人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

第八話

「突き落とされたって、誰に? お義母さん、誰に背中を押されたんです?」

 琴子に問いただされたウタは口惜しそうに唇を嚙み、わからないと首を振る。

 背後から聞こえてきた足音に振り返ろうとした刹那、ドン!と強い力で突き飛ばされ、顔も姿も見えなかったらしい。

「いったい誰が、そんなひどいことを……」

「あんただって知ってるだろ、あの山に入るのは、地元の人間だけさ」

「この町の誰かがお義母さんを崖から突き落としたって言うんですか? それって、殺人未遂ですよ」

「もちろん、殺すつもりで押したんだ。だって、あそこは……」

 思い出したのか、ウタはむせぶように声を詰まらせる。

「……ひこぉ、ああ、冬彦ぉ……」

 ウタが突き落とされたというやぎ山の崖は、四年前、彼女の息子、冬彦が転落死した場所だ。ついさっき冬彦はどこだと尋ねたウタが、細い肩を震わせ、すすり泣いている。一人息子の死を思い出したのだろう。

 ひとしきり泣いたのち、地を這うような低い声でウタは言った。

「イワオ……かも、しれない」

 その言葉に、琴子はぎょっと目を見開き、ウタを見る。

「な、なに言ってるんですか、お義母さん?」

「冬彦をあの崖から突き落としたイワオが、今度はこの私を……」

「そんなことあるはずないでしょう。だって、あの人は……」

「……なんだい? ハッキリお言いよ、琴子さん」

「自殺……したじゃないですか」

「自殺!? 噓をつくんじゃないよ。そんなことがあるもんか!?」

「お義母さんだって、見たでしょう。あの人が……、自分の小屋の前で灯油かぶって、火をつけたところを……」

 その光景が脳裏によみがえったのか、琴子の顔が苦しげに歪む。

「まさか、そんなはず……」と、なにか言いかえそうとしたウタの目がハッと大きく見開かれ、すぐに弱々しく萎んだ。

「……そうだ。イワオは死んだ。死んじまったんだ。私がこの手で殺してやりたかったのに」

 そうつぶやき、肩を落としたウタは、急にひとまわり小さくなってしまったように見えた。

「お義母さん、本当に誰かに背中を押されたんですか?」

 いたわるような琴子の問いかけに、ウタは弱々しい声で応じる。

「私が噓なんかつくわけないだろ。こうやってドン!って背中を……」

 身体を動かそうとして腕に痛みが走ったらしく、ウタはうめく。

「大丈夫ですか? 痛みます?」

 気遣う琴子に苦悶の表情を見せていたウタの口もとに、なぜかふいにうっすらと笑みが浮かんだ。

「どうしたの、お義母さん?」

「……今、わかった。やったのは……、あいつだ」

 ウタの言葉に、病室の入口で見守っていた仁美と修一郎、涼音も、思わず身を乗り出す。

「えっ? 誰なの、お義母さん!? 誰に押されたの?」

「あの人殺しだよ」と、憎々しげにウタは顔をゆがめる。「おしるこの鍋に毒を入れただけじゃ飽き足らず、今度はこの私を殺そうとしたんだ」

「お義母さん、もしかして、仁先生のことを言ってるの?」

「そうだよ。あのヤブ医者かあいつの娘がやったんだ。そうに決まってる」

「ちょっと待って、お義母さん、そんなわけないわ。だって、仁美さんは……」

「いや、私は確かに、見た。私を突き落とした犯人はその仁美だよ。絶対に間違いない!」

