人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
成富栄一…大地主で町では一目置かれる存在。町内会長も務める。
博岡聡…成富建設の副社長。あだ名は「博士」。妻に暴力をふるっている疑惑がある。
第四話
ふーっと長い息を吐き、博士は修一郎を見つめる。
「修一郎君、君は、私がそんなことをする人間だと思っているの?」
「僕の主観ではなく、客観的な事実を述べています」
「私はおしるこに農薬を入れたりしてないよ。そんなひどいことをする意味がわからない」
「動機はわかりませんけど、毒を混入することができた人物を絞り込んでおくことは重要じゃないですか? そもそも、どうしてテントの中にいたんです?」
「それは……、裏から連れて帰ろうと思ったからだよ、妻を」
テント内の一番奥、コンロが置かれた台から一メートルほど後ろにある植え込みを越えて道路を渡れば、そこにあるのは博士と夫人の家だ。
「でも、あそこの植え込みは、乗り越えられないでしょ」
修一郎が指摘したとおり、植え込みの高さは五十センチほどだが幅も同じくらいあるため跨いで渡れるような代物ではない。
「だから、それを確かめるためにテントの裏に行ったんだ。妻を祭りに連れて来たせいで、みんなに迷惑をかけてしまった。できるだけ目立たず迅速に連れて帰るには、植え込みを乗り越えるのが一番だと思った。実際に見て、無理だとわかったけれど」
そんなことはじめからわかっていただろうと書いてあるような修一郎の顔を見て、博士は涼音を振り返る。
「あのとき、テントにいたのは涼音ちゃんだよね?」
問われて、涼音は無表情な顔でうなずく。仁美と母は号泣する夫人をベンチに運ぶためテントを離れ、涼音ひとりが残っていた。
「涼音ちゃんは、私が鍋に農薬を入れたと思うかい?」
涼音は感情の読みづらい瞳を博士に向け、はっきりした口調で「いいえ」と言い切った。
「もしも博士が鍋の蓋を開けていたら、私、音で気づいて振り返っていたと思うから」
「でも」と修一郎が声を張る。「すずは号泣する夫人に気を取られていたんだよね? だったら、蓋を開け閉めする音を聞き逃した可能性だってあるんじゃないの?」
少しだけ考え、涼音は首を横に振った。
「ないと思う」
その答えに会長は満足そうにうなずき、修一郎に尋ねる。
「その場にいた涼音が違うと言うのだから、博岡は犯人ではないとわしも思うが、まだ異論があるか、修一郎?」
「……いえ、まずはあの日起きたことを全部聞かせてもらうことにします」
修一郎に目顔で促され、仁美は公園の様子を再び頭に思い浮かべる。
「えっと、博士が夫人を連れて公園を出たあと、誰かが『子供神輿、出発するよー』って叫んで、お神輿に付き添うことになってた父が慌てて子供たちのところへ走っていって」
子供神輿も秋祭りの恒例行事で、小学生の男の子たちが担ぎ手となり、四十分ほどかけて町内を練り歩く。彼らが公園に戻ってくるのを待って、午後四時からおしるこを無料で配布することになっていたので、仁美と涼音は長机を拭いて、その上におわんや割りばしを並べたり、ゴミ袋をセットしたりと、千草を手伝い、準備を進めていた。
その間にも「お疲れさま」とか「おしるこ何時からだっけ?」などと声をかけてきた人が何人もいて、涼音とともにひとりひとり思い出し、できる限り正確に話して聞かせた。
「で、そろそろ修一郎が着くし、ダンスのリハーサルに行こうと思ったら、うちの母親が家まで白玉を取りに行くって言い出して……」
白玉は気温が高いとくっついてしまうため、おしるこを配布する直前まで自宅の冷蔵庫で冷やしておくことになっていた。だから仁美は母を止めた。
「ギリギリまで冷蔵庫に入れておくって言ったの、ママでしょ。リハ終わってから、あたしが取ってくるからまだいいよ。こっちだって遅れるとマズいし」
「だって、あなたたち、リハーサルが終わってもダラダラ喋ってて、絶対すぐには帰ってこないじゃない。配布までに白玉がないと困るから、今、取ってきちゃうわ。今日はそんなに暑くもないし」
「えー、ママより先に修一郎が来たら、あたしたち、リハに行っちゃうからね」
