第一章 硯 SUZURI(承前)

「おじさんの硯は、よく墨が下りるでしょう? ちなみに、今使っているのは、雄勝硯にぴったり合った墨だね。新幹線でも話したけど、磨るときの手応えや仕上がりは、硯と墨の相性によって全然違うから。あ、山田も言ってたよね……洗い桶だっけ、流し場だっけ」

「アライバコンビね」

「墨もまた奥深い世界だから、話し出すと止まらなくなっちゃうんだけどさ――」

 円花がしゃべりつづけるなか、山田は腑に落ちていた。

 やっと分かった。

 ちゃんとした硯で墨を磨ったことがないのか――。その問いの意味を、山田はやっと理解していた。こうして硯で墨を磨っていると、瞑想にも似て、自然と心が凪いでいく。この香りはなんだろう。記憶のなかの、学校で使った墨汁の匂いとも似ているが、もっと微妙で香木に近い、自然の香りだ。春先の陽ざしに、やわらかな香りはぴったりと合っていた。たしか上質な墨には、膠の臭いを消すために、天然の香料が秘薬として加えられると読んだことを山田は思い出す。

 慌ただしく過ぎる便利な日常では得難い、落ち着きや静けさだった。

 硯を使うのは、ただ文字を書くため、書道をするためだけではないのだ。

 そもそも文字を書くために、これほどの時間を費やすことはまずない。ボールペンもあるし、今でいえばスマホでタイプすればいい。だからこそ、あえて硯と墨を準備して、筆で書くことの贅沢さがある。ここに来る前に読んだ資料で、古来中国の文人たちは、硯で墨を磨りながら、精神統一をし、思索にふけったと学んだ。自らの内面に下りていき、書をしたためる前段階だった。よって巌谷の硯は、震災後に注目を集め、人々の心に響きつづけてきた。豊かに生きるヒントを教えてくれるからだったのかも――。

「ねぇ山田、私の話を聞いてるの!」

「ちょっと黙っててくれよ。こっちは硯の感覚に浸ってるんだから」

「なーんだ、急に黙りこくったから、ぼーっとしてるのかと思った。どう、おじさんの硯はすごいでしょ? そこらへんの練りものの硯なんて、チクワみたいに思えるよね。同じ魚からつくられていても、チクワと刺身くらい違うわけ。いや、ただの刺身じゃない、職人技の締め方と血抜きをして、板前がさばいた刺身だね――」

「分かった、よーく分かった。だから少し静かにしていてくれ」

「本当に分かったの」と円花は顔を近づけて言う。「山田はさ、最初のうちは、私のことを全然信じてなかったよね? なんで硯なんだって」

「悪かった。今回はここに来て正解だったよ」

「ちゃんと認めた?」

「すごいよ、見直した」

「よしっ」

 満面の笑みを浮かべると、「せっかく磨ったんだから、なにか書いてみれば」と巌谷が準備してくれた筆を差し出した。小指よりも華奢な十数センチの細筆だった。乾いた穂先はほうきのようにぼさぼさだったが、墨につけたとたんに一方向に整い、しゅっと細くなる。でたらめな持ち方で白い紙に穂先をつけようとするが、ちょっと待てと思う。

「なにを書いたらいいんだ」

「なんでもいいに決まってるじゃん」

 ぽかんとされてしまったが、山田は「自由にする」というのがどうも苦手だった。たとえば試験でも、正解がはっきりしている問題の方が、己の考えを自由に述べろという小論文よりもできた。むしろ「自由に」と言われたとたんに、急に居心地が悪くなる。

「早くしないと、墨が乾いちゃう。自分の名前でもなんでもいいから」と円花は急かしてくるが、自分の名前にしても、下手に書いたら恥ずかしいじゃないか。

「兄ちゃん、そう難しく考えるなよ。一本の線でも丸でもいいんだ。試し書きってのは書き心地を試すもんで、兄ちゃんのなにかを試すもんじゃねぇぞ」

「そ、そうですね」

 巌谷の助言にほっとして、背筋を正し、ふたたび穂先を硯の丘で整えた。ゆっくりと半紙につけて、すっと下方に書きおろす。白い面に、ふくよかな線が生まれた。よく見ると意外だったのは、真っ黒ではないことだ。単に薄い、というわけでもない。一本の線のなかに、濃淡のグラデーションや滲みが生まれている。

