第三章

二(承前)

 バレンテは、聖パウロ聖堂を出て、長い階段を下りていった。

 これまで長い時を費やして出世の階段を上ってきたのに、今になってその階段を下りるのか。それでいいわけがない。

 名残惜しさに振り向いて聖堂を仰ぎ見た。大きな教会堂だ。千六百年もの歳月、われら人間を束ねてきたローマ教会は、これからも永遠に続く。ただわたしが今回たまたまうまく立ち回ることができなかっただけだ。ゴアへ行って再起をはかって必ず舞い戻ってやる。そして、容赦なく裏切り者へ鉄槌を加えてやるのだ。

 聖堂前の広場には誰もいなかった。時々町中から大砲の轟きと銃声が連発で響き、槍か剣の金属がぶつかる音がする。

 そこへ抜き身の刀を持った、薄汚れた一人の男が現れた。

 龍王だ。

「さては、わたしを殺しにきたのか。この戦いに紛れてわたしを殺そうとしているんだな」

 龍王は、手に持った刀を鞘に納めた。

「今は、それどころじゃない」

「本心を隠しているな。お前はわたしを殺したいほど憎んでいる。そうやって嘘をついて、わたしを油断させようとしているんだろう?」

 この世の者どもはわたしを欺き、貶めようとしている。この男もそうだ。育ての親のマヌエルを死に追いやったわたしを恨まないはずはない。

「マヌエルは邪悪な異教徒だった。神の正義は必ず行われる。反キリストとその手先は、燃える火の池に投げ込まれる。お前もそうだ!」

「マヌエルは、邪悪どころか、心の清い人だった。人を利用しない、貧しく弱い立場の人を思う眼差しがあった。あなたとは違う。おそらくあなたには永遠にわからないだろう」

 そう返すと、龍王は、気を取られることがあるのか聖パウロ砦を見上げた。

 逃げ出すなら今だと思った。

 龍王から離れるために広場を駆け抜けた。

「そっちへ行ったら危ない! オランダ兵がいるぞ!」

 龍王の声が追いかけてくる。その手に乗るか。立ち止まらせようとして噓をついているんだ。誰も信じられない。この男の言うことはなおさら。

 フェルナンデスの持ち場は、確か武器工場だったろうか。うろ覚えだった。とにかくあの男を見つけて船を出させよう。商船でなくても、ここから脱するためならどんな小舟でもいいと思った。

 マヌエルの心が清い? そんなばかな。やつは金の亡者だ。悪人なのだ。

 厳しく辛いこの世が許しと慈しみに溢れ、善人ばかりなら、誰が神を崇拝しよう。わたしの人生は生きるための戦いだった。喜びや楽しみを感じることなく、心の平穏などない。しょせん、心が清いままでは生き残れないのだ。

 バレンテは、鋭く周りに目を配った。硝煙の他になにかが燃える焦げ臭さと、どこからともなく白煙が漂ってくる。始終、砲音や銃声がし、叫び声や悲鳴も聞こえてきた。

 見よ、この世のありさまを。人々が争い、殺し合う、地獄そのものではないのか。

 いや、そのような考えは異端だ。神が創造した世界が地獄など、ありえぬ。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなければ。

 周りに人気はない。バレンテは、物思いにふけりながらゆっくり進んだ。

 人は嘘をつき、自分の利益のために平気で他人を踏みにじるし、命さえ奪う。だから、わたしは、誰かがわたしを裏切り、貶めようとするのを恐れる。故に誰も信じられず、恐れに罰が伴い、そこに愛はない。恐れる者に愛はないというのは真実かもしれない。

『愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。自分の利益を求めず、恨みを抱かない……すべてを信じ、すべてに耐える』

 聖書の一節を唱えてみた。

 この世に愛はあるのか。

 聖書で「愛」を理解しようとしても、言葉を呑み込むだけで、わたしにはまるで実感がない。愛することのない者は神を知らないという。なぜなら、神は愛だから。聖パウロ聖堂で、あのパードレが言ったように、わたしに愛がないというのなら、わたしの内に神はいないということだ。

 公の場では「神を愛する」と口にしつつ、他者を信じず、憎むことすらある。目の前の人々を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。つまり、わたしは他者ばかりか、自分も偽って生きてきたのか。

