第二章 大津絵 OTSU-E(承前)

 JR湖西線の車窓からは、夜の光にあふれた大津市の街並みが見えた。しだいに遠くなっていく琵琶湖を眺めながら、鉄道が完成するまでは、当たり前だが人々は東海道を足で行き来したのだよな、とはるか昔の苦労を思う。骨の折れる大変な旅だからこそ、旅人は家庭的で心温まる風合いにほっとしたのかな。

 車両はトンネルに入り、京都市内に入った。

 ふととなりを見ると、円花がスマホでこの日のイベントを撮影した動画をいじっている。

「よしっ、これでユーチューブにアップできた」

「え、もう?」

「鉄は熱いうちに打てって言うでしょ。こういうアップは食材と同じで、鮮度が命なんだよね」

 仕事が速い――。円花を褒める一言をつい呑みこんでしまっていると、彼女はスマホの画面を見ながら「おっ、さっそくいい反響だね」と明るい声をあげた。自分のスマホから覗いてみると、いつのまに撮影したのか、キミ代の熟練の筆さばきだけでなく、参加者たちの楽しそうな表情が上手に捉えられていた。

「うまいね、君」と思わず、感心の声を漏らす。

「でしょ? 私ってデキる女だから」

「本当にデキる女は、自分でデキる女って言わないぞ」

 しかし悔しいながら、山田もこれまでイベントの記録係を務めたことがあるが、こんなふうに参加者が自然な表情を撮影させてくれたことはほとんどなかった。なるほど、フォロワー数が多いのも肯ける。

「すぐアップするのはいいけど、これから記事にするのを忘れるなよ。あと、この人たちに許可はとっただろうな」

「もちろん、このご時世、当然じゃない」

 いやはや、二回目とあってはもう認めざるをえない。

 彼女はホンモノだ。ホンモノの優秀な記者だ。初対面だった学芸員や大津絵師と短時間で信頼関係を築いただけでなく、ハプニングが起こっても冷静に対処をした。おかげでイベントも中止になるどころか大盛況だった。

 なにより驚かされたのは、大津絵に関して人一倍調べていて、キミ代の存在もはじめから知っていたことである。彼女がその資料を持参したからこそ、今回の出張が無事に終わったわけだ。

 それもこれも、大衆に描かれ、大衆に愛された大津絵の神髄を、誰より理解していたからではないか。市民が思い思いの大津絵を描くというイベントを成功させれば、今でも大津絵は市民に愛され、必要とされることを証明できると確信していた。

 そんな存在に光を当てることは、今回のみならず〈知られざる日本の技へ〉という連載自体のねらいなのだろう。よく考えればそれはじつは記者にとって大事な役割でもあるではないか。恐るべし、円花!

 なんだか目の前にいる彼女の顔が、髭もじゃの鍾馗さんに見えてきた。

「なるほど、よーく分かったよ。君には脱帽だ」

 腕組みして何度も深く肯く。

「なにが?」

 スマホから顔をあげた円花に、山田は今の答えを確かめた。

 すると話の途中で急に笑い出したので、心外になる。

「な、なにが面白いんだ」

「だって山田ってば一人で妄想を爆発させて、カッコつけてもっともらしい結論をほじくりだすんだもん。そういうの私、全然考えてなかったよ」

 あっさり否定され、返す言葉がない。

 円花の考えていることがやっと分かったと確信したのに。いや、ここで引き下がったら赤っ恥じゃないか。

「嘘をつくなよ! この出張に来る前から、ふらっとオフィスからいなくなっていたのだって、資料を集めてたからだろ? キミ代さんのコピー資料にだって、国会図書館の蔵書スタンプが押してあったのがチラッと見えたぞ。君はキミ代さん以外の職人さんについても調べていたわけだ。自由人のふりをして、じつは努力家じゃないか。君のことをコネ入社だって信じてる連中に言いふらしてやりたいくらいだよ」

「なになに、そんなにあたしのことを認めさせたいの? 山田ってば、すっかり私に夢中だね。でも悪いけど、私って追われるよりも追いたいタイプだからさ」

 対処の仕方がまるで分からなくなって、頭上から大きなタライが降ってきたような気分だった。円花は「どんまい」と山田の肩を叩いたあと、降りたった京都駅のキオスクで売っていた〈スタミナ弁当〉を買うと、「ほら、これでも食べて、元気出してごらんなよ」と山田に手渡した。

「また勝手に……って、君の分は?」

「私は京都に泊まって、明日特別拝観中のお寺に行くの」

「おいおい、月曜からサボるのか」

「ご心配なく、有給とってるから。ほな、さいなら」

 呆気にとられる山田をよそに、円花は軽やかな足取りで、改札につづく階段を上っていく。手に持っていたスマホに視線を落とすと、円花がアップした動画はどんどん再生回数が伸びていた。

 日陽新聞東京本社から、徒歩で十分ほどの近い立地にある〈さんまの味〉という大衆食堂は、夕方から深夜まで営業しているために、多くの記者が出入りする。山田は釣った魚をさばいてもらえるという理由で重宝しているが、文化部内の他の記者にとっても行きつけだった。

