第二章 大津絵 OTSU-E

「このあいだの硯の記事、よかったよ!」

 廊下でそう声をかけてきたのは数年前まで文化部にいた、山田やまだと同期の岩佐友実子いわさゆみこだった。パンツスーツに足元は運動靴で、彼女がスカートをはいているところは一度も見たことがない。

「今、第二弾を検討してるんだ」

「まだ決まってないなら、大津絵おおつえについて書いてくれない? うちの〈たのしい大津絵〉展、入場者数が伸び悩んでるんだよね」

 現在、友実子が属しているのは、文化部と同じフロアにある企画文化事業部という部署である。日陽にちよう新聞では、多くのマスコミ企業と同様に、海外の美術館から有名な作品を借りて大規模な展覧会を行なうなど、さまざまな文化事業に予算を割いている。

 友実子はこちらが訊かずとも、〈大津絵〉展について話しはじめた。

「大津市資料館で三週間前に開幕したんだけど、内容は充実してるのにイマイチ話題にならないのよ。これから全国巡回するわけだから、頑張って盛りあげたいんだけど。それで宣伝も兼ねて、今週末には展覧会の関連イベントを企画しててね……そうだ、そのイベントに山田くんも取材をかねて参加してきたらどう? きっと職人さんの話も聞けるよ」

 どんどん話を先に進めようとする友実子は、相変わらず人使いが荒い。とはいえ強引なほどの馬力がある彼女は、文化部にいた頃から自分とは比べものにならないくらい仕事ができた。

「相方やデスクに確認して、また返事するよ」

「そういえば〈知られざる日本の技へ〉の相方って、雨柳民男うりゆうたみおのお孫さんなんだっけ。けっこう変わってる子みたいだから、ストレスも多いんじゃない? 居眠りとかしてるのに早くも連載を任されて、さすがコネ入社って感じ――」

「いや、そんなことないよ。硯の記事だってあいつのアイデアだったんだ。後輩とはいえ学ぶところも多いし」

 友実子は一瞬ポカンと口をあけた。

「……どうしたの、急にムキになって」

 実際ストレスは多いし円花まどかの前ではさんざん文句を垂れているくせに、他人から言われるとなぜか不愉快になって反論している自分に気がつく。これでは円花を擁護しているみたいではないか。

「なんていうか、コネ入社なんてイマドキ通用しないし、そんな根も葉もない噂が外部に漏れたら、日陽新聞社の評判も下げかねないだろ」

「それはそうね。じゃ、私はつぎの打ち合わせに行かないと。展覧会の資料とか、相手先の学芸員さんのアドレスとか、あとでメールしとくわ」

 友実子は明るい調子でその場を去っていった。おいおい、本当に大津市に行かせる気満々だけど、大丈夫だろうか。しかしそれも杞憂だった。

「大津絵ね、いいよ!」

 意外にも、円花に提案するとあっさりと受け入れられた。

「本当にいいのか? 他に候補もあったろうに」

「あったけど、多すぎて決められなかったんだ。大津絵にはずっと興味があったし、展覧会の宣伝にもなるから深っちゃんも賛成するだろうし、ちょうどいいや」

 そんな軽いノリでいいのか? 単なる取材だけではなく、主催事業のイベントに参加するからにはある程度手伝いもしなきゃいけないんだぞ。その辺りを説明しても、円花は「だったら手伝えばいいじゃない」と適当に受け流す。そうして〈知られざる日本の技へ〉の第二弾は大津絵をテーマにすることになった。

 大型連休を間近に控え、土曜日午前九時の東京駅八重洲口は賑わっていた。

「おっつー、山田」

 今回も円花は、機能性より個性を重視したようなオフィスでの服装ではなく、スーツ姿で颯爽と現れた。京都駅までの新幹線〈のぞみ〉の切符を買うとき、またしても横並びがいいと希望したが、なぜかA席とB席を指定する。

