人物紹介
仁美…高校二年生。町の祭りで起きた無差別毒殺事件で母を亡くす。
修一郎…高校一年生。医学部志望の優等生。事件で妹を亡くす。
涼音…中学三年生。歳の離れた弟妹を事件で亡くす。仁美たちとは幼馴染。
景浦エリカ…涼音の母。派手な見た目と行動で町では目立つ存在。
仁先生…仁美の父親。町唯一の病院の院長。
第三話
張りつめた沈黙に針を突き立てるように、玄関のチャイムが鳴った。
ビクッと体を硬直させ、仁美はつぶやく。
「誰だろう? ……警察?」
続けざまにチャイムが鳴り、ドアが叩かれた。
「仁先生、いる?」
若い男の声がそう呼びかけてきた。少なくとも捜査関係者ではない。彼らが父を仁先生と呼ぶことはないはずだから。
「見てくる」
ぎこちない動きで立ち上がり、仁美は階段を下りて、玄関のドアスコープを覗く。そこにいたのは町内会長の息子、成富守だった。急いで開錠しドアを開けると、日焼けした精悍な顔から白い歯がこぼれた。
「ああ、仁美、無事でよかった。出てくるの遅いからなにかあったのかと思ったよ」
「あ、ごめん。大丈夫」
何年か前まで金髪だった守の髪は、父親から成富建設社長の座を譲られたのを機に、落ち着いた暗めの茶色に染められ、若社長然とした姿になった。
「仁先生は?」
仁美が自宅の裏にある真壁医院の方角を指差すと、守は驚いたように目を見開いた。
「もう仕事してるのか?」
「病院が休みだと困るお年寄りがいるだろうからって。守君、お父さんに用事?」
「仁先生にも来てほしかったけど、そういうことなら……、仁美、ちょっと顔貸してくれないか」
「え? ……どこへ?」
「そこの町内会館。親父が住民を集めたんだ。みんな不安がってるから、とにかく一度集まって話をしようって」
言葉の途中で、守の視線が、仁美から背後に流れる。
「おう、おまえらもいたのか」
彼の視線を追って振り返ると、階段の上から修一郎と涼音が心配そうにこちらを見つめていた。
「ちょうどよかった。修一郎と涼音も一緒に来てくれ」
町内会館は、仁美の家からメーメー公園を挟んで斜め向かいにある。
当たり前のように公園を突っ切ってショートカットする守について歩きながら、仁美は息が苦しくなるのを感じた。事件以来、この公園に足を踏み入れないようにしてきたのは、惨事の記憶がいやおうなくよみがえってくるからだ。しかも、それを引き起こしたかもしれない農薬が自宅の物置から発見されたのだ。その噂がどこからかこの町の人たちに漏れ、これから吊るし上げられるのではないか。
ふと見ると、隣を歩く涼音の手がお守り代わりのネックレスをぎゅっと握り締めている。
ああ、つらくて怖いのは自分だけじゃない。涼音もここで幼い弟妹を喪ったのだ。
対のネックレスの片割れをシャツの上から押さえ、涼音にドン!と体をぶつけ、変顔をして見せる。思いが伝わったのか、張りつめていたものがほどけるように彼女はかすかに口角を上げた。
連日公園に押しかけていたメディア関係者の姿が見えないと思ったら、町内会館に張り付いていて、仁美たちに気づくや否や、マイクやカメラを手に駆け寄ってきた。
「今日の集会の目的はなんですか?」
「犯人についてなにかわかったんですか?」
取り囲まれ、仁美は怯んだが、すぐに屈強な若者たちが飛び出してきてリポーターたちの間に入り、四人を中へ通してくれた。
「自警団を結成したんだ」
報道陣を閉め出し、会館のドアに鍵をかけてから、守が言った。
「マスコミの連中がしつこくてかなわないからどうにかしてくれって、みんなに泣きつかれてね。今のとこまだ五人だけど、彼らが自警団の隊員だ。なにか困ったことがあったら、なんでも言ってくれ。いつでも駆けつける」
紹介された腕に覚えのある若い男たちの中に、体だけは他のメンバーに負けないくらい大きいけれど、まだ中学一年生の山田武蔵がいる。
「武蔵、おまえも?」
驚いて尋ねる修一郎に誇らしげな笑顔を見せ、武蔵は親指を立てた。
「『この町の人たちを守ろう』って、守さんが声かけてくれたんで、俺、やる気満々っすよ」
「もちろん武蔵は中学生だから学業を優先させるけど、こんな状況だからさ。よかったら、修一郎も一緒にやらないか?」
守に誘われた修一郎は、「僕なんか役に立たないから」と、にべもなく断る。
