イナゴ四番目は「お金周りの後始末」、そして五番目は「諸々の後始末」である。これら残りの解決方法についても、答えはすでに出ている。

 1.信頼できる人に頼む。

 2.業者に頼む。

 3.そ知らぬ顔を決め込む。

 この三択だ。というか、詰まるところいわゆる“終活”は何をやってもこの三択しかないのだ。

 私のように早いうちから準備を整え出す人もいれば、余命宣告を受けてやっと腰を上げる人もいるだろう。死ぬとわかっていても、何の準備もしない、したくないって人だっているかもしれない。

 どれを選ぶかはあなたの人生観と経済力次第、ということになる。人生観とはいきなり大きなテーマに直結させたなと思われるかもしれないが、人生の閉じ方(綴じ方ともいえる)が人生観と無関係なはずがない。

 たとえば、四番目の「お金周りの後始末」は、3の「そ知らぬ顔を決め込む」を選んでも、なんとかなるといえばなる。

 支払いについては、毎回現金で振り込んでいたならば、振り込む人間がいなくなったわけだからそれまで。口座振込の場合、指定口座が凍結されなければ、お金がある限り勝手に引き落とされていくだけだし、残高がなくなれば、あるいは口座が凍結されれば支払われなくなる。

 支払いが何ヶ月も滞った時点で各機関は督促状などを出すだろう。それへの「返答なし」の状態が続けばやがて調査が入り、最終的に債務者が死んでいることが発覚する。そこからは、各機関が定められた法あるいは内規に従って手続きを取るだけだ。訴訟を起こそうにも相手は死んでいて、かつ相続人がいないのだから取り立ては不可能なわけで、取りっぱぐれは貸倒損失とかなんとかの税務処理をされて終了、だろう。

 自分の死後のことなんてどうでもいい、後は野となれ山となれ精神の持ち主であれば、これでオールオッケーである。

 ちなみに、パスポートや運転免許証などの公的証明書はそれぞれ所轄の役所に返納することになっている。だが、期限が切れれば自動的に失効する。返さなくても罰則があるわけでもない。というか、そもそも死んでいるんだから罰の受けようがない。返納義務があるのは悪用を防ぐためだが、そんなの気にしないというのであれば問題なかろう。なお、マイナンバーカードは返納義務すらない。ゴミと一緒に処分してもらえばいいのだ。

 そういうわけで、企業や公的機関、そして社会に迷惑をかけることに一切ためらいがなければ、独り者はこの辺りを放置しても案外大丈夫そうだ。

 だが、私は「フィニッシュは美しく」派なので、やはり事前準備をしておいた上で、誰かにちゃんと後始末してもらいたい。それでなくても、他人様の力を借りなければうまく死んでいけそうもないというのに、死んだ後まで世間様に迷惑をかけたくないのだ。

 個人の未払い料金を取りはぐれたところで、大企業であれば小さな傷に過ぎないだろう。しかし、小規模な会社や個人事業主であれば事業存続へのインパクトは小さくないかもしれない。お金を回収できなかったせいで経営が傾き、経営者や従業員、そしてその家族の人生が大きく狂ってしまう可能性だってある。

 運転免許証やパスポートも、悪人の手に渡って偽造証書の材料となり、それが犯罪に使われて大事になるかもしれない。テロリストの手に渡り、一度に数百、数千の命が奪われるような大規模テロに使われることだってある。自分がだらしなかったせいで、巡り巡って数多の人生が破局する事態が勃発するかもしれないのだ。

 まさか、そんなオーバーな、と思うかもしれない。だが、大きな出来事とは、偶然も含めた小さな出来事がいくつも積み重なった末に出現する“結果”だ。何があってもおかしくないのが人生であり、社会なのだ。逆に言えば、貧者や弱者に手を貸さないで放置した末、治安や悪化してしっぺ返しを食らうのも社会である。そうした前提に立って、できる限り変事や凶事の発生を防ごうとするのが法であり、制度であり、規範や規則だ。

 死後手続きにしても、思ってもしなかった事態の発生を抑えたかったら、制度や規則に沿うように1か2の方法を取るしかない。繰り返しになるのでくどくど述べはしないが、やはり信頼に足る相手と死後事務委任契約をしておくのが最善手だろう。

 さて、最後の「諸々の後始末」についてだが、三つ目の「アカウント停止」は知らぬ顔の半兵衛でお茶を濁せる。ただ、これも悪用の可能性はある。できれば消しておくに越したことはない。

 死後もネット上になんらかの存在感を遺したいのであれば、FacebookやInstagramなどが提供する「追悼アカウント」制度を利用すればいい。もちろん、これも死後、申請してくれる“誰か”が必要なわけだが。

