人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

琴子……息子の流星と姑のウタと同居している。元新聞記者。

第七話

「……私にはわからないわ」

 声に戸惑いをにじませ、琴子はうつむく。

「事件が起きたときにはもう、義母を連れて公園から自宅に帰ってきてしまっていたし、まさかこの町でこんなひどいことが起きるなんて夢にも思っていなかったから」

「でも……」と、修一郎は琴子の顔を見据えた。「新聞記者だった音無さんなら、独自の視点で気づいたことがあるんじゃないかな」

「新聞記者っていっても、私は社会部ではなく生活部でずっと家庭欄を担当していたのよ」

「昨日会った元同僚の方とは、どんな話をされたんですか?」

「え? どんなって……」

 困惑する琴子に、修一郎が重ねて訊く。

「僕、警察の捜査が行き詰まってるんじゃないかと危惧しているんですが、ちゃんと進展しているんでしょうか?」

「ちょっと待って、そんなこと私に訊かれても」

「元同僚の方、捜査状況についてなにか言ってませんでした? 音無さんもある程度は聞いてると思うんだけどな。だって、音無さんはこの町の住人の情報を元同僚の方に流しているんでしょ?」

「え……」

 口を開けたまま、琴子は固まってしまった。彼女がこんなふうに責め立てられると思っていなかった仁美は、驚いて修一郎を見る。余計なことは言うなと修一郎は目で制し、押し黙ってしまった琴子に頭を下げた。

「情報を流すって言い方はよくなかったですね。すみません。でも、僕、責めてるわけじゃないんです。僕が元同僚なら当然音無さんからこの町の住人の情報を訊き出すだろうし、僕が音無さんでもそれに応じると思うから。僕が知りたいのは、そのとき、音無さんが聞いた捜査情報です」

「確かに取材には応じています。でも、捜査情報なんて……」

 琴子の言葉を遮り、修一郎は言い募る。

「元同僚の方が住人の情報を得るとき、自分がつかんでいる捜査情報を、流れで音無さんに話すと思うんですよ。新聞社が欲しいのは祭りに参加した百八名全員の情報ではなく、毒を入れた犯人とその被害者の人となりや生い立ち、エピソード、とりわけ今一番欲しいのは、警察が誰を容疑者とにらんでいて、その人物がなぜこんな事件を起こしたのか、でしょ? もし相手が漏らさなくても、どんな質問をされたかで、音無さんなら推察することができたはずです。疑惑の人物については当然、根掘り葉掘り訊かれまくったでしょうから」

 うつむいていた琴子が顔を上げ、修一郎を見た。

「さっき僕が誰が犯人と思うか訊いたとき、音無さんはなにか考えてから、わからないって答えましたよね。あれ、犯人が誰かわからないじゃなくて、心当たりはあるけど、ここで話していいかわからないっていうふうに僕には聞こえたんですが、違いますか?」

 冷静な口調でまくしたてる修一郎を前に、琴子の口からふーっと長い息が漏れた。

「これは仮定の話だけど」と前置きし、琴子は尋ねる。

「もし仮に、私が捜査について元同僚から聞いていたとして、修一郎さんはそれを知って、いったいどうするつもりなの?」

「それは、話の内容によります。僕が知りたいのは、誰が、なぜ、おしるこに農薬を混入したか、ということです。そして、僕が恐れているのは捜査ミスにより警察が犯人を取り逃がし、僕の知りたいことが永遠に闇に葬られてしまうこと」

「それは、日本の警察をバカにし過ぎているんじゃないかしら」

「そうでしょうか。こんな小さな田舎町で、容疑者は百八名の田舎者に限られているのだから、事件はすぐに解決できるはず、と、警察は高をくくっている気がします。僕の印象ではこの手の事件は、犯人が毒を入れる現場を目撃されていない限り、捜査が難しい。実際、過去に起きた類似事件でも、冤罪が疑われるものや未解決事件が多いですよね。僕の言ってること、間違ってますか?」