 でも……神よ、一度でもわたしはやさしさに包まれたことがあるのでしょうか。互いに愛しみを感じ、神がわたしの内に留まったことがあったのでしょうか。

 進もうとする先にある建物から白煙が立ち上っていたかと思うと、大きな炎を吐き出した。燻っていた火の勢いが増したらしい。

 そうだ。母が死んだ時、わたしは燃え盛る館の前に立ちすくみ、泣きじゃくっていた。館の中に母がいるとわかっていたのに、どうすることもできず、ただ泣いていたのだ。あの時のわたしは、確かに母を失う悲しみを感じていた。そして、母がいかにわたしを守り、慈しんでくれていたか、あの養父母に引き取られてみてよくわかった。

 目の前の炎に包まれた建物から、煤塗れの若い女と幼子が逃げ出してきた。女は、バレンテを見ると、幼子の手を引いて駆け寄ってきた。

「パードレ、どこへ逃げたら……ここらはもう敵に囲まれています!」

 切迫した顔つきで、女は訴えた。質素なドレスを着た女は二十代半ばくらいで、五歳くらいの男の子を連れていた。ふと母が亡くなったのも、この頃だったかもしれないと思った。

「聖パウロ砦へ上がりなさい。そこなら兵もいる。きっとそなたたちを守ってくれる。この先の聖パウロ聖堂広場にはまだ敵はきていない。そこから上がりなさい」

「ありがとうございます」

 女は深々と礼をして、子を抱え上げて駆け去っていく。

 聞こえる銃声は、ますます大きくなっていた。

 バレンテは、母子の無事を心から願った。いつもなら、そんなことは思わない。しかし、自分が経験することができなかった親子の心温まる時を離れ離れになることなく味わってほしい。そして、あの時炎の中から救えなかった母を、今やっと助けることができたような気がした。

 発砲音が近くなっている。

 バレンテは、道の真ん中に立ち、二人の姿が見えなくなるまでその場に留まって見送ることにした。弾丸がどこから飛んでくるかわからないが、もし背後からなら、我が身が二人の盾になるかもしれないと考えたからだ。

 ようやっと母子が視界から消え、反転しようと体を捻った時、突然、左胸に衝撃と違和感を覚えた。手を当てると、掌に血がついた。この血はなんだ。理解できなかった。誰かに狙われたのかと思ったが、周りには誰もいなかった。

 流れ弾に当たった!?

 前に進もうと足を踏み出し、数歩進んだところで、急に胸に激痛が走り、息が荒くなった。脚に力が入らず、よろけて道端の木桶を摑んで倒し、その場に崩れ落ちた。

 体が動かない。もう一歩も進めない。こんなところで……死ぬのか。

 耳だけははっきり聞こえた。足音はない。周りには誰もいないようだ。

 これがわたしの人生か。肩書や権力、資産を持とうと、誰にも看取られず道端で死んでいく。しょせんわたしは何者でもなかった……そういうことか。

 あの親子は、無事に砦へ着けただろうか。そうであればいい。

 愛には恐れがない。不思議と今、恐れを感じない。心安らかだ。

 しばらくすると、周りの音が遠のき、女のやさしい声が聞こえた。

「そろそろ帰ってきなさい」

 誰の声かわからないのに、母だと思った。

 母との穏やかな時を思い出した。日暮れ時に呼ばれて家に帰ると、母にまとわりついて外で見聞きしたことを報告した。母は優しく微笑みながらわたしの話を聞いてくれた……いや、そんなことが本当にあっただろうか。これは妄想かもしれない。でも、それでかまわない。この世との最期の名残なのだから。

 神よ、感謝します……。

 龍之進は、聖パウロ砦へ向かう急な坂を駆け上がった。道沿いには緑の葉を広げる樹木が生い茂り、強い陽射しをところどころ遮ってくれた。しかし、蒸し暑さのせいで、汗が絶えず額から流れ落ちてくる。

 殺したいほど憎んでいるだって? バレンテの言葉を思い出した。そうかもしれない。いや、きっとそうだ。だから、さっきバレンテを殺ろうと思えばできたんだ。でも、今はあの男にかまっている暇はない。

 早く! 早く砦の砲手に伝えなければ。

 ポルトガル人将校にトリスタンの指示に従って自分たちは内陸へ移動すると伝えた。傭兵の仲間たちを率いて、カシーリャス海岸を離れ移動していると、オランダ兵が樽を積んだ荷車を押しているのを見た。龍之進は、仲間二人に荷車がどこに向かうのか確かめるように指示すると、他の仲間と聖パウロ砦の下に向かった。

