第一章 硯 SUZURI(承前)

「そう、墨が下りる、だよ。墨が溶ける、とは言わない。なぜなら墨は、水には溶けないから。墨は煤と香料、それから古来画材に用いられた膠でつくられている。みんな勘違いするけど、炭素である煤は水に溶けないんだ。にかわが接着剤の役割を果たすから、煤は水と分離しない。かといって溶けもしないから、雨風あめかぜに晒されても長く残って、東洋の長い歴史を守ってきたわけ」

 硯の話になったとたんに真剣な表情で大きな瞳を輝かせている。さっきまで半目で居眠りをしていたことを忘れてしまいそうだ。これぞ、雨柳民男仕込みか。感服していることを、表面に出さないように努めながら、こう返事する。

「そんなことくらい、俺も知ってたよ。当然だろ」

「ふうん。じゃ、硯って、なんの石でできてるでしょう?」

 知ったかぶりを悟られてしまったのか、円花は試すように身を乗り出した。それにしても顔が近い。思いのほかまつ毛が長くて、化粧のせいか毛穴ひとつない。無駄にどきどきしてしまう。

堆積たいせき岩だろ」

「ブッブー、それじゃ不十分だね。粘板ねんばん岩、英語で言うスレートだよ。粘板岩っていうのは、ただの堆積岩とは違って、プレートの移動によってぎゅーっと圧縮されて変成した石を指すの。つまり地球が絶えず動いているからこそ生まれたのが、硯ってこと」

「地球が動く……プレートテクトニクスってことか」

「そう、それなの、おもしろいところは!」と声を大きくして、円花はシートの肘掛をバシッと叩いた。「活断層やプレートの移動によって、硯の材料は生まれる。だから大きな枠組みで見れば、人々の命や生活を奪う地震と、書や文字を生み出すための器具である硯は、じつは深いところでつながってるわけ」

 災害をもたらす地震と、地殻変動による恩恵を簡単に結びつけてしまうことに、多少の抵抗はあるものの、自分には絶対にできない発想なのはたしかだった。

 円花いわく、地球が活動しつづけることで生み出される粘板岩は、地域の環境や年代の差によって、少しずつ質も違ってくるという。たとえば、端渓たんけい硯や歙州きゆうしゆう硯といった中国の「唐硯」に対して、日本で生産される「和硯」がある。和硯には、徳川幕府に献上された山梨県の雨畑あまはた硯、国内最古の硯とされる山口県の赤間あかま硯、その他日本には、愛知県の鳳来ほうらい硯をはじめとする、さまざまな小さな産地が存在する。

「一口に硯といっても、色や硬さは千差万別。青っぽい硯、赤っぽい硯、緑っぽい硯もある。しかも硬ければいい、やわらかければいい、というわけじゃないんだ。むしろ墨との相性の問題で、好みの仕上がりになる組み合わせが大事なの」

「なるほどね」と思わず口に出してから、感心しているのを隠すために、慌てて「野球で言うなら、二遊間コンビみたいなもんだな」とあえて軽めのたとえを出した。

「なにそれ」

「セカンドとショートの組み合わせだよ。相性が大事といえば二遊間かなって。アライバとか、新聞を読んでたら知ってるだろう? ま、野球に興味ないと分からないか。もっと有名な言い換えするなら、バドミントンのオグシオってとこかな」

 円花はきょとんとした表情を浮かべたあと、スマホで検索をはじめる。

「洗い場……」

「漢字変換がおかしいから! よし、こうなったら、タッキー&翼でどうだ、この組み合わせなら、さすがに知ってるだろう」

「知らない、チキンの店とか?」

「……なんで知らないんだ」

 円花は恥ずかしがる様子もなく「興味ないことは憶えらんないよ」と言い切った。物知りなようで、彼女の守備範囲は自分の興味関心のあるところに限られているらしい。思い返せば、最近テレビに出ずっぱりの売れっ子女優、森崎ナナのことも知らなかった。芸能やスポーツをはじめとする一般常識の偏差値は三十くらい、いや、もっと低いかもしれない。

