タクシーの車内に、獣が発するような唸り声が響き渡った。
 運転手がルームミラー越しに、怯えた眼で後部座席の様子を窺っていた。
「直さん……やっぱり病院に行かないとヤバいっすよ!」
譲二は、腹に二本のナイフを刺したまま鬼の形相で唸り声を発し続ける直美に言った。
 譲二が監禁されていたのは新大久保の雑居ビルで、タクシーは既に歌舞伎町に入っていた。
「黙ってろ! 病院なんかに行ってる暇はねえ!」
 直美は譲二を一喝した。
「あの……私も、病院に行かれたほうがよろしいかと……」
 遠慮がちに、運転手が口を挟んできた。
「てめえは余計な口叩いてねえで、もっと飛ばせや!」
 直美が、ドライバーズシートの背凭れを蹴りつけた。
「直さんっ、傷口が開くから暴れちゃだめですよ! だいたい、病院にも寄らずにやらなきゃならないことってなんですか!? いくら直さんが頑丈でも、出血多量で死んじゃいますって! まさか……その身体で復讐なんて考えてるんじゃないでしょうね!? だめですよ! せめて傷口が塞がってからじゃないと……」
「黙ってろって言ってんだろ! これ以上ごちゃごちゃ抜かすと、車から放り出すぞ! 運転手! てめえもだ! 警察サツに通報なんかしやがったら、二度とハンドル握れねえように手首を切り落としてやるからな!」
 直美の怒声を背中に浴びた運転手が、蒼白な顔でアクセルを踏んだ。
「わ、わかりました。もう、なにも言いませんから、とにかく大声を出さないでください」
 譲二は、考えを変えた。
 一度言い出したら聞かないのが直美だ。それならば、傷口が開かないようにおとなしくさせることが先決だ。
「つ、着きました……」
 震える声で言いながら、運転手がタクシーを「ちょこれーと屋さん」の前に停めた。
 直美は一万円札を譲二の膝に置くと、タクシーを降りた。
「本当にヤバいですから、通報なんてしちゃだめですよ。俺達を乗せたことは、忘れてください」
 譲二は運転手に釘を刺し、釣銭を受け取ると直美のあとを追った。
 直美はきっと、自分で応急処置をしてから工藤のもとにお礼参りに行くつもりに違いない。それだけは、なんとしてでも阻止しなければならない。
 圧倒的な直美の破壊力を目の当たりにしながら、工藤は微塵も臆することはなかった。
 臆するどころか、トイレに行くかのようにふらりと歩き出し、擦れ違い様に直美の腹を狙ってナイフを投げた。
 工藤は、直美とは違う質の狂気を持ち合わせていた。大きなカテゴリにわけると、アニキ分の海東の狂気に近い。
 だが、海東よりも予測のつかない不気味さはあった。なにより、工藤が十代の少年ということが信じられなかった。
 直美が工藤をそのままにするとは思えない。だが、報復するのは怪我が完治してからだ。手負いのまま乗り込んで、百パーセント勝てる保証のある相手ではない。 
 厨房に続く裏口のドアを開けた譲二は、息を呑んだ。
 床に胡坐を掻いた直美が、ナイフが刺さったままの腹に消毒用のアルコール液を大量にかけていた。
「おい、そんなところに突っ立ってねえで手伝え!」
「え!? 俺がですか!?」
「ほかに誰がいるんだ! 早くこい!」
 譲二は、弾かれたように直美のもとに駆け寄った。
 直美の傍らには、裁縫セットが置いてあった。
「まさか……これで俺に縫えってことですか?」
 恐る恐る、譲二は訊ねた。
「馬鹿! おめえみたいなぶきっちょにやらせるわけねえだろ! ナイフを抜け。まずは上に刺さってるやつからだ」
「え……血が噴き出しますよ……」
「だからおめえにやらせるんじゃねえか! できるだけ出血しねえうちにソッコーで縫うために、俺はスタンバイしとくからよ。早く抜け!」
直美の右手には、大型のプライヤータイプのホッチキスが握られていた。
「それで……傷口を留めるつもりですか?」
 掠れた声で、譲二は訊ねた。
「縫うまでの応急処置だ。ごちゃごちゃ言ってねえで、早く抜けや!」
 直美の怒声に背を押されるように、譲二は下っ腹に刺さっている二本のナイフのうち一本を引き抜いた。
 刃に塞き止められていた鮮血が溢れ出す傷口を素早く掴んだ直美は、大型ホッチキスの針を立て続けに打ち込んだ。
 あまりの生々しさに、譲二は顔を顰めた。
 直美は眉一つ動かさずに、ホッチキスで塞いだ傷口を手縫い針で縫合し始めた。
 使っている針は洋裁のメリケン針で、一番長い一号タイプだった。
 直美がメリケン針をジグザグに縫い進めると、黒糸が荒々しいバッテン印で傷口を塞ぎ始めた。
 一分もかからずに縫い終わると、直美は太い指先で黒糸を器用に結んだ。
 ふたたびアルコールのボトルを手に取り、豪快に傷口にぶちまけ血を洗い流した。
「一丁上がり! 次だ!」
 直美に促され、譲二は二本目を抜いた。
 一回目と同じ光景が、リプレイ映像のように繰り返された。
 驚きなのは、直美の手際のよさだ。これまでも傷を負うたび野生動物のように、病院には行かずにすべて自分で治療してきたのだろうか?