 建物の陰に隠れながら戦いのようすを見守ったが、大砲や銃が火を噴くたび立ち上る白煙、建物が破壊されて巻き上がる土埃のせいで、視界が遮られてよく見えない。建物の二階に上ってみたが、隣の建物に遮られて全体の情勢はわからなかった。

 そうこうする間に先ほど放った偵察兵が合流して、オランダの荷車は家人が避難して空き家になった宿の前で停まり、樽を中へ運び込んだと話した。樽の中身は火薬で、宿の前にはその他にも樽や砲弾を積んだ荷車があり、宿がオランダの火薬庫になっているようだと報告した。

 龍之進は、戦いのようすを目視するため、聖パウロ砦に上ってみることにした。そして、砦の兵に火薬庫の位置を伝えて大砲で攻撃してもらおうと考えた。

「ここで待機していてくれ。聖パウロ砦に行って、すぐ戻ってくる」

 傭兵たちにそう伝えると、砦へと急いだ。

 坂を駆けたので息が上がり、立ち止まって砦の城壁を見上げる。その時、人影が見えた。

「おーい、そこの人! 聞こえるか!」

 ありったけの声を張り上げた。

 すると、見上げた城壁の上から銃を構えた人影が現れた。

「待て、待て! 味方だ!」

 銃を下ろしたその人物は多聞だった。五間(九メートル)くらい離れているが、姿形からそう認識した。

 無事が確認できて安心した。それから、多聞に叫んだ。

「この下の広場の角に宿があるだろ。そこにオランダが火薬樽を運び入れてる。そこを狙ってくれ! 大砲で撃て!」

 よく聞こえなかったのか、多聞は城壁から身を乗り出した。身振りで方角を指すと、もう一度大声で説明した。多聞は頷き、

「やってみる! 数学者のパードレがいるんだ。発射体の放物線を計算して命中させるよ!」

 と大声を返して、引っ込んだ。

 多聞らしい独特の小難しい返事だった。

 見晴らしのいい坂の途中で立ち止まると、眼下を眺めた。ポルトガルの旗が右側に、オランダの旗は左側に見える。広場の真ん中あたりでオランダとマカオの長槍隊が衝突し、その両側にも横に細長い隊形のオランダ兵がいて、長槍を前に構え、銃を撃ちながら、それぞれの前方にいるマカオの方陣隊形に向かって徐々に距離を詰めていく。

 勝敗はまだわからない。でも、オランダ兵の数のほうが多いようだ。援軍が必要だ。

 太鼓の音が響き、銃声が絶えず聞こえる下の広場へと急いで坂を下った。オランダ軍を撃破する方策を早急に考えて、仲間たちと実行に移さなければ。

「龍王!」

 万吉が自分の名を叫び、坂を駆け上がって物凄い勢いで自分に突っ込んできた。

 次の瞬間、木陰から何発もの銃声が一斉に聞こえ、龍之進は覆いかぶさってくる万吉もろとも背後に倒れた。続いて、砦の方からも銃声がし、樹木の間を上ってきていた三人のオランダの銃兵が転げ落ちていく。

「万吉、大丈夫か!」

 龍之進ははね起きて、万吉の無事を確かめた。

「ああ、平気だ」

 万吉は、右腕と左腰を撃たれていた。腰を押さえた万吉の手に血がべっとりついた。

「くそ……これからって時に。迎えにきた。オランダ兵が近くにきたから、南西寄りに移動したんだ。この道を下ったすぐのところだ。龍王、早く戻れ。みんなが待ってる」

「でも――」

「儂のことはいいから、先に行ってくれよ。そう心配そうな顔するなって」

 万吉は、龍之進に笑顔を向けた。

 龍之進は、道の脇へと万吉に肩を貸して歩いた。そこならば、茂みに身を隠すことができる。

「儂はこれまでやるだけやってきた。そう思わないか」

「ああ、俺がやってこられたのはお前がいてくれたおかげだ」

「龍王に会えてよかったよ。おかげで、お前を見ているという楽しみを得られたからな。なかなか刺激的だ。気が休まらないほど、おもしろい。あたた……ああ、痛い。少しだけどな」

