人物紹介

仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。

修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。

涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。

景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。

仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。

成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。

博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。

音無ウタ……息子・冬彦が真壁仁のせいで死んだと信じこんでいる。

第五話

「千草さん、いないの?」

 エリカにそう言われてはじめて、仁美はあれ?っと首を傾げる。

「おしるこに入れる白玉を取りに帰ったんだけど……、すぐ戻るって言ったのに、遅いな」

 ウタと鉢合わせしなくてよかったが、なにかあったのだろうか……。

 心配になって公園の出入口に目をやったとき、重そうなクーラーボックスを担いだ千草が肩で息をしながら現れた。

 手伝おうとと仁美が動きかけたときにはもう涼音が走り出していて、つらそうな母の肩からクーラーボックスを下ろさせ、担いでくれていた。

「涼音ちゃん、ありがとう。ごめんね、遅くなっちゃって」

「いいえ、私こそごめんなさい。白玉たくさんあるのわかってたんだから、一緒に取りに行けばよかった」 

「ひとりで楽勝って思ってたのに、おばさんももう歳ね。嫌になっちゃ……」

 話しながら歩いてきた母が、こちらを見て、ハッと足を止めた。

 またウタが戻って来たのかと仁美は身構え、振り返ったが、そこにいたのはエリカだけだ。いるはずのないエリカに驚いたらしく、母はすぐに笑顔をつくる。

「……エリカさん、具合大丈夫なの?」

「だから大丈夫だって。この時間のエリカちゃんは、迎え酒をグイッとあおって二日酔いから復活してんだから」

 おどけて答えた仁美に、エリカはあははと笑いながら体をぶつけてくる。

「仁美、正解! でも、今日の二日酔いは私のせいじゃなくて、会長のせいだからね」

「会長はさっきから元気に動き回ってるよ」

「タフだよねぇ、あのエロオヤジ。あ、千草さん、ごめんね、手伝えなくて」

「ううん、涼音ちゃんががんばってくれたから」

 涼音に運んでもらったクーラーボックスから白玉を入れたタッパーウェアを取り出しながら、「さっきそこで、その元気な会長さんにつかまっちゃって」と母は話を続ける。

「向こうの焼きそばの味付けがイマイチだから手伝ってやってくれって頼まれたから、ちょっと行ってくるわね」

 焼きそばのテントはおしることは逆の東奥、ダンスを公演する場所のすぐ近くにある。

「いいよ。修一郎、遅れてるみたいだから」

 そう言った仁美の腕を、「ねぇ、あれ」と、涼音がつつく。

「ほら、今、来たの、修一郎君じゃない?」

 涼音が指差した公園の奥に、周りより頭ひとつ背が高い、瘦せた少年の姿があった。

「あ、ヤバ、マジで修一郎だ。ママ、うちら、もう行くから」

「え、ちょっと待って」と、千草は振り返り、弱火にかけられたおしるこの鍋に目をやる。

「誰かひとりは必ずお鍋のそばにいてくれないと」

「いいよ、あたしがここにいるから。仁美も涼音も行ってきな」

 鍋の蓋を開けながら笑顔を見せるエリカに、仁美は「エリカちゃん、さんきゅ」と手を振り、手早くエプロンを外す。

「じゃあ、涼音、行こ」

「うん。怜音も萌音もいい子にしてるのよ」

 エリカが連れてきた幼い弟妹の頭を撫でてから、涼音は仁美とともにテントを出る。

「悪いわね、エリカさん。すぐに戻るから、よかったらおしるこの味見しておいてくれる?」

 なにもしていないと気まずいだろうと思ったのか、エリカにそう頼む母の声を背中に聞きながら、仁美は涼音と、修一郎のもとへ全速力で走ったのだった。

  

