「いいか、よく見ておけよ」
 大理石の作業台に載せた「ラブラディショコラ」を、直美がチョコレートナイフで真ん中から切り分けた。
 ハート形のホワイトチョコレートの切断面から、艶のある深紅のガナッシュがとろりと流れ出した。
「最高のイチゴ、最高のワインで作ったジャムは、そこらの安物と違って色合いに深みがあるだろう? 食ってみろや」
 チョコレートトングで摘まんだ「ラブラディショコラ」の片割れを、譲二は小皿で受け取った。
 指で摘まむと体温で味が変化するので、試食のときはショコラに直接触れることはしなかった。
 譲二は小皿に顔を寄せ、「ラブラディショコラ」の匂いを嗅いだ。
「さくらももいちご」の甘酸っぱい香りと「シャトーマルゴー」の華やかな香りが、譲二の鼻腔をした。
「ああ……上品で優雅な香りですね」 
 譲二は、うっとりした口調で言った。
 直美を意識してうまく伝えようとしたのは事実だが、お世辞ではなくボンボンショコラでは嗅いだことのない匂いだった。
「あたりめえだ。一流の素材を一流のショコラティエが扱ったんだからな。食ってみろ」
 直美に促され、譲二は皿から直接「ラブラディショコラ」を口に含んだ。
 
 ――このクソボケ! すぐに摘まんだら、ショコラとガナッシュの味のグラデーションがわからねえだろうが! まずは舌の上にボンボンショコラを載せ、体温でゆっくり溶け始めるコーティングのショコラと流れ出すガナッシュのハーモニーを味わうんだよ!
 
