銭湯図解とは、建築図法”アイソメトリック”を使って、銭湯を俯瞰図的に描いた水彩作品だ。設計事務所を体調不良で休職した際に銭湯にハマり、その魅力を友人に伝えたいと思い描いたのが始まりだった。SNSに投稿したところ拡散されて、それが嬉しくて何枚も描いていくうちにさらに話題になった。

 

 銭湯図解を10枚ほど描いた頃だろうか、TwitterのDMにとある出版社からメッセージが届いていた。それは銭湯図解の書籍化に関する問合せだった。嬉しさより先に衝撃のあまり数分フリーズしてしまった。まさか自分の人生で本を出すチャンスが来るなんて……。

 

 それでもとりあえずはお話を伺い、腰を落ち着けて今後を考えていこうと思ったら、驚くことにそれを皮切りに、次から次へとあらゆる出版社から書籍化のお話をいただいた。

 

 最終的には15社から連絡をいただき、私の人生でも類をみないモテっぷりで、嬉しさ半分、この後何かしっぺ返しがあるんじゃないかという恐怖心半分でブルブル震えた。

 

 こんなにうまくいくなんて、この先何があるかわかったもんじゃないよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼い頃から本を読むのが好きだったけど、まさか自分が著者になるなんて思いもよらなかった。大きな期待に応えられるだろうか、批判されるんじゃないだろうか、駄作と言われたらもう立ち直れない。不安は抱えきれないほどあったが、それでも本作りという大きな挑戦へのワクワク感が大きかった。

 

 最終的に「やらないで後悔するより、やって後悔した方がずっとマシだ」と銭湯図解の書籍化を決意した。

 

 15社のうち、会った瞬間に「絶対気が合う!」と感じた編集者さんの出版社に決め、2019年の冬頃刊行を目標に執筆を始めた。

 

 銭湯図解の描き下ろし、各銭湯のエッセイ、コラムの文章とイラスト、表紙や目次のイラスト……やることは山のようにあり、ゴールは遥か彼方にあるように感じた。しかし、私は徹夜で図面を直さないといけない状況に対してもなぜかイキイキして涎が出てしまうようなおぞましいマゾ体質だったので、その途方もなさは逆に私を奮い立たせた。

 

 執筆を始めるにしろ、まず必要なのは取材だ。これまで都内のあらゆる銭湯を訪ねるたび、この湯船を描きたい……絶対このお釜ドライヤーは絵に起こすべき……などと妄想を膨らませていたが、ページ数やスケジュールも加味して泣く泣く24件の銭湯を選出し、取材に向かった。

 

 そもそも、銭湯図解は取材→下書き→水彩紙にペン入れ→着彩という順序で描き進めている。取材では、営業1時間半前の銭湯にお邪魔をして、メジャーとレーザー測定器で建物の大きさを実測する。色合いや建物の細部を確認するため200~400枚ほど写真を撮影し、建物への理解を深めるため店主にインタビューを行い、最後に開店時間と共にお風呂にも浸かって取材完了だ。

 

 銭湯図解を描く上で、取材は銭湯の魅力を最も感じられる楽しい時間であり、店主さんのお話を伺える胸が熱くなる瞬間であり、何より様々な事件と苦労に見舞われるひとときである。

 

 

 

 銭湯マニアの皆さんならご存じだと思うが、大田区にある蒲田温泉のお湯は凄まじく黒い。黒湯の銭湯の中でもダントツに黒い。水面から3cm下は何も見えないぐらい黒いので、測ろうとしても湯船の深さがわからんし、なんなら湯船の底で何かが泳いでいてもわからないだろう。未知の生物カマッシーとかいたらめっちゃ楽しい、いてくれ。

 

 黒湯とは、その名の通りお湯が黒い温泉のこと。地層中に蓄積された海藻や木の葉、火山灰が年月をかけて分解されたものが源泉に溶け出て黒く濁るそうだ。都内では大田区の銭湯の多くが黒湯で、保温・保湿効果があるとされているので”美肌の湯”と掲げているところもある。

 

