第一章 硯 SUZURI(承前)

 二人がレンタカーで向かった先は、海岸沿いの県道から山手に向かって、十分ほど車を走らせた崖のうえだった。そのまま道を進めば避難所にも近いようだが、あまりに急斜面なので、人が暮らすには適さず民家もない。かろうじて切り拓かれた平地に、〈硯〉という看板を掲げたプレハブ小屋が、ぽつんと立っている。

 駐車場で下車すると、木々のざわめきの間から、かすかに潮騒が届いた。山を背にして海を一望できるロケーションだ。防潮堤で隠されていた雄勝湾の水面が、きらきらと輝いている。

 円花は玄関先で「こんにちは」と叫んだ。それでいいのか、と身構える山田をよそに、今度は「おーい、来たよー」と手をメガホンのように口元に当て、大声を出した。実家に帰ってきたようなカジュアルさに、山田は面食らう。

 すると小屋の戸が開いて、一人の初老男性が現れた。どっしりとした体形だ。がっしりとも太っているとも違う。重みがあって、多少の雨風にはびくともしなそうな貫禄があった。作務衣の下にタートルネックのセーターと職人らしい服装で、クロックスをつっかけていた。目つきは鋭く、山田を見ると眉間に深いしわを寄せる。この人こそ、事前に円花から聞いていた硯職人、巌谷広志いわやひろしであろう。

「おじさん! わー、久しぶり、元気だった?」

 お、おじさん? 知り合いなの?

 山田がぎょっとしている傍らで、巌谷はとたんに相好を崩した。

「よく来たな、円花ちゃん」

「やっと工房に来られて嬉しいよ。ご家族も変わりない?」

 和気あいあいと挨拶したあと、円花は「そうそう」と言って、山田が持ってきた名刺を巌谷に手渡した。巌谷はそれに見入ったあと、感心したように言う。

「本当に新聞社で働いてるんだね」

「だから何度も言ってるのに、信じないんだもんな」

「今まで名刺なんてくれなかったからさ」

「じゃ、これでちゃんと証明できたね」

 得意げな笑みを浮かべたあと、円花はくるりとふり返った。

「こちらは硯職人の巌谷さん」

 山田は慌てて自己紹介をする。「はじめまして、日陽新聞文化部の山田と申します。本日はお忙しいなか、貴重なお時間をいただいて、誠にありがとうございます――」

「別に忙しくなんかないよ。新聞記者ってのは、杓子定規しやくしじようぎな感じだね」

「失礼しました! こちらよかったら」

 よほど悪い第一印象を持たれてしまったらしい。なんとかしようと、必死に手土産を差し出すと、受け取った巌谷の手は大きく、爪の際は灰色に染まっていた。巌谷は紙袋のなかを一瞥したあと、「こりゃ物珍しいものを」とだけ言って、山田に背を向ける。予想以上に気難しい人のようだ。巌谷の漂わせる雰囲気だけでなく、こんな崖のうえで、一人硯をつくりつづけている事実もそう感じさせる。

 二人のあとを追いながら、円花から事前に聞いた情報を、山田はふり返った。

 巌谷は六十二歳、雄勝町出身だ。仙台市の大学で彫刻を学んだあと、雄勝町に戻って父から硯づくりを教わった。四十代半ばで父を亡くし、家業である硯屋を継いだ。

 震災が起こったとき、巌谷の自宅兼工房は海岸近くの、壊滅的な被害を受けたエリアにあった。自身は家族とともに避難したが、家財道具だけでなく、代々使われてきた道具や硯材は失われてしまった。

 その後、妻子とともにとなり町に引っ越し、数年前にこの工房を手作りした。毎日車で片道一時間かけて、自宅から工房に通っている。遠方で硯をつくることもできるにはできるが、採掘場から近く、雄勝という土地で硯をつくりつづけることに、彼は今もこだわっている。

 巌谷はプレハブ小屋の半分を硯の工房にし、もう半分を販売所にしていた。山田と円花は販売所の方に案内された。外から見ればプレハブ小屋だが、内装は広々していて、ストーブが焚かれて暖かい。テーブルのうえには、さまざまな形や色の硯がところせましと陳列され、壁には雄勝の地形や制作の様子をうつした写真が飾られていた。巌谷がストーブで沸かした湯で茶を淹れてくれるあいだ、山田はレコーダーとカメラ、そしてノートを準備した。インスタ映えをよく分かっている円花に写真を任せ、自分はノートをとることに徹する。