「ダメよ、誰かがお鍋を見ててくれなきゃ」
「だったら、私が残るから大丈夫ですよ」
「ダメダメ、涼音にはリハの動画を撮ってもらうんだから」
「ねぇ、こんなこと言い合ってる間に取ってこられるんだから、とにかくママが帰ってくるまで、待っててね。お願いよ」
そう念を押し、母は自宅に走っていった。
「もう、絶対、修一郎のが先に来て、また遅刻って嫌味言われるよぉ」
「仁美ちゃん、先に行って。おばさんが戻ってきたら、私もすぐに追いかけるから」
涼音に促され、仁美はテントを出たが、公園の反対側、ダンスを披露する東奥には、まだ数人しか集まっていない。
「あの背の高い子、修一郎じゃないよね?」
背伸びして目を凝らしていると、涼音もテントから出てきて、公園の奥を見遣る。
「……うん、違う。まだ来てない。珍しいね、修一郎君、いつも五分前行動なのに」
「あ、そういえば、模試終わって電車の時間に間に合うかギリって言ってたな」
「えー、電車一本待つことになったら、あと二十分は来ないんじゃない?」
「だね。その可能性あるから、修一郎が来るの見えたら行けばいっか」
そう言いながら、戻りかけ、仁美はぎょっとして足を止める。
テントの中に白髪の老婆がいて、鍋の蓋を手に、おしるこを覗き込んでいたからだ。
「ちょっと……」
止めようとした仁美を、その老婆――音無ウタが振り返り、ギロリと睨んだ。
「このしるこ、いったい誰がつくったんだい?」
ねめつけられて動けなくなった仁美のうしろで、ウタの存在に気づいた涼音が答える。
「あ、音無のおばあちゃん、それをつくったのは、仁美ちゃんのお母さん……」
言葉の途中で、老婆が吼えた。
「だったら、こんなもん、怖くて食えるかっ!」
怒鳴りながら、ウタは火にかかった鍋の取っ手をつかんで倒そうとしたが、熱さに舌打ちしてすぐに放した。ぶちまけられてはたまらないと、仁美はテントに駆け戻って鍋つかみで鍋を押さえ、あとから来た涼音も老婆と鍋の間に割って入って立ちはだかる。
「邪魔するんじゃないよ! 人殺しの家族がつくったものなんか、食えるわけないだろ!」
「おばあちゃん、なに言ってるの? 仁美ちゃんのお母さんが人殺しなわけないでしょ?」
「人殺しは、あのヤブ医者だよ。あいつのせいでうちの息子は死んだんだ!」
涼音は一瞬驚いて仁美を見たが、鍋を蹴倒そうと足を伸ばす老婆を慌てて抑えた。
「やめて、おばあちゃん!」
「捨てなきゃダメだ。こんな真っ黒なしるこ、中になにが入ってるかわかったもんじゃない」
そのとき、騒ぎに気づいた嫁の琴子が焼きそばのテントから駆けつけて来て、涼音と一緒にウタを鍋から引き離してくれた。
「離せ! 人殺し家族がつくったしるこなんか食ったら、また死人が出るじゃないか!」
「お義母さん、落ち着いて。ご迷惑になるから、うちに帰りましょう」
姑の気を静めようと琴子は優しく話しかけたが、ウタの興奮は収まらない。老婆とは思えない力で彼女を振り払い、再び鍋に向かって来るウタに恐怖を覚え、仁美は立ち竦んだ。
「おばあちゃん!」
キンと澄んだ少年の声が、老婆の動きを止めた。懸命に走ってきたのは、孫で小学六年生の流星だった。一見女の子と見紛うほど可憐で愛らしい容姿が悲しげに歪む。
「僕に黙って外に行かないって、おばあちゃん、約束したよね」
「ごめんよ、流星。でも、聞いておくれよ、おまえのお父さんを殺した医者の家族が……」
「おばあちゃん、お父さんを殺したのは仁先生じゃないよ。危ないから火のそばから離れよう。そのお鍋の蓋、僕にくれる?」
ウタはなおも仁や仁美の悪口をまくしたてたが、穏やかな優しい口調で繰り返し流星に諫められ、次第に興奮が収まったのか、しまいにはおとなしく鍋の蓋を彼に渡した。
「本当にすみませんでした。また義母がご迷惑をおかけしてしまって」
琴子がウタに聞こえないよう小声で頭を下げて詫びる。その表情には、申し訳なさが滲んでいた。
この町に戻ってまだ三か月ほどの涼音は初めて見るウタの姿に面食らったに違いないが、こういうことは何度もあった。