 いきなり殺人未遂の犯人に仕立て上げられた仁美は動揺し、喉からぐえっと妙な音を漏らす。

 ウタの小さな目が、ゆっくりとこちらを向く。それまで琴子しか視界に入っていなかったらしく、そこに仁美の姿を認めた瞬間、その表情は鬼のように険しく豹変した。

「なんでおまえが、人殺しの娘が、ここにいるんだっ!?」

 金切り声を上げるウタを、琴子が必死になだめる。

「お義母さん、仁美さんはお義母さんを心配して来てくれたのよ。それに、お母さんが転落したとき、仁美さんは私と一緒に……」

「そんなわけないだろ。私はこの娘に殺されかけたんだよ。出て行け、今すぐここから出て行け!」

 腕が動かせたなら間違いなく手近にあるものを投げつけてきたに違いないウタの剣幕に怖れをなし、仁美たちは慌てて病室を飛び出した。

「よかったな」

 病院からの帰り道、そうつぶやいた修一郎に、仁美は「はぁ?」と思わず声を荒らげる。

「確かにおばあちゃんは無事でよかったけど、私、崖から突き落とした犯人にされちゃってんだよ。はじめはイワオかもとか言ってたし、音無のおじさんが亡くなったことも忘れてたし、おばあちゃん、ヤバすぎなんだけど」

「だから、琴子さんと一緒にいてよかったなって言ったんだよ。ばあちゃんが崖から落ちた時間、仁美にアリバイがなければ、ばあちゃんの言葉を信じる人間がいたかもしれない」

「えっ? 誰が信じるっていうの? 私がおばあちゃんを突き落とすわけないでしょ」

「音無のばあちゃんは、鍋に農薬を入れたのは仁先生だって証拠もないのに思い込んでる。事件で千草おばさんを亡くした仁美が、ばあちゃんにそう罵られたら、ついカッとなって……って、考える人間がいないとも限らないだろ」

 その状況を想像し、背筋がぞわっと寒くなった。黙り込んでしまった仁美の隣で、修一郎がぽつりと独りごちる。

「冤罪って、こんな感じで生まれるんだろうな」

「仁美ちゃんや仁先生がそんなことするわけないけど、誰かがおばあちゃんの背中を押した……かもしれないんだよね?」

 涼音の問いかけに、仁美は首をかしげる。

「そんなことする人、いる? おばあちゃん、勘違いしてるだけじゃないの?」

「でも、ばあちゃん、足腰だけはおそろしく丈夫だし、雨で滑りやすくなっていたわけでもないのに、自分の庭みたいな裏山から足を滑らせたって考えづらくないか? ばあちゃんの話が本当なら……」

 修一郎は一度言葉を切り、ポツリとつぶやいた。

「同一犯じゃないのかな」

「えっ!? 同一犯って、毒しるこ事件と?」

「声デカすぎ。ボリューム落とせよ」と、仁美に顔をしかめながら、修一郎は応じる。

「こんな田舎の小さな町で立て続けに事件が起こるなんて、その可能性が高いだろ」

「じゃあ、おばあちゃんを突き落としたのも博士だって言うの? どうして博士がそんなことを?」

「わからないよ。警察にマークされてるってだけで、博士が毒殺犯かどうかすらわかっていないんだし」

「……どうして毒しるこ事件の犯人が、音無のおばあちゃんを崖から突き落とすの?」

 表情のない顔でおずおずと尋ねた涼音を、修一郎は見つめる。

「普通に考えれば、ばあちゃんを殺す動機は、犯人にとってまずい場面を目撃されたから、じゃない?」

「でも、おばあちゃんは仁先生が犯人だって……」

 涼音の言葉に、仁美の顔が強ばる。毒を混入する現場を目撃された父が、口封じのため、音無のおばあちゃんを殺そうとしたってこと?