 万吉は地べたに座ると、龍之進の手を返してよこした。

「さあ、早く行け。儂は、ここで手当てしてからだ」

 龍之進は、腰に提げていた手拭いを取り、万吉の右腕を縛った。

「上の砦へ行こう。送っていくよ。砦には多聞がいるから、ケガの手当てをしてくれる」

「いや、いい。もし行くなら、儂一人で行く。儂にかまってる場合じゃないだろう。一刻一刻が勝負だ。それに、龍王の隣が儂の定位置だぞ」

「必ず戻ってくる」

「いや、儂が行くから、お前こそ向こうで待ってろ。そうだな、儂を撃ったお返しに、砦へ上ってオランダ兵に大砲を一発ぶちかましてからいくか」

 そう言って万吉は、不敵に笑った。

 何度も振り返って万吉を見た。そのたび、万吉は早く行けとばかりに追い立てるように手を振った。さらに坂を下って振り向くと、万吉の姿は見えなくなった。

 広場では、オランダとマカオの長槍隊が対峙し、銃の撃ち合いも続いていた。大砲も双方向から飛んでいる。その中を龍之進は銃弾や砲弾をなんとか避けながらトリスタンが指揮するポルトガル側の陣営に向かって駆けた。土埃と硝煙が立ち込め、オランダからの砲弾を受けて砕かれた盾の破片に何度か躓き、転びかけた。

 前進した方陣の長槍密集隊の後方で、大砲の台座の車輪に手をかけ、戦いの行方を見守るようにトリスタンが真っ直ぐな姿勢で立っていた。そばには若い砲手が付き従っている。

「トリスタン殿、オランダの陣形は横長で層が薄い。俺たちは、片側の銃士隊を集中して攻撃し、横陣を分断させる!」

「……龍王か?」

 やや俯き加減のトリスタンはやや反応が鈍く、顔も動かさず、掠れ声で言った。

「頼みがある。わたしを人目のつかないところへ連れていってくれないか」

 はっとしてトリスタンの横顔を見た。帽子のせいでわかりづらいが、顔は青白く、目を開けるのも辛そうだ。胸甲きようこうには穴がいくつも開いており、撃たれているのは明らかだった。台座に手をかけ、砲手が傍らで支えることで、かろうじてトリスタンは立っていた。

「ここで倒れるわけにはいかない……士気にかかわる」

 龍之進は、砲手と二人で両側からトリスタンを支え、すぐそばにある建物の中に連れていった。

「もう一つ頼みがある。わたしはもう……目が見えない」

 その言葉で、トリスタンの死を悟った。

「これを……指揮を……」

 トリスタンの手から彼の剣を受け取った時、触れたその指はやけに冷たかった。

 ああ、なんてことだ!

 胸が締め付けられた。

「後は引き受けた。トリスタン殿、安心してくれ」

「感謝する。勝利は目前だ……神の御加護を」

 トリスタンは、それから目を閉じた。

 まるで眠っているようだった。

 渡された剣を握り締めた。指の感覚がなくなるくらい強く。泣きたくなるのを歯を食いしばって耐えた。なんで逝ってしまうんだ。まだ早い、戦はまだ終わっていない。互いに生き残るって約束したのに。

 悲しみを超えた怒りが全身にみなぎった。

 隣で、若い砲手がすすり泣いている。

「泣くな。戦いが終わってからにしろ! まだやるべきことはある!」

 怒鳴りつけている自分に驚いた。

「龍王……」

「任せろ! 行くぞ!」

 すっくと立ちあがると、建物を出て砲兵に大砲で狙うべき場所を指示し、仲間が待機する場所へ急いだ。

 冷静になれ。悲しみと怒りに呑まれるな!

 銃弾が左肩を掠ったが、かまわず前進した。大丈夫だ、これくらい。

 なにがあっても進む! 俺はここを守るんだ。ぜったいやり通す。全力で、命を賭けて。

「龍王!」

 声がするほうを見る。頭に布を巻き、目深に下ろした背の高い男が太刀を手にして立っていた。布を上げて顔を見せた。

「李旦、どうしてここに」

「交易のため、この近海沿岸にいた。マカオがオランダ艦隊に攻撃されてるというんできたネ。マカオは明の領地よ。そこで、オランダだろうがポルトガルだろうが、ヨーロッパ人同士が戦い、壊すのは許せない。他人の畑を巡って勝手に喧嘩し、その畑を平気で荒らしているようなもの。そんなばかげた戦は、とっとと終わらせるに限る。この際だ、加勢してやる」