「富士山が見えるE席側じゃなくていいの?」

「今日はこっちの方がいいんだよ」

 ってどういうことだ。首を傾げていると、にやにやしながらこちらを見る。

「さては、山田もなんだかんだ言って、鉄道旅好きなんじゃないの?」

「鉄道旅って、これはあくまで出張だぞ」

 乗車したあと、円花は例によって迷わず窓際に腰を下ろし、こう説明した。

「たしかに東海道新幹線はE席が一番人気だけど、じつは下りのE席ってしょっちゅう対向列車の衝撃がきて、落ち着かないんだよね。それに今日は曇ってるおかげで、富士山も隠れてるし直射日光も当たらないし、A席から見えるらしい面白い野立て看板を探した方が有意義だと判断したわけ」

「ど、どうしてそんなに詳しいんだ」

「予習したの」と円花は当たり前のように答える。

「……そういう情熱をさ、他の仕事にもちょっとは向けたらどうだ? 今回も出張の準備は俺がほとんど世話したんだからな。カメラの用意もしてやったし、資料館とのメールのやりとりもしたし」

「ふん、私だってアポをとるつもりだったけど、先越されちゃったんだもん」

「本当かよ!」

 円花の性格からして、どこへでもアポなどとらずにズカズカと訪問しそうだ。心配性の山田は見ておられず、つい先回りして彼女の代わりに準備してしまうが、そんなこともお構いなしである。

「終わったことをグチグチとぼやくのはよくないよ。それに深っちゃんも言ってたけど、〈知られざる日本の技へ〉は二人で担当してるんだから、当然協力してくれなきゃ。友実子ちんってば、私をずいぶんと頼りにしてるみたいだし、期待に応えられるように頑張ってよ、山田」

 いやいや、友実子が頼ってきたのは俺だから。しかも君の勤務態度には呆れていたみたいだぞ。極めつけにはって。ツッコミどころ満載である。

「琵琶湖でカヌーはまだ寒いかなぁ!」

 アイスを食べ終えたあと、カヌーではなく船を漕ぎはじめた円花と、その姿にため息を吐いている自分の両方にデジャヴを抱きながら、山田は鞄からファイルを出した。友実子から送られてきた大津絵の資料には、友実子のメッセージがついていた。

 お二人へ

 大津絵っていうのは、ひと言でいえば、江戸時代に生まれた東海道の土産物です。

 土産物である以上、人から愛され、売れないといけません。そこで職人たちは、お寺の近くでよく売れた仏画の「鬼」や「天狗」といったモチーフを、可愛くコミカルに描くようになったのです。それが今でいう「ご当地キャラ」の元祖、大津絵です。

 あくまで商品なので、制作のコストカットは必須でした。そのことが、大津絵の特徴をつくりあげていくわけです。たとえば、半紙二枚を縦につないだサイズで統一され、使う色数も白黒の他、朱、緑などに限定されています。また同じ画題が、同じ構図とポーズでくり返し描かれているのも、品質の安定化を図るためでした。

 そのことをまず頭に置けば、このかわいい民画の奥深き世界に、すんなりと入っていけると思います。楽しんできてね!

「友実子ちんって親切だよね、そんなお手紙くれて」

 いつのまにか起きた円花が、目をこすりながら山田の手に持っている資料を覗きこんでくる。

「君も勉強してきただろうな?」

「もちろん! なんでも訊いていいよ」

 円花は胸の辺りを拳でぽんと叩いた。なにを偉そうに。しかし硯を取材した際に円花の知識に感服してしまったことが頭をよぎり、甘く見てはいけないと思い直す。今度こそは先輩らしいところを見せてやる。

「君に訊きたいことなんて……ない、ですよ」

「本当に?」と円花は信じていない表情で、顔を近づけて目を覗きこんでくる。

「ああ」と肯き、唾を呑みこむ。

「本当に本当だね? じゃあ試しに確認するけど、大津絵ってどうして大津で生まれたんでしょう。東海道は江戸の日本橋から京都の三条大橋まで、とにかく長くて五十以上の宿場があったわけだけど、なぜ大都会でもない大津のような地点で絵がたくさんつくられたのか。もちろん答えられるよね?」

 改めて考えると不思議だった。

 咄嗟に答えが思い浮かばないが、なんとか仮説をひねり出す。

「そりゃ、あれだよ……そう、琵琶湖を眺望できる名所だから、みんなが足を止めたんだろう。『わー、なんてきれいな景色だ、ここで休んでいこうぜ』『あら、あそこに面白い絵が売ってるわ』ってな感じで、旅人の関心を惹いたわけだ」

