人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

第九話

「なんか……、みんな、怖かったね」

 集会からの帰り道、仁美は修一郎に感じたままの思いを吐き出す。

「琴子さん、大丈夫かな……って、ひとの心配している場合じゃないのかもしれないけど。修一郎が言ったとおり、もしアリバイがなかったら、私が音無のおばあちゃんを突き落とした犯人にされてたよ……ね?」

 なんの反応も返ってこないので顔を覗き込むと、修一郎はなにか別のことを考えていたらしく、「な、なんだよ?」と驚いてのけぞった。

「そっちこそ、なによ? ……なに考えてたの?」

「……どうしてみんな、音無のばあちゃんが毒を入れたと決めつけてんのかな、って。博士だって同じくらい怪しいはずなのに」

「博士には動機がないし、優しくて穏やかで紳士的な人だって、誰もが知ってるからじゃない?」

「優しくて穏やかな紳士が、奥さんをボコボコにするか?」

 確かに、優しくて穏やかだと思っていた和菓子屋と蕎麦屋の店主が豹変する姿を目の当たりにしたばかりだ。

「夫人は、自分でやったって言ってるけど」

「ありえないだろ。そんなの誰も信じてないのに……。問題が家庭内で収まってて、自分たちのほうに火の粉が飛んでこなけりゃ、なにも起きてないのと同じってことなのかよ」

 仁美が歩きスマホで田んぼに落ちたことがトップニュースになるような平和な町で、トラブルと思われていたのは、真壁家に対する音無ウタの嫌がらせと、博士による夫人へのDV疑惑だけだ。ウタと博士があの日、テントに入っていたのは偶然なのだろうが、今日の集会で博士の話題は確かに一度も出てきていない。

 少しだけ先を歩いていた修一郎が突然足を止め、仁美はあやうくぶつかりそうになった。

「ちょっと、なに……?」

 修一郎の視線の先には、記者と思われる男を振り払おうとしている髪の長い少女がいた。助けを求めるように顔を上げた彼女と目が合う。

 会長の孫娘、成富麗奈だ。

 すぐに動いた修一郎に一瞬遅れて、仁美も走り出す。

「ちょっと、なにやってるんですか!? あんた、どこの記者?」

「あれ? 岸田修一郎君と真壁仁美さんじゃない。ちょうどよかった。ちょっとお話聞かせてもらえる? 僕、こういうものなんだけど」

 差し出された名刺を受け取りながら、修一郎は冷ややかに言い放つ。

「へー、大手出版社の記者さんでも、嫌がる小学生の女の子につきまとって無理やり話を訊き出すなんてゲスなことするんですね」

 仁美は麗奈の手を引いて、記者から引き離す。彼女の胸には可愛い仔犬が抱かれていた。

「やだなぁ、ゲスな、とか言わないでよ。普通に話聞いてただけなんだから」

「ただでさえ子供への執拗な取材は問題なのに、彼女、病み上がりなのわかってますよね? あまりにもタチが悪すぎるから、今後はこの町の住人全員、あなたの取材を拒否します」

「え、ちょっと待ってよ。いくらなんでもそんな……」

「これ以上しつこくすると、出るとこ出ますよ」

 ぴしゃりと言い切り、修一郎は麗奈の背を押し、歩き出す。記者もそれ以上追いかけてはこなかった。

「大丈夫だった? なにか変なことされてない?」

 会長宅へ送る道すがら気遣う仁美に、麗奈は青い顔をしたままコクンとうなずく。

「今、ああいう人たちがいっぱいいるから、絶対にひとりで出歩いちゃダメだよ。っていうか、麗奈ちゃん、体の具合はもう大丈夫なの?」

 また小さくうなずき、「このコが……」と麗奈は仔犬を抱きしめる。

「おうちから飛び出しちゃって。すぐ捕まえたけど、ずっとお散歩連れて行ってあげられなくて可哀想だったから、ちょっと歩いてたらあのおじさんが……」

 麗奈の胸の中で仔犬がキューンと甘えた声で鳴いた。

「そっか。麗奈ちゃんは優しいね。でもこれからは気をつけて。ねぇ、今のおじさんになに訊かれた?」

「最初は、具合はもういいの? とか、おしるこはどんな味がした? とか、誰がおしるこに毒を入れたと思う?とか、それから……、お友達が亡くなったのに君だけ助かってどう感じた? とか……」