ウタの息子、音無冬彦が血を吐いて倒れ、真壁医院に担ぎ込まれたのは四年前のことだ。
以前から体調を崩しがちだった冬彦をウタや妻の琴子は心配していたが、彼は大丈夫だと言い張っていたらしい。仁先生に診てもらっているから、と。
だが実際に冬彦が真壁医院で診察を受けたのは何年も前のことで、その時点で病状はかなり進行してしまっていた。成富建設で技術者として働く彼は仕事に忙殺され、病院へ行く時間がつくれなかったようだ。
息子の言葉を信じて疑わないウタは、なぜ病気に気づけなかったのかと仁を責めた。
しかし、幸いなことに冬彦の手術は成功し、その後の治療も順調に進んで、奇跡的に寛解に向かう。
それを一番喜んだのは当時まだ小学二年生だった流星だ。幼いながらに父を失う恐怖を感じていたのだろう、ずっと不安そうだった流星は、退院して自宅に戻った冬彦に泣きながら抱き着き、いつまでも離れなかったという。
自宅療養中もリハビリのために散歩する冬彦に流星は毎日のように付き添い、手をつないで歩く仲睦まじい父子の姿を、仁美も仁も町の人たちも胸を熱くして見守っていた。
流星のおかげもあってか、冬彦は無事職場に復帰することができ、このまますべてがうまくいくかに見えたのだが……、音無家の幸せな時間は、長くは続かなかった。
ほどなくして、冬彦はあっけなく急逝する。
病が再発したわけではない。ある事件に巻き込まれ、転落死したのだ。
やぎ山の崖から冬彦を突き落としたのは、もちろん、仁ではない。だが犯人と疑われた人物が自殺してしまったせいで、怒りのぶつけどころを失ったウタはおかしくなり、仁のせいで冬彦が死んだと訴え、父を責め立てた。
彼女の中では、ヤブ医者が病を見落としたせいで息子が死んだと、記憶がすり替えられているらしい。
まったくの逆恨みなのだが、仁だけでなく、その家族である千草と仁美までもがたびたびウタに嫌がらせを受け、根も葉もない悪い噂をあちこちでばらまかれた。
唯一の救いは、嫁である琴子がひじょうに冷静で、ウタが問題を起こすたび、平身低頭して詫び、仁先生にもご家族にもなんの落ち度もないと、この町の人たちにもきちんと説明してまわってくれたことだ。
琴子は、舅が亡くなってウタと同居するまでは地元の新聞社で働いていた才媛だったが、夫の死後も息子の流星とともにここに残り、問題のある姑の世話を続けている。
しかし、仁に非はないと琴子がいくら説いても、ウタは聞く耳を持たない。ここ最近は少し落ち着いてきていたのだけれど、終わったかと思うとこうしてまた攻撃され、特に母の千草は、精神的にかなりのダメージを受けていた。
母がまいってしまう前に、嫌がらせを続けるウタに対抗措置を取るべきだと仁美は父に訴えたが、仁の答えは驚くべきものだった。
「音無さんの気が晴れるまで、言いたいことを言わせてあげよう。我々が我慢すれば、済むことなんだから」
人がいいにもほどがあると呆れ果て、仁美は怒った。
「どうしてなんにも悪いことしてないのに、うちらが音無のおばあちゃんのサンドバッグにならなきゃいけないの?」
「仁美、大切な人を喪うって、経験した人にしかわからないけど、どうしようもなくつらいことなんだ。誰かに怒りをぶつけなければ、心が壊れてしまうくらいにね。音無のおばあちゃんは我々を憎むことをエネルギーにして、なんとか生きていけているんだと思うよ」
あのときはまったく理解できなかった父の言葉が、今の仁美の心にはすとんと落ちる。
怒りをぶつけるべき相手がいないのは、本当に苦しいことだと身を持って体験したからだ。振り上げた刃を振り下ろす先が見当たらないと、その刃は自分に向かい自身を抉る。
「ふたりが気づいたときには、音無のばあちゃんは、もう鍋の蓋を開けてたんだよね?」
修一郎の言葉で我に返り、仁美は慌ててうなずく。
「そのとき、農薬を混入することができたんじゃないの?」
仁美は涼音と顔を見合わせてから、首をひねった。
「その可能性は低いんじゃないかな。テントの外に出ていた時間はそんなに長くなかったし。それに、農薬を入れていたとしたら、そのあとで鍋を倒そうとするわけなくない?」