「そんなことするはずがないよ! 仁先生は絶対にそんなことする人じゃない」

 仁美が反論するより早く、涼音が強い口調で言い切ってくれた。

「すず、僕も仁先生が犯人だなんて思ってない。ばあちゃんが認知症なのは確かだし、なにか大事な場面を目撃したことを忘れて、犯人だけがばあちゃんに見られたって思ってるのかも。まぁ、それも可能性のひとつに過ぎないけどな。もっと最悪なケースだって考えられるし……」

「さ、最悪のケースって、なによ?」

 恐る恐る尋ねた仁美の声は虫の音に搔き消されて届かなかったのか、修一郎は足もとを見つめたままなにかを考え込んでいる。そんな修一郎に涼音が呼びかけた。

「修一郎君、さっき、かすみちゃんがお祭りに行くのを嫌がってたって言ってたでしょ?」

「……え? あ、ああ、母親から聞いたんだ。かすみは気が進まない様子だったけど、麗奈ちゃんと同級生の男の子たちが迎えに来て、せっかくのお祭りだし、具合が悪くなったら、自分たちが家まで送り届けますからって言って、かすみを連れて行ったって」

「かすみちゃん、どうしてお祭りに行きたくなかったんだろう?」

「わからないけど、ちょっと気になってることがあって」

 なにかを思い出すように遠くを見つめ、修一郎は口を開いた。

「かすみの葬儀のとき、具合が悪くなってさ……」

 焼香に訪れた人々の中に犯人がいるかもしれないと、修一郎は彼らの一挙手一投足をも見逃すまいと遺族席で目を皿のようにしていたらしい。だが友人知人を疑いの目で見続けていたせいか次第に気分が悪くなり、葬儀場の手洗いの個室に駆け込んだそうだ。

「食べてないから吐くものなくて胃液を吐いてたら、あとから二人組が用を足しにきた。その話し声が聞こえてきたんだ」

――かすみたち、やっぱり、イワオに殺されたのかな?

――誰?

――だから、イワオの幽霊だよ。殺人鬼の。

――は? なにガキみたいなこと言ってんだよ。んなわけねーだろ。やったのは、やっぱ、あいつじゃね?

――え?

――告ってフラれたんだって。で、キレて農薬を……。

――噓、それ、誰のこと?

 修一郎は慌てて口を拭ってドアを開けたが、その子たちはもう姿を消していたという。

 一番奥の個室にいた修一郎に気づかずに話し、物音に驚いて逃げたらしい。

「声変わりしていない甲高い声だったし、男子小学生で間違いないと思う。ただの子供の噂話で信憑性はないのかもしれないけど、気になって……」

「かすみちゃんか麗奈ちゃんにフラれた誰かが、逆恨みして毒を入れたっていうの? まさか、小学生がそんなことする?」

 疑念を差しはさんだ仁美に、修一郎は冷ややかな目を向ける。

「すべての小学生が、仁美みたいに単純でも子供でもないんだよ」

 ムッとしたが、仁美が文句をぶつけるより早く、修一郎は「それに……」と言葉を継ぐ。

「かすみから聞いたことがある。麗奈ちゃんは、お兄ちゃんと同じくらい甘いものが好きだって」

「実際、一番最初におしるこをもらいに来ていたものね」と、涼音が応じた。「じゃあ、それを知っていた犯人が鍋に毒を?」

「毒殺なら非力な小学生にも可能だし、パラコートが家にあれば、子供にだって簡単に持ち出せる。それに殺したい人間以外にも大勢が死ぬかもしれない可能性に思いが至らないあたり、逆に、とても幼稚な人間の犯行って気が、僕にはするんだ」

 でもあの日、テントに来た男子小学生は、琴子の息子の音無流星だけだ。流星はかすみとも町内会長の孫の麗奈とも仲が良かった。それに……。

「もしも告ってフラれたヤツが犯人なら、それ、流星君じゃないよね」

「仁美ちゃん、どうして?」

「だって、つきあってたんじゃないの、あのふたり?」

 仁美の言葉に動揺した修一郎が、めずらしく大きな声を出す。

「えっ!? 噓だろ、かすみと流星が!?」

「違うよ、かすみちゃんじゃなくて、麗奈ちゃんとだよ。少なくとも、麗奈ちゃんは流星君のことが好きだったはず。私、去年、相談されたもん。バレンタインにどんなチョコあげたら流星君が喜ぶかって」