 得意げに彼女の方を見ると、「下手な演技だね」と呆れ顔になっている。「答えも間違ってるし」

「どうしてそう言い切れるんだ。一定数いてもおかしくないんじゃないの、レイクビューで足を止めた旅人がさ」

「ありえないね。大津絵の店が立地していた追分おいわけは、琵琶湖がまったく見えないところにあるんだもん。大津の西のはずれ、琵琶湖とのあいだに逢坂おうさか山をはさんだ京都寄りの山間部だよ、

 反論のしようもない。

「……で、答えは?」

 素直に訊ねると、円花はふふふと笑った。

「理由は大きくふたつ。ひとつ目は、仏画師がたくさん住んでいたからという説。彼らはもともと京都の本願寺近くにいたんだけど、徳川家康が本願寺を東西に分裂させたときに居場所をなくして、代わりに大津宿の少し手前の土地を与えられたの」

「そ、そんなことくらい、俺も知ってたさ」

 山田は負け惜しみを口にしたあと、「ちなみに、ふたつ目は?」と訊く。

「渋滞したからだよ」

 円花はにやりと笑った。

 江戸時代、逢坂峠のある大津は東海道最大の難所だっただけでなく、伏見街道との追分があって混雑した。そこでは牛車や荷車が往来したうえに、当時流行っていたお伊勢参りや西国三十三所巡りをする多くの人も通過した。大津絵を育んだのは、そんな地理的条件なのだと円花は説明した。

「今からその実物が見られるなんて楽しみだねっ」

 夢中になって話す円花のキラキラした瞳を見ながら、本当に美術や歴史に関することが好きなんだなと思う。新幹線の車窓から見える空は、名古屋を過ぎた辺りから晴天に変わっていた。

 京都駅構内はまっすぐ歩けないほど混雑していたが、湖西線のホームは比較的空いていた。関西の路線には乗り慣れていないので、ひそかにワクワクしていると、円花が山科やましな駅から京阪京津線に乗り換えたいと言いだす。

「なんでわざわざ」と山田はあわてる。

「前から乗ってみたかったの」

「さっきも言ったけど、今日は観光じゃないんだ。もし遅れたりしたら――」

「もうっ、本当に頭が固いね。ルールばっかり気にしてると、肝心なことを見失っちゃうよ。大津に向かうことに違いはないんだから、ちょっとくらい寄り道してもいいじゃないの。たった十数分の差だし」

「まったく」

 と言いつつも、じつは山田も指摘のとおり鉄道旅好きで、その面白さを共有できて嬉しい反面、先輩っぽく役割を演じてしまった自覚があった。というわけで押し切られ、山科駅で下車した。首から一眼レフを下げる円花のうしろを歩きながら、石巻市の出張でも彼女に振り回されたことを思い出す。なんだか少しずつ嫌な予感がしてきたが、どうか的中しませんように。

「それにしても、京阪京津線って特別なのか?」

「それは乗ってみてのお楽しみ」

 まもなく山科駅で乗車した車両は、大津方面に向かって民家の隙間を走り抜けた。洗濯物の干されたベランダや、遅咲きの桜もときおり通り過ぎる。人のまばらな昼前の車内では白髪の女性がうたた寝をしている。

 やがて追分を超えた辺りで、線路は国道一号線と併走しはじめた。通り沿いにぽつぽつと立ち並ぶ古い店に、今はもう大津絵と書かれた看板はない。この景色を見たかったのだろうかと考えていると、つぎの駅で円花はいきなりホームに飛びだした。

「降りるのはまだ先の駅だろ!」

 山田はぎょっとして席から立ちあがり、車内から呼びかける。

「見て見て、ここ! ベンチの足が左右で違う長さでしょ? すでに坂道がはじまってる証拠だね」

 言われてみれば、ホームの地面は勾配がついて、停車中の電車も傾いている。しかしわざわざ電車から出ていって指さす必要がどこにある? 肝を冷やす山田をよそに、慌てる様子は一切なく、百人一首をうたいはじめる。