 そこまで話し終え、仁美は大きく息を吐く。あの日の話をしていると、どうしても当時の情景が脳裏に蘇り、心が抉られるように痛む。それでもなんとか言葉を放った。

「私も涼音もそのときテントを離れてしまったから、それ以降のことはわからなくて……」

「知っているのは、エリカさんだけってことか」

 そうつぶやくと、修一郎は少し考え、涼音に呼びかけた。

「すず、エリカさんは退院して家にいるんだよね? そのあと事件が起きるまで、おしるこのテントで起きたことを話してもらうわけにはいかないかな?」

 涼音はかすかに眉を寄せ、力なく首を横に振る。

「ごめん……、無理だと思う」

 なにか言おうとした修一郎を制したのは会長だった。

「おいおい、修一郎。少しは気を遣えよ。エリカちゃんは毒で死にかけたんだぞ」

「だったら……、会長、麗奈ちゃんと話をさせてもらえませんか。僕、麗奈ちゃんにも訊きたいことがあるんですけど」

 エリカ同様に辛くも生還した孫娘の名前を出され、会長は眉を吊り上げた。 

「ダメだ、ダメだ。麗奈はショックで寝込んどるんだ!」

 目の中に入れても痛くないほど孫娘を可愛がっている会長は、無事に戻った麗奈を見て泣き崩れたと聞く。天使のように愛らしい麗奈は幼いころさらわれかけた過去があるため、安堵と喜びはひとしおだったのだろう。

「ママ、麗奈ちゃんに毒を飲ませたのは、イワオなんでしょ?」

 一瞬の静寂を破り、小さな女の子の声が町内会館内に甲高く響いた。

 誰もがハッとして声の主に目を向ける。その視線の先で若い母親が小学二年生の女児の口を慌てふためいて押さえていた。子供に罪はない。おそらく小学校ではそういう噂が飛び交っているのだろう。

 四年前、自分の部屋で眠っていた麗奈をおそらくいたずら目的で外へ連れ出したのは、会長の家で下働きをしていたイワオ――宅間巌という男だ。会長は村の男たちを使って死に物狂いで麗奈を捜し、彼女は無事に保護されたものの、捜索に加わったウタの息子の音無冬彦が、命を落とした。やぎ山でふたりを見つけ、麗奈を助けようとした冬彦は、イワオと揉み合いになって崖から突き落とされたそうだ。

 それ以来、なにか悪いことが起こると、イワオのしわざではないかと、子供たちは怖れおののいている。いや、宅間巌はもう死んでいるのだからイワオの幽霊のしわざか……。

 第四小学校の七不思議は、仁美が通っていたころとは異なり、すべてイワオがらみの怪談になっているらしい。

 気まずい空気が流れる中、皆、会長の反応をさりげなく窺う。

 取りなそうと博士が口を開いたが、その声が仁美の耳に届くことはなかった。ぐらりと天地が揺れ、視界が暗転したからだ。

 重いまぶたを開けると、見慣れた天井と壁紙、そして自分で選んだお気に入りの照明器具がそこにあった。

 ホッとして再び目をつぶりかけた仁美の顔を、切れ長の瞳が心配そうに覗き込んでくる。

「大丈夫か?」

 思いのほか至近距離にあったその端正な顔にオタオタし、仁美の声はうわずる。

「修一郎!? え? あれ……、なんで、私の部屋に……?」

「覚えてないのか? 気を失ったんだ、町内会館で。座ってたからどこも打ってはいないと思うけど、どこか痛むか?」

 首を振る仁美に安堵の息を吐き、修一郎はつぶやいた。

「……悪かったな、無理させて」

 事態がうまく飲み込めず、「涼音は?」と尋ねると、修一郎が階下を指差す。

「腹減って倒れたんじゃないかって、僕が言ったから……」

 ヨロヨロと起き上がり、トイレに行くと断って部屋を出た瞬間、いい匂いが漂ってきた。

 階段を下り、台所を覗いた仁美は、ぎょっとして足を止める。

 コンロにかけたスープ鍋にハーブやスパイスを振り入れていた涼音の隣に、エプロン姿の母が立っていたからだ。

 チン! という音に驚いて、反射的にオーブントースターに目をやったほんの数秒の間に、母の姿はあとかたもなく消えてしまった……。

 たぶんここで仲良く立ち働く涼音と母の姿を何度も何度も目にしていたせいで、幻影を見たのだろう。涼音は母の手料理が好きでよく教わりに来ていたし、母もまた涼音のことを筋がいいと褒め、かわいがっていた。

 自分の心が見せた幻だと知りながら、胸の奥がまたちりちりと焼けるように疼く。

「あ、仁美ちゃん」

 小皿を手にスープの味見をしていた涼音が、気づいて振り返り、駆け寄ってくる。

「大丈夫? どこも痛くない?」

「うん。ったく、立ちくらみならわかるけど、座りくらみなんて聞いたことないよね」

 恥ずかしくて笑いに変えようとしたけれど、涼音は固い表情のまま、「よかった」とつぶやく。「心配しちゃったよ」と。

「ごめん」

「ううん、修一郎君もすごく心配してたよ。博士も会長もみんなオロオロして、守君が真壁医院に運ぶって言ったんだけど、修一郎君が倒れた仁美ちゃんをお姫様抱っこして」

「えっ!? マジで!?」

「うん。でも真壁医院が閉まってたから、部屋に運んだんだけど、仁先生、訪問診療かな?」 

 そんなことはどうでもいい。骨太のこの体が修一郎のあの細い腕で運ばれたのかと思うと、顔から火が出そうだし、口からはバクバクうるさい心臓が飛び出してきそうだ。

「優しいよね、修一郎君」

 顔は相変わらず無表情だが、そういう涼音の声音には複雑な感情が入り混じっているような気がしないでもない。やはり、涼音も修一郎のことを……?