 社会人としての常識は大丈夫だろうか。改めて心配になった山田は、出張先での自分流のマナーを説明する。手土産はタイミングを見て紙袋から出して渡すのがよくて、名刺を交換するときは相手より下の位置で差し出すんだ――話しながら、やっと先輩っぽくなってきたぞと思っていたら、円花が急にリュックをごそごそしはじめた。

「どうした」

「忘れたかも、名刺」

「え! 昨日も言ったのに」

「ちょっと待って、捜すから」

 円花はリュックをひっくり返して、露天商のように持ち物を並べていく。テーブルには載せきれず、立ち上がって椅子のうえにも広げはじめた。旅程をはさんだファイルや着替えの他に、昨日購入したという縄文土器をはじめ、木彫りの置物やトランプなど、出張に関係ないグッズが出るわ出るわ。しかもぐちゃぐちゃに詰めこまれている。空のペットボトルが荘厳なインスタレーション作品のように並んだ円花のデスクを思い出し、自宅も汚そうだなとぞっとした。

「いったいなにしにいくつもりだよ、俺と七並べか?」

「ごめんよ」

 さすがに反省したらしく、円花は悔しそうに肩を落とす。やれやれと思いながら、山田は念のため持ってきていた束を、折り畳み机にすっと置いた。自分の名刺だと気がついた円花は「なんで」と目を丸くした。

「今年度、名刺の発注係なんだよ。みんなの分を多めに注文してるから、もしかすると君が忘れるかもと思って、余りを持ってきてやった」

「ありがとう! やっぱり深っちゃんの言ってた通りだ」

「深沢デスク? なんて言ってたの」

「困ったら山田に頼ればいいって。山田なら文句を言いながらも、うまく助けてくれるだろうって言ってた。だから私と組ませることにしたらしいよ」

 心底ぽかんとした。深沢デスクから今回の補佐を任されたのは、何年経ってもろくな企画を出せず、仕事のできないやつだと見切りをつけられたからだと思いこんでいた。だから円花のような新人の世話役をさせるのだ、と。でも本当はそれなりに評価してくれているのだろうか。

 失いかけていた自信をほんの少し取り戻すが、すぐに考えを打ち消す。先日深沢デスクが浮かべた渋い表情を思い出し、胃の辺りがきりきりと痛くなる。あのとき指摘されたように、当たり障りない企画ばかりを出しているのは、記者という職業をうまくこなしている自分でありたいからだ。そんなの、自己満足でしかない。

「どうせ俺は、企画も通らずに、万年使いっ走り扱いされるんだろうな」

 つい自分を否定してしまう山田を、円花はじろりと見つめてくる。

「なんだよ」

「山田って、どうして記者になったの」

 カッコいいから、と本当のことを言いかけて咳払いする。

「ペンで不正を潰すためだ」

 結局、カッコつけてしまった。

「へー、ずいぶんと立派だね」

 両眉を上げた円花に、山田は「だろ」とわざとキリッとした顔で答え、冗談に落とそうとしたが、冷静に「で潰せてるの、今」と返された。

「……それは言うな」

 調子が狂った山田は、肘掛で頰杖をつく。

 小さな頃から新聞を読むのが好きで、新聞社勤務に憧れていた。けれども、自分に自信のない性格のせいで、本当に新聞社に入れるとは真剣に思っていなかった。就活のときだって、何十社という他の報道機関にエントリーしてみたものの、今思うと青臭かったせいだろう、いずれも一次さえ通らなかった。

 やっぱりダメだったと諦めかけたとき、日陽新聞の秋採用で拾ってもらえたのは奇跡だった。勤勉さゆえ、傾向と対策を分析しまくって最終面接までこぎつけたが、はじめてのことなので山田は緊張しきって、頭が真っ白になってしまった。なぜか釣りが好きだという個人的な話をしゃべりまくって合格できたなんて、面接官に釣りバカでもいたのだろうか。列席の役員の顔は誰一人憶えていないが、だとすれば恩人である。