 痛みにたいしての耐性も、常人離れしていた。麻酔もなしにナイフで刺された傷口を業務用のホッチキスで留め、メリケン針と裁縫糸で手縫いする間、直美はまったく表情を変えず呻き声一つ発することがなかった。
 考えてみれば直美は、「東京倶楽部」の半グレ達に金属バットで殴られたときも平然としていた。直美の痛覚神経は麻痺しているのだろうか?
縫合を終えた直美はピンセットの先端をガスバーナーで炙り、傷口を留めたホッチキスの針を外し始めた。
「オペ終了!」
 直美はすっくと立ち上がり、用意していたさらしを腹に巻いた。
「傷口が化膿しないように、せめて抗生物質とか飲んだほうがいいですよ」
「おう、そうだな」
 珍しく直美が譲二の進言を素直に受け入れ、厨房のステンレス棚の収納扉を開けた。
「抗生物質なんて、ここにあるんですか?」
「まあな。ほらよ」
 振り返った直美が右手に握っているのは、ショコラ作りに使う「パトロンアネホ」だった。
「抗生物質じゃなくて、テキーラじゃないですか!」
「本当は、ショコラを作る前にゃ飲まねえことにしてるんだけどよ」
「そういう問題じゃ……え、いま、ショコラを作るって言いました!?」
 譲二は素頓狂な声で訊ねた。
「新作が閃いたんだ」
 瞳を輝かせた直美はテキーラのボトルを高々と掲げると逆さにし、注ぎ口に唇が触れないように琥珀色の液体を流し込んだ。
「まさか、そんなことのために病院にも行かずに店に直行したんですか!?」
「そんなことのためって、どういうことだ!?」
 直美が、鬼の形相で譲二を睨みつけた。
「いえ……ショコラ作りを馬鹿にしたわけじゃなくて、命にかかわる大怪我をした直後にやらなくても、まずは病院で治療を受けてから……」
「馬鹿野郎! お前はなんにもわかってねえな! 思い立ったが吉日ってやつだ。新作のインスピレーションは、降りてきたときに試さねえとな。お前は床の汚れを掃除しろ。俺は『ラブラディショコラ』の制作に取りかかるからよ」
 直美がウキウキした表情で言うと、手を洗い始めた。
「ラブラディ……それ、なんですか?」
 譲二は清掃用具の入ったロッカーからデッキブラシを取り出しながら訊ねた。
「名付けて、『血塗れの愛』だ」
「『血塗れの愛』……」
 譲二は、眉を顰めながら繰り返した。
「雑魚ヘッドに刺されたときに流れる血を見て、閃いたんだ。血をテーマにしたショコラは、どこの店もやってねえしな。血と愛をかけてラブラディ……俺って、天才だわ~」
 直美が自画自賛した。
「そりゃあ、誰も血をテーマにしないでしょう……だって、スウィーツに血塗れなんてネーミングしたら、親は子供に絶対に買ってあげませんよ。夢見がちなスウィーツ女子なんかも、気味悪がって引くと思いますし」
「お前よ、ちんぽはフニャフニャのくせにどうしてそんなに頭は固えんだよ? まあ、凡人にはわからねえかな~。ハロウィンをみろ。世界中の女子や子供が悪魔だゾンビだ殺人鬼だの、血塗れの仮装をして盛り上がってるじゃねえか。クリスマスが最大のイベントだった一昔前なら、考えられねえ発想だろ? 血塗れの愛イケてるぅ~、血塗れチョコにキュンですぅ~って、大ブームを独占先取りするんだよ。だいたいな、大成功なんてもんは、誰一人考えつかねえようなことを真っ先にやった奴しか掴めねえもんだ。凡人のお前に説明してる暇はねえ。俺は買い出しに行ってくるから、掃除を済ませておけよ」
 直美は一方的に言い残し、厨房を後にした。
 譲二はため息を吐いた。
 腹から流れる血を見て新作を思いつくのも、病院に行かずに傷口を自分で縫うのも、ナイフで刺されて一、二時間後にショコラを作り始めるのも、一切が常人離れしていた。