「じゃあ、誰か他にいるってことなのかな。麗奈ちゃんかかすみちゃんに告白したコが」

 涼音の言葉に、修一郎は憮然とした表情でぼそりとつぶやく。

「僕はかすみからなにも訊かされてないから、告られたのは麗奈ちゃんだと思うけど。かわいいからモテるだろうし」

「確かに美人さんだよね、麗奈ちゃん。……昔、イワオって人に、誘拐されそうになったんでしょ?」

 訊きづらそうに、涼音が尋ねた。彼がこの町に現れた四年前、すでに東京に引っ越していた涼音は、イワオのことを噂でしか知らない。しかも住人が会長に気を遣っているため、その噂ですら、あまり人の口に上らないのだ。

 そんな涼音に、修一郎が事件の詳細を話して聞かせる。

 イワオこと宅間巌は、どこからかこの町に流れてきた大柄な若い男で、力が強いことを町内会長に買われて、彼の屋敷で下働きをしていた。少し障害があったのか人と関わるのが苦手なようで、いつもよれよれの灰色のコートをまとった風体は怪しげだったが、子供好きらしくメーメー公園で低学年の小学生たちと遊ぶ姿がよく目撃されていたという。

 四年前の秋、会長宅で寝ていたはずの麗奈が夜中にいなくなったと、騒ぎになった。

 町外れの小屋で寝起きしていたイワオの姿も消えていたため、これはただごとではないと、会長の号令で大人たちが協力して雨の中、当時小学二年生だった麗奈の捜索に当たったが、川や雑木林などを手分けして捜しても、ふたりを見つけることはできなかった。

 そうこうするうち、やぎ山の方から悲鳴が聞こえてきた。慌てて山に入った住人たちは崖の上にいたイワオと麗奈を発見したが、その悲鳴はふたりのものではなかった。捜索のため先に山に登った琴子の夫、音無冬彦が崖から滑落していたのだ。

 イワオが冬彦を突き落としたのかと大人たちに問われ、麗奈は震えながらうなずく。

 君がしていることは未成年者略取という犯罪で、今、住人が総出で捜していると冬彦から責められたイワオが、逃げようとして揉み合いになり、突き落としてしまったらしい。麗奈は無事に保護されたが、冬彦は脳挫傷を起こし、数日後に死亡した。

 警察の取り調べを受けた宅間巌は、いたずら目的で幼女をさらったことも音無冬彦を崖から突き落としたことも認めなかったが、彼の実父が小児性犯罪で服役していたことがわかり、周りからの疑いは深まっていく。そして何度目かの事情聴取ののち、イワオは住んでいた小屋の前で灯油を被り、大勢の住人の目の前で焼身自殺してしまったのだ。

 その衝撃的な死にざまのせいか、その後、イワオの幽霊を見たという目撃談があちこちで囁かれた。

 さらに地元の第四小学校では、旧校舎の昇降口にある鏡に焼けただれたイワオの顔が映るとか、二階の一番奥のトイレに入ると、「熱い、熱い」とうめくイワオの声が聞こえるとか、理科準備室に最後まで残っていた生徒は、イワオに襲われて連れていかれてしまうなどなど、イワオの幽霊話が学校の七不思議になっている。話自体はどこにでもありそうな怪談なのだが、本当に人を殺した男の霊が次なる獲物を狙って彷徨っているという設定は、子供たちを恐怖に陥れているようだ。

「どうしておしるこに毒をいれたのまで、イワオって人の幽霊だと思われているんだろう?」

 涼音の疑問に、仁美が応える。

「小学生にとって、ここらで起きる怖いことは、全部イワオの幽霊のしわざになっちゃうみたいよ。去年、学校給食で食中毒が発生したときも、イワオに毒を入れられたって、言ってるコがいたし」