 それを聞いた瞬間、修一郎の表情が歪むのを、仁美は見た。いくら仕事とはいえ、ぎりぎりのところで生還した小学生の女の子にそんな質問をするなんてどうかしている。

「なんなの、あいつ! 殴ってやればよかった!」

 声を荒らげ振り返ったが、もう記者の姿はどこにも見えない。怒りに震える仁美に声を潜め、麗奈は続けた。

「怖くて、なにも答えないで逃げようとしたら、あのおじさん、麗奈に言ったの。狙われたのは君だって言ってる子がいるよって。それが本当なら……、麗奈のせいで……、かすみたちは死んじゃったってこと?」

「誰が言ったの? 麗奈ちゃんが狙われたって」

 食い気味に尋ねた修一郎に気圧され、麗奈は少し後ずさりながら答える。

「わからない。おじさんから逃げなきゃって必死で、訊けなかったから」

「じゃあ、誰が言ったか、心当たりは?」

 必死に詰め寄る修一郎に目を丸くしながら、麗奈は愛らしい顔をぶるぶると左右に振った。

「ねぇ、麗奈ちゃん、君、最近、誰かに告白されたでしょ?」

「告……白?」

 予想外の問いかけに眉をひそめる麗奈に、修一郎は畳みかける。

「うん。告って振られたヤツが毒を入れたんじゃないかって言ってるコがいたから」

「えっ、誰が!? 誰が言ったの、そんなこと?」

「顔は見てないから、誰かはわからない。麗奈ちゃん、教えてくれないかな、誰に告白されたか」

 修一郎のまっすぐな視線を避けるように、麗奈は目を伏せた。

「……無理」

「どうして? なんで言えないの?」

「だって……、告白なんてされてないもの。でも、なんで麗奈が狙われたって言われてるのかは想像がつく」

「えっ!? なんでなの?」

「みんなが噂してるって聞いたから。麗奈たちに毒を飲ませたのは……イワオだって」

 小さく肩を震わせる麗奈を前に、仁美と修一郎は顔を見合わせる。

「それ、僕も聞いたけど、ありえないよね。イワオはもうこの世にいないんだから」

 冷めた口調で言い放つ修一郎に、「そうだけど……」と、麗奈は硬い表情で口を開く。

「だから、イワオの幽霊が鍋に毒を入れたって言われてるみたい。麗奈だって信じられないし、信じたくない。でも次は自分がイワオに殺されるかもって、給食を食べない子もたくさんいるって……」

 麗奈の目が不安そうに揺れる。声もかすかに震えていた。整った顔立ちは大人びて見えるけれど、まだ小学生の女の子なのだ。

「麗奈ちゃん、怖がることないよ。幽霊なんて絶対にいないんだから」

 努めて明るい声で呼びかけた仁美を、麗奈はすがるような目で見つめる。

「死んだ人間が鍋に毒を入れるなんて、どう考えてもありえないでしょ? それに、もし本当に幽霊がいるなら……、私たちのところに来てないの、おかしくない?」

「え……?」

 おどろく麗奈に、仁美は目顔で語りかける。言葉にしなくても伝わるに違いないから。

 死んでしまった人間が生きている人間のもとを訪れることができるなら、仁美のところには母が、修一郎と麗奈のところにはかすみが会いに来てくれているはずだ、と。

「そっか……」とつぶやく麗奈の大きな瞳が潤む。「……幽霊なんて、いないんだね」

「そうだよ、絶対いないって。だから、麗奈ちゃん、そんなバカな噂、信じちゃダメ」

「うん。ありがとう、仁美ちゃ……ん」

 ずっとひとりで抱えてきた苦しい思いを吐き出すみたいに泣き出した麗奈を、仁美は仔犬ごとぎゅっと抱きしめる。

 ようやく鼻をすすりながら麗奈が顔を上げると、待ち構えていたように、修一郎が質問をぶつけた。

「麗奈ちゃん、本当に誰からも告白されてない?」

「……え? う、うん、最近は」

「最近じゃなくても、前に振った男子に恨まれて、つきまとわれてたり、とかは?」

 そんなことはされていないと、麗奈は首を横に振ったが、修一郎は諦めず、「だったら……」となおも問いかけを重ねようとする。

「ねぇ、修一郎、麗奈ちゃん、疲れてるみたいだから、今日は早く家に帰してあげよう」

 見かねて口をはさんだ仁美の言葉に、「それ……」とかぼそい麗奈の声が重なる。

 言いづらそうに修一郎の顔を見上げ、麗奈は続けた。

「……それ、麗奈じゃないと思う」

「えっ? どういうこと?」

「告られたの、麗奈じゃなくて……、かすみ」

「えっ!? かすみが?」

 修一郎の声が上擦る。同じように仁美も驚いていた。彼が話していた、最近かすみの様子がおかしかったのも、祭りに行くのをしぶっていたのも、そのせいだったのか……?