 あまりにも直美が突拍子もないので、譲二は半グレ達に受けた屈辱を思い出している暇もなかった。だが、譲二の心は梅雨時の空のように暗鬱としていた。
 直美は、必ずケジメを取りに行く。
 また、工藤もこれで終わらせるつもりはないだろう。海東の意を受けて、を仕留めにかかるに違いない。
 股間に群がる五頭のマスチフ――性器に蘇るざらついた舌の感触。
 不意に蘇る悪夢に、前腕の肌が粟立ち鼓動がアップテンポのリズムを刻んだ。
「今度は俺が……」
 譲二はバケツに汲んだ水を抱え上げた。
「直さんを助ける番だ!」
 床の血溜まりを、勢いをつけてぶちまけた水で洗い流した。
 

 部屋の温度は十五度、湿度は五十パーセント。
 譲二は厨房の温度計と湿度計をチェックしたあとに、鍋で温めた湯をガラスボウルに移した。
 温度計付きのゴムベラを挿し込むと、ディスプレイは六十度を表示していた。
 ホワイトチョコレートの湯煎は五十度から五十五度の間で行えば、滑らかにきれいな艶が出る。
 それ以上の温度になると脂肪分が溶け出し、チョコレートが分離してしまう。
 艶がなくなり、ボソボソの食感になるのだ。
 一般的にホワイトチョコレートはほかのチョコレートよりも溶けづらく湯煎が難しいと言われている。
 実際はスイートチョコレートの溶解温度が五十度から五十五度、ミルクチョコレートは四十五度から五十度にたいして、ホワイトチョコレートは四十度から四十五度と一番低い。
 では、なぜ溶けにくいのか?
 答えはホワイトチョコレートが溶けづらいのではなく、湯煎の温度を溶解温度に合わせてしまうからだ。
 溶解温度より十度くらい高い温度で湯煎するのが正解だ。
 譲二は湯の温度を冷ましている間に、板状のホワイトチョコレートをチョコナイフで刻んだ。細かくしたほうが、より溶けやすくなる。
 譲二の対面の作業台――買い出しから戻ってきた直美は、木のボウルに入れたイチゴを木ベラで潰していた。
 グラニュー糖も振りかけていたので、どうやらジャムを作るつもりのようだ。
 普通に作業しているが、サラシで巻かれた腹には数時間前まで二本のナイフが突き刺さっていたのだ。
 直美曰く、腹膜筋が常人の数倍厚くナイフの刃渡りが短かったので内臓には達していないそうだ。
 だからといって、ナイフで刺されたのに自分で傷口を縫いつけショコラ作りをする者は日本中探してもいないだろう。
「どうして果物は木ベラを使うかわかるか?」
 不意に、直美が訊ねてきた。
 直美は果物を扱うときはステンレス製やゴム製の器具ではなく、欅などの自然な材質を使用していた。
「金属製やゴム製を使うと、人工的な味が移るからですか?」
「浅いな~。そんなもん、素人でも言いそうなことだ」
 直美は言いながら、すり潰したイチゴを鍋に移して中火で煮始めた。 
 手際よく、レモン汁と白ワインを加えた。
「果物は同じ植物の木で触れてやったほうが、上質な甘味を出すんだ」
 直美は、繊細な手つきで鍋を掻き混ぜながら言った。
「上質な甘味……ですか?」
 譲二は湯煎に温度計を挿し、五十度になっているのを確認した。
 刻んだホワイトチョコレートの入ったガラスボウルを、湯を張った一回り大きなガラスボウルにそっと浸した。
 このとき湯煎の湯がチョコレートに混ざれば分離してしまうので、細心の注意を払わなければならない。
 へラにも水分が付着していないかを確認し、譲二はホワイトチョコレートを掻き混ぜた。 
「そうだ。女はバイブを突っ込まれてイクより、ポコチンを突っ込まれてイクほうが何倍ものオルガスムスに襲われるそうだ。植物には植物、生には生が一番の相性っつーことだ。おめえも、シリコンのオナホールを使うより肉襞のほうがいいだろ?」