 蒲田温泉には温度が異なる黒湯の浴槽が2つあり、熱い方は指先をつけた瞬間「これ以上は無理」と体が悲鳴をあげているのを感じるほど熱い。このままでは銭湯上級者(自称)の名が廃るとひと息で浸かったが、全身の皮膚に強烈な電気を流し込まれたようなビリビリ感が痛気持ちよくて、水風呂を挟みながら何度も浸かってしまった。ちなみにその様子を見ていた常連らしいおばさんに「マジか」という目で見られた。常連も入らないんかい。

 

 そんな蒲田温泉の黒湯をぜひ図解で表現したいと、書籍化の取材に伺ったのは8月のど真ん中。朝から雲ひとつない晴れ模様で、外にいるだけでコンクリートの地面から熱がじわじわ上がってきて頭がクラクラしてしまう暑さだった。

 

 取材に合わせて早めに準備を進めてくださったようで湯船もバイブラもサウナもすぐに営業を始められる状態だ。ありがたい、とてもありがたいのだが、真夏の8月で準備万端のあつあつの湯船とサウナ、そして窓がやや小さいこともあり、浴室全体が巨大なスチームサウナのようだった。取材の手伝いにきた友人のカメラマンのグレーのTシャツがあっという間に黒く変色したのを見て”よし、秒で取材を終わらそう!!”と私たちは決意を固めた。

 

 私は実測を、友人は写真撮影を、互いにそれぞれの作業に専念して進めていく。だらだら垂れる汗、湿気で歪むメモ帳、熱気で火照る頬…数分おきに冷房が効いた脱衣所に逃げてイオンウォーターをガブ飲みするも、すぐにヘトヘトになってしまう。「あれ? ここの浴槽って測ったっけ……?」「今レーザー測定器でみた数字なんだっけ」など判断力が随分落ちたところで事件が起きた。

 

 

 

 うわーーー!!!!

 

 

 

 女湯側から友人の悲鳴が聞こえてきた。どうした! 男湯を飛び出し浴室の扉をガララと開けると、黒湯の浴槽の前に立ち尽くす友人が絶望的な表情でこちらを見ていた。

 

「レンズフード落としちゃった……」

 

 黒湯に関する冒頭の文章を再掲する。

 

 ”蒲田温泉の黒湯は凄まじく黒い。(省略)水面から3cm下は何も見えないぐらい黒い”。

 

 そんな黒湯にカメラの先端についている黒いレンズフードを落としてしまった、と。

 

 

 

 詰んだ……

 

 

 

 上から目を凝らして黒湯を覗いてみるが、墨を溶かして煮詰めたような湯がそこに静かに在るだけだった。試しに湯に手を差し込んで底をさらってみるが、ちっとも見つからない。

 

 ああ、詰んだな。

 

 茫然と黒い湯をただ眺めるが、開店時間までもう数十分しかない。熱さに悲鳴をあげつつ二人で湯船に足を突っ込み、手当たり……いや足当たり次第に浴槽の底を調べてようやく拾い上げることができた。

 

「黒湯の前では少しの油断もしてはいけない……」私たちは決意を新たにした。

 

 ちなみに、汗でべっちゃべちゃになった後のお風呂は、体の内側から綺麗さっぱり汚れをこそぎ落とされるような爽快感で、自然と涎が垂れてしまうほど最高だった。あのお風呂の気持ちよさは生涯忘れられないと思う。

 

 汗まみれのTシャツの代わりに購入した、陽気なライオンが満面の笑みを浮かべる蒲田温泉オリジナルTシャツは、今ではいい思い出の一品だ。

 

 

 

 熱い場所での取材といえば、サウナ室も大変だ。真冬でも真夏でもまあとにかく熱い。普段なら気持ちよくて仕方ないのに、服を着ているだけで不快度がまるで違う。さらに、写真撮影もレンズが曇ってしまうので一苦労だ。レンズを拭って一瞬で撮影して、曇ったらまた拭って、を淡々と繰り返す。事前にレンズをカイロで温めておけば、レンズ内の温度差がなくなって曇りづらくなる。真冬の場合はそれも追いつかなくなるが、もし今後サウナ室を撮影する機会があれば、ぜひ試してほしい。

 

 そんな苦しい戦いを強いられるサウナ室の取材、ダントツで辛かったのは大崎の金春湯だ。3種類の浴槽、サウナ室、水風呂があり、特にオススメなのは待合室にある畳の寝転びスペースだ。そこでは小さいお子さんが絵本を読んだり、若者たちがビールを飲んで話していたり、ご年配の方がのんびり飲み物を飲んでいたりと、色んな世代の人々が畳に寄り集まっているのがほのぼのとしていてホッとしちゃうのだ。

