげた。

「動揺なんかしとらん、怒っとるんだ! そんな昔の話を持ち出して、ここが呪われた町だなんて風評を立てられたらたまらんからな」

「イワオは、この町の人間じゃなかったんですよね?」

「ああ、故郷を追われて、ここに流れてきた」

「僕、ほとんど話したことないんですけど、会長はどうしてそんな人を雇ったんですか?」

「悪い奴には見えなかったし、力が強くて畑仕事でもなんでも言われたことはちゃんとやるんで拾ってやったんだ。まさかあんなかたちで恩をあだで返されるとは……」

 大人とはほとんど口をきかないイワオが、幼い麗奈にやたら親しげに接する様子を見て、麗奈の母親は事件が起きる前から心配していたらしい。

「麗奈が怖い目に遭ったのは、人を見る目がないわしのせいだといまだに責められとる」

「でも、会長、イワオはいたずら目的で麗奈ちゃんをやぎ山に連れていったことも、音無のおじさんを崖から突き落としたことも認めなかったんですよね?」 

「人を殺して、はい、自分がやりましたって素直に認める犯人ばっかりなら、警察は楽できるだろうよ」

「でも、その警察の取り調べも任意だったわけでしょ? イワオは自分が住んでいた小屋の前で亡くなったんだから」

 眉間に深いしわを寄せ、会長は修一郎を睨むように見た。

「おまえ……、なにが言いたいんだ?」

 怯むことなく、修一郎はゆっくりと口を開く。

「イワオは本当に、音無のおじさんを殺したのかなって」

「はぁ? イワオは自ら命を絶ったんだぞ。音無を殺してなければ、自殺なんかするはずないだろうが!」

 熱くなって唾を飛ばす会長とは対照的に、修一郎は淡々と質問を重ねる。

「彼は本当に自殺したんでしょうか?」

「当り前だ! 目撃者が何人もいたんだから。わしもヤツが頭から灯油かぶって、自分で火をつけるところをこの目で見た。他にもわしの部下や音無のばあちゃんや琴子、こやぎ庵や蕎麦辰、ああ、そう、仁先生も、二十人くらいの人間が、ヤツの自殺を目の前で見るはめになっちまったんだ」

「それだけ大勢の人間が目撃しているなら、彼の自殺は間違いなさそうですね」

「修一郎、おまえ、イワオは自殺ではなく、殺されたとでも思ったのか?」

「僕、ずっと前から気になってたんですよ。おかしいなって」

「なにがだ? なにが、おかしい?」

「小学校の七不思議にもなってる『イワオの幽霊』ですよ。どうしてみんな、そこまでイワオを怖がるのかなって」

「自分で火だるまになって死んだ人間が近くにいたら、ガキが怖がるのは当然だろうが」

「それはわかるんですけど、普通は幽霊って、四谷怪談のお岩さんも、番町皿屋敷のお菊さんも不遇の死を遂げた被害者なんですよ。だから、誰かを恨んで化けて出る。四年前の事件でも、殺された音無のおじさんが幽霊になって出るならわかります。でも、いくら焼身自殺という衝撃的な方法で亡くなったとはいえ、自業自得で死に至ったイワオがどうして幽霊として学校の下駄箱の鏡やトイレに出てくるのか、すごく不思議で」

「それは……、怖いからじゃないのか?」

「怖い……から?」

「学校の怪談なんて、どうせガキがガキを怖がらせるためにつくったもんだろ。幽霊が殺人犯で、自分も殺されるかもしれないって設定のほうが、ガキどもには怖いんじゃないのか」

「……なるほど、そういう考え方もあるのかもしれないですね」

 口ではそう答えながら、修一郎の瞳はまるで納得していないように見えた。

(第11回へつづく)