「そう言えば……」と、修一郎が口もとに冷ややかな苦笑を浮かべる。

「ここを呪われた町ってネットで書いてるヤツがいたな。イワオの事件を知って、毒しるこの前にもこんな事件があったなんて呪い以外のなにものでもないってさ」

「なに、それ!? ひどくない? 私はここに十七年間ずっと住んでるけど、事件らしい事件が起きたのって、そのふたつだけで、他は平和そのものなのに」

 仁美は思わず憤慨したが、これだけの事件が起きていれば、呪われていると言われても、しかたがないのだろうか……。

「修一郎君、私、気になってたんだけど……、さっきのあれ、なに?」

 涼音がおずおずと、修一郎に尋ねる。

「え? あれって?」 

「さっき、言ったでしょ? もっと最悪のケースも考えられるって」

 毒しるこ事件の犯人が音無のおばあちゃんを崖から突き落としたのは口封じのためではないかと話したあとで、修一郎は確かにそう言った。同じことが気にかかっていた仁美も足を止め、食い入るように修一郎を見る。

「ああ、それ……」

 立ち止まった修一郎は言いづらそうに唇の端を歪め、つぶやく。

「思ったんだよ。もしかしたら、まだ、終わってないんじゃないか……って」

「終わってないって、なにがよ、修一郎?」

 意味がわからず不安になってせっつく仁美から、彼は苦しげに目を逸らした。

「僕は、毒しるこ事件の動機は怨恨だと思ってる。その仮説が正しかったとして……」

 真剣な面持ちで話す修一郎を、仁美と涼音は固唾を呑んで見つめる。

「犯人が恨んで、殺したいと思っていた人間がひとりではなく、この町の複数の人間、あるいは全員だったとしたら……」

 言葉を切って顔を上げた修一郎は、仁美と涼音を見据え、静かに言い放つ。

「殺害は……、これからもまだ、続いていくのかもしれない」

 仁美と涼音は息を呑んだ。一瞬の静寂を打ち破り、張り詰めた空気を震わすような虫の声が、立ち尽くす三人を呑み込んでいった。

『谷木野原町で殺人未遂 毒しるこ事件との関連は!?』

 翌日の地方紙の夕刊に、ウタの転落事件の記事が掲載された。

 町はまた騒然となり、マスコミはさらに過熱し住民たちの静かな生活は乱される。

 しつこい取材に苛立って、小さな諍いがあちこちで起き、そのたびに守たち自警団が呼ばれて、なんとか場を収めた。

 細マッチョで二枚目の守が、リポーターに節度ある取材を要望する場面が放送されてから、彼のもとにファンレターが届くようになったと聞く。

 しかし、自警団がすべての揉めごとに対応できるわけもなく、住民たちは目に見えて疲弊していった。

 町内会長が再び集会を開くとお触れを出したのは、そんな状況を憂慮したからだろう。

 仕事を休めない父に代わり、仁美が町内会館に足を運ぶと、すでに大勢の人が集まっていた。

 しかし、前回とは雰囲気がずいぶんと異なる。いつもならうるさいくらいに話しかけてくるおじさん、おばさんたちも口数が少なく、どこか張り詰めた表情で互いに無言の圧をかけあっているように見えた。入口の近くに修一郎の姿を見つけてホッとし、仁美は隣ににじり寄る。

「よっ、修一郎。涼音は?」

「来てないみたいだな」

 エリカを置いて来られなかったのかと、スマホを確認する仁美に、修一郎がささやく。

「博士と夫人もいない」

「えっ!? じゃあ、やっぱり琴子さんが言ったとおり……」

 言いかけて言葉をのみ、会館内をざっと見回す。涼音、博士、そして、琴子のところ以外は、全世帯出席しているのではないだろうか。みんな、不安でじっとしていられないのだ。

