第二章 大津絵 OTSU-E(承前)

 まずは近江牛に箸をつける。ステーキソースとおろしポン酢の二種で楽しめ、期待を裏切らない貫禄がある。ひと切れ食べてみると、嚙み応えのある充実感が口いっぱいに広がり、白米がとにかく進む。滋賀県の名物だという佃煮のえび豆は、豆とえびが甘辛く炊かれた優しい味で、こちらもご飯に合う。

 しばらく近江牛を堪能していたが、お膳のうえでそのままになっている鮒寿司が目に入った。何度も鮒を釣ってきたけれど、食べたことは一度もない。濁った湖沼こしようにも生息する鮒はどうにも生臭いイメージがある。顔を上げると心を読まれたのか、円花がじっと見つめてきた。

「ほら、早く試してごらんなよ」

「そ、そうだな」

 狼狽うろたえつつも、山田は一切れ箸でつまんで、香りを味わう。すると鮒を漬け込んでいたお米の発酵臭が鼻孔をついた。思い切ってまるごと口に入れたとたんに、酸っぱさと強烈な臭みがいっぱいに広がる。嚙むほどに臭みと比例して旨味も増すが、なかなか嚙み切れない。

「あはは、山田、すごい顔してる」

 吞気に笑いながら「この、まわりについてる発酵したご飯を『いい』って呼ぶらしいんだけど、たまらなく美味しいんだよね。栄養抜群らしいし」と言って、円花はなんの躊躇もなく一切れ食べる。そして店員に向かって手を挙げた。

「すみません、日本酒ください!」

「コラッ、仕事中だぞ」

「頼むよー、後生だから一杯くらい見逃して」

「見逃しません。我慢しなさい」

 まったく油断も隙もない。

 食べ終わったあとお会計を済ませるとき、レジ前で土産用の自家製鮒寿司が売られていた。なんでもこの伝統的な発酵食品は、各家庭によって味付けの違う家庭料理だったらしい。円花はよほど気に入っているらしく、たくさんの数をレジの前にいる女性店員に手渡していた。そんな大量に買って一人で食べきれるのか。それとも土産として渡す相手がいるのか……謎だ。

 タクシーで訪れた〈たのしい大津絵〉展会場の資料館は、京都市と大津市を隔てる山の大津側の中腹に位置していた。館のエントランスからは、晩春の陽ざしを浴びてきらきらと輝く琵琶湖が、清々しいほどに一望できる。日本最大の湖だけあって、対岸がかすんで海のようだ。受付で学芸員を呼びだすと、四十歳前後であろうふくよかな体形の女性が現れて「お待たせしました、私が担当の滝上たきがみです」と声をかけてきた。

 挨拶のあと名刺交換をしながら、鞄から名刺ケースを出した円花が、ドヤ顔でさりげなく目配せをしてくる。前回忘れて大騒ぎしたことを一応憶えていたようだ。分かった分かったと山田は肯いてあしらう。

「雨柳円花と申します。何卒よろしくお願い致します」

 礼儀正しく挨拶をしている円花を横目に、そういえば、じつは敬語もちゃんと使えるんだよな、と気に食わない。山田にはつねにタメ口で接してくる円花だが、深沢デスクには敬語だし、仕事の取引先にもしっかりと接する。使えるうえで自分にはタメ口をきいてくるのだ。円花は「山田のキャラが打ち解けやすいからだよ」とおためごかしに言っていたが、単に先輩として敬っていないだけではないか。

「雨柳さんって……」と呟き、滝上学芸員は名刺を見つめる。「失礼ですが、雨柳民男先生となにかご関係があったりします?」

「えー、おじいちゃんのこと知ってるんですか!」

 円花は嬉しそうに両手を頰に当てた。

「うっそ、お孫さんなんですか」と滝上は声を弾ませる。「珍しい苗字だし、新聞社の文化部にお勤めだし、ご親族の方じゃないかなって思っていたんですが、お孫さんだなんてお会いできて光栄です。雨柳民男先生が著した『お~い、道祖神』は、学生時代から私のバイブルですから」

「あれね、男根の神さまを追った本でしょ、ありがとうございます」

「そうです、そうです!」

 だ、だんこん……道祖神はそれだけじゃないだろうが。凍りつく山田をよそに、二人はいきなり意気投合して、展示室の方に廊下を歩いていく。滝上は自身が崇めている民男のことを、単なる「おじいちゃん」扱いする円花の態度を純粋に面白がっているようだ。ポツンと取り残された山田は、慌てて二人のあとを追いかける。

