第二章 大津絵 OTSU-E(承前)

 車中、円花は又兵衛に大津絵の制作についてだけでなく、キミ代との関係についてインタビューをはじめた。なるほど、一方的に運転を押しつけたのは、移動時間に取材するためだったのか。

 円花は言葉巧みに、二人の職人が疎遠になった事情を聞きだす。

 ――先代の金丸又兵衛は、大津絵に惚れこんでその道に単身で飛びこんできたキミ代のことを、実の娘のように可愛がっていた。年下のキミ代と当代の又兵衛は、いわば兄妹弟子としてともに大津絵を描いていた。しかし当代の又兵衛が父から襲名した数年後、キミ代は工房に現れなくなった。

 理由を訊ねた円花に、又兵衛は肩をすくめる。

「私にもよく分からないんです」

「分からないってどうして? きっかけとかあったでしょ」

 砕けた口調になって迫る円花を気にすることもなく、又兵衛は記憶を辿るように間を置いてから説明する。

「キミ代さんが口をきいてくれなくなった日のことは、今でもよく憶えています。真夏の蒸し暑い日でした。私たちはいつものように並んで大津絵を描いていたんですが、キミ代さんが仕上げた鍾馗さんの絵をめたら、とつぜん顔色を変えて、怒って帰ってしまったんです。なにがなんだか分からなかったんですが、確認しようにも工房に来なくなってしまって。こっちも急にそんな態度をとられてショックだったし、何度か会いにいっても顔を見せてくれず、いつのまにか深い溝ができてしまいました」

「褒めたのに、ですか」と山田はハンドルを握りながら首を傾げる。

「ええ、ショックでしたよ。それまでは仲も良かったですからね。もしかすると、不用意に褒めることで彼女のプライドを傷つけてしまったのか、知らず識らずのうちに彼女に疎まれていたのか、本当は彼女が『金丸又兵衛』を襲名したかったのかとか、さまざまに想像したんですが――」

「おじいちゃん、いったい何年放置してたのさ!」

 円花は前のシートに乗り出し、又兵衛は「え?」と身を引く。

「今回のイベントで二人の付き合いもまたはじまるよ、よかったね!」

 又兵衛の肩をぽんと叩いた円花は、まるでキミ代と又兵衛のことを以前から知っているような口ぶりだったが、山田はもう気にならなくなっていた。又兵衛も「そうですね、とにかく謝ります」と勇気を得たようだ。

 ケアハウスは琵琶湖湖畔に位置し、個室からは対岸の草津市まで望めそうだった。駐車場に車を停めて、山田と円花は又兵衛とともに受付に向かう。来意を告げると、女性スタッフがにこやかに応対してくれた。

「首藤さんを探してきますので、少々お待ちください」

 待合スペースにあったパンフレットを手にとる。ケアハウスとはつまり、高度な介護が必要なわけではないけれど、独居生活が難しくなった高齢者が、比較的安価で日常生活のサポートをしてもらえる住居型の福祉施設らしい。

 パンフレットをつい読みこんでしまったが、ふと顔を上げると、高齢男性がこちらを興味津々に見ながら、杖をついてゆっくりと歩いていった。見回せば新聞を読んでいる入所者もいる。たしかにずいぶんと自由な雰囲気だ。

 キミ代が現れるのを待つあいだ、山田は受付の近くのお手洗いに向かった。用を済ませて手を洗っていると、ほのかに煙草の匂いが漂ってくる。どうしてこんなところで煙草の匂いが? 開け放たれた勝手口の外をのぞくと、車椅子に乗った高齢女性が喫煙をしていた。部分的に紫色に染められた白髪で、貫禄のあるお洒落なご婦人だ。目が合って、あからさまに眉をひそめた。

「なんやの、お兄さん?」

 しまった、居合わせてはいけないところに来てしまったようだ。というか、こんな施設で喫煙なんて許されるのか。これはきっととんでもない不良ばあさんだ。「なんでもありません、失礼しました」とその場を立ち去ろうとしたとき、勝手口の方からさきほど受付で対応してくれた女性スタッフが現れた。

「もう! キミ代さん、また煙草なんか吸って」

 キミ代? なんとこの不良ばあさんが首藤キミ代だったのか。咎めるスタッフに、キミ代は「ほやかて、今日はヒロシくんがおらへんのやもん。ヒロシくんなしじゃ一日なーんもおもんないわ」とそっぽを向いた。