 琴子の表情が一瞬ふっと弛んだ。喋り続ける修一郎に苦笑したのだろうか。

「そうね、あなたの言うことは間違っていないと思うわ」

「だったら教えてもらえませんか。音無さんが知り得た捜査に関する情報を。警察は今、誰を最有力容疑者と見ているのか」

「知っていたとしても、やはり私があなたがたにそれを話すのは問題があるし、少し待てばそうした報道がなされるはずよ」

「問題があるというのは、僕らが被害者遺族だから? 容疑者の名前を聞いたら、僕がカッとなって復讐するとでも?」

 琴子はほんの一瞬考えてから、静かに首を横に振る。

「修一郎さんみたいに頭のいい人が、そんなことをするとは思ってないわ」

「いいえ、僕は復讐するかもしれません」

 鋭く言い放った修一郎に、琴子は目を大きく見開いた。

「でも……、そのタイミングは今じゃない。さっきも言ったけど、僕は、誰が、なぜ、毒を入れたか知りたいんです。納得のいく答えが得られるまで、そいつには口がきける状態でいてもらわないと。『目には目と歯』は、そのあとです」

「目には目と歯……?」

「目には目を、だけじゃ生ぬるいから、目を潰したあと、歯も一本残らずペンチで引き抜いてやろうと思って」

 なにかに打たれたように、琴子がハッと顔を上げる。

「ちょっと、修一郎」

 心配になって、仁美は止めた。修一郎自身も、そして記者と通じている琴子が彼をどう思うかも心配だった。

 だが意外にも、その強い言葉が彼女の中のなにかに触れたのか、修一郎を見る琴子の瞳にはそれまで以上に真剣な光が宿っていた。

「……大切な人を喪ったり、傷つけられたりするつらさは、私にもよくわかるわ」

 四年前に夫を亡くした琴子はそう言って居住まいを正し、修一郎に向き合う。

「理解してもらえて嬉しいです。音無さんにご迷惑をおかけするようなことは、絶対にしません。ここなら周りの木々が目隠しになって、マスコミの連中が来ても気づかれないし、このくらいの音量で喋っているぶんには声も通りまでは届きません」

 そこまで考えてこの場所を指定したのかと、仁美は舌を巻く。

「修一郎さん、ひとつだけ訊かせて。警察の捜査が行き詰っているんじゃないかと疑っていながら、あなたは最初から私が容疑者を知っていると決めてかかった口振りだったわよね。それは、犯人が誰だと思うか訊かれ、私が一瞬考えた、それだけの理由で?」

「いいえ、あなたが言ったからです。音無のばあちゃんの疑いは晴れたと思うって。自宅から農薬が見つからなくても、このふたりの話を聞く限り、音無のばあちゃんは最有力容疑者のひとりなはずです。そのばあちゃんが警察の事情聴取を受けずに山菜採りに行けてるってことは、大本命が現れて、警察はそっちの証拠固めに走っているんじゃないかと思ったから」

「大本命ね……」とつぶやき、琴子は修一郎を見た。

「それ、修一郎さんは、誰だと思う?」

「順当に行けば、博士……、博岡聡さん」

 言いながら、修一郎は琴子の顔を無遠慮なほどじっと見つめ返す。かすかな表情の変化をも見逃すまいとするかのように。

 先に視線を外したのは、琴子のほうだった。

「……私ね、この町に来てまだ七年くらいなの」

 修一郎の答えになんの反応も示さず、琴子は言った。

「だから、この町の人たちのこと、私よりも、あなたがたのほうがよっぽど詳しくご存じだと思うのよ」

 なんのことやらわからず、自分の眉間にしわが寄るのを感じていた仁美の斜め向かいで、修一郎が「いいですよ」と大きくうなずく。

「僕らが知ってる博岡さんの情報をお話しします。記事にするなら、夫人の情報もあったほうがいいですよね」

 目だけで微笑み、無言のまま鞄から手帳とペンを取り出した琴子に、修一郎は話し始める。博士について、彼の人柄やそれにまつわるエピソードを。そして夫人のことまで喋り終えた彼に、「家が近所だから」と仁美は話をふられ、本当に博士が最有力容疑者なのかと胸が苦しくなった。

 彼が毒物を混入したなら、あのテントにいながらそれに気づけなかった自分にも責任の一端がある。博士が鍋の蓋を開けていたら音で気づいたはずだと言い張っていた涼音も、膝の上に置いた手をぎゅっと強く握り締めていた。