「そういえば、お昼は召しあがりました?」

「はい! 駅の近くで鮒寿司を食べてきました」

「おお、滋賀県民のソウルフードを! どうでした?」

「すっごく美味しかったです。日本酒もいただきたかったんですけど、この先輩に止められちゃって」

「それは残念でしたね……お酒といただくと、もっと美味しいのに」

 滝上は同情するように眉をひそめ、ちらりと山田の方を見る。なんだか、悪いことをした気分になる。勤務中なので止めたが、もしや鮒寿司に至っては例外的に飲酒を許すべきだったのだろうか。

「雨柳さんがイケる口なら、今晩おすすめの店にお連れしますよ。じつは私も大の鮒寿司好きで、滋賀の地酒と合わせて毎日いただいていますから。おかげでこんなことになっちゃったくらいで」

 少し丸みを帯びたお腹の辺りをぽんと叩いた滝上は嬉しそうだ。

 あっというまに滝上の懐に入った円花を、山田は完敗した気分で眺める。民男という後ろ盾を巧みに利用したうえに、初対面の相手に心を開かせるという能力が謎に高い。認めたくはないが、新聞記者の素質を持ち合わせた強者なのか? これまで寄り道に付き合わせるわ、途中下車して慌てさせるわ、鮒寿司を食べさせるわ、さんざんふり回してきたくせに。なんかモヤモヤする!

 特設展示室には、大津絵の代表作がずらりと並んでいた。資料で目を通すだけでは、なかなか画題までは憶えられなかったが、見応えのある実物を鑑賞していると、代表的なモチーフに目が慣れてくる。

 下界で募金活動にいそしむ殊勝な鬼を描いた「鬼の念仏」。ゆるっとした小さな仏を十三体表した「十三仏」。長寿で高く伸びきった福禄寿ふくろくじゆの頭の毛を、梯子はしごにのぼった大黒が剃っている「外法げほうの梯子ぞり」。

「これらは〈大津絵十種〉と呼ばれる、江戸時代に人気だった画題です。江戸後期になると、主にこの十種が重点的に売られました。品物を十種に限定することで、在庫ロスを防いだんですね。面白いのが、生き残ったモチーフほど人の愚かさを風刺するような内容が多いことなんです」

 滝上いわく、たとえば「鬼の念仏」は見方を変えれば、偽善者をコミカルに批判している。聖職者の袈裟けさを着ていても、恐ろしい顔をした鬼でしかないという描写は、当時の拝金主義的な仏教界への皮肉でもあった。

 メモを手にする山田のとなりで、円花がボソッと言う。

「こりゃ、口先では偉そうなこと言って、じつは売上部数ばっかり気にしてる部長にプレゼントしたいね」

「シッ、そんなこと言うな」

 他にも「雷神と太鼓」は、大切な太鼓を水面に落としてしまい、漆黒に渦巻く雷雲から必死に身を乗り出して、吊るしたいかりで釣りあげようと慌てる雷神の姿を描いている。どんなに手練れの者でも失敗するし、その姿は滑稽こつけいだという教訓がひそんでいるらしい。

「こっちは深っちゃんにあげたいよ。いつも私の文章に赤入れしてくるくせに、自分だってよく間違ってるから」

 社外で上司のことを悪く言うんじゃないよと思った矢先に、

「やっぱり目の付け所が違いますね、雨柳さん。おっしゃる通り、大津絵は誰かに贈るためのもので、それぞれに効能があったんです。仏壇の代わりに飾る家庭もあったほどでして」と滝上はつづける。

 なんでも、さきほどの「鬼の念仏」には子どもの夜泣き封じ、「雷神と太鼓」には雷よけ、美人画の「藤娘」には良縁祈願、たかを携える若者「鷹匠」には紛失品発見。他にも、大雨や地震が多発すると、水難除けの効能がある「瓢箪ひようたんなまず」が売れた。疱瘡ほうそうなどの疫病が流行すれば、弓矢を携えた「為朝ためとも」や「矢の根五郎」をはじめとする英雄の絵を、人々は携えたという。