「あ、お台所、勝手に借りちゃってごめんね。あと、冷蔵庫のお野菜とか、悪くなりそうなもの使わせてもらっちゃった」

「……ううん、どうせ腐らせちゃうから、使ってもらえてよかったけど」

 この家の台所については、母に任せきりでほとんど料理をしてこなかった仁美よりも、涼音のほうがよほど詳しい。

「仁美ちゃんも修一郎君もなにかおなかに入れたほうがいいと思って。この町の人たちのためにも末永く元気でいてもらわないとね。真壁医院の次期院長と院長夫人には」

「えっ!?」

 動揺のあまり、テーブルの上の皿を危うく落としかけた。

「ちょっ、なに言ってんの、涼音」

「千草おばさんと話してたの。そうなるといいねって」

「そんなことあるわけないでしょ。あいつ、年下だし」

「おじいちゃんが怜音に言ってたよ。『一つ年上の女房は金のわらじを履いてでも探せ』って」

 修一郎を憎からず想っていることは自分の胸だけにとどめ、誰にも話していない。にもかかわらず、他人の気持ちに敏感な涼音にはバレバレだったらしい。涼音と修一郎が好き合っているのではないかと、下衆の勘ぐりをした自分が恥ずかしくて顔が上げられない。

「そ、それって、金のわらじ探すほうが大変じゃね?」とふざけてごまかし、仁美は続ける。

「とにかく無理やりにでも食べさせて、修一郎を柴犬一匹分、太らせないとね」

 ふっと、涼音は口角を少しだけ上げた。

「あ、スープ、仁先生の分もあるから、食べてもらって」

「喜ぶよ。ありがと」

「……仁先生は、大丈夫?」

「うーん、どうだろ? 私以上にショックを受けてたみたいだから」

 普段あまり動じない父が、狼狽える姿をはじめて見たし、その憔悴ぶりも仁美の想像をはるかに越えていた。四人の命を救えなかったことに、医師として責任を感じているのだと思うが、母を亡くした喪失感も大きかったようだ。母の部屋で何時間も呆然と座り込んでいる抜け殻のような父を見たときにはぎょっとしたし、心配にもなった。それほど仲のいい夫婦には見えなかったが、仁美と同様に、喪ってはじめていかに千草がかけがえのない存在だったか気づかされたのではないだろうか。

 いずれにしろ、仕事に復帰しこの町の人のために働くことは、父自身にとっても救いになっているのだと思う。

「そうだ、仁美ちゃん、オープンサンド、持っていってもらってもいい?」

 食器棚からスープ皿を三枚取り出しながら、涼音は空いた手で白いパン皿を仁美に差し出す。手際の良さに舌を巻きながらトースターを開けると、香ばしいチーズの香りがふわっと広がった。ミニトマトやバジル、ナッツなどを乗せたブルスケッタのオープンサンドは目にも鮮やかで、見ているだけで口の中に唾液があふれてくる。あちっ!と大騒ぎしながら取り出したオープンサンドとスープを、ふたりで二階に運んだ。

「修一郎君、これ、飲んでみて」

 食欲をそそるたまらない匂いを放つスープを差し出されたのに、修一郎は見つめるだけで手を伸ばそうとしない。体を固くし、ただじっと息を詰めている。なにかを警戒するような修一郎の頑なさを前に、涼音の顔色がふいに変わった。