「言いたいことは分かる」と円花は肯いた。「既製品の墨汁では、こういう繊細な表現は生まれないからね。手で磨った墨だからこそ、いい墨色ができあがるの」

「ぼくしょく?」

「墨の色だよ。墨色は硯によって、水によって、磨り具合によって、紙によって、冴え方は無限に変わっていくんだ。水墨画を思い浮かべれば分かりやすい。墨色のゆたかさを証明してるのが、ああいう芸術品だから」

 墨は黒一色。そう思いこんでいた自分が、急に恥ずかしくなった。たしかに東洋の芸術家たちは、墨だけで、詩的で変幻自在な世界を表現してきた。そこには、正しい黒があるわけではない。むしろ、さまざまな黒が存在するから、おもしろくなる。

 だが、ここで慌てふためいてはカッコ悪いと思った。

 ふたたび硯に水を垂らし、今度は長い時間をかけて、墨を磨る。さっきよりも濃い黒が生まれた。つぎに、あえて濃く磨った墨に、数滴の水を足し、筆に含ませた。すると一本の線のなかに階調や滲みが際立つ。あっという間に、半紙一枚分を表情ゆたかな線が埋め尽くしていた。

「私も一筆書きたくなってきた」

 円花は筆を奪って、新しい半紙に「硯」と書いてみせた。「汚い字だな」と口では毒突いたのだが、その実なかなか味わい深い字だった。全体のバランスが悪く、今にも「石」と「見」が分裂しそうだが、アンバランスさのおかげで、硯という文字が「石を見る」と書くのだと気づかされる。

 石を見る――そのとき、山田は思い当たった。

 硯には「海」と「丘」がある。

 港町である雄勝町と、同じではないか。

 被災した文化財は数多あまたあるだろうなかで、どうして硯なのか――。ここに来るまで、山田はまったく分かっていなかった。雄勝硯が復興のシンボルになった理由。それは、今では防潮堤によって隔たれてしまった「海」と「丘」の美しい景色が、雄勝硯のなかに見立てられ、守られているからではないか。リアス式海岸の特殊な地形によって育まれた粘板岩が、小さく切り出されて硯に生まれ変わり、今机のうえで新たに自分と出会っている。そして「海」と「丘」を持った、思索の器になることで、人々の心に安らぎを与えてくれる。マクロとミクロを行ったり来たりするような仕掛けが、雄勝硯には秘められていた。

「見直したよ、本当に。三陸の美しい海岸を、硯の景色に再発見しようっていう記事を書くつもりでいたんだろう?」

 しみじみと言ったのに、円花は「やだー」と眉をひそめた。

「山田ったら、私の心のなかを探ろうとしてるね? いい線いってるけど、ひょっとして私に気があるとか? 困るんだけど」

 含みのある笑みを浮かべて、円花は言った。

 こいつ、俺のことをおちょくって楽しんでやがる。まったく、後輩のくせに。

 石巻市での取材を終えた一週間後――。

「全然釣れないな」

 かれこれ三十分、なにもかかっていなかった。ここに来たときは薄暗かった空も、少しずつピンクから水色へのグラデーションをつくり、海面を染めている。道行く人はまだ少ないが、首都高のうえでは巨大なトラックが行き交っていた。

 となりにいる星野学もさすがに退屈した様子で、欠伸あくびをかみころしていた。日陽新聞の写真映像部に属する星野とは、大学時代に同じジャーナリズム研究会に所属していたときからの友人で、釣り仲間でもある。ひょろりと背が高くて、長髪にバティック模様のシャツという出で立ちである。

「今日はここで釣れるはずなんだけど」

 山田はそう答えながら、声色は決して暗くはない。夜勤明けに、日陽新聞の裏口から入れる東京湾沿いで釣りができるのは、社員ならではの贅沢だ。もし釣れれば、会社近くの大衆食堂〈さんまの味〉に持っていき、酒に合う料理にしてもらう。〈さんまの味〉は社員ご用達の隠れた名店で、店内には十年以上前に日陽新聞で紹介された取材記事が、大切にラミネート加工のうえ掲示されている。

「釣りに来るの、ずいぶん久しぶりだな」

「僕もだよ」

 山田は膝のうえで頰杖をついた。海と対峙するのは、石巻市への出張以来である。巌谷の工房から目にした海は、見渡す限りのおだやかな大海原だった。あの大海原が、目の前に高層ビルの立ち並ぶ都会の湾と、ひとつながりだという実感はあまり持てない。だが東京湾でだって、いつ首都直下型地震が起こるか分からない。平穏な海が突如として牙をむき、大勢の命を奪うリスクは無論どこにでもある。だからこそ日々の備えが必要だと、紙面でも報じている。