 けれども入社後すぐ、自分がいかに甘かったかを痛感した。配属された仙台総局で震災特集を組むに当たり、奇しくも今回と同じ、石巻市の取材に駆り出されたのだ。当時は街も鉄道も復興に向けての取り組みがはじまったばかりだった。想像がつかないほど大変な状況で、自分の見識や筆力ではなにをどう書いても伝わり切らず、無力感に苛まれた。必死で先輩についてまわったものの、自分の書いたものは世に出なかった。

 あれから成長できたのか。車窓を眺めると、トンネルを抜けた合間の山肌に、白くてきれいな雪が残っていたが、あっという間にまた真っ暗になった。しんみりしているのを隠すべく、円花に訊ねる。

「君はどうしてうちに来たの? 新聞が好きだったから?」

「新聞自体はあんまり好きじゃないなー。小難しいからね」

 山田は絶句した。

「あ、でも文化面はしっかり目を通すし、ネットの記事もアート関連なら国内外問わず読むよ。まぁ、新聞社に入ったのは、取材という名目で、好きなことを好きなだけ調べられるって、小さい頃におじいちゃんから教わったからだよ。話を聞く限り楽しそうだったしね。自力だって調べられることもあるけど、記者っていう肩書さえあれば、どこでもフリーパスで行けちゃうのは魅力的だから」

「そういえば、君のおじいさんって、雨柳民男なんだってな」

「そうそう。山田も知ってたんだね!」

「羨ましいよ、人脈があるって」

 含みのある言い方になってしまい、円花は「ひょっとして、コネ入社って言われてるのを信じてる?」と鋭く見抜く。そして取り繕うこともなく、あっけらかんと笑って「コネがあるのは事実だけど、このご時世、コンセンサス的にコネだけで採用できるわけないでしょ。そんなのに頼らないで、普通に入社試験をパスしたよ」と断言した。

「それを言うなら、コンプライアンスだろ」

「ははは、そうだった。山田はよく気がつくね」

 つづけて、最近おもしろかった自分の言い間違いの例を連発しているとなりで、山田は狼狽うろたえていた。やっぱり円花はどこかズレている。それなのに、さらりとコネ入社を否定するとは。彼女の性格からして、嘘をついているわけではないだろう。日陽新聞の入社試験は運だけでは合格できない。日ごろ新聞を読まず一般常識がなくても、地頭はいいということだ。または、なにか光るものをズバリ面接官から見抜かれたとか。山田の警戒心はいっそう高まった。こっちは一生懸命に新聞を何紙も読みこみ、難読地名の漢字などを丸暗記して、どうにかここだけ受かったというのに。彼女は異分子だ。

 新幹線「はやぶさ」が仙台駅に到着すると、仙石せんせき東北ラインに乗り換え、終点の石巻駅で下車した。途中、円花が切符をなくすという事件が勃発したが、無事にお菓子のゴミ袋から発見されて事なきをえた。山田はあまりの焦りと安堵で、なんでゴミ袋に入れたんだよというツッコミも出ずじまいだった。

 石巻駅前のロータリーではタクシーが列をつくり、南に向かって伸びる通りには、数々の店が立ち並んでいた。晴れているが風は冷たく、山田は東京から持ってきた使い捨てカイロを開封した。物欲しそうにしている円花に「使う?」という言葉が思わず口をつく。しまった、と思うと同時に「いいの! ありがとう」と円花は嬉々として受け取った。

「予想以上に寒かったから、助かるわー」

「……役に立てて嬉しいよ」

 すると円花はとつぜん「あ!」と声を上げて、道端に走り寄ったかと思うと、落ちていたペットボトルを拾いあげ、「ポイ捨てって許せないよね」などとブツブツ呟きながら、近くのリサイクル用ゴミ箱に入れた。

 おい、待ってくれ!