「あ……、ごめん、私……」

 めずらしく動揺して目を泳がせながら、涼音は手にしたスプーンをぎゅっと強く握りしめ、早口で続ける。

「えっと、大丈夫だよ。ほら、私が先に飲むから」

 そう言ってスープを急いで二口飲み、涼音は「ね?」と、心配そうに修一郎と仁美の顔を交互に見た。

 大きく見開いた修一郎の瞳に、悲憤の色が浮かぶ。

「……すずは、バカなの?」

 修一郎が辛辣な言葉を放つと、涼音は本物の人形みたいに固まってしまった。

「僕がすずのことを、毒殺犯だと疑ってると思ってるわけ?」

「そうじゃないけど、あんなことがあって、他人がつくったものを口にするのは怖いに決まってるのに、私、なにも考えずに勝手なことしちゃって……」

 確かに、あれ以来、食べることが恐怖になった。

 母を亡くした仁美と父の食事を心配して、近所のおばちゃんたちが料理をつくって差し入れしてくれたけれど、申し訳ないが怖くて口にすることができなかった。

 事件によるショックで食欲も失せ、仁美はペットボトルのお茶だけを飲んで――もちろんそれもキャップが開栓されていないか、どこかに毒物を混入した針の跡がないかなどなど目を皿のようにして調べてからだが――しばらくは固形物を摂らずに過ごした。

 だが、それに気づいた父が、完全に個別包装された栄養調整食品やレトルトのカレー、パスタソースなどを大量に購入してきて、お願いだから食べてくれと懇願された。仕方なく口にしたものの、まるで砂を嚙むようで、仁美にとって食事は苦行でしかなかったのだ。

「違うよ」と、修一郎は涼音の言葉に首を振り、声を絞り出す。

「美味しそうだなって思ったら、浮かんできちゃったんだ、……かすみの顔が」

「……え?」

「これ、食べさせてやりたかったなって」

「……あ、ごめん。……そうだったんだね」

 顔を伏せた修一郎から目を逸らし、涼音はスープをじっと見つめる。

「この卵と野菜のスープ……、野菜が大嫌いだった怜音と萌音も、これだけはおいしいって飲んでくれてた。それで、いつもおかわり!って……」

 宙を見つめ無表情につぶやく涼音の声に涙が滲んだ気がして、仁美は思わず頭を下げた。

「涼音、ごめん! 本当にごめんね、萌音ちゃんと怜音君……、助けられなくて」

 かすかに目を見開き、涼音は仁美を見た。表情の変化は乏しいが、驚いているのだ。

「仁美ちゃん、なに言ってるの? あの子たちのために、あんなに頑張ってくれたのに」

「私、頭悪くて医者になるのあきらめちゃったからさ、もしも私が修一郎みたいに冷静で賢かったら、もっとなにかできたんじゃないかって……」

「仁美ちゃんのせいじゃない。仁美ちゃんはよくやってくれたよ。なにもできなかったのは、私のほう。あの子たちを守ってあげなきゃいけなかったのに、パニックになって、ただみっともなくオロオロしてただけ……」

 ああ、涼音も自分自身を責めているのだと、仁美は胸が苦しくなる。

 蒼白い顔をうつむけたまま、涼音は今にも消え入りそうな声で話す。

「あの日、家を出る直前、萌音が『プリン食べる!』って言い出したの。そしたら、怜音も『僕も食べたい!』って。でも、私、急いでたし、『あとでおしるこ食べるんだから、ダメ』って言って、あの子たちにプリンあげなかった。まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかったから。まだ、たった二歳と四歳だったのに。これから美味しいもの、いくらでも食べられたはずなのに。こんなことになるなら、プリン好きなだけ食べさせてあげればよかった。あの子たち、きっと今でも……、プリン……食べたがってる」

 声に涙をにじませながら、それでも淡々とした表情で語る涼音の姿に、仁美のほうが泣きそうになる。そんなにつらい思いを抱えているなら泣き叫べばいいのに、それができない涼音はその折れそうに細い体の中に悲しみをどんどん蓄積させ、いつか飽和状態になって彼女の皮膚を裂いてあふれ出すのではないかと、心配でたまらない。

「それ……、み?」

 修一郎がなにか言ったが、背もたれに頭をあずけていたので声がこもって聞き取れなかった。「え?」と聞き返すと、苛立ちを孕んだ彼の声が部屋に低く響いた。

「それって、嫌味? 僕が冷静で賢いなんて……」

 目を丸くする仁美を、修一郎は射るように見た。 

「確かに僕には知識があったよ。あれが食中毒でないことは一目見ただけでわかった。食中毒なら経口摂取から症状が出るまでに早くても三十分はかかる。持病のあるかすみに気を配っていた母が傷んだものを食べさせるわけがない。口にしたばかりのおしるこが腹痛の原因に違いなかった。だとすれば、食べてすぐ症状が出ているんだから、おしるこの中に毒物が入っていたとしか考えられない」