市井しせいの人に愛された分、そのときどきに売れた〈大津絵十種〉は、どれも世相を反映しているというわけです」

 滝上の説明を聞きながら、民間信仰という言葉が浮かぶ。健やかな未来や誰かの幸せを願う気持ちが、大津絵には投影されていたのだ。ただの元祖ゆるキャラと見せかけて、なかなか奥深いではないか。

「だからこそ、多くの人に来てもらえるといいんですけど……」

 周囲を見回しながら、滝上はため息を吐く。

 週末にもかかわらず、展示室はがらんとしていた。

「鉄道が開通して東海道を行きかう人が減ったあと、大津絵は衰退の一途を辿たどりました。今じゃ大津絵を描いている方も、今回イベントで実演してもらう職人さんくらいしか残っていないんです」

「イベントが集客のきっかけになるといいですね」と山田はしみじみする。

「ええ。明治時代、柳宗悦やなぎむねよしによって芸術品として見直されたおかげで、現在ではこうして表具をつけられ、高額で取引されていますが、もともとは芸術品ではなく庶民に親しまれたサブカルチャーでしたからね」

 話のさなか、滝上のスマホが着信した。

「すみませんが、少し失礼します」

 滝上はしばらく離れたところで電話していたが、戻ってくるなり顔色を変えてこう報告する。

「申し訳ございません! たいへんな事態になりました。講師をお願いしていた職人さんが、自宅で転んで利き腕を骨折してしまったそうです」

「え! それはつまり……」

 不安におののいている山田に、滝上は残念そうにつづける。

「安静にすれば回復すると医師から言われたそうですが、腕を使えないとなれば、明日のイベントは中止にせざるをえませんね。満員御礼で予約をいただいているのに。弱りました」

「どうキャンセルの対応をしましょうか」

 ともに狼狽える山田を押しのけるように、円花が口をひらいた。

「ダメダメ! 諦めるのはまだ早いよ。大津絵を描いている他の方に代理講師をお願いしてはどうでしょう」

「おい、ちょっと――」

 なにを言ってるんだ! 大津絵職人は今じゃほとんど残っていないと話したばかりじゃないか。展覧会の担当者でもないのに、偉そうなことを適当に提案して。フォローの仕方を巡らせている山田の耳に、滝上の感心したような答えが飛びこんできた。

「さすがです、その発想はありませんでした」

「えっ⁉」

 驚く山田をよそに、滝上はつづける。

「もう数十年前になりますが、私がここに就職したての頃は、大津絵を制作なさっている方が複数いました。金丸又兵衛かねまるまたべえさんに訊けば、代理を引き受けてくれる人が見つかるかもしれません」

「絶対にご存じだと思います! 今は自宅に戻られているんですよね? これから二人で又兵衛さんのところにも取材しに立ち寄る予定だったので、私たちからこの件を交渉してみましょうか。こういうことは会ってお話するのが一番です」

 あまりに意外な展開に山田はおろおろするばかりだった。しかし円花はもう心を決めたらしい。滝上も「雨柳民男の孫」という立場を印籠のように感じているのか、言いなりになって肯く。

「お電話でお訊ねするよりも、直接会いにいった方がよいかもしれません。ただ申し訳ないのですが、私は別件があって、お二人にお任せしてもいいでしょうか。参加者には今日中にイベント中止のお知らせをする必要があるので、夕方までに代理が見つからなければ諦めましょう」

「大丈夫です、きっと見つかりますよ」

 円花は親指を立てた。いやいや、どこから来る自信だよと思った瞬間、意外にも滝上も同じポーズで「よろしくお願いします」と返していた。もしかすると似た者同士なのだろうか。そうして円花と山田は、滝上の代わりに又兵衛のもとを訪ね、引退した大津絵職人を探し出す手伝いをすることになった。

 又兵衛の自宅兼店は資料館からほど近い、門前町の坂道沿いにあった。タクシーで向かう道中、となりに座る円花はマイペースに街並みを眺めながら「穴太あのうみだね」とシャッターを切る。近江に古来伝わる石積み職人「穴太衆」の優れた技のことらしい。よく気がついたものだ。しかしどこからその余裕が生まれるのだろう。