「そうとは言い切れないよ。農薬を入れちゃってから、後悔して止めようと思ったのかもしれないだろ」
「そんなふうには見えなかったけど」と、涼音も首をかしげる。「なんだかいまだに信じられなくて。あれ、本当に音無のおばあちゃんだったのかなって……」
遠い目をして、涼音はつぶやく。
「子供のころいつもニコニコしながら干柿とか干し芋とかくれてたすごく優しいおばあちゃんが、あんなふうに鬼みたいに目を吊り上げて怒るなんて……」
確かに、仁美も子供のころ、よく音無のおばあちゃんからおやつをもらった。物静かで温和だったころのウタしか知らない涼音は、あの別人のような豹変ぶりに度肝を抜かれたことだろう。もともとは親切で思いやり深い人だったのだ。
人が変わったようなウタの激しい怒りは、認知症の症状なのかもしれない。
「だけど、ばあちゃんが言ったんだろ? 真っ黒なしるこの中になにが入ってるかわからないって。ふたりがいない間に農薬を入れて、容器はバッグにしまったんじゃない?」
「警察の人にも訊かれて答えたけど、あの日、音無のおばあちゃんは手提げ袋もなにも持っていなかったよ」
ウタを止めようとした涼音は、彼女が手ぶらだったことをはっきりと記憶していた。
「ばあちゃんは、どんな服装だった?」
「えっと、グレーのパンツの上に、藤色のカーディガンを羽織ってたはず」
「カーディガンやパンツに、ポケットは?」
「……カーディガンにはあった……と、思うけど」
「だったらそこに隠せたよね。実際にばあちゃんは仁先生を逆恨みしていたわけだから、おしるこに毒を入れて、つくった千草おばさんを犯人に仕立て上げようとしたんじゃ……」
「あの……」と会場から声が上がり、一人の女性が立ち上がった。音無琴子だ。
「その節は義母がご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。確かにあの日、義母が着ていた服にはポケットがありましたが、今、修一郎さんが言われたような、誰かを犯人に仕立てあげるなどという計画的な行動は、今の義母にはできません」
「ばあちゃん、認知症が進んじまってるのかい?」
訊いたのは、蕎麦屋の店主だ。
「はい。仁先生への逆恨みも、病気のせいなのだと思います。もちろん、仁先生や仁美さんたちへの嫌がらせが病気だから許されるなどとは思っていませんが……」
そのとき五時を知らせる『七つの子』のメロディが会館内に響き渡り、琴子はハッと顔を上げる。
「あのお話の途中で申し訳ないのですが、義母を迎えに行かなければならないので、これで失礼させていただきます」
深く体を折り、頭を下げた琴子に、修一郎が尋ねた。
「ばあちゃんは、病院ですか?」
「……いえ」
一瞬、ためらったが、すぐに毅然と顔を上げ、琴子は答える。
「警察で事情聴取を受けています。もちろん任意ですが」
彼女の言葉に誰もが息をのんだ。そして、琴子が再度頭を下げて、会館から出て行くと、のんだ息を吐き出すように、会場内がざわつき始めた。
「警察に取り調べされてるってことは、やっぱり音無のばあちゃんが犯人なのか?」
「だって、他に毒を入れそうな人なんて、この町にいないじゃないの」
「昔のウタさんなら、そんなひどいことするわけないが、今の状態だと……」
口々に好き勝手なことをいう住民たちを会長が一喝した。
「みんな、静かにしてくれ。不安なのはわかるが、音無のばあちゃんに世話になったものも多いだろう。憶測でものを言うのはやめて、まずは最後まで話を聞こうじゃないか」
嵐の海が凪ぐようにぴたっと静まった一同に礼を言い、会長は仁美と涼音に向き直る。
「琴子と流星がばあちゃんを連れ帰ったあとのことを話してくれ」
「えっと、連れて帰る前に、もう一悶着あって……」
仁美の言葉に、会長が「ん?」と顔をしかめる。
「ばあちゃんは、ふたりになだめられて、落ち着いたんじゃなかったのか?」
「そうだったんだけど、そこにタイミング悪く来ちゃったから」
「仁先生が、か?」
「違います」と答えたのは、涼音だ。
「来たのは仁先生じゃなくて、うちの母です」