 いつも冷静な修一郎が、昂ぶる感情を抑えきれずに、早口で喋り続ける。

「なんの毒かはわからなかった。でもいずれにしろ、一刻も早く吐き出させなければいけないと思った。応急処置として嘔吐させる方法も知っていた。仁美が萌音ちゃんにしたように、かすみの口に指やスプーンを突っ込んで吐かせればいい。わかっていた。わかっていたのに、頭が真っ白になって、救急車を呼んでと叫ぶことしかできなかった。怖かったんだ。僕がなにかしたことでかすみが死んでしまうんじゃないかって。かすみがうずくまって苦しんでいたのに、怖くてなにもできなかった。かすみになにも……、なにもしてやれなかった」

 自分を罰するように背もたれに頭を打ち付けながら、修一郎はつらい心情を吐露する。そのたびに椅子がギーギーと悲しげな音を立てた。

 仁美は無知であるがゆえになにもできなかった自分を責めたが、修一郎は知識があるのに実践できなかった自分に苦悩していたのだ。

「怖くて当たり前だよ、修一郎。私たち、なんの訓練も受けていないのに、いきなりあんな異常な状況に放り込まれたんだから」

「でも、仁美は……」

「私は考えるより先にやっちゃったけど、毒物によっては無理に吐かせたらいけないケースもあるって、あとで父親に言われた。胃や食道を損傷させちゃうこともあるんだって。だから……」

「……そうか。だったら、僕が知識があるって思ってたこと自体がうぬぼれに過ぎなかったってわけだ」

 今にも泣き出しそうな顔で苦笑し、肺から絞りだすように息を吐くと、修一郎は疲弊した顔をまた背もたれにうずめる。

 よかれと思って言ったつもりだったが、修一郎をより深く傷つけてしまったらしい。

「修一郎、嫌味なんかじゃなかったけど、無神経なこと言ってごめん。ねぇ……、とにかく食べない? 涼音がせっかくつくってくれた料理が冷めちゃう」

 目を伏せたまま、修一郎は涼音の手からスプーンと皿を奪うように取り、乱暴にスープを口に運ぶ。無理をしているのは明らかだったが、一口飲んで動きを止めたのち、なにかに憑かれたように修一郎はスープを飲み始めた。

「あ……、それ、私の食べかけだから……」

 我に返った涼音が慌てて取り返そうとしたときには、

「いいよ。っていうか、もう食べちゃったし」

 と、修一郎は皿をひっくり返して見せたのだった。

「えっ? あ、えっと……、よかったら、まだあるけど……」

 修一郎が無言で差し出した皿を受け取り、涼音はスープをあたために部屋を出ていく。

 恐る恐る、仁美もスープに口をつけてみる。その瞬間、まず舌が美味しいと歓び、体の隅々にまで栄養が染み渡っていくような感覚があった。野菜の甘さや滋味が口だけでなく心の中まで優しく満たすそのスープは母の料理を思い出させた。

 心を揺さぶられたのは修一郎も同じだったらしく、涼音が運んできた二杯目のスープを今度はじっくりと味わって飲み干し、勧められるまま、ブルスケッタのオープンサンドにも素直に手を伸ばした。

 三人ともほとんど口を利かず、夢中になって料理を口に運んだ。仁美だけでなく、修一郎もそして涼音も、顔には出さなかったけれど久々に味わった食べる歓びに打ち震えていたのではないかと思う。

 腹ごしらえを済ませ、少し落ち着いたところで、修一郎が「ごめん」と頭を下げた。

「大人げなくて悪かった」

「ううん。みんなの前でみっともなくぶっ倒れた私よりマシだよ」

 仁美の言葉を受け、涼音がポツリとつぶやいた。

「……きつかったよね、あの日のこと思い出して話すの」

 やっぱり涼音も同じ思いでいたらしい。

「私の場合、ダブルだったから余計にね。さっき言ったアレのことがみんなにバレたんじゃないかと思って、ずっと不安だったから」

「アレって?」

 そう尋ねてすぐに気づいたらしく、修一郎は「ああ、パラコートか」とうなずく。

「あ、それなら、大丈夫だよ、仁美ちゃん」

 さらりと涼音にそう言い切られ、仁美の口から「は?」と尖った声が漏れる。

「大丈夫なわけないでしょ。おしるこに入っていた農薬がうちの物置から見つかったんだよ」

 つい声を荒らげてしまったが、「ううん、大丈夫」と、無表情に涼音は首を横に振る。

 感情の読めない能面のようなその顔が、仁美の目にはなぜだか一瞬、ひどく禍々しいものに映った。

(第6回へつづく)