 ショコラティエになったばかりの頃、口に入れた瞬間に噛み砕いて直美にこっぴどく怒られたものだ。
 口の中にイチゴの果肉の瑞々しい甘酸っぱさと、ワインの芳醇な香りが広がった。
「さくらももいちご」の甘さをワインの渋みが際立たせ、濃厚だがすっきりとした味わいを作り上げていた。
「『さくらももいちご』の果肉の粒々感が残されているのが最高ですね! 凄く、得した気分になります!」
 譲二が感想を口にしている間、少年のようにキラキラと瞳を輝かせる直美が、「東京倶楽部」の半グレ達を半殺しにしたと同一人物とは思えなかった。
「あと、イチゴの甘さとは別種の奥深い甘さを感じるんですが、ほかになにか入ってます?」
「よくわかったじゃねえか! それでこそ俺の一番弟子だ!」
 直美が手を叩き、してやったりの表情で叫んだ。
 直美に褒められ、譲二の胸は子犬のように弾んだ。
「こいつが隠し味だ」
 直美が、瓶を取り上げた。
 密封された瓶の中には、十センチ四方にカットされた蜂の巣が入っていた。
「もしかして、巣蜜を使ったんですか!?」
 譲二は驚きの声で訊ねた。
 巣蜜は蜂の巣に貯められた蜜をプロポリスでコーティングした状態の蜂蜜だ。
 このサイズで、一万円前後する高価な代物だった。
「おう! 蜂蜜っていうのはよ、空気に触れた瞬間に本来の風味が損なわれてしまうんだよ。『ラブラディショコラ』のガナッシュにゃ、巣ごと煮込んだ蜂蜜が隠し味で入ってるってわけだ」
 喜色満面な表情で、直美が説明した。
「凄い……夢のようなボンボンショコラですね! でも、こんなに高価な素材ばかりだと相当に単価を高くしないと採算が取れないですよ」
 譲二は、ずっと引っかかっていた懸念を口にした。
 スイーツの素材にする果物は、できるだけ安価なものを使用するのが常識だ。理由は単純明快で、赤字になるからだ。
 高級チョコレートブランドで売られているようなボンボンショコラでも、単価はせいぜい三百円から五百円といったところだ。
 だが、高価な素材を使っている「ラブラディショコラ」で利益を出すには、単価を千五百円くらいにしなければ追いつかない。
 五個入りで七千五百円、十個入りで一万五千円のチョコレートは、そう簡単に売れるものではない。
 しかも新鮮な素材を使うほどに賞味期限が短くなるので、売れるまで待てばいい宝飾品や家具とは違うのだ。
「単価二千円で、五個入りでいく」 
「単価二千円の五個入りですか!? 五粒で一万円……海外ブランドのチョコじゃないのに、ちょっと厳しいんじゃないですかね?」
譲二は、正直な気持ちを口にした。
「心配すんな。限定三セットでいくからよ。いくら高くても、三箱くらいは売れるだろうよ」 
「でも、三箱だとあまり利益も出ないですよ」
「いいんだよ、利益なんか出なくてもよ」
 直美が興味なさそうに言った。
「それじゃあ、こんなに手間暇かけて開発する意味が……」
「誰も食ったことのねえようなとんでもない味を追求して、客の驚く顔をみてえんだよ。その前に、俺自身が驚きてえしな。商売だからガミ喰うのはだめだけど、トントンで行けるなら冒険しねえとな」
 直美の言葉が、譲二の胸に刺さった。
 直美は、純粋に人生を愉しんでいる――純粋にショコラ作りを愉しんでいる。
 それに引き換え自分は、常に結果を求めて動いている。
「ちょこれーと屋さん」でも譲二は、客の喜ぶ顔を見たいという思いよりも直美に認められたいという思いでショコラ作りに励んでいる。
 それは悪いことではないが、目先の結果に拘る生きかた――置きにいく生きかたに人間的な成長はないのかもしれない。
 もっと大きな器の男になれと、直美に言われているようだった。
 普段は暴言と下ネタしか口にしないが、本当に大事なことは生き様で教えてくれる……直美は、そんな男だった。
「直、いるか?」
 販売フロアから、不快な濁声が聞こえてきた。
「なんだ、腐れマル暴じゃねえか。なんで鍵を閉めとかねえんだよ」
 直美が舌打ちしながら、厨房を出た。
 譲二も、慌ててあとに続いた。
「いつ見ても、猛獣が作ったとは思えねえかわいらしいチョコレートボンボンだな」 
 ガタイのいい身体をよれよれのスーツに包んだ角刈り中年男――下呂が、前屈みになりショーケースを覗き込んでいた。
「昭和のスーパーに売ってたウイスキーボンボンみてえに言うんじゃねえよ。腐れマル暴が、こんな時間になんの用だ?」
 直美が、ショーケース越しに訊ねた。
「それ、『東京倶楽部』のガキにやられたのか?」
下呂が、直美の腹に巻かれたサラシに視線をやった。
「おめえには関係のねえことだ。それを訊きにきたんなら、さっさと失せろや」
 直美が、不機嫌そうに右手で下呂を追い払う仕草をした。   
「それにしても、あの工藤ってガキは命知らずな奴だなぁ。東京中のヤクザが恐れる百獣の王をナイフでぶっ刺すなんてよ。考えただけで恐ろしいぜ」
 下呂が、自らの身体を抱き締め震えてみせた。
「どうして、それを知ってるんですか?」
 譲二は口を挟んだ。工藤と下呂が通じているのかどうかが気になった。
 もっと言えば、海東と通じているのかが……。
 新宿署のマル暴の立場からすれば、堅気になった直美より「東神会」の若頭に恩を売ったほうがなにかと見返りがあるだろう。下呂が、海東側についても不思議ではない。
「おいおい、甘く見て貰っちゃ困るぜ。こう見えても、新宿一の腕利きマル暴なんだからよ。歌舞伎町で起こることで知らねえ出来事は……」
 直美がショーケース越しに右腕を伸ばし、下呂の胸倉を掴んだ。
「ショコラが腐るから、汚え唾を飛ばしまくってくだらねえ自慢をしてんじゃねえ! 五秒以内に消えねえと、その角刈り頭を叩き割ってやるぞっ、うら!」
 直美が軽く右腕を振ると、下呂がフロアの床に尻餅をついた。
「痛てててて……。せっかく、お前にお土産を持ってきてやったっていうのによ……」 
 下呂が尾てい骨を擦りながら立ち上がった。
「土産なんていらねえから、さっさと……」
「とりあえず、これを見ろ。そしたら、お望み通り帰ってやるからよ」
 下呂がショーケースの上にスマートフォンを置くと、動画の再生アイコンをタップした。
 
『おい、いつまでやってんだよ?』
『す、す、すみません、い、い、いま終わりました』
 ディスプレイには、トイレに膝を突き便器を掃除している中年男に横柄な態度で声をかける若い男が映っていた。
 二人とも背中を向けているので、顔はわからない。
 
「なんだ、これは?」
 直美が、訝しげな顔を下呂に向けた。
「いいからいいから、いまにわかる」
 下呂が、笑いを噛み殺しながら言った。
 
『舐めてみろ』
 若い男が中年男に命じた。
『え? な、な、舐めるんですか?』
『綺麗に掃除したんだろ? だったら、舐めても平気だろう?』
 若い男が、サディスティックな口調で中年男に言った。
 周囲から、笑い声が聞こえた。
『ほらっ、早く舐めろって言ってんだろ!』
 若い男が、中年男の後頭部を掴み便器に顔を押しつけた。
『もっと寄れ!』
 振り返った若い男が嬉々とした表情で、動画の撮影者を手招きした。
 両サイドを刈り上げたツーブロックの七三分け、蓄えた顎髭、鼻ピアス――軽薄そうな顔をした若い男は、まだ二十代前半に見えた。
『五十過ぎの新人が、便器を舐めてんの超ウケるんだけど! ほら、うまいか? 好きなだけ、舐めていいからさ』
 若い男が嘲笑しながら、中年男の顔をグイグイと便器に押しつけた。
『おい、そのへんにしといたほうがいいんじゃないか? そのおっさん、前はヤクザだったそうだから、あんましやり過ぎるとキレるんじゃね?』
 撮影者の声がした。 
『大丈夫大丈夫。こいつ、シャブ喰い過ぎて脳みそ溶けてるから、なにもわからないんだってさ』
 若い男が中年男の顔を便器に押しつけたまま、貯水タンクの水を流した。
『それはやり過ぎだって、おっさんがかわいそうじゃん!』
 撮影者が笑いながら言った。
『もう、飽きた。おい、掃除終わっていいぞ』 
 若い男が真顔になり、中年男に言い残すとトイレから出てきた。
『あのおっさん、どこの組だったんだろうな』
 撮影者が訊ねた。
『よく知らねえけど、海東さんの昔の知り合いみたいだな』
 若い男が、興味なさそうに言った。
 