「わがまま言わないでください。彼、今日はシフトが入ってないんです」

「分かっとらへんな。イケメンがおってくれれば、こっちも元気になるねん」とねたように唇をとがらせたあと、キミ代はちらりとこちらに目配せした。なんとも意味ありげな視線だったので、反射的に後ずさりする。

「ところでお兄さん、どなた?」

 キミ代からいささか艶っぽい声で訊ねられ、山田は固まる。この人にかかれば、俺も「イケメン」の範疇はんちゆうなのだろうか。

「は、はじめまして、日陽新聞社文化部の山田文明と申します。このたびはキミ代さんに折り入ってご相談したいことがあって、大津絵師の金丸又兵衛さんとここにお伺いしたところなんです」

「又兵衛やて? なにを今更」

 キミ代は途端に笑顔を失くしたが、すぐに切り替えて「又兵衛なんかどうでもええわ。お兄さん、新聞記者さんなんて優秀な人なんやね。よう見ると、整った顔立ちしてるやないの。芸能人に似てるって言われるやろ? なんちゅう子やったかな、最近ど忘れが激しくって……あ、分かった、神木くんやわ、神木隆之介くん!」と嬉しそうに指を鳴らした。

「年齢は近いですけど、似てはいないと思いますよ」とタジタジしながら山田が否定しても、キミ代は「いいや、絶対に神木くんに似てるで、そっくりやわ」と譲らない。人の話を聞かない不良ばあさんだ。

「見つけた!」

 背後から声がしたので、ふり返ると円花が仁王立ちしていた。彼女の背後から、又兵衛が遠慮がちにこちらを覗く。山田はわれに返り、円花のことを紹介してキミ代に相談したいことを打ち明ける。「それで、僕たちはキミ代さんに代理講師をお願いしたく――」

「都合のええことばっかり言わんといて!」

 キミ代は山田の方ではなく、円花の影にいる又兵衛を睨んでいた。

 又兵衛はびくりと肩を震わせたあと、意を決したように前に飛びだし、キミ代の車椅子の前にひざまずいた。

「キミちゃん、あのときは君の気分を害してしまったみたいで、ほんまにほんまに申し訳なかった! でもわしもなんでキミちゃんがあんなに怒りだしたんか、よう分からへんかってん」

「分からへん? どんな神経してんねん。一生懸命絵を描いていたうちのことを、常軌を逸した女みたいに侮辱しといて」

「まさか、そんなこと言うわけないで!」

「いーや、言ったね。うちの絵を見て『正気なのか』って訊いたやんか」

「わしが君にそんな失礼なことを訊くわけないで! あのときのことは何べんも思い返したから、よく覚えてる。わしはただ、キミちゃんが描いているのは『鍾馗か』って訊いただけで……あ」

 微妙な空気が流れ、全員がポカンと顔を見合わせた。

「まさか、そんなダジャレみたいな意味のとり違いのせいで、お二人は何年間も仲違いをなさってたんですか」

 山田がおそるおそる訊ねると、さすがのキミ代もバツが悪そうにしている。「あのときは自分でも、新たな路線を開拓するために実験してたんや。せやのに『正気なのか』なんて訊かれてもうたら、誰かて自信なくすやろ。大体、あんたのアクセントがおかしいのがあかんのよ」と呟いた。

 さっきから思い込みが激しく人の言うことを聞かないばあさんだと感じていたが、若い頃から変わらないようだ。そういえば、円花にも似たところがあるよな。興味のないことは何回訂正しても直さないし、思い込めば突っ走るし。このあいだも「アライバ」コンビのことを「洗い桶」とずっと間違えていた。と山田が思いを一人巡らせていると、又兵衛が申し訳なさそうにつづける。

「そうやったんやね……わしとしては、本当にキミちゃんが描いていた画題が鍾馗さんかどうか分からなかっただけでさ。なんせキミちゃんが描いていたのは、素っ裸な鍾馗さんだったから」

「めっちゃ暑かったんやもん、あの日」と恥ずかしくなったのか、キミ代は声を大きくした。「とにかく! うちはもう大津絵は描いてへんねん。ご覧の通りヘルパーさんのお世話になってるし、腰も痛ければ目も見えづらい。はるばる来てくれたのに悪いけど、力にはなれません」

 強い口調に怯んだ山田の横で、それまで傍観していた円花が口をひらいた。

「ま、誤解がとけてよかったじゃないの! もし引き受けてくれたら、うちの山田が全面的にサポートしますから、最大限ご随意のままに使ってください」

 円花に背中を押された山田を見つめて、キミ代は眉を上げた。

「随意のままにって……たとえば、手を握ったり?」

 ん⁉ なにを言った今?