「あれ、おじさんだよね?」

 円花の視線の先には、壁に掛けられた古い写真があった。幼稚園くらいの男の子が、自分の顔よりも大きな石塊を、彫刻刀で一生懸命に削っている。粉が頰についているのも構わず、顔つきは真剣そのものだ。円花は許可をとってその写真をカメラにおさめた。

「そうだよ。家にあった写真は全部流されたんだが、このあいだ組合の人が、うちの父親からもらった写真を見つけたって、わざわざ届けてくれて」

「組合の人に写真を配るなんて、お父さんは息子さんが硯をつくる姿を見るのが、よほど嬉しかったのかな」

 円花が言うと、巌谷は笑った。

「でも父親は私に硯を継げ、なんて一度も言ったことなかったよ。むしろ継ぎたいって言ったら、儲からないし、たいへんな仕事だぞって反対されたくらいで。息子には同じ苦労をさせたくなかったんだろうよ」

「それなのに、どうして本当に継いだの」

 二人の傍らで、いきなり踏み込んだことを訊くなよ、と山田はひやひやしていた。いくら知り合いとはいえ、取材相手からプライベートな想いを引き出すのは難しい。山田はこれまでの経験から、一歩踏み込んで距離感を縮める大変さを実感していた。しかし巌谷は気分を害する様子もなく、すぐに語りはじめた。

「昔に習ったこと、身近にあったことは、大人になっても案外消えないものなんだよ。身体に染みつくんだ。だからこそ二十代の頃は逃げようとしていた。古臭いし、伝統産業って言ってもすたれる運命には違いない。震災の前から、硯職人はとっくに高齢化が進んで数も減っていた。そんな硯職人の仕事なんて、絶対に継ぐものかと思ってた。でも三十歳になる前に、父親が倒れて、実家に戻ったんだ。幸い、命に別状はなかったんだけどな。その夜、工房で父親がつくりかけていた雄勝硯を見ていたら、急に自分もつくりたいと思ったんだ」

 巌谷は机のうえに硯をひとつ置いた。長さ二十センチ、幅十五センチほどの平たい直方体だ。墨を磨るための平らな部分を「墨堂ぼくどう」もしくは「丘」と呼び、そこからゆるやかに沈みこんだ墨を溜める窪みを「墨池ぼくち」もしくは「陸」という。

 硯は黒いものだと思いこんでいたので、よく見ると違うことに、山田は驚いた。真っ黒ではなく、いぶし銀に近い。光の当たり方によって、白っぽくも見える。黒と白は正反対の色だと思っていたのに、じつは紙一重なのかもしれない。また単色ではなく、微妙な色合いの模様や線が浮かびあがっている。その天然の意匠は、地層にも、波打ち際にも似ていた。もとは大地の一部だったちっぽけな石に、遠くから望んだ大地の情景が凝縮されていることに不思議さを感じる。

「今までやってこられたのは、まわりの助けのおかげだよ。組合の人や、地域の学校のおかげだ」

「その話、詳しく聞かせておくれよ」

 おい、失礼じゃないか、と山田はまた肝を冷やす。余所者である記者に、易々と本当の気持ちを聞かせてくれると思っているのか。所詮、記者は仕事のため、自分の利益のために話を聞き回る存在だ。報道されても、生活が目に見えてよくなるわけでもないし、話せて気が楽になったと言ってくれる人ばかりでもない。成功談や楽しい思い出ならまだしも、震災の経験となればその口はいっそう重くなる。ストーブのうえで沸く湯の音が、気まずい沈黙を強調させるようだった。

 しかし巌谷は意外なことに、またしても語りはじめた。

「じつは震災のあと、硯屋を辞めるつもりだったんだ。私だけじゃない。他の職人も、この地を離れていった。硯材が流されたからじゃなく、みんな生活が立ち行かなくなったからだよ。生きることで精一杯で、雄勝硯を守る、なんて言っている場合じゃなかった。それに自分よりもよほど大変な思いをした人たちが大勢いて、硯をつくる暇があったら、彼らのためにできることが、もっとあるだろうと思ったんだ。