「海東の昔の知り合い? 誰だ?」
 直美が、ディスプレイから下呂に視線を移した。
「もうすぐわかるから、黙って観てろ」
 下呂が、ワクワクした顔でディスプレイを指差した。
 
『おい、便器で顔でも洗ってんのか!? コンビニで「東スポ」買ってこいよ』
 若い男が命じると、中年男が立ち上がり初めてカメラのほうを向いた。
 
「なっ……」
 中年男のずぶ濡れの顔を見た直美が、眼を見開き絶句した。
「どうだ? 驚いたろう?」
 下呂が、嬉しそうな顔で直美に訊ねた。
 虚ろな瞳、半開きの唇、生気のない表情――中年男はどこかで見たような顔だが、譲二は思い出せなかった。
「てめえっ、これはどういうことだ!?」
直美がふたたび下呂の胸倉を掴み、ショーケースに引き摺り上げた。
「おい……く、苦しい……やめろ……放せ……」
「どうして若頭かしらがシャブ中になってんだよ! おお!? こら!? 腐れマル暴!」
 直美が下呂の胸倉を引き寄せ、鬼の形相で問い詰めた。
「若頭ってまさか……」
 譲二は言葉の続きを呑み込んだ。
 
 ――若頭は天涯孤独になった俺を引き取ってくれた。今日からお前は俺の弟分だ。中学卒業するまで修業して、「東神会」に入れ。お前が一端の極道になったときに、俺が一緒に「大山会」を潰してやる……ってな。
 
 直美が「東神会」に入るきっかけになった恩人が、当時の若頭の野崎だった。
 直美の父親が歌舞伎町でケーキ屋をやっていた土地で、キャバクラをオープンさせたがっていた「大山会」は札束攻勢で立ち退かせようとした。
 頑なに立ち退きに応じない直美の父親に、業を煮やした「大山会」は店に火をつけ焼き殺した。
「大山会」とズブズブの関係だった新宿署は、事件性のない火災として片づけた。
 当時中学生だった直美は単身「大山会」の事務所に乗り込み組長を殺そうとしたが、偶然近くを通りかかった野崎に止められた……それが、二人の出会いだった。
 直美にとって、野崎は兄貴分であり父親だった。
 野崎は直美が足を洗ってからほどなくして、「東神会」を破門になった。
 理由は、組で御法度の覚醒剤のシノギをやったというものだった。
 
 ――若頭が、シャブを扱うわけがねえ。誰かに嵌められたに違いねえ。
 
 直美は「ちょこれーと屋さん」をオープンしてからも、野崎の消息を追っていた。
 この廃人のような男が、直美が唯一頭の上がらなかった漢気溢れる野崎とは思えなかった。
 譲二は野崎と深いつき合いはなく遠くから見ているだけだったが、目力のある精悍な印象で、男が惚れる男というタイプだった。
「動画の事務所は……海東の息がかかった……闇金融だ……。野崎は……海東に嵌められ……組を追われた。シャブを扱っていたのは海東だったが……卸元のヤクザが野崎の名前を出した……。海東は……言う通りに組長に証言したら……月に十キロ単位のシャブを仕入れると……餌をぶら下げた……」
 下呂が喘ぐように言った。
「海東が、若頭を嵌めただと!?」
 直美の眼の縁が赤く染まり、白目がみるみる充血した。
「そ……それだけじゃねえ……。組を追われた野崎を拉致して……シャブ漬けにして……廃人になった野崎を……闇金融で面倒見させて……」
「ぶっ殺してやる!」
 直美が叫び、右腕を振り抜いた。
 下呂が吹き飛び、販売フロアの壁に叩きつけられた。
「この……闇金融は……目と鼻の先だ……。区役所通りの『アンジュ』ってキャバクラの入ってるビルの三階だ……」
 床に倒れる下呂はこめかみから血を流し息も切れ切れだったが、うっすらと微笑んでいた。
 そんな下呂を見て、譲二の胸に危惧の念が膨らんだ。
 下呂はなにかを企んでいる。
 譲二の視界の端を影が過った――直美がショーケースを飛び越え、店から駆け出した。
「直さん!」
 譲二は、直美のあとを追った。

(第13回へつづく)