「もちろん、どうぞどうぞ!」

 グイグイと前に出され、キミ代からぎゅっと手を握られた。

「やっぱり若いお兄さんはええなぁ。ホルモンが分泌されるって感じ? なんや昔を思い出してきたわ。私かてモテへんかったわけちゃうねんで。才能と美しさに惚れこんで、言い寄る男も数え切れへんくらいおったし」

 おいおいおい! なんだこの状況は。逆セクハラなうえに、キミ代は全盛期の自慢話を延々とつづける。発汗が止まらないが、キミ代の機嫌はよくなってきたらしい。救いを求めて円花を見ると、鞄からファイルを出した。

「これ、その頃の首藤さんですよね?」

 円花が差し出したのは、古い記事のコピーだった。美しく溌溂はつらつとした若き日のキミ代本人の写真が掲載されている。おそらく自身で描いたのであろう大津絵を掲げて、カメラに向かって満面の笑みを浮かべていた。

「自分、なんでそんなん持ってんの!」

 キミ代の驚きは山田も同じだった。いつそんなことまで調べたのか。まさか又兵衛が怪我をしてキミ代を訪ねるという展開を見抜いていたとは考えにくい。円花は熱のこもった口調でこうつづける。

「首藤さんは三十年前、ルーブル美術館をはじめ世界の各都市で大津絵の展示をなさっていましたよね。昔からヨーロッパで高い評価を得ていた大津絵を、キミ代さんは当時広く宣伝してらっしゃった。そんなすごい方がいるのに、今回大津絵を展示する展覧会に関わっていただけないなんて残念すぎます。どうか力を貸していただけないでしょうか? 他ならぬ日本の技、大津絵のために」

 いつになく敬語で真面目に頭を下げている円花を、しばらくキミ代は黙って見つめていた。

「……もう大津絵なんて知っている人も少ないし、うちの子どもやって、古臭いから見向きもせぇへんけど」

「そんなことはありません。今でも大勢のファンがいます!」

 円花がまっすぐ目を見て言うと、キミ代は深く息を吐いて「しゃあないな」と呟いた。

「大津絵っちゅうんはな、楽しくテキパキと描くもんやねん。なぜなら、旅人に売られたものやろ? 旅人は疲れがとれたら、またつぎの目的地に出発するから、彼らを待たせへんように手際よく、しかも楽しませながら描かなあかん。在庫を売る場合もあったんやけど、つくりたて描きたての絵がほしいっていう人もいたからね。見世物としての面白さも人気が高かった理由なわけよ。やから今日は、その面白さを体験していってね」

 資料館の創作ルームで、キミ代は参加者たちを前にマイクを握っていた。

 昨夜は、キミ代が娘夫婦に預けていたという、大津絵を描くための道具を引きとりに行ったり、新たな段取りを確認したりと、慌ただしく過ぎていた。山田達がホテルにチェックインしたのは、夜も更けてからだった。

 キミ代はイベント開始までは、まだ気の乗らない様子だったが、三十名を超える参加者の前に立ったとたんに一変し、活き活きと意欲的になった。

 そして山田は今、なぜかキミ代の助手を務めている。自分は手先が不器用だから足手まといになりますと断ろうとした山田に、なんでもお願いしていいって話やないのとキミ代は有無を言わせなかった。

「まずは、紙づくりからいくで」

 数名ずつのグループをつくった参加者に、キミ代は半紙二枚を配って、つなぎ合わせるように指示した。山田はキミ代の傍らで、ぎこちない手つきで縦長につないでみる。

「こ、こうでしょうか」

「そうやない! 表裏がちゃう!」

 いざ大津絵を制作する段になると、キミ代の迫力はいっそう増した。それをギプス姿の又兵衛が「まぁまぁ、みなさん最初なんやから」と穏やかにフォローする。そんな二人のやりとりは参加者からの笑みを引きだし、わいわいと作業は進んだ。