「そんなことないさ。ブレーンとして働いてもらえたら助かる。考えておいてくれ」
修一郎の肩をポンと叩くと、守は靴を脱いで、引き戸を開け、座敷に集まっていた大勢の住民に声をかけた。
「みんな、仁美と修一郎と涼音を連れてきた」
一同の視線がいっせいに集まり、それに怯んで仁美は思わず視線を落とした。だが――。
「大丈夫か、仁美? 修一郎と涼音も。葬式のときよりもっと痩せちまってるじゃねぇか」
「本当だよ。病人みたいに青っ白い顔して……。おばちゃんがほっぺた落ちるほど美味い芋の煮っころがしをこさえたげるから、たんと食べて元気出しな」
「困ったことがあったらいつでも言え。俺たちはみんな、家族みたいなもんなんだから」
「そうそう、みんながついてるから、なにも心配いらないよ。千草さんには世話になった。あの人ができなかったぶんまで、あたしらが仁美たちの世話を焼かせてもらうからね」
口々にわめきながら走り寄ってきた近所のおばちゃんたちに抱き締められ、おじちゃんたちに頭を撫でられて、仁美は自分が小さな子供に戻ったような気がした。
そうだ、私が住んでいるのはこういう町だった。みんなが知り合いで家族みたいな。
誰も仁美のことを疑ったり、非難したりしていない。かけられた言葉は優しい思いやりに満ちていて心がじわりと温かくなり、不覚にも涙をこぼしそうになった。
「ほらほら、もうそれぐらいにして、三人を早く座敷に上げてやらないと」
穏やかな笑みを浮かべ、もみくちゃにされていた仁美たちを助けてくれたのは、博士こと博岡聡だった。
子供のころから博士と呼んでいるけれど、彼の職業は成富建設の副社長だ。
博岡のおじさんはとても物知りで、昔、地域の清掃活動などで一緒になった際、仁美や修一郎がどんな質問をしても、例えば、草花の名前や昆虫の生態はもちろん、地球環境や宇宙のことまで、わかりやすく噛み砕いて教えてくれた。その博識ぶりにさすがの修一郎も舌を巻き、幅広い知識と教養を持つ博岡のことを名字をもじって博士と呼ぶようになったのだ。博士は仁美の家の二軒隣り、公園の真向かいの家に住むご近所さんで、夏休みの宿題がピンチのとき、何度も助けてくれた恩人でもある。
仁美たちが畳敷きの座敷に上がると、博士から合図を送られた町内会長が壇上からマイクで呼びかけてきた。
「修一郎、仁美、涼音、よく来てくれた。こっちへ、前へ出てきてくれ」
会長の野太い声に、ざわついていた会館内が水を打ったように静まり返る。
大地主であり成富建設の会長でもある成富栄一はこの町で一目置かれる存在だ。強面でガタイもいいためパッと見怖そうだが、親分肌で面倒見がよく、齢七十を過ぎても、住民たちから頼りにされている。博士はそんな会長のブレーンであり懐刀的存在だ。
「三人は今回の事件で大切な家族を失った。亡くなった四人は我々にとってもかけがえのない家族だ。まずは彼らの冥福を祈って黙とうを捧げようじゃないか」
会長の音頭でそこにいた全員がまぶたを閉じ、手を合わせた。仁美たち三人もステージの下で頭を垂れる。しんと静まり返った会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。
黙とうを終えた会長は、重々しい声で語りはじめた。
「この町でこんなひどい事件が起きるなんて、ここにいる誰も想像すらしていなかったはずだ。だが、実際に起きてしまった。そして、みんなが怯え、わしのところに助けを求めにくる。そりゃ怖いだろう。犯人が捕まっていない上に、しるこに農薬を入れたのは、あの日、祭りに参加したこの町の住人だっていうんだからな。……仁美」
壇上から不意に呼びかけられ、ビクッと体に緊張が走る。
「仁美と涼音のふたりは、あの日、鍋の一番近くにいた。だから……」
「私はやってない!」という言葉が喉もとまでせり上がってきたが、仁美がそれを吐き出す前に、会長が言った。
「あの日、起きたことをすべて話してくれ」
「……え?」
安堵で全身の力が抜けた。会長は修一郎と同様にあの日の情報を求めているだけで、仁美を糾弾するつもりなどなかったらしい。
「でも、警察の人が……」
隣で涼音が無表情な顔を会長に向けたが、みなまで言わせず、彼は手を広げて制した。