 山田は激しく混乱する。オフィスの自分の席には空のペットボトルを溜めこんでいるのに、誰が放置したかも分からない道に落ちているゴミは、きちんと捨てるのか。矛盾している――いや、していない? よく考えれば、世の中逆のパターンの人間ばかりではないか。自分の周囲さえ片付いていればいい、自分さえよければいいという考え方がまかり通っている。いや、考えすぎだろうか。

「どうかした、急に黙りこくって。ところで、時間はまだあるから、お昼ご飯をこの辺りで食べていかない? 旅といえば、ご当地グルメだもんね」

「あ……ああ。近くでそばでも腹に入れていくか」

「店選びなら任せて!」

 手軽なチェーン店はないかと見回していた山田の耳に、「すみません!」と通行人を呼び止める声が飛びこんできた。ぎょっとしてふり返ると、この辺りで美味しいお店ってご存じですか、ここでしか食べられないものがいいんですけど、と円花が臆面もなく訊ねている。五十代半ばに見える女性の集団は、意外にも迷惑そうではなく、「あそこの角を曲がって少し進んだら、とにかく豪華な海鮮丼の店があるの。金華山港からの直送で、ここでしか食べられないわよ」とわいわいと教えてくれた。円花はにこやかにお礼を伝え、手を振りながら当たり前のように言う。

「地元のことは地元の人に訊くのが一番だよね」

「そ、そうだな」

 またしても狼狽えている山田をよそに、円花はさっさと歩きはじめた。堂々として勢いがあるので、相手も押されて教えてくれるのだろうか。自分にはない資質だ。円花のようなタイプは、言葉の通じない異国で迷子になっても、いとも簡単に友だちをつくって旅を楽しむことだろう――いや、しかしこれは旅行ではなく出張だ。ぶんぶんと山田は首を振った。

「君さ、少しは考えて行動した方がいいんじゃない? さっきの人たち、偶然店を知っていたからよかったけど、観光客だったら気まずいだけだぞ」

「地元の人だったのは、偶然じゃないよ」と円花はきっぱりと答える。「一人の鞄からチラッとネギがのぞいていたから。石巻まで来て、ネギを買っていく観光客はいないでしょ。それに雰囲気と時間帯からして、あの人たちはランチを食べながらおしゃべりしてたんだよ。わざわざ駅前に来るってことは、この辺りの店に詳しいはず」

 返答に詰まりつつ、山田は意外に感じていた。円花はまわりをまったく気にしていなそうで、じつはよく観察しているではないか。しかし簡単に引き下がるわけにもいかないので「仕事の集まりで、ランチじゃないかもよ」と反論する。

「ううん、美味しいものを食べてきた人特有の顔つきだった。あと、グルメそうな感じもしたもんね。実際、いくつか候補があって選んでくれてたし。言っとくけど、食べものと美術に関する私の嗅覚は、だいたい当たるんだよ」

 なんだそりゃ――しかし嗅覚とは、優れた記者がよく言うことではないか。なにかが臭えば、解き明かすべき真相がある、と。まさか深沢デスクや部長は、円花の記者としての類稀な適性を見抜いて、連載の担当に抜擢したとか? いや、落ち着け。やっぱり考えすぎに違いない。

 教えてもらった通りに道を進むと、のれんも看板もない、普通の家に見える一戸建てが現れた。「本当にここかね」と門前でビビッていると、「とりあえず訪ねてみよう」と円花に押しのけられた。戸を開けると、そっけない外観とは対照的に、店内は大勢の客で賑わっていた。「やっぱりね」と円花は得意げに言うと、案内された座敷にあがる。

 まごつきながらメニューを広げる山田をよそに、余裕たっぷりに店内を見渡したあと、「すみません! その美味しそうなもの、なんですか」と大声で訊ねた。内心「もうやめてくれ」と叫んでいたが、年配の男性は声をかけられ、「特選海鮮丼だよ」と普通に答えている。円花は礼を言い、やっとメニューに目を落したかと思うと、つぎは両手を頰に当てて「あーん」と叫んだ。

 あーんって、おまえは子どもか! と慄きながら、「なに、今度は」と答える。

「特選海鮮丼がいいと思ったんだけど、ウニがのってないんだよ。今朝、ウニのお菓子を食べたときに、今日絶対に本物を食べるって決めたのに」

「それなら、ウニ丼にすればいいじゃないか、ちゃんとメニューを読めよ」

「でも特選海鮮丼もすごく美味しそうだし。あーもう、なんでウニは仲間外れなの?」

 知らないよ、そんなの。

「きっと事情があるんだよ、値段とか準備の段取りとか。潔くあきらめて、どちらか選ぶしかないって」

 時間を気にしながら山田が自重を促すと、円花は閃いたように手を打った。

「よしっ、こうなったら特選海鮮丼にウニを追加してもらおう」

 やめてーっ!