「つぎは、みなさんが選んだ画題に応じた、合羽摺かつぱずりの道具を配りまっせ。合羽摺っちゅうんは、江戸時代の合羽に使われていた素材の紙で、防水や防虫の効果のある柿渋を染み込ませてあるねん。こういう風に穴が空いてるやろ? この下に白い紙を敷いて、上からパッと刷毛で色を塗れば、あら不思議、こうやって下絵ができるわけや」

「全部手描きじゃないんですね」

 驚きのあまりコメントしてしまった山田に、「そんなん、面倒くさいやないの」とキミ代は答える。なかには肉筆のみで描くものもあるが、たいていは量産のために摺りの技術を交えるという。

「大津絵の描き方にはな、誰でも簡単に描けるような工夫が凝らされてるねん。こうやって摺っておけば、大きく構図がズレることもないやろ?」

 説明を交えながら、あっという間にキミ代は合羽摺を終えた。白い紙のうえに、鬼の顔と手足に当たる朱色の塊がぽつぽつとできあがる。するとつぎの紙を目の前に置いて、さらに何枚も摺っていく。

「大津絵を描いていたのは、そこらへんのご家庭なわけ。お子さんが顔料練って、お母さんが合羽摺して、お父さんが輪郭描いてっていう調子で手分けしててん。制作のすぐ近くに日常があったんよ。さっきまで寝てたような半裸のオヤジが、客が来たからさくっと描いたろかってな具合やね」

 同じ江戸時代の大衆文化でも、プロフェッショナルな絵師、彫り師、摺り師によって分業され、高い技術が求められた浮世絵とは違って、大津絵は素人が一家総出でアットホームに仕上げたのだという。

「ほな、テキパキいくで、お兄さん!」

 山田を指導しながら、キミ代は流れるような手つきで〈鬼の念仏〉の輪郭を、大胆な筆致でなぞっていく。あれよあれよという間に、法衣をまとう角の折れた鬼のキャラクターが生みだされた。「おー」とか「すごい」とかいった歓声が聞こえてくる。

「みなさんもお気軽にどーぞ」

 グループを組んだ参加者たちは、手分けをして合羽摺、輪郭描き、その他の色塗り、といった工程を進めはじめた。互いにコミュニケーションをとりはじめると、部屋全体がいっそうの熱を帯びていく。意外だったのは子どもだけでなく、大人まで夢中になっていることだった。

「あら、お父さん、ずいぶんと集中してるやないの」

 家族連れの班にキミ代が声をかけると、妻が茶化すように「この人、いつもはこんなに張り切らないんですよ。それなのに、今日は息子よりも積極的で」と言う。「程よく制約があるうえに、みんなで協力して進めていくから、一人でやるより筆が進むんですよ」と顔を赤くする夫は、何枚もの〈猫と鼠〉を完成させていた。夢中になって大杯の酒を飲んでいる鼠に、猫が目を爛々らんらんとさせて肴を差しだす画題である。

「お酒はほどほどにっていう意味合いが気に入って、私が選んだんです」

 妻は笑って言った。

 そんな参加者たちを、又兵衛もニコニコしながら見守っていた。腕の怪我のせいで自身は制作できないが、大勢の人たちが代わりに描いている様子を、アドバイスを交えながら満足げに眺めている。

 またキミ代にしても、講師としての才能が十分にあった。軽妙な語り口は笑顔を引きだすし、なにより大津絵の技術は健在である。また多少のミスも「適当でええねん」と笑い飛ばしてくれるので、参加者は安心して楽しめるようだ。

 そうしてイベントが終わる頃には、数え切れないほどの大津絵が完成したのだった。

 山田は大津絵の醍醐味を、少しは体験できた気がしていた。

 家族や友人が力を合わせて描いたのが大津絵であり、それらを買い求めたのもまた、家族や友人の幸せを願う人だった。こうして集まって楽しく描く場そのものも、大津絵の一要素なのではないか。

 参加者が自らの作品をお土産に持ち帰ったあと、スタッフで片づけをしていると、キミ代と笑いあっている又兵衛の姿を見かけた。「キミちゃん、さすがやったなぁ。引退したなんて噓とちゃうの」「なんのなんの、昔から適当にやってたんがバレてもうたわ」などと息の合ったやりとりを交わす二人は、関係も雪解けに向かっているようにうつった。

(第8回へつづく)