「おかげさまで、〈たのしい大津絵〉展もつぎの巡回先に向かってるよ」

 乾杯を終えたあと、テーブルをはさんで向かいの席に腰を下ろした友実子は、そう言って頭を下げた。

「盛況だったみたいだね」

「入場者数はイベント後にだいぶ伸びたんだから、本当に助かったわよ! 私が行くよりよかったくらいじゃない? 一体なにをしたの」

「いや、俺はなにも……」

 ぼんやりと円花のことを考えていると、店のドアがガラッと開いた。現れたのは、なんと円花本人だった。こいつのことを考えすぎて、幻覚まで見えるようになったのだろうかとビビッていると、円花は店主に「こんちは!」と元気いっぱいに挨拶をしたあと、友実子の横にどかりと腰を下ろした。

「今はじめたところだよね? 乗り遅れなくてよかった」

「いやいや、自然に交じりすぎだろ」

「私が呼んだのよ。雨柳さんにもお礼がしたくて」

「え、そうなの?」

 そうだよ、と円花は得意げに答える。「本当は山田抜きでもよかったんだけど、可哀相だから呼んであげたわけ」

「私はまだ雨柳さんの勤務態度を認めたわけじゃないけどね」

「友実子ちんってば、固いこと言わずにさ」

 山田の混乱を接したらしく、友実子はこともなげに説明する。

「大津への出張に代わりに行ってもらってから、仲良くなったの。大津のお土産も美味しかったし」

「お土産? 大津で買う時間はなかっただろ?」

「鮒寿司だよ。山田と食べたお店の味、友実子ちんも気に入ってくれたんだ」

「ああ、あのときの!」

 たしかにびわ湖浜大津駅近くの料理店で、円花は一人で食べきれないほどの鮒寿司を買っていたが、友実子へのお土産でもあったとは。好き嫌いの分かれる珍味を土産にするセンスはともかく、あの臭みを美味しいと感じてくれた友実子に対して、じつは円花に負けない強者かもしれないと内心讃美を送る。

「今回大津絵の取材をすんなり先方に引き受けてもらえたのも、友実子ちんにつないでもらったおかげだからさ」

 二人のあいだには女子同士特有の親密さが漂っていた。いつのまにか蚊帳の外に追いやられた山田を励ますように、友実子は一通の手紙を取り出した。

「今日、滝上さんから手紙が転送されてきたの」

 封筒には、首藤キミ代という差出人が書かれていた。なかには、〈大津絵十種〉のひとつである「瓢箪なまず」――水と魚のように切っても切れない友の関係を結ぶという効能もあったはず――の肉筆イラストがついた便せんが入っている。達筆な文字でびっしりとしたためられていた。

 

 先日のイベントでは大変お世話になりました。

 最初は私も意地を張りましたが、結果的に又兵衛さんとも和解でき、久しぶりに大津絵も描けて、楽しい時間になりました。

 なにより後日、日陽新聞の連載記事で自分の技術やかつての大津絵師としての道のりに触れてもらったおかげで、これまで自分をケアハウスに厄介払いしていた娘夫婦の態度も優しくなり、定期的に面会にも来てくれています。

 とはいえ私はケアハウスでの生活を気に入っているので、さらなる介護が必要にならない限り、ここから出ていくつもりはありません。先日は年寄りのために大津絵講座を開きました。最初は仕方なくやってみたわけですが、絶賛の嵐! もっと教えてほしいとのアンコールがうるさいほど。

 家族だけでなく、ケアハウスのみんなも、やっと私の真のすごさを理解したというわけですが、きっかけをつくってくれたのは日陽新聞社のお二人です。このケアハウスには若い人(とくにイケメン!)が少ないので、今度関西に来る機会があったら遊びにきてくださいね。みもとに。

「いやー、ほんとよかったね。実演イベントの評判もよかったし、記事も頑張って書いた甲斐があったってもんだよ」

 頑張って書いた甲斐があったって、今回も俺が大幅に書き直したことを忘れているのかいないのか。内心毒突きながらも、嬉しそうな円花の顔を見ていると、どうでもよくなってしまった。

 実際、キミ代や又兵衛の人生経験に焦点を当てた記事は、デスクだけでなく部長からも好評だし、読者からの反応も悪くなかった。記事のおかげで巡回先のチケット予約数も増えたほか、又兵衛の大津絵店もネット通販などで繁盛しているらしい。

「で、つぎはどんな内容にするんだ、円花」

 そう訊ねると口を開けたまま固まって、こちらを見つめてくる。

「ん? なんだよ」

「ついに! 円花って呼んだね」

 しまった、と慌てて口元に両手をやる。

「今のは口が滑って――」

 弁明をさえぎり、円花は「ふふん」と鼻を鳴らした。

「聞き流しはしないよ。何度言っても、君だの雨柳さんだのよそよそしかったけど、ようやく呼んでくれたじゃないの。その調子で今後は円花でよろしくね! なんだかつぎの出張も楽しみになってきたよ」