「そんなことできないよ、できたとしても反則技だって」

「どうして反則技なの」

「いいか、残念だが、このお店ではウニは仲間外れなんだ。それに、特選丼だけでも贅沢なのに、ウニまで楽しもうとするなんて、バチが当たるぞ。たとえるなら、金の斧と銀の斧が自分のものかを訊かれて、どっちもそうですって答えるようなもんだ」

「でもあの話って、たしか、正直者かどうかを試していましたっていうオチでしょ。だったら、あの木こりは『鉄の斧を使っていましたが、金と銀の斧両方ください』って答えるのが正解じゃない?」

 なるほど、と妙に感心させられていると、注文をとりにやってきた店員に、円花は止める間もなく「特選海鮮丼にウニ追加ってできますか」と質問した。相手は思いのほかあっさりと「できますよ、追加料金かかりますが」と答える。「じゃ、それで。山田も同じのにしてごらんなよ。すみません、ふたつ、お願いします」と勝手に注文された。山田はもはや円花のペースに逆らう気力もなく、運ばれてきた海鮮丼を無言で受けとる。円花は両手を頰の近くで重ねて「美味しそう」とうっとりしたあと、店の人にインスタにアップすることの許可をとった。

「なに?」

「いや、そこは案外ちゃんとしてるんだなって」

って、なによ」

「だって、さっきから知らない人に無遠慮に話しかけたり、メニューにないものを注文したり、自由すぎるから。SNSで取材先の情報を発信することも、うちの会社じゃ反対する人もいるのにさ」

「じゃ訊くけど、なにがいけないの? 分からないことは人に質問するべきだし、こんなに素晴らしいものを知って、広くシェアしなきゃもったいないでしょ」

 返答に詰まりつつ、「たとえば、仮に旅に出られない人がその投稿を見たら、『こいつだけ、いっつも贅沢してんな』って不愉快になるかもしれない。その点は配慮しなきゃ」とやっと答える。しかし言いながら同時に、新聞記者は本来、読者にそうした情報を提供するのが仕事ではないかとも自問する。

 円花は数秒きょとんとしたあと、こう断言した。

「ハゲるよ、山田」

「は?」

「山田って、難しく考えるのが趣味なの? 石橋を叩いて裏の裏まで読んで、なにが楽しいわけ。好きなものは好き。美味しいものは美味しい。楽しければ、みんなでそれをシェアすればいいじゃない。自分だけのものにして、一人で抱え込む意味はないじゃん。それにさ、不愉快になる人はハナから見ないよ。それでも文句を言ってくる人がいたら、好きの裏返しなだけ。他人の気持ちなんて、難しく考えてもどうせ分からないんだからさ。会社の決まりだって、額面通りに守る必要はない」

 円花の表情は清々しかった。

「さっきも思ったけど、山田は自分も含めて、もっと人を信じなよ。せっかく深っちゃんは評価してくれてるのに、自分から否定するなんてもったいないよ。謙遜や遠慮だってほどほどにしないと、誰も得しないんだから。ほら、目の前の海鮮丼を見てごらんなよ。こんなに美味しそうなものが、この世にはたくさん溢れてるんだよ。それだけでわくわくしない? 食べものも日本文化の大切な一部だから、立派な取材対象」

 口をひらいたものの、言い返せない。海鮮丼を見ると、マグロ、イカ、サバ、ボタンエビ、ホタテ、カニ、カンパチ、イクラ、そして特別にウニが贅沢に盛られ、教えられた通り「とにかく豪華」だった。光り輝いている。円花は「しっかり食べて」と言って、テーブルの脇にあった割り箸を手渡す。