「事件について余計なことは喋るなと言われたんだろうが、それで揉めごとが起こるのは、住民同士の信頼関係が築けていない集落だけで、ここは違う。警察の尻を叩いてはいるが、わしらはわしらで情報を共有し、力を合わせて一日も早く犯人を捕まえ、平和な日常を取り戻すべきだとわしは思う。みんなの意見はどうだ?」
「そうだ、そうだ」と、会長に賛同する声が飛ぶ中、修一郎が声を上げる。
「情報共有するのはいいけど……」
「なんだ、修一郎。言ってみろ」
会長に促され、彼は続けた。
「犯人とも共有することになるかもなって」
「は?」
「だって、この中にいるかもしれないわけでしょ、犯人が」
その一言に誰もが周りを気にして目を泳がせ、ざわつき始めた。今、ここに集まっている六十名近い人々のほとんどが、祭りに参加していたのだ。
「残念ながらその可能性はある。だが、だとしても、情報共有には意味があるはずだ。仁美、涼音、壇上に上がって話をしてくれ」
マイクを手渡されたが、高いところからあの日の話をするのをためらっていると、博士にはそれがわかったらしく、会長に掛け合って、畳の上で座ったまま話すことが許された。
「えっと……、なにから話せばいい……のかな?」
戸惑う仁美に、博士が「そうだね」と優しい声で応じる。「あの日起きたことを最初から話してくれるかい。まずはあのおしるこだけど、つくったのは千草さんと仁美ちゃん、涼音ちゃんの三人だけで間違いない?」
「うん。でも、おしるこをつくったのは母親で、涼音と私は白玉を丸めただけ」
「本当はうちの母がおしるこの担当で手伝いにくるはずだったんですけど、あの朝、体調が悪くて、それで私が代わりに」
涼音はそう言ったが、それはいつものことだ。スナックで雇われママをしているエリカが目を覚ますのはたいてい昼過ぎで、起きてからもしばらくはぼんやりと気だるげに煙草をくゆらせている。そんな姿すらもスクリーンの中の女優のように粋でカッコよく、仁美はしばしば見惚れてしまうのだが。
エリカを起こすことをあきらめ、代わりに涼音がうちに来た。エプロンを手に息せき切って走ってきたのだ。ああ、あの日の朝に時間を巻き戻せたら、どんなにいいだろう――。
母は謝る涼音を優しく迎え入れた。「涼音ちゃんが来てくれたら百人力よ」と微笑んで。
調理のときの様子を博士に問われた涼音が、遠い目をしてあの日のことを語りだす。
「千草おばさんが、白玉にはお豆腐を入れると硬くなりにくくなるのよって教えてくれて」
そう、母は手で崩したお豆腐に白玉粉を混ぜ、少しだけ水を加えてこねてみせた。
「耳たぶくらい柔らかくなったらこうやって丸めてねって、お手本を見せてくれました」
きっと母の姿を思い出したのだろう、涼音の声に涙が滲む。彼女の感情に引きずられないように、仁美はぎゅっと強く唇を噛んだ。涼音も自分を律するように目をきつく閉じ、
「仁美ちゃんとふたりで白玉つくるのは楽しかったけど、とにかく量が多くて、ね」と、最後は仁美に向かってほんの少しだけ微笑んで見せた。
相槌をうちながら、母と涼音と三人で台所に立つことはもう二度とないのだと、仁美は胸が苦しくなる。あの日も仁美は涼音のように素直に手伝いを買って出たわけではない。なんで私がこんなことしなきゃいけないんだよとさんざん母に文句を並べ、仏頂面をつくってしぶしぶ白玉をこねたのだ。
「でも、仁美ちゃんや私より、おばさんのほうがずっと大変だったと思う。前日から大量のあずきを大鍋で煮てくれていたから」
「千草おばさんは、できあがったおしるこの味見をしていた?」
修一郎からの質問に、「もちろん」と涼音が即答する。「おばさんだけじゃなく、私と仁美ちゃんも台所で味見させてもらったよ。上品な甘さの、すごくおいしいおしるこだった。だから断言できます。あの時点では、おしるこに毒なんて絶対入っていなかったって」
会長やみんなに向かい、強い口調で言い切ってくれた涼音に、仁美も大きくうなずく。
「そのあと、おしるこの鍋を誰が会場まで運んだの?」
「うちの父親だよ」と、仁美が修一郎に答える。
祭りの会場だった公園は仁美の自宅から道路を挟んで斜め向かいにあるので、父の仁が蓋をした大鍋を、あらかじめ借りてきてあった台車に積んで、徒歩で運んだのだ。
「私と涼音とうちの母親も一緒に行った。鍋の他にもおしるこをよそうおわんとか、割りばしとか、運ぶものがいろいろあったから」
「会場の公園は、どんな感じだった?」