 それでも修一郎に促され、仁美は博士と夫人について自分が知る情報を話して聞かせる。

「事件当日、博岡華子さんがなぜ顔を腫らして公園に来たかについては、ご本人もご主人もなにもおっしゃってなかった?」

 琴子に問われ、仁美はうなずく。

「父にDVを疑われて、夫人はすごく取り乱してたけど、訊いても自分でやったって答えたんじゃないかな。うちへ駆けこんできたときは、自転車で転んだだけって言い張ってたから」

「ご主人が暴力を振るうような問題が、おふたりの間にはあったのかしら?」

 思い当たらず首を傾げた仁美に代わり、修一郎が「ふたりの間にっていうより……」と口を開いた。

「次期社長と目されていた博士が守君の下で働かされ、そこで溜まったストレスを夫人にぶつけて、捌け口にしているんじゃないかって噂は耳にしてましたけど」

「こんなことをあなたがたに訊くのはどうかと思うけれど、その……」

 言いづらそうに一度視線を落としてから、琴子は続ける。

「どちらかが他の方とおつきあいされているというような話はなかった?」

「不倫ってことですか? 僕は聞いたことないな」

 修一郎にうなずいたのち、琴子は涼音を見たが、彼女も首を横に振った。

「……そう。変なこと訊いてごめんなさいね」と謝り、琴子は話題を変える。

「私は一度もお会いしたことがないのだけれど、皆さんは、一人息子の博岡聡介さんについてもご存じよね?」

「ええ」と修一郎が答えた。

「歳が離れているから一緒に遊んだ記憶はないけど、優秀なお兄さんとしてこのあたりでは有名でしたから」

 修一郎は、博岡聡介が自分も志望している難関の進学校に合格して東京大学へ進み、そのまま大学院を卒業後、誰もが知る最大手のIT企業に就職して現在はアメリカで働いていると話して聞かせる。

「親子関係は良好だったのかしら?」

「夫人はいつも聡介君の自慢をしてましたね。博士との関係も悪くなかったと思いますよ。子供のころ、父子で一緒に清掃活動とかしていた記憶があるし、一流企業に就職が決まったときは、博士もすごく嬉しそうだったから」

「最近、聡介さんに会ったことは?」

「もうずっと会ってないです。仕事が忙しいみたいでお正月にも帰ってきてなかったし、な」と、修一郎に同意を求められ、仁美はうなずく。

「じゃあ、最後に彼に会ったのはいつか覚えてる?」

 記憶を辿ったが、そもそもそれほど親しくしていたわけではないので、まったく思い出せなかった。修一郎も涼音も同様らしく、首を横に振る。

「聡介君がお勤めしてすぐのころは夏休みに帰ってきてたのを覚えてるけど……」

 仁美が小学三年生くらいの記憶なので、ずいぶんと昔のことだ。今、聡介は三十代のはずだから、もしかしたらアメリカで結婚して家族がいるのだろうか。

「聡介さんの連絡先は、わからない?」

「直接取材するんですか?」

 修一郎に訊かれた琴子は、曖昧な笑みを浮かべる。

「誰か聡介さんと親しかった人を知っていたら教えてほしいんだけど。今も彼と連絡を取り合っているような」

 琴子は食い下がって質問を重ねたが、誰も思い当たらず、首を横に振るしかなかった。

 会話が途切れたところで、「あの……」と、涼音がおずおずと小さく手を上げる。

「本当に博士が毒を入れたと、警察は考えているんですか?」

 困った顔でなにも答えない琴子に、仁美も疑問をぶつけた。

「私も博士がなんでそんなことをしたのか理解できない。物知りで優しくて、無差別に人を殺せるような人とはとても思えないから」

「音無さん、警察は犯行の動機を解明せずに、消去法で博士を犯人と決めつけたわけではないんですよね? 博士がなぜ大本命として警察にマークされているのか、知っていることを話してもらえませんか」

