第三章

一(承前)

 バレンテと話した日から五日後、一人の男が海で死体となって発見された。後に日本人とわかったが、男は首を掻き切られ、背中にも刃物による刺し傷があった。港はちょっとした騒ぎになったので、万吉がようすを見に行き、野次馬たちは喧嘩でもして殺されたのだろうと噂していたと龍之進に話した。

 その二日後、今度は路上で日本人の女が死んでいた。自宅の近くだったので、気になった龍之進は人だかりに紛れて現場を見に行った。粗末な身なりの女で、行き倒れかと思われたが、顔や体には痣や傷がついていた。集まった人々は、女はおおかた娼婦かなにかで痴情のもつれで殺されたのだろうと話していた。

 翌日、藤九郎を訪ねた後、帰宅した龍之進は、二階の書房へ上がり、いつも首から提げているマヌエルの指輪を掌に載せて思いに沈んでいた。

 すると、万吉が書房へ入ってきた。

「お帰り。藤九郎はどうだった?」

「今のところ、変わりないよ」

「それはよかった。ところで、知ってる? 殺された日本人、男も女もまだ引き取り手が現れないんだって」

「あの人たちは……どちらもフェルナンデスに監禁されていた日本人だったよ。藤九郎がいる宿でその話を聞いたんだ」

「フェルナンデスの人買いに遇った日本人二人が殺されたってこと?」

 龍之進は、ゆっくり頷いた。

「警告だ。これは……バレンテからの。この一件にかかわる者がどうなるかという」

 マヌエル……。

 カルバジャル家の指輪を握った。この上、沙羅とベルを巻き込むわけにはいかない。

 カリバーリョ家の手前、よほどのことがない限り、バレンテは沙羅に手を出さないだろう。でも、ベルは別だ。ポルトガル人ではないし、マヌエルにそばに仕えていた従者だ。ベルの身が危うい。

 多聞にバレンテがなにを言ったか、だいたい想像がつく。この件にかかわると、マヌエルのようになると言ったのだろう。でも、多聞はそれを俺に言わなかった。きっと俺の身を案じたのだ。そして、これ以上俺が動かないよう、「すべて任せてほしい」と万吉に伝言した。

 重要な局面になると、多聞は正直に言わないことがある。俺を逃がそうとして嘘をついた、あの関ケ原での別れのように。

 歳を経るにつれ、周りのようすや不安要素が見えて、童だった時のようにただまっすぐに進めなくなる。でも、恐れに惑い、立ち止まってはいられない。俺は、沙羅とベルを守らなければ。とにかくやり切るしかない。

 家を出ると、シルバ商会へ向かった。運よく沙羅とベルは在宅していて、二人を聖ロレンソ教会近くの海辺へ誘った。ここなら周りに話が漏れる心配はない。

「あのバレンテが、龍之進様がタデウス・カルバジャルとわかったというのですか!」

 明らかに動揺したベルは、両手を強く握り締めた。当時の辛い思い出が蘇ったのだろう。顔面蒼白になり、小刻みに震え出した。

「だから、沙羅もベルも気をつけてくれ。バレンテは、昔のことを蒸し返そうとするかもしれない。二人のことは、トリスタン殿が守ってくれると信じているが、バレンテはあの通り油断ならない。もしもの時は、二人に手出しをしないように俺が手を打つ。すまない。バレンテの船で行われていた不正を暴いたばかりに……」

 沙羅は、顔を強張らせて強く目を瞑った。両腕で自分を抱くようにして、じっと考えこんでいる。

 凪いだ海の上を渡って、蒸した夏の潮風が吹いてくる。海鳥の鳴き声を聞きながら、龍之進は、長崎での遠い過去を思い出した。夏の浜辺をマヌエルと沙羅、ペドロ、ベルと歩いた。今思えば、深い心配ごとはなく、恵まれていた。

 あの時の俺は、無邪気で、試練を乗り越えるだけの経験も少なく、無力だった。今は知恵も増えたし、経験も積んだ。そのすべてが自分の血と肉になったはずだ。だから、諦めるな。怯むな。まだ方策はある。

 気がつくと、沙羅が自分を見つめていた。目が合うと、険しい表情をしていた沙羅がふっと微笑んだ。

「『絶対助けるから』って、長崎の牢屋敷で言った時のこと、覚えてる? あなた、あの時と同じ顔してる。ねぇ、わたしとベルがマカオを離れれば、あなたの問題は解決するのかしら?」