「李旦、感謝する」

「とりあえず仲間を五十人連れてきた。とにかく仕掛けてきたオランダを追い出す。で、龍王、どうする? オランダ兵が六百人、町に入ったそうだ」

「正確な数まではわからない。海岸で食い止められる数じゃなかったのは確かだ」

「やつらはギアの丘に上ろうとしたが、傭兵たちに阻まれた。オランダ兵は、この蒸し暑さでだいぶへばってる。それに、士官が銃弾に倒れて、士気も落ちてる。周りを見渡せるどこか丘で一旦休んで、部隊の立て直しを図ろうとするはず」

「オランダ兵はギアの丘の近くにいるのか。その近くの丘を占領する前に先回りして迎え撃とう」

 龍之進は、銃を撃ち、槍と剣でせめぎ合うマカオ兵とオランダ兵の塊を見た。マカオはやや押され気味だ。

 ここを突破するのは難しそうだ。でも、行かなければ。ますはこの形勢をなんとか崩して逆転させる。

「よし! オランダ兵の横陣を突破して隊形を崩す。突破口を開いたら、李旦は先にギアの丘へ行ってくれ!」

「承知した」

 李旦が駆け去ると、龍之進も仲間のところへ急いで戻り、作戦と突破する進路を説明した。

 オランダの横陣の中で、一番手薄に見える銃士隊を狙い、火縄銃を集中して撃つように指示した。銃士が次々と倒れ、隊形が崩れたところで、

「聖ヤコブはわれらと共に!」

 鬨の声を上げ、横陣目がけて襲いかかった。

 龍之進は、トリスタンの剣を左手に持ち、右手で刀を抜いて、まずは剣を抜いた銃士と戦った。それから、マカオとオランダの長槍隊と対峙する最前線に進み、槍が交差する下に滑り込んでオランダ兵の足元に近づいて剣と刀を振るう。

 陣形はますます崩れ、もはや長槍隊と銃士隊の区別がなくなるほど入り乱れた。

「李旦、行け! 今ならいける!」

 戦いながら、龍之進は、大声を張り上げた。

 李旦たちが抜けると、兵の数が急に減ったせいで、オランダ人に囲まれているような錯覚に陥った。

 落ち着け。一時的なことだ。恐れるな。

 自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせて、目の前にいるオランダ兵と剣を合わせた。すると、突然左腕に強い衝撃を受けて、トリスタンの剣を落としてしまった。左側から長槍で突かれたのだ。その長槍兵は、次の瞬間、傭兵に斬り殺された。対峙するオランダ人は、ふらついた龍之進にこれみよがしに剣を繰り出してくる。態勢を崩し、さらに足元に倒れていた兵に躓き、龍之進は転んでしまった。上から突いてくる刃をかわし、なおも襲ってくる男の顔に、左手に取った地面の乾いた土を投げつけた。男が一瞬怯んだ隙に立ち上がり、刀でその腹を撫で斬りした。

 龍之進は、トリスタンの剣を拾おうとしたが、左腕に力が入らなかった。

 右腕だけで、いつまで戦えるのか……。

 いや、まだ動ける。戦えるだろ。これくらい大したことじゃない。あとは、やれるだけやるるしかない。

 短刀をかざしたオランダ兵が突進してきたので、とっさに避けてから、背中に刀を振るって倒した。

 とにかくここでの戦いを有利にしてから、ギアへ急ぐんだ。

 その時、天地を震わす轟音が響き、建物の角から大きな火柱が上がった。近くにいたオランダ兵が何人も吹き飛び、中には火だるまになる兵もいる。熱風が吹き、立て続けに耳をつんざく爆音が轟いた。あの宿が崩れて炎に包まれ、その火炎は天に届くかというほど大きく燃え盛る。

 砲弾が火薬庫に命中したのだ。

 多聞がやってくれた!

 龍之進は、誇らしい気持ちになった。やっぱりお前は凄い。言ったことは必ずやる。

 戦況は俄かに有利になった。見るからにオランダ兵は慌てふためき、陣形を崩したかと思うと、あれよという間に逃走を始めた。

 白煙に覆われた広場から、オランダ兵が次々と海岸に向かって逃げていく。

 そこへマカオ兵が追い討ちをかけ、ギアの丘にいた傭兵も逃げ遅れた兵らを待ち伏せして襲いかかった。

 龍之進がカシーリャス海岸に着いた時、敗走してくるオランダ兵たちがわれ先にと舟に乗り込んでいた。中にはまだ乗れるのに、漕ぎだしたものもあった。舟になんとかして乗ろうとするオランダ兵と彼らを振り切ろうとする者たちとの間で争いになり、舟にすがりつこうと海を泳ぐ兵らを、海岸にいるマカオ兵が銃で狙い撃ちした。浜に置き去りにされたオランダ兵もマカオの人々に次々と剣と銃で討たれていった。