 

 さらに金春湯の魅力はサウナ。入った瞬間に「これは良質なサウナ」と分かる芯までガッツリ温まる温度、テレビもBGMもないからこそ、静かに汗をかくことができる。体の奥に入ってくるような清らかな地下水の水風呂も心地よい。

 

 中でも大好きなのは水風呂の前にある少し高めのベンチだ。この高さが絶妙で、やや足が浮いてしまう高さが関係しているのか膝まわりにあまみがすぐ出る。どんな初心者を連れてきても必ず金春湯だとあまみが出るので、あまみを経験したことがない人はぜひ行ってみて欲しい。絶対出る。

 

 金春湯も、営業1時間半前に取材に向かった。浴室、待合室と、さくさく測量を進め、最後はサウナ室へ。サウナ室の扉を開けると、途端にモゥッとした熱気が顔面を襲う。これが裸だったらご褒美でしかないのに……! 

 

 短時間で終わらせようと、意を決してサウナ室に飛び込む。まずはレーザーを当てた先から測定器までの距離をデジタルで表示してくれるレーザー測定器で、サウナ室の端から端を測り、耐水性のメモ帳に書き込む。思いもかけない水しぶきや、濡れたタイルにメモを置いて滲んでしまったことが多々あったので、銭湯取材は必ず耐水性のメモ帳を使用しているのだ。

 

 大きい部分を測ったら次はサウナのベンチの奥行きを測る。インテリアコーディネーターの母から譲り受けた赤いメジャーをベンチにあてて数値を確認、その数字をメモ帳に書き込もうとした時、手が止まった。

 

 

 

 さっき書き込んだメモが消えている。

 

 

 

 え、なんで!????

 

 慌ててページをめくってみると、サウナ室のメモどころか金春湯にきてからのメモが丸々なくなっている。なんで!?? 

 

 パニック状態になりつつ手に握るペンを見た時にハッと気づいた。

 

 いつも取材で使っているペンは耐水性なのに、今日に限ってフリクションペンでメモしていたのだ。フリクションペンは、銭湯図解の下書きで使っているペンだ。何色かのペンを使い分けることで下書きの線が重なっても何を示しているかが分かるし、擦ればすぐ消えるし線もキレイなので、図解のような細かい絵の下書きをする時にとても便利なのだ。今日は、取材直前まで他の銭湯の図解を描き進めていたので、誤ってフリクションペンを持ってきたらしい。フリクションのインクは、ペンのお尻についているゴムで擦ることによって摩擦熱で消える。つまり、私がこれまで必死に書き込んできた取材のメモは、熱で消えてしまったのだ、金春湯の熱々のサウナ室の温度で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望した。”サウナ室の温度熱いの大好き教”があれば真っ先に入信するほど熱いサウナが大好きな私が、まさかこんな目にあうなんて。 熱さが……にくい!!!!! 泣いた。そして悔しい想いに耐えながら、これまで測量で行った作業を一からやり直した。もう二度と、サウナ室ではフリクションは使わない。固く、決意をした。

 

 ちなみに取材後に入ったサウナはあっつあつでその日も最高だった。にくいなんて嘘。やっぱり熱いサウナが三度の飯より好き。もっと熱くてもいい。

 

 

 

 銭湯図解の取材はこんな思いも寄らないアクシデントを引き起こしがちだが、大好きな銭湯のことだからその出来事すら愛おしく思えてしまう。何より、アクシデントにめげず取材を終えた後のお風呂は最高だ。何度も来ているはずなのに、苦労して取材を行い、店主の方のお話を伺い、そのこだわりを聞いた後のお風呂はいつもと少し違って見えて、新しい視点で楽しむことができる。

 

 「やっぱり私は銭湯が大好きだなあ」取材の帰り道、毎回そんなことを思う。取材で改めて感じた銭湯の面白さや、インタビューで受け取った店主の方の想い、取材後のお風呂での心地よい時間を、銭湯図解に描き込めていく。さあ、今日の銭湯はどんな風に描いていこう。想像を膨らませながら帰る、家への道すがらも、楽しいひとときなのだ。

(第8回へつづく)