 二つ目の訃報連絡も、人としての礼節を考えるとした方がいいのだろうが、必須とまではいえない。黙ってそっと世界から消えていくのも悪くはない、かもしれない。なんか、カビの生えた“男の美学”的な感じで。

 だが、一つ目。

「世話が必要なペットや観葉植物を託す」。

 これだけは絶対になんらかの手当をしておく必要がある。特に観葉植物。ペットは比較的後を心配する人が多いが、植物にまでは気が回らない人が多い。しかし、植物だって命だ。もし、観葉植物によって心が慰められていたのであれば、それに報いるのが人の道だ。

 ペットにしても、植物にしても、一番安心なのはやはり親しく信用のおける人に託すことである。

 植物の場合、形見分けとして引き取ってもらえる確率は高いと思われる。

 だが、ペットとなると少々難しい。一旦引き受ければ、手間も経済的負担もかかる。また、動物を飼うにためらいがない人の家には、すでに先住ペットがいることが多い。“遺されたうちの子”と、お願いした相手の先住ペットの相性が良ければ問題なかろうが、ここで躓くケースも少なくない。それに、そもそも、引き取ってくれた人だっていつ死ぬかわからないのだ。老齢になれば、“信頼できる人”も自分と変わらぬぐらい先が知れている可能性が高い。

 となると、この問題ばかりは「信用できる知人」より「何らかの団体/機関」に頼った方がいいのかもしれない。

 実は近年、高齢化及び独居化の加速によってこの手のペット問題が社会に広く認知されるようになり、飼い主を失ったペットを引き取って新しい家族を探してくれるサービスが盛んになってきている。

 一般的には「飼育支援サービス」などと呼ばれており、公益法人やNPO法人などの民間団体がサービスを提供している。運営主体は様々だが、獣医師による団体などもあるので、今すでにペットを飼っているならば一度「飼育支援サービス 高齢者」「飼育支援サービス 一人暮らし」などのキーワードでネット検索してみるといいかと思う。複数の団体が見つかるだろう。それらを一つ一つ丁寧に見ていって、「私とうちの子」に適したサービスがないか探してみるといい。

 高齢者でなくとも急死のリスクは誰にでもある。もし「私が死んだらうちの子は露頭に迷う」という心配があるなら、早急にアクセスすべきだ。

 ただし、これらのサービスも基本的には有料である。つまり、経済力がなければ利用できない。ペットを飼うのも金次第、なのだ。

 だが、こればかりは致し方なし、と私は思う。

 ペットを飼うとは命を預かることだ。たとえ虫であっても、命を癒やしや娯楽のために自己の領域に繋ぎ止めるのであれば、そのコストは負担しなければならない。負担できないならば、残念ながら飼う資格はない。

 近年、犬猫の保護団体が里親の条件を厳しくするあまり、独居者や高齢者、低所得者が引取を希望しても拒絶されることが増え、SNSなどではやりすぎではないかとの声があがっている。

 里親になるつもりのない私は議論を横目で眺めていただけだが、たしかに一部の保護団体にエキセントリックとすら感じる振る舞いがあったのは事実だと思う。だが、基本的には「最後まで責任を果たす能力がない人間は飼うべきではない」という主張は正しいと言わざるを得ない。

 私の実家は揃いも揃って大の動物好きで、二十年ほどの間に犬は一匹、猫は六匹飼った。うち最初の一匹は近所で貰ってきた猫、二匹は拾った猫、あとの三匹は自分で乗り込んできた猫たちである。乗り込んできたとはこれ如何に、と思うかもしれないが、時々いるのだ。「今日からここの家の猫になるので、よろしく」と自分で家を選んで来る猫が。

 おまけに通い猫もいたりして、常時五六匹は身の回りに猫がいるという時期が長かった。

 そんなわけで、ペットがくれる心の潤いや癒やしがいかに精神的安定にとってプラスになるかはよくわかっている。だが、同時に厄介事も増えることも熟知している。毎日の餌やりや糞尿の始末は言わずもがな、病気や生殖コントロールにかかる金銭負担は半端ではない。おまけに家は汚れやすくなるし、臭くもなる。

 さらに人の体調に悪影響を与えることもある。私の場合、一番可愛がり、また私にもっとも懐いていた猫にだけ、強いアレルギー反応が出るようになった。その子が寄ってくるとひどい花粉症のような症状が現れ、舐められるとそこが発疹するのである。他の猫は大丈夫なのに、その子だけだ。

 これはつらかった。

 アレルギーが起こるようになったのは実家を離れた後だったので、毎日の生活に影響が出たわけではなかったが、もしこれが実家住みだったら、かなり困ったことになっただろう。なにせ、相思相愛の仲なのだ。子猫の時に拾った子なので、あの子は私の前ではいくつになっても子猫ちゃんだったし、私だってどんなけしんどいことがあってもあの子がいれば安らげた。それでも、私の免疫反応は彼から出るなんらかの物質をアレルゲンと判断して、拒否する。何の試練だ、という話である。