 だから私も、となり町で警備員の仕事をはじめた。するとその仕事のなかで、小学校に派遣されてね。その小学校も倒壊して、しばらく休校だったけれど、やっとこさ授業を再開していた。警備員だから、放課後に校舎を見回りに行くわけ。そしたら、とある教室を覗いたときに、子どもたちの習字がずらりと掲示されてたんだよ」

 巌谷は当時のことをふり返るように、遠くを眺めながら言った。

「白い半紙に、いろんな文字が躍っていた。明日、友情、希望。子どもらしい字で、墨で力強く書かれていた。近寄って見ていたら、硯がひとつ机に置き忘れてあった。それは町内の職人が以前、地元の子どもたちのためにつくった雄勝硯だったんだよ。子どもたちはまだ大切に雄勝硯を使ってくれてる。そう思うと、背中を押された気がしたんだ。復興のためにあなたができることは、硯をつくることでしょって」

 巌谷は平日に警備員の仕事をする傍らで、週末に少しずつ工房を再建した。イチから新しい場を拓いたうえ、在庫もなにもない状況だったので、硯だけで生計を立てるには何年もかかった。けれども多くの人が雄勝町の内外から、手を差し伸べて協力してくれたという。巌谷のつくる硯は話題になり、東京で展示を行なう機会にも恵まれた。

「円花ちゃんと出会ったのは、たしかその頃だな。最初は、なんだこの生意気な子はって思ったよ」

「ごめんよ、いつもこんな感じで」と円花は頭に手をやる。

「でも円花ちゃんは誰よりも熱心に硯のことを勉強していた。それにインターネットで発信してくれたおかげで、少ないながらも作品は完売した。それ以来、展示があるたびにお知らせするようになったわけだ」

「最初におじさんの硯を見たときに、なんてかっこいい硯だろうって驚いたんだよね。なんといっても、形がすてきじゃない。四角くて窪みがあるっていう従来の定式を守っているのに、すごく自由なんだ。丸みがあって柔和で、ぬくもりを感じるっていうのかな。そう、ぬくもりだよ。おじさんの硯には、ぬくもりがあるんだよね、石なのに。いや、石だからこそか」

「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」

 巌谷は満更でもなさそうに答え、「それじゃ、制作工程を実際に見せてあげよう。思う存分取材するといい」と立ちあがった。円花は「やったー、写真撮らせて」と無邪気に喜んでいる。

 そういうことだったのか――。

 二人のあとをついて歩きながら、巌谷がこんなにも胸襟を開いているのは、人対人として付き合っているからだと悔しいながら納得する。普通の記者なら、震災があった時期だという理由で話を聞きに行って、その場限りで関係は終わってしまう。でも二人は興味関心を共有する者同士、深いところで尊敬し合っていることが傍からも分かる。そして円花の、職人を応援したいという強い熱意がその関係を持続させている。そんな関係を多くの人と築ける記者は、さほど多くない。少なくとも自分は違った。

 プレハブ小屋の外には、コンクリートブロックほどの大きさにカットされた、四角い石が積みあげられていた。それらの石は、裏山から採掘され、機械でおおまかに切り出された硯材だという。さらに案内されたのは、販売所に隣接する一段高くなった六畳ほどの座敷だった。そこには大小の彫刻刀や砥石が並んだ作業台、水を汲んだ桶などが置かれている。巌谷は中央に置かれた座布団に腰を下ろし、屈みこむように硯をつくる姿勢をとってみせた。

「おじさん、カッコいい!」

 円花は興奮した様子で、その姿をパシャパシャと撮影する。巌谷も調子が上がってきたらしく、「ちょっとやってみるかい」と言って硯づくりの体験教室をはじめ、その姿をなぜか山田が撮影させられる。

「こんな感じで、ここでは外でカットした石を、彫刻刀を使って硯に整えていく。仕上げに使うのが、円花ちゃんが持ってる砥石とやすりだな。雄勝石は玄昌石げんしようせきとも呼ばれ、やわらかいことで知られる。だから比較的彫りやすく、使いこむほどにへこむんだ」

 カメラを円花に返し、ノートをとりながら、山田は「あの」と訊ねる。

「硯の磨りやすさって、どうやって見極めるんですか」

 事前に調べた知識によれば、硯の使い勝手のよさを決めるのは、「鋒鋩ほうぼう」が立っているかどうかだという。鋒鋩とは、硯の表面にある目に見えないほど細かな凹凸だ。腕の立つ職人がつくるほどに、上質な鋒鋩が立つ。硯はいわば大根下ろしのように、墨を削る砥石として機能するので、鋒鋩は荒すぎても、なめらかすぎてもいけない。