「これやこのー、いくもかえるもわかれてはー」

「あ、逢坂の関?」

「そうなの。今じゃトンネルが掘られて、短時間で快適に向こう側まで移動できるようになったけど、昔はこの辺りで多くの人が別れたり出会ったりしたんだよね。そしてその思い出の品だったのが大津絵。だから単なる絵じゃなくて、いろんな人のいろんな想いが込められていたの。想像すると、なんかグッと来ない?」

 なるほど、大津絵が生まれた地理的条件を実際に確かめることこそが、京津線に乗り換えた理由だったのか。あのまま湖西線に乗っていたら、北へ逸れて追分も通過しないで終わっていたわけだしな――。

「って、早く戻りなさい!」

「肝っ玉の小さい男だね。そう急かさなくても、ちゃんと測ってるから」

 円花が悠々と車内に入った数秒後、ドアが閉まった。

「君さ……途中で停車した駅のホームで駅弁買えるタイプだろ」

「そうだね、いつも買いに出てるよ。なんならおススメ訊いてじっくり悩んじゃう」

 無邪気に答える円花を見ながら、とんでもないやつだと絶句する。その直後、居眠りをしていたお年寄りから「元気やねぇ、お姉ちゃん。飴なめる?」と声をかけられ、嬉しそうに受けとっていた。

 つぎの駅に向かうまでの道のりは、山岳鉄道さながらの急斜面だった。トンネル内の坂を低速でくだって外に出ると、今度は街中を走る路面電車に変わる。なるほど京阪京津線は、京都市内の御陵みささぎ駅では地下鉄、府県境では登山鉄道、大津市では路面電車という三つの顔を持つという点で、特殊な車両が用いられているようだ。終点のびわ湖浜大津駅の手前では、鉄道ファンがずらりと並んでカメラを構えていた。

 車両から下りて、円花は意気揚々と言う。

「お楽しみのランチだよ」

 ずんずんと先を行く彼女を追いながら、これまでの経緯を思い出す。

 資料館でのアポは午後二時なので、山田は当初それに合わせた時間帯の新幹線で旅程を組んでいた。しかし円花は当初から、朝一で出発してグルメを楽しんだり寄り道したりしたいと言って譲らなかった。山田一人だったら出張の案件を終わらせるまでは、なにかを楽しむ気には到底なれないので、時間通りに到着して駅弁などで腹を満たしただけだったろう。

 新聞記者として見聞を広めることは大事だが、今回も円花のペースに巻き込まれている感は否めない。

 駅前から伸びる大通り沿いに、昔ながらの商店街の入口が現れる。商店街を抜けて路地を一本入ると、老舗らしい料理店があった。事前に店を調べていたらしい円花は「もう決めてあるんだよね。山田も同じものにしてごらんなよ」と選択権を与える隙もなく、近江三昧おうみざんまい定食なるものをふたつ注文する。

「山田って、釣りが趣味なんでしょ?」

 とうとつに問われ、湯呑みを口に運ぼうとしていた手を止める。石巻市の海鮮丼店での会話をよく憶えているじゃないか。興味のないことはすぐに忘れると以前断言していたくせに、釣りが趣味だという他愛のない情報を記憶にとどめているなんて――。

 ポカンとしてしまった山田に、円花はつづけて訊ねる。

「やっぱりふなって、釣りの基本なの?」

「鮒? まぁ、鮒にはじまり鮒に終わるって言うしね」

 多くの釣り好きと同じように、山田も近所の池まで鮒を求めて出かけたことが、釣りの原体験だった。成人してからはもっぱら海釣りに精を出しているが、年をとって川や公園の池に戻ったという人の話もよく耳にする。

「このお店って、美味しい鮒寿司を出してくれるので有名なんだよ」

「え、鮒寿司って独特の臭みがあるんじゃなかった?」

「へへっ。日本を代表する高級珍味だから、人生経験の乏しい山田も一度は食べてみないとね」

 臭みについての疑問は無視してそう答える。やがて近江牛をメインにして、味噌汁と白米の他にいくつか小鉢がついた膳が運ばれてきた。そのひとつが琵琶湖で獲れた鮒を米麹で漬けこんだもの――鮒寿司らしい。

(第6回へつづく)