「もうテントが建ててあって、会長と役員のおじさんたちにおしるこは西側奥のテントねって言われたからそっちに運んで、テントの奥に設置されていたコンロに大鍋を置いた」
警察にも繰り返し何度も聞かれたので、このあたりのことはすらすらと答えられる。
「そのあとすぐに会長のあいさつが始まって……」
祭りの開催を宣言する町内会長のあいさつをテントの中で聞いていたとき、北側の公園入口でざわめきが起きた。なんだろうと目をやると、人の波が割れ、そこから博士が現れたのだが、その後ろに付き従う夫人の顔を見て、仁美は息をのんだ。
右目のあたりがまるでお岩さんのように腫れ上がっていたからだ。
「ずっと気になってたんだけどさ……」と和菓子屋こやぎ庵の店主がおずおずと尋ねる。
「あの日、夫人……、いや、博岡さんの奥さんは、その……、どうして、あんなことに?」
華族の血を引いているとかで気位の高さが所作や言葉の端々に現れる博士の妻を、誰もが「夫人」と呼んでいた。悪気はないと思うがこの田舎町の住民をちょっと見下すような態度が見え隠れするので、揶揄を込めてそう呼ばれているのだろう。
「あんなことって?」
遅れて祭りに参加したため彼女の姿を見ていない修一郎の問いに、博士は静かに答えた。
「あの日、妻は顔を腫らしていたんだ。家の中で転んでテーブルにぶつけてしまってね」
社交的で話好き――といっても、その大半は自慢話だが――な夫人は、夫や義兄の町内会長とともに、祭りや敬老会などのイベントに積極的に参加していたのだが、三年ほど前からそうした活動にパッタリ姿を見せなくなった。
母、千草や近所の人たちが心配して訪ねても、なんの問題もないと夫人に追い返されてしまっていたが、そのうち、彼女の怪しげな目撃情報が住民の間で囁かれるようになる。
片足を引きずりながらバスを降りたとか、夏の暑い日に帽子とマスクと眼帯で顔を隠していたとか、買い物をして代金を払う際、腕に包帯がぐるぐる巻きにされているのが見えたとか……。
そしてついにある晩遅く、夫人は真壁家のドアを叩いた。病院の診療時間外だったのでうちに駆け込んできた夫人の顔は腫れ上がり、脚にもひどい火傷を負っていた。
驚く仁美を抑え、父、仁は手際よく傷の手当てをしながらなにがあったのか尋ねる。夫人はなかなか答えようとしなかったが、穏やかな声で何度も促され、ようやく口を開いた。
「……火にかけていたお鍋をうっかり倒してしまいましたの」
「それでどうして、顔まで腫れるんです?」
「顔……? ああ、それはお鍋とは別ですわ。自転車に乗っていて転んでしまって……」
「手に怪我はされていませんよね?」
「ええ、手はこのとおり、なんとも……」
「自転車で転んだら、顔を打つ前に、普通は手を先につくものなんですよ」
静かに、だが、ぴしゃりと父に言われ、夫人は黙り込んでしまった。
「なぜ怪我をされたか話していただけませんか? もしもご主人がなさったのだとしたら、夫婦げんかの度を越している。よければ、私がお宅にうかがってご主人と話を……」
「ダ、ダメです。およしになって、仁先生。うちにいらっしゃるなんて、絶対にダメ!」
「いや、でも……」
「本当に全部わたくしが自分でやったことなんです。お願い、仁先生、このことは誰にもおっしゃらないで。千草さんも、仁美ちゃんも、ごしょうですから」
男性にしては華奢で小柄な博士が、妻にこれほどの暴力を振るうなんて仁美には信じられなかったが、彼が不満を溜め込んでいるという噂も耳に入ってきていた。
三年前、成富栄一が成富建設社長の座を退くことになった際、次期社長の椅子には長年貢献してきた博士が座るものと誰もが思っていた。しかし、蓋を開けてみたら、会長となった栄一が社長に任命したのは、まだ二十歳そこそこで仕事のことなどなにもわかっていない息子の守だった。会長は五十を過ぎてはじめて授かった一人息子を盲愛していたのだ。
経験はないがやる気だけはある若社長に振り回されて、博士はストレスを溜め、その捌け口として妻に暴力を振るっているのではと住民は案じていたが、当の本人の夫人が否定するので、なにもできずにいた。
そのときも夫人に拝み倒され、引き下がらざるを得なかったものの、やはり見過ごせない問題と判断した父は、後日、会長に彼らの一人息子、聡介の連絡先を尋ねに行った。