 ――天災は忘れた頃にやってくる。

 そんな名言を残した物理学者の寺田寅彦は、硯の科学的分析を行なったパイオニアとしても知られる。硯が墨をコロイド状にすると発見したことも、寺田の功績だ。地球の秘密や地震の真理が、じつは硯という小さな塊のなかに潜んでいる。それこそが円花が今回のテーマを硯にした本質的な理由であり、「海」と「丘」の造形が、雄勝町の景色に重ねられてきたという経緯も、出張のあと原稿につづられた。

「新しい連載はどうだ? 後輩が企画したっていう」

 星野から問われ、山田は上体を起こしてスマホを出す。

 雄勝硯を取材した記事は、硯をつくる巌谷の子ども時代の写真と現在の仕事風景とともに、朝刊文化面に二人の連名で掲載された。デジタル版を星野に見せながら、ネットでの反響も悪くないと話す。まずまずのスタートを切ったので、第二回もつづきそうだ。

「そりゃよかったじゃないか」

「そうなんだけどさ」

?」

「じつはほとんど俺が書き直したんだよ」

 会社に戻ってから、円花が仕上げてきた原稿には愕然とした。内容はともかく、文法の間違いや誤字脱字が目立つうえに、何度読み返しても頭に入ってこない。とにかく冗長なのだ。つまりは、ただのデータ原稿だった。読みにくさという点では、ある意味、祖父、雨柳民男の文体を忠実に継いでいると言える。

 ――超読みやすく書いたつもりなのに。

 本人は自信満々の出来だったらしく、山田の指摘に不服そうだった。

 ――仕方ない、俺が直してやる。

 深沢デスクに提出するまでの時間と戦いながら、徹底的にブラッシュアップをした。言いたいことを抜粋し、構造を解体し、組み替え、行数を削る。幸い、それ以上の書き直しを命じられることはなく、深沢デスクからにやにやしながらこう言われた。

 ――足りないものを補い合ったな、おまえたち。

 それにしても、こんな文章力でよくも入社できたものだ。出張先では納得しかけたけれど、本当にコネ入社なんじゃないか。そんな疑念が、ふたたび大きくなっている。優秀なのかダメ社員なのか、本当はどっちなのだ。

「でも好評でよかったな。つぎも楽しみだよ」

「いや、正直もう勘弁してほしいよ。出張先でも、名刺は忘れるわ、切符はなくすわ、ズカズカとどこにでも入っていって、知らない人にしゃべりかけるわ、取材先でもタメ口だわで、社会常識がなさすぎて振り回されたよ。しかも取材が終わったあとも、職人の行きつけのスナックに連れていってもらったんだけど、カラオケがはじまったとたんに『来た来た、この歌大好き』とか言って、みんなで歌いまくりのはしゃぎまくり。場はどっかんどっかん盛り上がったけど、どこであんな芸当を憶えたんだか。シメには、持参したトランプでマジックの披露」

「トランプ? そんなもの持っていったんだ」

「非常識だろ」

「とか言いながら、楽しそうじゃないか、おまえも」

「楽しい? まさか!」

 山田は否定するが、星野は構わず、おもしろがるようにつづける。

「さては、久しぶりに釣りを解禁したのも、そんな雨柳円花の影響か?」

「別に関係ないよ。時間ができただけ」

 否定しながらも、好きなものは好きでいい、という言葉に感化されていないわけではなかった。だが、星野の分析通りに円花のことを話しつづけるのは癪なので、話題を変える。

「ところで、今日ここに来る前に、悪いニュースがあるって言ってたけど、なんだったの」

 星野は「そうだった」と大袈裟にきょろきょろと周囲を見回した。

 ちなみに彼が所属する写真映像部は、その名の通り、記事の写真や映像を撮影する専属の部署である。今回の雄勝硯の記事のように、「キシャカメ」といって記者が撮ったものを使うこともあるが、たいてい星野のようなカメラマンが同行する。だから他の部とのつながりが強いうえに、フットワークも軽くて好奇心旺盛な性格なので、星野はここだけの話をよく仕入れてくる。飄々ひようひようとした雰囲気が「こいつになら話してもいいかな」と相手を油断させるが、案外おしゃべりなことは知られていない。そんな星野は、夜も朝も呼び出しをかけられている。