「誰に? かすみ、誰に告白されたの!?」

 修一郎の剣幕におののき、麗奈は助けを求めるように仁美を見た。

 麗奈を会長の家に送り届けると、その足で修一郎と仁美は彼の家に向かった。

 玄関チャイムを鳴らしたが、応答がない。

「いないみたいだね」

 あきらめて帰ろうとした仁美を無視し、修一郎は門扉を開けて中に入り、玄関のドアを乱暴に叩く。

「ねぇ、いないの? 本当はいるんだろ、中に!?」

 ドアをガンガン叩きながら大声で呼びかける修一郎に仁美は目を剝いた。

「ちょっと、やめてよ。大きな声出すと、マスコミのヤツらが来ちゃうかも……」

 だがそれより早く内側から開錠音が響き、ドアが細く開けられた。

 その隙間から覗く眼鏡の奥の昏い瞳と整った蒼白い相貌は、音無流星のものだ。

「すみません。具合悪くて寝てたので」

「そうなんだ。悪いけど、少しだけ話を聞かせてくれない?」

 言葉は丁寧だが有無を言わさぬ口調で告げると、修一郎はドアを引き、強引に中へ入る。中性的な美貌を持つ流星の細い体はなす術もなく、押し戻された。

「上がらせてもらうよ」

 勝手に階段を上がる修一郎を啞然と見送り、仁美は「いきなり、ごめんね」と流星に詫びた。

「琴子さんは?」

「おばあちゃんの病院だと思います」

 彼女はさっき病院から町内会館へ来たようだったから、買い物でもしているのだろうか。

「流星君、もしかして熱ある?」

 明らかに体調が悪そうな流星を気遣うと、「大丈夫です。解熱剤飲んだから」と蚊の鳴くような声が返ってきた。

 一緒に二階に上がり、流星の部屋のドアを開けた仁美は、勝手に流星の机の引き出しを物色している修一郎にぎょっとする。

「ちょっと、修一郎!」

「仁美、ドア」

「は?」

「入って、ドア閉めて」

 有無を言わさぬ口調に仕方なく従うと、修一郎は引き出しをひっかきまわしながら「流星君」と、振り返りもせずに呼びかける。

「君、かすみに告白した?」

「え……」

 一瞬驚いたように、流星は声を詰まらせた。だが、すぐに「あ……、はい」と小さくうなずく。

 そのあまりにもあっけない反応に、修一郎と仁美のほうがぽかんとしてしまう。

「本当に君だったんだ。なんか意外だな。麗奈ちゃんとつきあってたんじゃなかったの?」

 小さく首を横に振る流星に、修一郎は質問を重ねる。

「君とかすみは友達だと思ってたけど……、いつから好きだったわけ?」

 答えあぐねたのか、流星は目を伏せた。小学生にしてはずいぶんと大人びたその顔からは表情が読み取れない。

「どうして答えられないのかな? 告白したんでしょ? かすみにつきあってくれって言ったんじゃないの?」

「……はい」

「それって、好きだからでしょ? それまで友達だったかすみとつきあいたいって思ったきっかけはなんだったの? かすみのどこが好きだったの?」

 黙ったままの流星に言葉をぶつける修一郎の声には、怒りが滲んでいる。

「なんで黙ってるの? こんなこと僕に訊かれる筋合いじゃないって思ってる? 確かにそうだよね。でも、話してもらえないかな。君からしか聞けないでしょ。かすみは死んじゃったんだから」

 その一言に、流星の肩がビクッと反応した。

「どうしたの? まさか、君、かすみの死になにか関わってるわけじゃないよね?」

 ブルブルと首を振りながら、流星は後ずさり、勉強机に腰をぶつけた。その机にも本棚にも参考書がずらりと並んでいる。片隅に天体望遠鏡が置かれているものの、マンガやゲームやおもちゃのたぐいがなにひとつ見当たらないので、小学生の部屋とはとても思えない。