 意外そうな顔で、琴子は修一郎を見た。

「修一郎さんは、もう察しているのかと思っていたわ」

「……なにをです?」

「嫌だ、だって、さっきあなたが言ったんじゃない」

「僕が? え、なんのことですか?」

「……あ、ごめんなさい。なんでもないわ。私も警察が犯行の動機をどう見ているのかなんて聞いたわけじゃないからわからないの。ただ推察してみただけで」

「その音無さんの推察を教えてください」

 修一郎に真顔で懇願された琴子は、「義母が警察に呼ばれて……」と、唐突に話題を変えた。

「やってもいない殺人の嫌疑をかけられてすごく怖い思いをした。だから、証拠もないのに推測でめったなことを言うわけにはいかないわ」

「それってずるくないですか?」

「ずるい?」

「僕らに情報を提供させておいて、そちらは教えてくれないってフェアじゃないですよ」

「でも、それは……」

「さっき、博士夫妻の不倫について訊かれたけど、それって事件の動機に関係してます? そんな噂を元同僚の方はつかんでいるんですか?」

 畳みかける修一郎に、琴子は大きく息を吐き、やむを得ないといった感じで口を開く。

「動機に関係しているかどうかはわからない。でも……、彼が取材した中にそういう話をする人はいたみたい」

「そういうって?」

「だから、夫人がエリカさんを逆恨みしたんじゃないかって」

「え? え? なんで?」

 仁美の口から思わず大きな声が漏れた。

「どうして夫人がエリカちゃんを恨むの?」

「だって、博岡さんはエリカさんにご執心でお店に通い詰めていたんでしょう?」

「それは、博士じゃなくて、会長だよ」

「あら、エリカさんに最初に熱を上げたのは博岡さんだって聞いたわよ。だけど、後から来た会長に横取りされて……」

 琴子はハッとして口をつぐみ、すぐさま申し訳なさそうな顔で涼音を見た。

「ごめんなさい、お嬢さんの前でこんな話……。でもただの噂だから」

「大丈夫です」と、慌てる琴子を涼音が気遣う。「博士の話は初めて聞きましたけど、そういうの、慣れてますから」

「琴子さん、誰がそんなこと言ってるの? そもそもテントに入ってきてない夫人に毒が入れられるはずないんだから、ありえないのに」

「誰の発言かは私も聞いてないの。聞きたくもないし。噂ってそういうふうに一人歩きするから怖いのよ。言った人も夫人やエリカさんを悪く思っていたわけではなく、ただ怖かっただけなんじゃないかしら」

「怖かっただけ?」

 意味がわからずオウム返しする仁美に、琴子はうなずく。

「みんな、怖くて疑心暗鬼になっているんだと思うわ。顔見知りの百八人の中に毒殺犯がいるんですもの。犯人が誰だかわからないのが怖いし、自分が犯人だと疑われるのも怖い」

「それでお互いに密告し合うようになってしまっているってことですか?」

 尋ねる涼音に無言でうなずくと、琴子はペンと手帳を仕舞って立ち上がりかけた。

「私も確証のない推察を披露するのは控えて、これで失礼するわね」

「ちょっと待ってください。それじゃあ本当に博士が毒を入れた犯人かどうかわか……」

 身を乗り出した修一郎の言葉を、琴子は手を上げて遮る。

「それは私にもわからないわ。今現在、警察が彼をマークしているらしいというだけだから。私が話せるのはそれだけ」

「音無さん、だったら、流星君と話をさせてもらえませんか?」

 梯子へ向かっていた琴子は息子の名前に足を止め、今までとは違う母親の顔で振り返った。

「流星と?」

「さっき琴子さんも言ってたけど、流星君、かすみと麗奈ちゃんと仲が良かったでしょ」

「ええ、最近は塾が忙しくてあまりおつきあいがなかったみたいだけど、昔はよく一緒に遊んで、まるであなたがた三人のように仲が良かったわよね」

「ここのところかすみの様子が少しおかしかったって母が言うんです。毎年楽しみにしていた祭りにも行くのを嫌がってたらしくて……。なにか知らないか、流星君に訊かせてほしいんですけど」