「それより、代わりの職人なんているのかね?」

「心配しなくても大丈夫」

「どうしてそこまで断言できるんだ」

「大丈夫だって思えば、なんでも大丈夫なものだよ」

「つまり、なんの根拠もないってことか!」

 愕然とする山田を置いて、円花は到着したタクシーから元気よく飛びだした。

 手入れの行き届いた生垣の向こうには、立派な門構えの古民家が佇んでいる。

「ほら、見て! 鍾馗しようきさんがあんなところに」

 円花が指している先には、瓦屋根の破風はふに小ぶりな瓦素材の人形が飾られていた。果敢に戦うような姿勢をとっているものの、高々と跳ねあがった濃いひげやぎょろりとした目玉や三頭身の身体は、恐ろしさよりも剽軽ひようきんさの方が勝っている。

「鍾馗って〈大津絵十種〉にも入っている、疫病や悪鬼を追い払うモチーフだっけ?」

「そうそう。京都ではよく家の戸口にあったりするんだよ。鍾馗さんはね、中国の皇帝の病を治してくれた霊なの。生前は科挙に落ちて自殺した受験生だったんだけど、気の毒に思った皇帝がその廟を建ててくれた恩返しとして、皇帝の命を助けてくれたんだ」

「ずいぶんとナイーブだな」

「分かってないね、山田は! 科挙ってのは、そこいらの受験なんかと違って、地元の街全体を巻きこんだ壮絶な戦いだったんだから。しかも鍾馗さんは、あと少しで合格っていうところまで行ったんだよ。登山に例えるなら、エベレストの九合目で脱落しちゃったみたいなもんさ」

「なるほど、それは気の毒だ」

 鍾馗のご利益を求めて、山田はスマホで撮影する。

「へへぇ、山田の運の悪さも、それで解決されるといいね」

 知ったような顔で言う円花に、俺の疫病神はおまえのような気もするけどな、とちらりと思ったが口には出さないでおいた。

 静かな店内に訪いを入れて進むと、古めかしい香りがした。高い天井の梁は立派な古木で、柱のあちこちに江戸文字の千社札が貼られている。展示ケースには、代々の金丸又兵衛が描いた大津絵が並ぶが、従来の半紙だけでなく、酒袋や珍しい形の木にまで、大津絵のキャラクターがびっしりと描かれていた。

 とつぜん異世界に迷い込んだようで、おそるおそる奥を覗く。すると工房になっているらしい奥の部屋から、腕にギプスをはめて首から吊るした六十代後半ほどの男性、金丸又兵衛が現れた。

 円花と山田がかぶりがちに挨拶あいさつすると「今回は取材のご依頼をいただき、ありがとうございます。ただ明日のイベントについては、滝上さんにも話したように、私の不注意で実演できなくなってしまい、本当に申し訳ありません」と頭を下げられた。話の分かる人のようで、山田は胸をなでおろす。

「それで早速ですが、又兵衛さんにお訊ねしたいことがあるんです。どなたか他に大津絵を描ける方をご存じありませんか? 以前この街には、他に何人もの大津絵の描き手がいたと聞きまして」

 山田の問いのあとで又兵衛の置いた間に、緊張をおぼえる。

「いるにはいますが、そうは言っても長いあいだ会っていないし、まだ描いてらっしゃるかどうか」

「心当たりがあるんですね。その方のお名前は?」

首藤すどうキミさんといいます」

 ぼそりと答えた又兵衛に、円花は即座に語気を強める。

「おじいちゃん、その人紹介していただけませんか!」

「いいですけど。引き受けてくれるかな」

「なんなら、僕から電話してみましょうか」

 山田が提案し、教えてもらった首藤キミ代の自宅の番号にかけると、電話口に出たのはその娘で、本人は市内のケアハウスに入居していると分かった。娘いわく面会などは自由なので、会いたいのであれば直接訪ねるといいとの返答だった。

「もう時間がないので、今からケアハウスに行ってみましょう。又兵衛さんも僕たちと来てくださいませんか」

 提案すると、又兵衛はどこか戸惑いを含んだ調子で肯いた。ん? さっきから気が乗っていなさそうだが、なにか事情でもあるのだろうか。

「あの、首藤さんとはどういう……」

 一抹の不安をおぼえて訊くと「まぁまぁ、みんなで行ってみようよ、ね」と円花にぶった切られた。

 店を臨時休業にしたあと、駐車場に停めていた軽トラを指し示された。当然ながら、本人は怪我で運転できない。すると円花が「うちの山田が運転します」と押し切る。

「え、俺が? 人の車は怖いって。それに軽トラ、運転したことないんだけど」

「いいから、つべこべ言わずに」

 流されるまま、山田はハンドルをにぎった。

(第7回へつづく)