「あれ、山田くん、顔赤くない?」

 友実子に鋭く問われ、即座に「酔うと顔が赤くなるタイプなんだよ」と言い訳する。

「雨柳さんが来るまでは、平然と飲んでたのに?」

「照れ屋なんだよ、山田はさ」

 これは弱った。円花一人でもふり回されていたのに、今後は友実子とのコンビでも対応しなければならないなんて。

「おい、円花。言っとくけど、出張が目的じゃなくて、いい記事を書くことが一番大事なんだからな」

 苦し紛れに話を変えると、「へーい」と軽い調子で答える。

「へーいってなんだ、へーいって」

「うるさいなぁ。はい、それじゃ、山田のあだ名はジャマだだね」

 こちらの返答を待たずに、「よし今日はもっと食べるぞ」と意気込んで、円花はカウンターの向こうにいる店主に本日のおすすめを訊ねた。

 地下鉄の出口の前で二人と別れたあと、帰宅する前に久しぶりに海の方まで歩くことにした。酔い覚ましというほど飲んではいないが、新緑の風が心地よく、経験によるとこの日は釣れるはずだった。

 例によって、日陽新聞社裏の私有地でもある堤防に着くと、釣り糸を垂らす一人の高齢男性の背中があった。もしかして前回と同じ人だろうかと思っていると、高齢男性はこちらをふり返った。

「おや、あなたは先日オマツリしてしまった方ですね? あのときは申し訳ありませんでした」

 礼儀正しく頭を下げられ、山田は恐縮する。

「いえ、気にしないで」

「奇遇ですね、また会うなんて……あれ、釣り道具は?」

「今日は散歩がてら、様子を見に立ち寄っただけでさ。近くで飲んでたから」

 社内では年上にタメ語など絶対に使わない真面目な山田だが、釣り同好会の活動中や釣り場で出会った人に対しては、このように垣根のない接し方をする。意識しているわけではないが、釣り人同士という平和でゆるいつながりに、年功序列を持ちこむのはおかしな気がするのだ。

 しばらく高齢男性の釣り姿を見ながら、こう助言する。

「おじいちゃんさ、前も思ったんだけど、投げ釣りするときに糸を離すタイミングがちょっと早いんじゃない? もう少し溜めてから投げないと、前みたいに思いがけない方向に飛んでっちゃうよ」

 若造に指摘された割に、老人は素直に「ほう、気をつけてみましょう」と言ってリールを巻くと、再度竿さおを海に向かって投げた。

「おっ、いいじゃない」

「久しぶりだから、正直ずいぶんと腕がなまってるんです」

「そうなんだ? たしかに使いこんでるね」と道具を見る。古いとはいえ、老舗メーカーの上等そうな代物ではないか。

「それこそ、あなたくらいの年頃では、毎週船釣りに行ってたんですよ。体力が衰えてからはご無沙汰でしたが、最近いろいろあってまた釣りがしたくなりましてね。一人でぼんやり魚を待ちながら考え事をする時間っていうのは格別ですな」

 老人はなつかしそうに目を細めた。

「分かるよ、釣りっていいよね」

「本当に。そうだ、お詫びの印といっちゃなんだけど、一本どうですか」

 彼はベンチの脇に置いていたクーラーボックスから缶ビールを手にとって、山田に差しだした。飲んできたところではあるが、もう少し炭酸をゴクゴクやるのも悪くない。しばらく飲みながら、釣りトークを楽しむ。

 前も思ったが、やっぱり昔どこかで会った気がしてくる。前回は似ている芸能人がいるだけではないかと星野から言われたが、とくに黙ってこちらの話に耳を傾け、相槌を打つときの達観したような表情には既視感がある。「そろそろ帰ろうかな」と老人が片づけをはじめたタイミングで「あの」と切り出す。

「妙なこと訊くけど、僕たち、以前に会ってないかな?」

 老人はきょとんとした表情を浮かべた。「会ったって、どこで」

「それは思い出せないんだけど」

「少なくとも僕の方は、君とはじめて会ったと思っていましたよ。でも、あり得るかもしれませんね」

 老人は含みのある笑みを浮かべる。これまでも意識しないうちに釣り場で顔を合わせていたとか? しかしそれ以上追及する前に、老人はこんな質問で返してきた。

「お兄さん、ここで釣りしてるってことは、新聞記者ですよね。どこの部署?」

「……文化部だけど」

 すると彼は「ほう」と眉を上げた。

「それなら、雨柳円花って言う記者がいるでしょ」

 その名前を聞くと思っていなかった山田は、慌てて訊ねる。

「いるけど、まさか知り合い?」

「どうでしょうねぇ」

 老人は愉快そうに言うだけで、片づけた釣り具とクーラーボックスを両手から提げると「じゃ、おやすみなさい」と言って大通りの方へと去っていった。

(第二章 了)