「上質な硯は、舌をつけたときに吸いつくんだよ。それが、鋒鋩が立ってる証拠だ」

「舐めるんですか!」

 驚いて山田が訊き返すと、巌谷は「兄ちゃん、いい反応じゃないか」と笑った。巌谷のこちらへの対応も、徐々に柔らかくなってきてほっとする。「安心しろ、実際に舐める人はいないよ。昔は爪を立てて白い線が残るかどうか、なんて野蛮なやり方をした書家もいたようだが、絶対にしちゃいけない。硯が傷つくから」

「ちなみに、鋒鋩って剣山みたいなギザギザじゃないんだよ」

 円花が口を挟み、にやりと笑った。

「どういうことだ、毛羽立ってるんじゃないのか」

 円花はノートを受け取ると、紙とペンで図式にして説明をはじめた。硯の表面にはガラスや石英といったさまざまな物質の層が、ミルフィーユのように何層にも重なり合っている。それを平らにした断面には、地図の等高線のような段差が生まれる。その段差こそが鋒鋩の正体であり、墨を磨ることで、わずかな電気反応が起こって、煤と水がコロイド状に混ざり合うのだという。

「コロイド状っていうのは、牛乳やマヨネーズと同じで、沈殿もろ過もできないくらい成分が混ざった状態でね。溶けるのとはまた違うんだ。肝心なのは、科学が生まれる何千年も前から、硯を使って固形墨をコロイド状にするという高度な技を、人々が発見していたということ。ね、すごくない?」

 したがって鋒鋩は、指でさわっただけでは良し悪しが分からないという。人の触覚や視覚では捉えきれない、繊細なレベルでその質は決まる。けれども、修練を積んだ職人ならば、研ぎ具合からどれほどの鋒鋩が立っているかを感覚で摑めるらしい。円花の説明は分かりやすかった。何千年も前に発見したなんて、ちょっと大げさな気もするけれど、とりあえず、専門的なのにすんなりと頭に入ってくるところは素晴らしい。

「さわってみな、兄ちゃん」

 巌谷は傍らにあった硯を、山田に差し出した。山田は慌ててズボンで手のひらを拭ってから、それを受け取る。巌谷は片手で軽々と持ち上げていたが、十センチの小さな硯であっても、ずっしりと重たい。ふだん石なんて持たないので、その重さが新鮮だった。ごとりと机のうえに置いて、墨を磨る部分にそっとふれると、冷たくしっとりとした質感があった。

「気持ちいい」

「赤ちゃんのお尻みたいでしょ」

 円花はさわりながら、職人が丁寧に磨いた粘板岩ならではの質感だと話す。ガラスや御影みかげ石ほどつるつるしているわけではなく、砂岩のようなざらざら感もない。いつまでもさわっていたくなる独特の手ざわりが硯にはある、と。

「いい顔になってきたな。そろそろ墨を磨ってみるか」

「いいんですか」と山田は声を弾ませる。

「ここまで来て、硯を使わせずに帰すわけにはいかないだろ? なにより、硯の魅力を伝えるには使ってもらうのが一番だからな」

 巌谷はそう言うと、ふたたび販売所に戻った。そして机にいくつか硯と水滴、半紙と筆を手際よく準備したあと、その前に山田を座らせる。巌谷は硯の表面に、水滴で何滴か水を垂らした。蓮の葉のうえを滑る水玉のように、透明な粒がふっくらと立ちあがった。巌谷は戸棚から取り出した小さな桐箱から、一本の固形墨を手渡す。山田は墨を受け取って、三本指で挟み込むけれど、墨を磨るなんて子どもの頃以来である。

「力を抜いて、やさしく磨るんだ」

 となりにいる円花の助言に従い、山田は水に墨をつける。その瞬間、墨が硯にくっつくような、不思議な手応えを感じた。ゆっくりと弧を描くと、力を入れていないのに、じゅわりと溶け出すかのごとく、「丘」の部分に濃厚な黒の鏡面が、あっという間に生み出された。小学校のときにごりごりと押しつけねばらならなかった経験とは、まったくの別物だった。かすかにすーっという小さな音が聴こえる。しゃりしゃり、にも近い。

「す、すごい」

(第4回へつづく)