博士と夫人は現在、夫婦二人住まいだけれど、十年ほど前まで息子と三人で暮らしていた。最難関の大学に合格して家を出た一人息子の聡介は、卒業後、最大手のIT企業に就職し、東京本社で働いてる。その当時は夫人だけでなく、博士までもが優秀な息子に鼻を高くして、誰もが自慢話を聞かされていた。だが優秀過ぎて仕事が忙しいのか、聡介は盆暮れさえも実家に帰ってこられないようで、仁美ももう何年も彼に会っていない。
父は夫人を救うために彼と連絡をとろうとしたけれど、聡介は今、東京ではなくアメリカで働いているため、帰省を促すのは難しいと会長に言われたという。
自分がなんとかするから他言しないでくれと頼まれた父は、会長にゆだねたそうだが、祭りでの状況を見る限り、DVは続いていたということなのだろうか。
お岩さんのような夫人の登場に誰もが驚いたが、それは会長も同じだったらしく、あいさつを早々に切り上げて博士に駆け寄り、なにやらひそひそと話していた。おそらく、今すぐ夫人を連れて帰れと命じていたのだろう。だが、その間に夫人がひとりでふらふらと仁美たちのテントに近づいてきた。最初は助けを求めにきたのかと思ったが……。
「音楽がうるさいって、夫人、ずっとブツブツつぶやいていて」
仁美の言葉に、修一郎が顔をしかめる。「音楽がうるさい?」
「うん、そのときかかってたお祭りのBGMのことだと思うけど、そんなに大きな音じゃなかったのに、『うるさくありません、この音楽? 頭がガンガンしますでしょう? どなたか止めてくださらない』みたいなことをずーっとしゃべってて」
「え? 顔腫らしてるのに、音楽の話?」
修一郎の声のトーンから「のんきに音楽の話?」というニュアンスがうかがえたが、のんきというよりも、かなり危うい雰囲気だったのだ。
「夫人、目が泳いじゃってて、誰に話しかけてるのかわかんなかったし、なんか無理してテンション上げようとしてるみたいな感じで」
博士の前なので言葉を選びながらしゃべったが、明らかに夫人は挙動不審だった。
そして、ハイテンションなお岩さんがテントに向かってくる状況に、誰もがぎょっとし、動けなかった。
イベント用のテントは学校行事などでよく使われる天幕のみのもので、前面には長机が置かれていたが、両サイドも後面も遮るものはなにもなかった。
「コンロの上の鍋に吸い寄せられるみたいに、夫人が脇から入ってきそうになって……」
見開かれた修一郎の目が、「そのときなにか入れられたんじゃないのか?」と訊いている。
気づいた涼音が慌てて首を振り、答えた。
「入ってきそうになっただけで、夫人はテントには入らなかったの。入る直前で仁先生が『大丈夫ですか?』って声をかけながら、夫人を外に連れ出してくれたから」
父は夫人をいたわりながら、「頭は打っていませんか?」と尋ねたが、夫人は意味がわからないのか、キョトンとしていた。
「顔の傷は痛むでしょう。すぐに冷やしましょう」
「先生、なにをおっしゃってるの? そんなことより、おしるこは何人前あるのかしら?」
「は?」
「ねぇ、やっぱりこの音楽、うるさくありません? ああもううるさい、うるさい、うるさい! うるさくて気が変になりそうだわ。仁先生もそうお思いになるでしょう?」
両手で耳をパタパタ押さえながら、頭を振る夫人に、父は優しく声をかける。
「博岡さん、アメリカにいる息子さんに……、聡介君に相談されたらどうですか」
「聡介……」
溺愛している自慢の息子の名前を出された途端、夫人はその瞳からポロポロと涙をこぼし、やがて子供のように声を上げて泣き崩れてしまった。慌てて抱き起こし、夫人を近くのベンチに運ぼうとする父を、仁美と母もテントから出て、手伝った。
「それで、どうなったの?」と、修一郎が先を急がせる。
「泣き声に気づいた会長がすっ飛んできて、博士と挟み撃ちするように夫人をつかまえて」
「挟み撃ち? 夫人はヤギのベンチで泣き崩れてたんだろ?」
「そうなんだけど、会長がベンチの左前から来て、博士が右後ろのテントの奥から……」
「えっ? ちょっと待って、博士はおしるこのテントの中にいたってこと?」
仁美と涼音がうなずくと、修一郎は「だったら……」と、直接、博士に尋ねた。
「博士は鍋に農薬を入れることができた……って、ことですよね?」