 会館の引き戸が開き、涼音が来たのかと顔を向けたが、そこにいたのは週刊誌のカメラマンらしき男でいきなり写真を撮り始めた。

「おい、勝手に入ってくるな! マスコミは立ち入り禁止だ!」

 守が声を上げると、自警団のメンバーが駆け寄ってカメラを取り上げ、男の肩を突いて乱暴に外へ押し出す。その様子を見ながら、修一郎がボソッとつぶやいた。

「ぴりぴりしてんな」

 それは仁美も肌で感じていた。  

 マスコミを閉め出し、ようやく町内会長がマイクを手に壇上へ上がる。

「えー、忙しいところすまんな。みんなも新聞等ですでに承知していると思うが、先日、山菜を採りにやぎ山へ入った音無のばあちゃんが、崖から転落して怪我をした。ばあちゃんはまだ入院中だけども、幸い、命には別条ないそうだ」

 会場に琴子の姿がないのは、おそらく入院中のウタに付き添っているからだろう。

「会長、新聞に書いてあったばあちゃんが誰かに突き落とされたってのは、本当なのか?」 

 憮然とした表情で会長は「ああ」と答える。

「ばあちゃんはそう言ってるらしい」

「誰にやられたんだ?」

「顔は見てないから、わからないそうだ。やぎ山周辺で怪しい人物を見た者はいるか?」

 会長が呼びかけたが、誰も思い当たらないらしく、それぞれに勝手なことを話し始める。

「誰がそんなことしたんだ? やぎ山なんて、地元の人間しか行かねぇだろ」

「おい、俺たちの誰かがやったって言うのか? 音無のばあちゃんなんて、誰が殺すよ? ほっといても棺桶に片足突っ込んどるのに」

「だよなぁ、誰もわざわざ突き落としたりしねぇって。やるとすれば、嫁じゃねぇのか?」

「バカ言うな、おまえんとこと違って、あそこはできた嫁で、あんなふうになっちまったウタさんともうまくやってるだろうが」

「でも、他に音無のばあちゃんを殺したいと思っとる人間なんて……」

 口々に言いたいことを言っていた近所のおじさん、おばさんたちが急に押し黙り、仁美に視線を向けた。ある者は不安げに様子を窺い、ある者は疑惑の目をこちらに投げる。

 ウタに逆恨みされ、嫌がらせを受けていた仁美なら、殺してもおかしくないと思っているのかと、怒りよりも先に恐怖に襲われ、仁美は口が利けなくなる。

 そんな仁美の隣で、修一郎が声を発した。

「まさかと思うけど、僕らを疑ってませんよね? あの日、音無のばあちゃんが崖から落ちたとき、僕も仁美も景浦の家で琴子さんと一緒にいたから、やぎ山でばあちゃんを突き落とすなんてどうやってもできない芸当なんだけど」