 直美は下種な話をしているとは思えない優しい瞳で鍋の中をみつめ、木ベラを持つ手をゆっくりと回していた。
「ショコラ作りしながら、話す内容じゃないですよ」
 譲二は、苦笑いしながら直美をやんわりと諫めた。
「だからおめえは、素人童貞なんだよ。いいか? セックスは下品でも悪いことでもねえ。ショコラも女も手間暇かけてやればいい味を出すって、いつも教えてるだろうが」
 悪びれたふうもなく、直美が言った。
「ところで、『ラブラディショコラ』のガナッシュはイチゴジャムを使うんですか?」
「おう、ただのイチゴじゃねえぞ。『さくらももいちご』だ」
「『さくらももいちご』!?」
思わず、譲二は大声を張り上げた。
「大声を出すんじゃねえよ。飛沫がチョコに入るじゃねえか」
 すかさず、直美が窘めた。
「だ、だって、あの幻のイチゴですよね? 徳島県の佐那河内村でしか栽培していなくて、一粒千円くらいするんでしょ!? っていうか、いまは夏なのに、どうやって手に入れたんですか!?」
 譲二は興奮した口調で矢継ぎ早に訊ねた。
「ゴジラロードの出会い系の店だ」
「出会い系の店!? え!? 出会い系の店に『さくらももいちご』があるわけないでしょう!? からかわないで、教えてくださいよ!」
 譲二は湯煎から外したホワイトチョコレートの入ったガラスボウルを、冷水の入ったステンレスボウルにつけた。
 温時計を挿し込んだまま、二十七度から二十六度に下がるまでゴムベラでゆっくりと掻き混ぜる。
 ホワイトチョコレートの艶がなくなり、次第に粘り気が出てきた。
 温度計が二十六度になったところでステンレスボウルから外し、ふたたび湯煎した。
 二、三秒で湯を張ったガラスボウルから外してよく掻き混ぜ、また湯煎して二、三秒で外して掻き混ぜることを繰り返しながら、ホワイトチョコレートの温度を上昇させた。
「からかっちゃいねえよ。出会い系の店主の実家が、佐那河内村でな。五月に、奴の親父が型崩れで出荷できねえ『さくらももいちご』を大量に送ってきたらしいんだ。で、一人じゃ食べきれねえから、なんとかならないかって相談を受けててな。そんときは俺も型崩れの『さくらももいちご』の使い道なんて思いつかねえから、とりあえず冷凍させておいたんだ。だからよ、単価は三百円ってところだ。春江ババアみてえに不細工な型崩れを、五十個一万五千円で仕入れたぜ」
 得意満面の顔で言いながら、直美が白ワインに続いて赤ワインを鍋に注いだ。
「それ……『シャトーマルゴー』じゃないですか!?」
 赤ワインのボトルのラベルを見て、譲二はぎょっとした。
「ちょこれーと屋さん」の五周年祝いに、常連のキャバ嬢がくれた十万円を超える年代物のワインだった。
「おい、ワインより温度は大丈夫か!? 三十度を超えてたら陰毛全剃りのパイパンにしてやるからな!」
 直美の恫喝が、下っ腹を震わせた。
 弾かれたように、譲二は温度計を見た。
 二十九度――慌てて、ガラスボウルを湯煎から外した。 
  ホワイトチョコレートの最終の温度調節は二十八度から二十九度で、その温度が一番滑らかで艶のある仕上がりとなる。
「二十九度でした」
 譲二は安堵の吐息を漏らしつつ、直美に伝えた。
「モールドにセッティングしろ。おめえの平平凡凡な質問の続きは、試作品が完成してからだ」
 直美の下品なたとえや口の悪さに腹立ちはなかった。むしろ、重傷を負ってもいつも通りの直美の言動に安心した。
「了解です!」
譲二は、ハート形のモールドにテンパリングしたホワイトチョコレートを流し込んだ。

(第12回へつづく)