 海を見ると、砦との大砲の撃ち合いで、オランダ船四隻が砲弾を受けて動けなくなっている。他の帆船に、離岸した舟が向かっていく。しかし、味方の舟を引き揚げようとせず、マカオを離れようとする帆船もあった。

 もうオランダに戦う気力は残されていない。

 そう判断した龍之進は、マカオに残されたオランダ兵を捕らえるよう傭兵たちに指示した。

 広場に戻ってみると、血塗ちまみれの死体があちこちに倒れていた。

 大急ぎで広場を横切り、龍之進は、トリスタンを運んだ建物に入った。トリスタンは、最後に見た時と同じ姿勢で臥していた。その前に跪いた。

 勝ったよ。戦いに勝ったのに、なぜあなたはこの世を去るんだ。俺は、沙羅になんて言ったらいいんだ。あなたが立派に戦ったって? そんな言葉が慰めになるのか?

 トリスタンと龍之進の周りに、徐々にポルトガル人と傭兵たちが集まってきた。その中の一人がポルトガル国旗で彼を覆った。おのおのが無言のまま、胸の前で十字を切り、手を組んで祈った。

 切なさに胸が痛み、いたたまれなくなってその場から離れた。建物を出てとぼとぼと歩くと、首がなかったり、黒焦げになったりした無残な死体が横たわっている。半壊した建物の瓦礫が積もり、乱杭や盾の残骸も散乱していた。暑さのせいもあり、むっとする血と硝煙、土埃の臭いが辺りに満ちていた。

 オランダ人よ、なぜここに来たんだ。あんたたちがマカオを欲しがって戦いを仕掛けてこなければこんなことにはならなかった。あんたたちもこんな東洋の異国で死にたくはなかっただろう? いったい誰のための戦いなんだ?

 海辺や道筋、広場にオランダの旗や銃、槍、砲弾が散らばり、大砲まである。死傷者は恰好から判断してマカオよりオランダのほうが多く、その数は三百人を超えている。

 空を見上げた。

 なにも変わらない。強い日差しが降り注ぎ、青く澄んだ空に鳥が飛んでいく。

 それなのに、目の前のこの光景はなんだ。

 遠い過去に見た関ケ原の戦場を思い出した。これ以上の数の死体が谷を覆っていた。

 あの時、思った。戦はいやだと。

「俺はいったいなにをしているんだろう……血も死体もうんざりだ」

 ――だったら、儂みたいに大工になれよ。

 はっとした。こんな時、万吉ならそう声をかけてくる。いつもなら、とっくに傍に駆け寄ってきている。周りを見回した。どこにも見当たらない。

 万吉、どこだ、どこにいる?

 万吉と別れた聖パウロ砦への坂へ向かった。

 砦で手当てを受けていてくれたらいいが……。息を切らして坂を上がっていると、あの場所に万吉はいた。木の幹に寄りかかって座っている。

 急いで駆け寄った。

「万吉、勝ったぞ、もう大丈夫だ!」

 反応がない。

 その身体を揺すり、恐る恐る呼吸を確かめた。

 息をしていない……。

 思わず彼を抱きしめた。まだ温かかった。

 天を見上げて、万吉をこの世に戻してくれるよう神に祈った。全身の力を込めて必死に祈っても叶えられないと知ると、拳を振り上げて神を呪った。

 万吉、俺を置いていくな! やっと家に帰れるのに。すべて終わったのに。俺の隣に戻ってこい。早く戻ってこい!

 何度も繰り返し、万吉に呼びかけた。

 万吉は答えなかった。

 お願いだ。行かないでくれ。万吉、俺を孤独の闇に落とすな。

 サン・ラファエル号で木刀で叩かれながら二人で武芸の稽古に励んだ。マニラや高砂、トカキン、ホイアンと異国を回り、はしゃいだこともあった。お前は食べることに貪欲で、いつも笑わせてくれたし、俺の喜びも怒りも哀しみも自分のことのように感じてくれた……お前のおかげで、俺は何度も心を救われてきたんだ。

「一人じゃ……酢漬けを分け合えないぞ、万吉」

 万吉を抱いたまま咽び泣いた。

 暮れていく夕日と静かな蝉時雨が、涙に沈む龍之進を柔らかく包み込んでいた。

(第27回へつづく)