「ああ、そうなんか。いや、誰も修一郎のことなんか疑っとりゃせんよ。あ、ああ、もちろん、仁美もな」

「そういえば、新聞には毒入りしるこ事件と関係があるかもって書いてあったよな?」

「毒を入れた犯人が、ばあちゃんも殺そうとしたのか?」

「やめてよ、怖いこと言うの。これからも誰か狙われるかもしれないってことかい?」

「警察はなにやってんだよ、どうしていまだに犯人が捕まらないんだ?」

「いや、待てよ、毒を入れたのは音無のばあちゃんじゃないんか? わしはそう聞いとったぞ」

「そうだよねぇ、一番怪しいのはウタさんだよ」

 容疑は晴れたと思うと琴子は言ったが、多くの住民が今も、ウタを犯人と疑っている。

「音無のばあちゃんが毒しるこ事件の犯人だとすると、突き飛ばしたのは被害者の遺族なんじゃ……?」

 探るように再び向けられた視線に、仁美はまた恐怖を感じたが、今度は会長が止めてくれた。

「みんな、聞いてくれ。まだ確かなことがわかってないのに、憶測で勝手なことを言うな」

「いや、会長、そうは言っても、この町の住人で、鍋に農薬を入れるなんてひどいことができるやつが他にいると思うか?」

「それは……」

「崖から突き落とされたっていうのも、音無のばあちゃんの狂言なんじゃねぇか」

「ちょっと待て、実際にばあちゃんは怪我して入院してるんだぞ」

「でもよ、会長、あの崖はほら、その、なんだ……、四年前にばあちゃんの息子の冬彦が亡くなった場所だろ。あそこから落ちてたいした怪我してないなんておかしいだろうが」

 言葉に詰まる会長に代わり、和菓子屋こやぎ庵の店主が「だよな」と同意を示す。

「あのババア、低い場所からちょろっと転がって、自分で傷をこさえたんじゃないのか」

 嫌な空気が流れる中、ひとりの若い男が咳払いをして、立ち上がる。会長の息子の守だ。

「なぁ、みんな、不安な気持ちはわかるけど、少し頭を冷やそう。こやぎ庵のおじさんも落ち着いてくれよ。音無のばあちゃんはお宅の常連さんで、仲が良かったじゃないか」

「俺は落ち着いてるだろうが! 仲が良かったなんて、はるか昔のことだ」

 こやぎ庵の主人は、守になだめられて憤慨し、唾を飛ばして喋りだす。

「あのババアがしるこに毒入れくさったおかげで、もう誰も和菓子なんて買いに来ん。どこの誰だかわからん奴から、おまえんとこのあんにも農薬入ってるんだろ? なんてふざけた電話がじゃんじゃんかかってきて、かみさんも娘も寝込んじまうし、このままじゃじいさんの代から守ってきた店潰して一家離散だ」

 少し前に地元のテレビ局がこやぎ庵の看板商品であるやぎの顔をかたどった最中を紹介し、それが話題となったため、こやぎ庵のおじさんは借金をして新たな機械を導入していた。今回の事件のせいで売り上げが落ちれば、借金だけが重くのしかかるのだろう。

「こやぎ庵さん、こんなことになって、みんな外食を避けてるから、食べものを扱う店はどこも大変だ。それはよくわかるよ。だけど……」

 理解を示そうとした守の言葉を、こやぎ庵は怒りをあらわに遮る。

「ちょっと待ってくれ。うちと蕎麦辰を一緒にしてくれるな。地元の人間が蕎麦食わなくても、こいつの店は昼も夜もマスコミの連中が大勢飲み食いするんで、普段以上に儲かってウハウハなんだぞ」

 確かに町に一軒しかない飲食店の蕎麦辰は、マスコミ御用達の食堂のようになっている。

「ハイエナみたいな奴らにへーこらしやがって、この町の住人のことも、こいつがマスコミにペラペラ喋ってるにちがいねぇんだ」

 名指しされた蕎麦辰の店主が、カッとなって立ち上がる。

「なんだと、このやろう! いつ、俺がマスコミにこの町の住人を売ったっていうんだ、言ってみろ!」

 口汚く罵り合う和菓子屋と蕎麦屋を、仁美は呆然と見つめる。ふたりとも温厚な人柄で、こやぎ庵で買い物をすると、仁美の好きなみたらし団子や季節の和菓子をいつもこっそりおまけしてくれたし、蕎麦辰のおじさんにも、食べっぷりがよくて気持ちがいいと褒められ、いもの天ぷらやそば粉のアイスを何度もサービスしてもらった。

 いつもニコニコしていて声を荒らげるところなど想像もできなかった彼らが、今にもつかみかからんばかりの形相でにらみ合う姿は、仁美を動揺させ、混乱させた。

 いや、このふたりだけでなく、ウタを犯人と決めつけ、口々に好き勝手なことを喋っていた人々も、外見は仁美のよく知る近所のおじさん、おばさんたちだが、中身は別人のような気がした。