 そんなこんなで、コロナ禍において急激にペットを飼う人が増えたというニュースを見た時には、眉をひそめざるを得なかった。そのうち、何割がペットはただ可愛いだけではすまない存在であることを理解していたのだろうか。

 かく言う私は一人暮らしになってから、ペットを飼っていない。人後に落ちない猫好きなので、飼うとしたら猫だが、保護猫を勧められても今のところ謝絶している。もし、自ら乗り込んでくる子がいたら共に暮すのはやぶさかではないが、そうでない限り、自分から積極的に動くつもりはない。仕事柄遠方での連泊取材も発生するという現実的な事情もあるが、もう一つその気になれない理由がある。

 ここまでうるさく室内飼いが求められるようになった世の中では、飼う気がしないのだ。

 誤解しないでほしいのだが、現代社会における室内飼いの必要性は理解している。部屋の中に閉じ込めていたら、身の安全は保証されるだろう。長生きの確率もあがる。

 だが、それが猫の幸せに直結しているのかどうか。

 動物の幸せなんて、動物本人に聞いてみないとわからない。おまけに個体ごとに答えは違うことだってはるはずだ。たとえば、同じライオンでも檻の中でのんびり暮らせる方がいいのもいれば、サバンナで命がけの狩りをしたいのもいるだろう。ちなみに、今実家にいる猫は完全室内飼いの一匹だけだが、時折脱走しようとする。元ノラなので血が騒ぐのだろう。

 人間がいくら「その子のため」を考えても、実際に「その子」が幸せかどうかなんて決してわからない。外に出たい一心で多大なストレスを抱えていた子が、飛び出した途端交通事故で死んでしまったとして、その子は果たして不幸だったのだろうか。一瞬でも自由な空気に触れて死んでいくのと、ずっと外への渇望を抱えたままただ徒に長い時を生きるのと、どちらが幸せか。

 何のことはない、この問いはそのまま自分自身の人生観に返ってくる。

 幸せという、この定義できそうでなかなかできない概念をとことん突き詰めていくと、結局は「本人の納得度」以外に測る術はない。

 もちろん、ペットが本当のところはどう思っているかなんて、誰にもわからない。彼らが幸福をどう捉えているのかもわからない。喜怒哀楽がある以上、“幸せ”に似たなんらかの感覚はあるだろうとは想像できるが、それらは極めて刹那的なものであって、人間の時間スケールで考える小理屈には意味がない、かもしれない。つまり、私の「ネコチャンを閉じ込めるなんてカワイソウ」も、当の猫にとってはどうでもいい、つまらない感傷である確率の方が高いのだ。

 けれども、私はどうしても自分に置き換えてしまう。

 著しく自己決定権を狭められた状態での長生きが、生物としての“幸せ”といえるのだろうか、と。

 一般的に死は究極の不幸と考えられている。私だって誰かが亡くなれば悲しいし、お気の毒にと素直に思う。

 だが、死という現象それそのものが“不幸”なわけでは決してない。

 私たちは、漠然と「もっと生きていればやりたいことができて、楽しい体験もできただろうに」などと考えるから、死即不幸と捉えてしまう。死は、それ以降なにも体験できない、つまり究極の機会損失だからだ。

 しかし、言うまでもなく、実際には生きているだけでは幸せになれない。

 長生きした末にとんでもない不幸に遭遇することだってある。「生きていればきっといいことがあるよ」が真なのと同様、「生きていればきっと最悪なことがあるよ」もまた真なのだ。

 結局、終わりよければ全て良し、と思える状態に持っていけて、始めて「幸せな人生」は完成するのだろう。そして、「全て良し」は「トータルでの納得感」で決まるはずだ。単純に考えれば、持ち時間が長ければ長いほど体験できることや達成できることが増える。しかし、行動が制限されていれば、ただ時間だけが過ぎ、気がつけば老いていたという事態になりかねない。

 もし、それで満足できる気性であれば問題ないが、そうでなければ……。

 “選べない”人生で長生きするのが果たして幸せと呼べるのか。

 後始末の話から、なんだか妙に根源的な話になってしまったが、死を意識すればするほど、この手の話が頭の中をグルグルし始める。

 死に方を探す旅は、納得できる人生を探す旅でもあるのだろう。

 とにかく、死に対する現実的な手続きはある程度調べがついた。それによって、私自身かなり不安感が薄れてきた感がある。

 あとは、理想的な死を迎えるまでどう生きるか、だ。次回からはそんなことを考えて、調べていこうと思っている。

(第24回へつづく)