そう、ようやく事態が落ち着いたと思ったところへ、咥え煙草で気だるげに現れたのはエリカだった。長い茶髪を適当にゆるく結い上げ、細身のジーンズにスニーカーといったシンプルな服装なのに、エリカが登場しただけでパッと花が咲いたように、祭りの会場が明るく華やいだ。
明らかにさっき起きたばかりの眠たそうな声で「ごめん、遅れて」とエリカは言ったが、その口ぶりは少しも悪びれていなかった。
「あれ、千草さんは?」
エリカが母の名を口にしたことが、ウタの怒りのスイッチを押してしまったのかもしれない。すごい形相でテントから出てきたウタが、いきなりエリカにくってかかった。
「ちょっと、あんた、夜中に毎晩どんちゃん騒ぎして、よく平気で顔を見せられるわね」
「あら、お隣のおばあちゃん、毎晩どんちゃん騒ぎなんてしたくてもできないわよ。さすがに体がもたないもん」
「なに言ってんのさ、昨日だって真夜中に大声出してたじゃないか」
「昨日? 昨日はパーティーどころか、夜中まで働いて……。ああ、わかった、昨日の晩、騒いでたのはあたしじゃなくて会長よ。タクシーで送ってくれたのはいいけど、チューさせろとか絡んで、家に帰らせてくれなくて。店で飲み過ぎてベロンベロンだったからね」
会長がエリカ目当てに彼女の働くスナックに通い詰めているのはもはや周知の事実だ。普段は頼りがいのある男なのに、酒に飲まれやすく、酔うと人格が変わるらしい。
住民たちが耳をそばだてているので、仁美は威厳を傷つけないよう、慎重に言葉を選びながらしゃべったつもりだったが、会長は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
それは、あの日、エリカの発言に青筋を立てた音無ウタの表情にかなり近かった。
「子供の前で下品なことを言うんじゃないよ。うちの流星は中学受験のために毎晩遅くまで勉強してるんだから、これ以上、孫の邪魔したら、ただじゃおかないよ!」
「わー、大変。流星、まだ小学生でしょ。今から受験勉強なんてすることないのに」
ウタから取り返した鍋の蓋を手にしていてもなお中性的な美少年である流星の頬にぷっくりとしたなまめかしい唇を寄せ、エリカがささやく。
「ねぇ、流星……、人生なんて短いんだから、やりたいことやらなきゃもったいないよ。ちゃんと、やってる? 楽しい、こ、と」
次の瞬間、烈火のごとく怒り狂ったウタが怒鳴りながらエリカにつかみかかった。
「流星から離れろ、売女! なに破廉恥なこと言ってるんだ、この淫売が! 恥を知れ!」
エリカから引き離した流星をテントの奥に押しやり、ウタはエリカに拳を振り上げる。その手を押さえて揉み合いになったエリカとウタが長机を倒しそうになり、仁美が体を張って止めた。なおもつかみ合いを続けるふたりの間に、涼音が慌てて割って入った。
「おばあちゃん、ごめんなさい。これからはうるさくしないから、流星君の勉強の邪魔しないよう気をつけますから」
それでもエリカへの攻撃をあきらめず、興奮状態で汚い言葉を浴びせかけるウタに琴子も取りすがり、懸命になだめる。
「おばあちゃん、帰りましょう。今日はみんなが楽しみにしているお祭りなんだから」
「なにが祭りだ。まったくどいつもこいつも、この町はどうなっちまったんだよ。昔はこんなじゃなかったのに……」
悪態をつき続けるウタを、琴子と流星が頭を下げながら、なんとか連れ帰ってくれた。その背中を見送りながら、エリカがポツリとつぶやく。
「おばあちゃん、どうしてあんなに怒ったんだろ?」
「ママが変なこと言うからでしょ」
涼音にたしなめられ、エリカは美しい眉を寄せる。
「変なことってなに? 楽しいことやってる? って訊いただけじゃない。小学生の男の子はみんな、法被着てお神輿担いでるのに、あの子だけジャンパー着てこんなとこにいるの、おかしくない?」
確かに、エリカの言うとおりだ、と、仁美も思った。
なぜ流星は、友だちと一緒にお神輿を担ぎにいかなかったのだろう――?
「おばあちゃんこそ、昔はあんなじゃなかったのに、もうろくしちゃったのかな」
さらりと辛辣な、でも的を射たことを言いながら、エリカはなにごともなかったように、平然とテントの中に入ってきた。