「なんでそんなに動揺してるの?」

「……僕のこと、疑ってるんですか?」

 この部屋に来てからはじめて、流星が「はい」以外の言葉を口にした。

「君が疑われるような反応するからでしょ。かすみのこと、好きだったのかも教えてくれないし。それって告白して断られて、プライドが傷ついちゃったから? それで、仕返ししてやろうと思ったわけ? あの日、お神輿担がずにテントにいた君なら、おしるこに農薬入れられたはずだよね」 

「そんなこと……」 

「してない? 本当に?」

 具合が悪そうな流星を案じ、仁美は彼に詰め寄る修一郎を止めた。

「修一郎、ちょっと落ち着こう。流星君、熱があるから」

 たとえかすみに振られていたとしても、流星がかすみを狙って毒を入れたとは、仁美にはとても思えなかった。ふたりが仲良さそうに話している姿を何度も目にしていたからだ。もし流星がかすみに毒を飲ませたのだとすれば、修一郎が涼音や自分に毒を盛るのと同じくらい違和感がある。

 それは修一郎も感じていたらしく、ちょっと反省したのか、声のトーンが少し下がった。

「毒を入れてなかったとしても、かすみに嫌がらせしてたんじゃないの?」

「まさか。どうして、僕が、そんな……」

「だったら、なんでかすみはあの日、祭りに行くことを嫌がったんだよ?」

 流星が大きく目を見開いた。

「……嫌がってた? どうして? かすみちゃんはなんて?」

「なにも言ってないよ、ただ行くのをためらってたって……」

「それなら、なんで祭りに行ったんだよ!?」

 はじめて感情的な反応を見せた流星を、修一郎はじっと見つめる。

「なんで怒ってるの? なにに対する怒り? かすみに死んでほしくなかった?」

「当り前じゃないですか、友達だったんだから」

「友達じゃなくてつきあいたかったから、告白したんでしょ?」

 力なく首を左右に振り、流星はつぶやく。

「あれは……」

 あきらめたように息を吐き、流星は声を絞り出す。

「……罰ゲームだったから」

「罰ゲーム?」

 驚きのあまり修一郎の声がひっくり返った。

「罰ゲームって……、誰かに、かすみに告白してこいって言われたってことか?」

 下を向いたまま、彼は小さく首を縦に動かす。

「誰に?」

「……え?」

「誰が君にそんなことを命じたの?」

 消え入りそうな声で「武蔵君」と、流星は体の大きな中学一年生の名前を告げた。

「なんで中一の武蔵が、小六の君にそんなことをさせたんだよ?」

「わかりません」

「どうして告白の相手が、かすみだったんだ?」

「それも、わかりません」

「罰ゲームなら、罰を受ける理由があったはずだよな? なんで君が罰を受けることになった?」

「……たぶん、つきあいが悪いから。呼ばれても、塾とかで行けないし」

 そういえば、武蔵が小学生を何人か引き連れ歩いてるのを、仁美も見たことがあった。

 流星が噓をついているようには見えない。ただ、彼はこんなに昏い眼をした子供だったろうか……。

「それ、本当なんだな!? かすみに毒を飲ませたりしてないんだな?」

 そう言いながら修一郎が流星の胸倉をつかんだ瞬間、階段を上がってくる足音が聞こえた。

「流星、お客様?」

 いつの間に帰ってきたのか、琴子の声がし、修一郎は流星のスエットから手を放す。ドアを開けた琴子の顔は、硬く強張っていた。

「あら、仁美さんと修一郎さんだったのね」

「あ……、すみません、えっと、流星君のお見舞いに」

 引き攣った顔で仁美が取り繕うと、琴子は「まあ」と驚き、陽だまりのような笑みが浮かべた。だが、それはすぐに消え、彼女はきゅっと唇を引き結ぶ。涙を堪えるように。

「え? え? 琴子さん、どうしたの?」

「ごめんなさい、やだ、私ったら」

 今にも泣き出しそうな表情で、琴子は微笑む。

「おふたりが流星を気遣ってくれたのが、嬉しくて」

 申し訳なさ過ぎて居心地が悪くなり、仁美は「じゃあ、私たちはそろそろ」と修一郎の背中を押した。

「そんな……、せめてお茶だけでも飲んでいって」

「ううん、流星君、熱あるみたいだし、琴子さんだって、おばあちゃんのお世話で疲れてるでしょ。流星君、具合悪いとこ、ごめんね。早く元気になってね」

 流星に手を振り、修一郎とともに階段を降りる仁美に、琴子は追いすがる。