「……あれ以来、流星はずっと体調を崩していて、今朝もかなり熱が高かったから休ませたの。かすみちゃんたちのことがやっぱりすごくショックだったみたいで……」

「あ、あれ、流星君じゃない?」

 仁美が指差した隣の家の二階の窓辺に、少年がひとり佇んでいた。

「え? ……ああ、本当ね。ここから流星の部屋が見えるのね」

 琴子は心配そうにひとり息子の様子を見つめた。パジャマ姿の流星はおでこに冷却ジェルシートを貼り付けているから、彼女が言ったとおり具合が悪いのだろう。

「悪いけど、流星に話を聞くのはもう少しよくなってからにしてもらえないかしら。私が訊いて、なにかあれば修一郎さんに連絡するから」

「……わかりました。流星君にお大事にって伝えてください」

「ありがとう。流星、修一郎さんと同じ中学を目指していて、あなたのこと、とても尊敬しているから喜ぶわ。いろいろ教えてあげてもらえると嬉しい。よろしくお願いしますね」

 ふいに、祭りの日にエリカが口にした疑問が脳裏に蘇り、仁美は帰りかけた琴子を呼び止める。

「琴子さん……、あの日、流星君、どうしてお神輿を担がなかったの?」

「え……?」と、怪訝そうな瞳を、琴子はこちらに向けた。

「小学生の男の子はみんなお神輿担いでいたのに、流星君はおばあちゃんと家にいたんでしょ?」

「ああ、流星、ちょっと神経質なところがあるから、お神輿みたいなものは得意じゃないのよ」

 確かに流星は線が細く繊細そうで、そこらへんの悪ガキと一緒に野山を駆けまわる姿なんてまったく想像できない大人びた少年だが……。

「それに、私が焼きそばをつくる係だったから、流星は家に残って、おばあちゃんを見ていてくれたの。また面倒をかけるといけないからって。でも結局、義母が迷惑をおかけすることになってしま……」

 言葉の途中で琴子の携帯が鳴り、彼女は仁美たちに断って電話に出る。そして、すぐさま顔色を変えた。

「えっ!? 義母が!?」

 

 琴子と一緒に隣町の総合病院を訪れると、ウタは腕に包帯を巻かれた痛々しい姿で病室のベッドに横たわっていた。

 山菜採りに行った裏のやぎ山の崖から転落したのだ。

 腕と肋骨を骨折していたものの、幸い、内臓への損傷はないようだと医師からの説明を受け、琴子は眠っているウタを見下ろし、安堵の息を吐く。

 病室の入口に立っていた仁美と修一郎、そして涼音は、退出する医師と看護師に会釈し、見送った。

「琴子さん、おばあちゃん、よかったね。あ……、よかったなんて言っちゃいけないのかもしれないけど」

 声をかけた仁美を振り返り、琴子は「いいえ」と首を横に振る。

「あの高さから転落したことを考えれば、これで済んで不幸中の幸いだったと思うわ。ありがとう、仁美さん。いつもご迷惑をおかけしてるのに」

「ううん。それとこれとは……」

 そう答えながら、琴子の言うとおりだと、仁美は思う。

 だって、あの崖は……。

「誰……だい?」

 かぼそい声に驚き、四人はそろってベッドに目を向けた。

「……琴子さん、かい?」

 呼びかけられた琴子はハッとし、ウタの顔を覗き込む。

「お義母さん、気がつきました? 大丈夫ですか?」

「冬彦……は?」

 四年も前に亡くなった息子を求めて目を彷徨わせるウタに仁美はぎょっとしたが、日常茶飯事なのか琴子は驚きもせず「あとで来ますよ」と優しく声をかける。

「お義母さん、ごめんなさいね。私が一緒に山菜採りに行っていればこんなことには……」

 声を詰まらせ、琴子は包帯の巻かれていないウタの左手にそっと触れる。

「なんの話だい?」

「覚えてないんですか? お義母さん、崖から足を滑らせて転落したんですよ?」

「転落?」

 ぼんやりとしていたウタの瞳が、ふいに大きく見開かれた。

「……違う」

「え? 違うって、ほら、見てください。実際にお義母さんは怪我を……」

「違う……、違う、違う! あの山は……、私の庭……みたいなもんだ。足を滑らせたり……する……もんか」

 顔を歪め、ウタは途切れ途切れにしわがれた声を絞り出す。

「でも、じゃあ、どうして……?」

 心配そうに見つめる琴子に、ウタは声を震わせ訴えた。

「背中を……押された」

「えっ!? 噓でしょ、お義母さん、まさか……」

「噓じゃない。崖から、突き落とされたんだ」

 ウタの言葉に仁美は息をのみ、修一郎と涼音と顔を見合わせた。

(第8回へつづく)