 星野は声をひそめて、こうつづけた。

「買収されるかもしれないんだって、日陽新聞」

「買収?」と思わず声が大きくなる。「どういうことだよ」

「順を追って説明すると、このあいだ麻雀大会に参加してさ」

「麻雀大会って、たしか降版のあとに政経社の記者が地下室に集まって、明け方まで開催されるっていう?」

 社内の中枢部とも言える政経社の記者たちは、定期的に情報をざっくばらんに共有するために、「麻雀大会」と称した飲み会をしている。麻雀を打ちながら飲んで雑談するらしいのだが、山田はこれまで誘われたことはあっても、体育会系の吞みのノリについていける自信がなく参加経験はない。

「その大会でさ、UuRLウールとうちの上層部のあいだで、買収の話が立ち上がっているっていう噂を聞いたんだよ」

「UuRLって、あの、ネットゲームとか、アプリとか、オンライン英会話教室とか、儲かることに次々手を出してる大企業か」

「ああ、たぶん経営側としては、去年の部数が急落したから、デジタル版を改革したいんだと思うけど、最悪の事態になれば記者の仕事も、今まで通りにはできなくなるかもしれない」

 スマホでUuRLを検索した。すると社長のインタビューがヒットし、記事のなかで「日本の経済はどんどん縮小するばかりで、周辺諸国に太刀打ちができなくなっています。そんな状況を打開するためには、経済や金融に特化した国際的なデジタル・メディアをつくる必要があるでしょう」という箇所が目に飛びこんだ。

「うちを経済紙にするつもりか? 日本経済の成長を謳ってるけど、もっと大事なことがあるだろうよ。今回、石巻市の出張でも思ったけど、本当の豊かさって、お金とか、資本とか、そういうところにあるんじゃないよ。人間はロボットとは違うんだからさ」

「わかってるよ、でもそうは言っても、やっぱり世の中カネだから」と星野はため息を吐く。「文化部が真っ先に解体されるんじゃないかっていう憶測もあったぞ」

 たしかにUuRLの社長のポリシーからすると、文化部のような直接的利益につながりにくい、緊急性の低い記事を多く担当している部署は、「お荷物」と見做されてもおかしくない。

「でもさ――」

 と言いかけると、星野から視線でふり返るように促された。一人の高齢男性がこちらに歩いてきていた。ウィンドブレーカーに長靴で、クーラーボックスを持っている。どうやって入ってきたのだろう。ここは日陽新聞社の私有地を通らなければならないプライベートな場所だ。何度も来ているが、他の釣り人に会ったことはない。

 注意しようか、どうしよう。視線で話し合ったが、結局なにも言わないことにする。近ごろ釣り禁止区域が増えたせいで、釣り場を見つけるのもひと苦労だ。同じ釣り人として同情したのである。

 彼が準備するのを見守りながら、星野は諦めムードで言う。

「あの人も、せっかく来たのに今日は釣れなそうだな。本当に〈ツレル・パターン〉で計算したのか?」

「もちろんだよ」

 この日ここで釣りをすることにしたのは、単に夜勤明けの気まぐれからではない。日陽新聞の社員が受け継いできた、スズキ釣りの秘密の法則から予測したからだ。人呼んで〈ツレル・パターン〉という。潮目、潮の干満、水温、風向き、前日の天候、その他風の匂いなど、さまざまな傾向をグラフ化し、魚の集まる場所を導き出す計算式だ。しかし今ではツイッターなどで、簡単かつ正確に釣り場の情報が共有できるようになり、社内の釣り仲間のなかでも〈ツレル・パターン〉を活用しているのは、山田くらいだった。

「今日はボウズかな」

 切り上げようとしたとき、反応があった。竿が急角度にしなり、なかなかの手応えだ。星野も興奮した様子で、こちらを見守っている。焦らず慎重にリールを巻いて、獲物をたぐり寄せていく。額から汗が流れる。

 つぎの瞬間、数メートル先で高齢男性が投げた釣り糸が、よりにもよって風でこちらに飛んできた。案の定山田の釣り糸と交差して、あっという間に絡まった。しかも老人が「おっと、失敬」と言って、引っ張ったり巻き上げたりしたせいで、余計にややこしいことになる。

「オマツリしちゃったね」

 高齢男性はこちらに歩み寄り、頭を下げる。

「お気になさらないでください」

 自分の糸を切ったあと、山田は相手をはじめて直視した。若い頃は男前だったのであろう、白いヒゲが似合う顔立ちだ。

 ん、どこかで会ったことがある?

 見憶えがある気はするが、いつどこの記憶かは定かではない。釣り場を去ってから星野に訊ねると、渋くて味のある俳優の名を挙げられた。いや、実際に会った気がするんだけどと山田は思ったが、単にその俳優に似ているだけかもしれないと追及しないことにした。

(第5回へつづく)