「え?」

「大丈夫? わたしたちがあなたの弱みになっているんじゃない? この町からベルとわたしがいなくなれば、あなたの気がかりが一つ減る。そうよね? そのほうがわたしたちも安全だし」

「マカオを離れる予定でもあるの?」

「例えばの話よ。わたしもなにかいい手がないか考えてみる」

 沙羅は、もはやあの時の途方に暮れていた娘ではなかった。

 ベルを伴って家に帰ると、トリスタンが出迎えた。

「どこへ行ってたんだ?」

「ちょっと海岸までよ。ベルと昔話をしていたの」

 会計係から差し出された帳簿を開いた。

「バレンテ司教代理から、イエズス会本部に呼び出されたよ」

 沙羅は、はっとして帳簿から顔を上げた。「なんの用だったの?」

「要塞管理費を保管する金庫の鍵を自分が管理したいとおっしゃられてね。関係者の説得に力を貸してほしいと言われた。いろいろ懸念を抱かれるのはもっともだが、まだやりようがあるのではないかと暗に協力するのは断ったよ」

 トリスタンは、受け付けられないと言いたげにゆっくりと首を振った。

 マカオの防衛については、要塞を総司令官が管理し、要塞建設に関わる管理費を司教の他、聴訴官、最年長の元老院議員、慈善院院長の四人が取り仕切ることになっている。要塞管理費を保管する金庫には三つの鍵を付け、その鍵を四人で管理するのである。バレンテは、鍵すべてを持ちたいと言い出したらしい。

 その理由をバレンテは、自分以外の要職者は、体調を崩していたり、高齢だったり、多忙だったりするので、自分が管理すれば、いざという時最良だ、とトリスタンに説明したという。

「マカオを統治しているのは、実質、元老院と教会だ。マカオ防衛の要塞を押さえることで、司教代理は総司令官を操り、元老院をも支配下に置くつもりなんだろう」

「聴訴官は? 他の方々はなんておっしゃっているの?」

「さっき聴訴官と最高齢の元老院議員には報告したよ。二人ともお怒りだ。来月北京に大砲を納めなければならないんだが、そのために総司令官がマカオを留守にするのを理由にして、早々に体制を整えたいと司教代理は主張したんだ。それがよけい火に油を注いでる」

「どうして?」

「以前、司教代理は、総司令官が留守の間、総司令官に代わってマカオの防衛にあたる聴訴官が病人では話にならない、最高齢の元老院議員はいつ倒れてもおかしくないし、判断が危ういとおっしゃられたことがある。今回の総司令官の留守を機に、もっともらしい理由をつけて、敵対するお二人を排除する気だ。あのお方は、司教代理になって変わられた。いや、もともとやり手で上を目指される方だったが……もはやついていけない」

 それからトリスタンは、少し黙り込んだ後、囁くように訊いた。

「沙羅、わたしに隠していることはないか?」

「え? なに、隠してるって?」

「いや……なんでもない。ところで、ポルトガルへの帰国の件はどうなってるかな?」

「そのことなんだけど、あなたに相談したいことがあるの」

 沙羅は、トリスタンと向き合った。

 六月になると、雨や曇りがちの日が続くようになり、蒸し暑さが増してきた。

 近頃、外出を徐々に制限されるようになった多聞は、今では慈愛堂の患者を診る以外、ほぼ修道院外で過ごせなくなった。バレンテから修道院長になんらかの働きかけがあったのだろう。そのため、慈愛堂を早めに切り上げても、ディアスの家で短時間しか手伝えなくなってしまった。

 多聞は、修道院の写字室に隠しておいた木箱をディアスの家へ持ち込んだ。日本からマカオに到着して以来、この木箱を開けたことはない。これまで、その必要がなかったからだ。

 木箱の蓋を開けると、パードレ・ロドリゲスから譲られたラテン語と日本語の訳語、数字が列挙された紙の束が入っていた。十二年前の紙は、茶色に変色し、湿気で歪んでいる。

 慎重に紙の束を取り出し、数字をざっと見ていく。すると、パードレ・ロドリゲスからこれらを渡された時の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「イルマン、龍王が階下にいらっしゃっていますが、いかがしましょう?」