 田舎だからかこの町の住人は、穏やかでのんびりとした人たちが多く、なにか問題が生じても、互いに譲り合って解決してきたはずだった。争いごとを好まず、相手に不快な思いをさせないよう気遣いを心がけてきた彼らが、なぜここまで変わってしまったのだろう。

 耳を塞ぎたくなるようなふたりの言い争いが、突然ピタッと止まった。

 仁美が驚いて顔を上げると、和菓子屋と蕎麦屋はともに会館の出入口を見つめ、動きを止めている。ふたりの視線を追った先に、引き戸を後ろ手に閉める琴子の姿があった。

「遅くなって申し訳ありません」

 全員の注目を集めながら、琴子は座敷に上がって正座し、頭を下げる。

 呆然としていた会長がようやく我に返り、「ウタさんは大丈夫なのか?」と言葉をかけた。

「おかげさまで、十日ほどで退院できるのではないかと先生が」

「そりゃ、不幸中の幸いだったな」

 微妙な雰囲気を感じとった琴子が「お話を遮ってしまってすみません。どうぞ続けてください」と促したが、誰も口を開かず、室内の空気が重みを増していく。

 重苦しい沈黙を破ったのは、やはりこやぎ庵の店主だった。

「なぁ、音無のばあちゃんがやったんだろ?」

 責めるのではなく懇願するようなその口調に、琴子は戸惑いをあらわに訊き返す。

「なんの……お話ですか?」

「なんのって、決まってるだろ。しるこに農薬入れたの、ばあちゃんなんだろ?」

「まさか……。義母はそんなことしていません。警察もうちにパラコートがなかったことを確認していますし……」

「自宅になくても、音無のばあちゃんならどこにあるかわかってて、よそんちの物置とかからだって持ち出せただろうよ」

「確かにウタさんなら、昔のつきあいで知っててもおかしくないよな」と、こやぎ庵の意見に同意する声が、あちこちでひそひそとささやかれ始め、やがて琴子を糾弾する声になっていく。

――音無のばあちゃん以外に考えらない。

――仁先生を逆恨みして、毒を入れたに違いない。

――あの日、農薬を入れられたのは、ウタさんだけなんだから。

――嫁がついていながら、どうしてそんなことさせたんだ。

――あんな状態のばあちゃんから目を離したから、こんなことに……。

「なぁ、琴子さんよ」と、こやぎ庵の店主が、疲労の滲む声で呼びかける。

「犯人がつかまらないと困る人間がここには大勢いるんだ。頼むからばあちゃんを自首させてくれよ。このとおりだからさ」

 頭を下げるこやぎ庵の店主を、琴子は呆然と見つめる。

「おっしゃっていることがめちゃくちゃです。やってもいない罪で義母を自首させろって言うんですか? そんなこと、絶対にできません」

 きっぱりと言い切り、琴子は立ち上がった。

「どういうお話をされていたのかよくわかりました。私はここにいないほうがよさそうなので、これで失礼します」

 一礼して靴を履く琴子の背中に、こやぎ庵の店主が「逃げるのか?」と言葉を放つ。

「いいえ、私も皆さんと同じでどこにも逃げられません。これまで義母がご迷惑をおかけしてきたことについては、嫁としていたらないところがあったと深く反省し、お詫び申し上げます。ですが、農薬を混入できた人間が義母だけだったという決めつけには、同意いたしかねます。本当に義母以外にいなかったのか、もう一度よくお考えください。それから、誰が母を崖から突き落としたのかについても。もしかしたら……、母以外にも、今後、狙われて被害に遭う人が出るかもしれません」

 恐怖に凍りつく一同を見回し、琴子は続ける。

「これから十日以内になにか事件が起きたなら、少なくともその犯人は義母ではない。義母は病院のベッドから起き上がれずにいるんですから」

 言い切って、もう一度深く頭を下げ、琴子は町内会館を後にした。

(第9回へつづく)