「本当にもう帰ってしまうの?」

 仁美がうなずき、玄関でスニーカーに足を突っ込むと、これ以上引き留めるのは失礼だと思ったのか、琴子は真顔で頭を下げた。

「流星を見舞ってくれてありがとう。本当に嬉しかった」

 狼狽した仁美は、胸の前で慌てて手を振る。

「やめてよ、琴子さん。そんなお礼を言われるほどのことじゃ……」

「言われるほどのことよ。今、流星のことを心配してくれる人なんて、この町には他に誰もいないもの」

 強い口調で言い切る琴子に驚き、仁美は目を見開く。

「見たでしょ、さっき。町内会館にいた人たち、みんな、義母がやったと決めつけて……」

 その光景を思い出し、仁美は思わず訊いた。

「琴子さん、どうして言わなかったの? 警察にマークされてるのは博士だって」

「まさか、そんなこと言えるわけないわ。本当に彼がやったのかなんて、わからないし」

 それでも仁美が琴子だったら、そして、あんな状況に追い込まれたら、きっと口にしてしまっただろう。

「私、さっき、町内会館でね、ふっと思ったの。ああ、義母は囚人なんだって」

「しゅうじん?」

 意味がわからず訊き返した仁美に、琴子はうなずく。

「そう、囚人。それで、他の人たちは看守」

 看守と聞いてはじめて、しゅうじんは囚人のことかと漢字が思い浮かんだけれど、それでも意味がわからない。困惑する仁美の隣で、修一郎がハッとして、琴子を見た。

「ルシファー・エフェクト?」

 琴子がうなずき、ふたりは通じ合ってるようだったが、聞き覚えのない言葉に、仁美は眉を寄せる。

「なに、それ?」

「監獄実験って聞いたことあるだろ? 映画の題材にもなった」

 知っていて当然のように訊いてくる修一郎に首を横に振ると、「マジか」とつぶやきながらも説明してくれた。

「スタンフォード大学の心理学者、フィリップ・ジンバルドーが提唱した概念で、人間は天使でも悪魔でもないけれど、監獄のような環境に置かれ、囚人役と看守役に割り振られると、罪を犯してもいない囚人役の人間はあっという間に従順になり、看守役は強権的になる」

「は? なに、それ? きょうけんてきって、どういうこと?」

「だから、囚人役の人間にはどんなひどいことをしてもかまわないと、看守役は残虐性をエスカレートさせていってしまうってこと」

「えー、役でやってるだけでしょ? そんなふうになるかな?」

 にわかに信じられず、疑いの目を向ける仁美に、琴子が言った。

「普段は優しい普通の人間が、そういう状況下では、簡単に悪魔になってしまうのよ」

 ルシファーとはもともとは天使だったのに、神に逆らって、地獄に落とされた悪魔なのだそうだ。

「えっと、つまり、音無のおばあちゃんが囚人役で、他のみんなが看守役だから、みんなが琴子さんにひどいこと言ったってこと?」

「それだけじゃない。ばあちゃんを崖から突き落としたのは、看守役の誰かじゃないか……ってことですよね?」

 修一郎に問われた琴子はうなずきこそしなかったが、その目に光が宿ったように見えた。

「え? え? 看守役ってどういうこと?」

「だから……」と、修一郎は仁美に向きなおる。

「鍋に毒を入れた音無のばあちゃんは囚人だから、どんなことをしても……、殺してしまってもかまわないと思った人間が、背中を押したんじゃないかってことだよ」

「おばあちゃんが犯人と決まったわけでもないのに?」

「そうだけど、集会でみんなそう決めつけて、ばあちゃんが犯人って思い込んでただろ」

「いや、でも、急にそんなふうになるものかな? 実際に崖から突き落とすなんて……、ついこの間まで、みんな、仲良くしてたのにさ」

 納得できず唇を尖らす仁美に、琴子は静かに語りかける。

「あんな事件が起きて、この町は今、特殊な状況下に置かれてるでしょう。役割は看守と囚人ではなく、被害者と加害者なのかもしれないけど、集会に来ていた人たちに、私は恐怖を感じた。みんな、自分が被害者でいるために、誰かを加害者にして、この町から排除しようとしているんじゃないかって」 

 切々と訴える琴子の声が、玄関の暗く淀んだ空気に吸い込まれていく。あの集会で自分や琴子に向けられた被害者然とした人々の視線が脳裏に蘇り、仁美はぶるりと身震いした。

(第10回へつづく)