 深沢デスクが評価している? 本当にそうなのだろうか。もやもやした感じを打開するように、箸を割った。もう、いいや。深沢デスクから言われたこととか、記者としての熱意や適性とか、ネガティブに考えるのはやめて、目の前の海鮮丼に集中しよう。円花といると、他人のことやルールばかり気にしている自分が心底あほらしくなってくる。雑念を取り払ってから、マグロを口に運んだ数秒後、山田はぴたりと動きを止めた。

「……う、うまい」

 そんな呟きと笑みが、自然と漏れていた。

 東京で食べれば、いくらかかるだろう。

 いや、これほどの鮮度を保った海鮮丼は、そう簡単に食べられないぞ。

 まず、赤身だ。小手調べに最適だが、かなりの高得点ではないか。他にも、イカは透き通るほどの色で弾力があり、サバは光の国からやってきた王子さながらの上品さだ。ボタンエビは頭つきで、プリプリの身を味わったあとは永遠に吸っていたくなる、まろやかな味噌である。しかも単品で追加したウニは、箸で持ち上げても崩れないうえ、ミョウバンの味や生臭さは一切ない。ウニの優等生だった。

 気がつけば、夢中で味わっていた。

 山田の脳裏に、世界三大漁場といわれる三陸沖で、戦いをくり広げる漁師たちの雄姿が鮮明に浮かび上がる。リアス式海岸であるだけでなく、親潮と黒潮のぶつかる金華山の潮目では、豊富な種類の魚介類が水揚げされる。釣り人のロマンに酔いしれながら、山田はあっという間に完食した。

「美味しかったね! 山田も出張だとか言いつつ、ちゃっかり楽しんでるじゃない」

「魚料理が好きなんだよ。釣りが趣味なくらいだから」

「へぇ、じゃ、この店にしてよかったね。もちろん、おごっていただけるんですよね、山田パイ先?」

「都合のいいときだけ先輩扱いするな。割り勘だ」

「セコいやつ!」と円花は笑った。

 店を出たあと、駅前のレンタカー店でカローラを借り、雄勝町に向けて出発した。円花も窓口で免許を提出していたが、結局、山田が運転することになった。ふつうは後輩が運転するものではないのか。ここでも疑問を抱きながら、ハンドルを握る。都合よく使われているのに、怒りや不快感はあまりない。なぜなのだろう。窓を開けて、顔を出している円花を「おいおい、危ないし寒いから閉めて」と注意しながら、酸素濃度の高い風を深く吸いこんだ。

 県道は住宅地を超え、旧北上川の橋をわたる。遠くに山々のなだらかな稜線を望みながら、一本道をひた走った。民家はひとつもなくなり、ときおり工場を通り過ぎる他は、見渡す限りの田園風景である。東京のオフィスから遠く離れた地で、押し寄せてくる解放感に身をゆだねた。

 やがて道は北上川に突き当たる。晴れた早春の北上川は、水面を輝かせ、海に向かって悠然と流れていた。震災時、津波がさかのぼり大氾濫した北上川の写真を、山田はこれまで何度も目にして衝撃を受けていた。この静かな川が、町をまるごと吞みこんだ過去があるとは、やっぱり信じられない。

 車は北上川河口手前で山道へと入ったあと、長いトンネルを突き進み、トンネルを超えたところで〈硯のふるさと〉の看板に出迎えられた。いったん側道に車を停め、雄勝町の看板を写真におさめる。いよいよ目的地に近づいたという興奮も束の間、雄勝町の中心地に向かって道を下ると、県道の海側に沿って防潮堤が現れた。

 県道沿いに白い蛇のように曲がりくねる、高さ十メートル近い防潮堤は、陸と海を完全に分けてしまい、陸側から海をすべて隠していた。だから海沿いの道を走っているはずなのに、その実感がまるでない。

「震災の前は、風光明媚な場所だったんだろうね」

 防潮堤を眺めながら、円花は呟いた。

 復興という道の険しさや複雑さを物語る、海岸線に沿って爪痕のように残された防潮堤のそばを走るあいだ、彼女はずっと無言だった。

(第3回へつづく)