 召使いにそう声をかけられ、現実に引き戻された。

「通してください」

 召使いが姿を消すと、多聞は書類を木箱に入れた。

 窓の外を見ると、みるみるうちに雲が空に張り出し、薄暗くなっていく。

「雨が降り出しそうだね」

 多聞は、龍之進を迎えた。

「もうぽつぽつと降り出してきているよ。ディアス殿はどちらへ? お留守だと階下で聞いたけど」

「公判の準備でまだ裁判所にいる。判事に話があるようで」

「証人の辞退が続いているそうだね。藤九郎から聞いた」

「うん。日本人の殺人が影響しているよ。先週は、宿にいる一人の日本人が路上で見知らぬ男たちに囲まれて、『証言したら、命はない』と脅されたそうだ。宿には『嘘つき』『マカオから出ていけ』という投げ文もあった。証言を明らかに妨害しようとしてる。宿の主人は、物騒だから、彼らに早く出ていってほしいと訴えてきたよ」

 当初、日本人と唐人の男女二十一人が宿にいたが、殺されたり、逃げ出したのか姿を晦ましたりして、今残っているは日本人十二人と唐人三人だ。

「だから、彼らは口を噤むようになった。殺されるくらいなら、マニラへ行ったほうがましだと言う者もいる。ディアス殿も頭を抱えていてね。明の男女をフェルナンデス船長に売り渡した人商人は前と話が違うし、これまで船長の交易についてぺらぺらと話していた船乗りや人足も証言を翻すようになった。このままでは船長の言い分が通ることになってしまう」

「つまり、フェルナンデスの過去の人身売買は罪に問えるかどうかわからない、藤九郎たちの人身売買も単なる金貸しか、仕事の斡旋だったとされて、下手をするとこのまま藤九郎たちはマニラへ送られるかもしれないと?」

 多聞は、無言のまま、窓の外の黒雲を見つめた。昼間だというのに、空は墨色で薄気味悪いほど暗かった。

「多聞、俺はお前の厚意に甘えて、この件から手を引いていた。でもーー」

「龍之進、今とこの先と、時を前後して二つやるべきことがあって、どちらかひとつを選ばなければならなかったら、お前ならどうする? どちらを選ぶ?」

「え? 何だよ、急に。どっちも重要なの?」

「そう。同じくらい重要だ」

「なら、前を選ぶ。俺は船乗りだからね。海に出たら、いつ死んでもおかしくないと思ってる。悪天候で難破するかもしれないし、船上暮らしで体を壊すかもしれない。海賊に襲われるかもしれない。船乗りはそんな危険と常に隣り合わせだ。だから、先のことより目の前が大切になる」

 それを聞いて肩の力が抜けた多聞は、口元を緩めた。

「先の〝いつか〟より〝今〟か……そうだな。『明日のことは思い煩うな』と聖書にもあるし。そうか、おかげですっきりした」

「なにが?」

「いや、気にしないでくれ」多聞は、胸の前で両手を振った。

「それで、話を戻すけど、藤九郎が公判で証言すると言ってる」

 藤九郎は、病が治らないことを理解していた。その上で、龍之進に次のように話した。

 ――龍王、あなたの言葉を聞いた後、儂は『なぜ』ここにいるのか考えてみたんです。儂のお父は、胸の病で死んでます。それに、これまで胸の病を患った人たちを何人も見てきました。だから、なんとなく儂の体のこともわかってきて……長くは生きられないんじゃないかって。どうせ死ぬなら、自分の人生になにか意味を持たせたい。どんな小さなことでもいいから。こんな自分でも、生きてきた意味があったんだと思いながら、笑って死んでいきたいです。

「真相が明らかになれば、フェルナンデスは人買いができなくなるだろう。今後、騙されて惨めな思いをする日本人が減るなら、自分が証言する。それだけでも自分が生きてきた意味はあるって、藤九郎は言ってた」

「でも、そんなことをしたら、身が危うくなるんじゃないのか?」

「俺が守る」

 公判にかかわるな。バレンテの脅しを思い出し、多聞は、そう言おうとしたが、決意を秘めた龍之進の目を見て、止めることができなかった。

「ありがとう、龍之進。ディアス殿に早速伝えるよ」

(第22回へつづく)