献体過剰のような問題が起こるのも、死ぬのにとにかくお金がかかるという構造的な問題があるからだ。

 昔ながらの、多くの人に参列してもらうソーシャルな葬式をしようとすると、基本料金だけで百万円を軽く超える。これでも随分安くなったそうだし、参列者が多ければ香典もある程度は当てにできるが、それでもやれ戒名だ、法要だと宗教儀礼が入ってくればさらに物入りになる。

 きちんと法要をし、戒名を授けてもらう場合は、当然ながらお布施が発生する。地域の事情やお寺との付き合い、さらにはお坊さんに何人来てもらうかなどで変動するが、だいたい十万円から五十万円程度は見ておかなくてはならない。戒名も文字数などで幅があるが、少なくとも五万円、ものすごく立派な戒名だと百万円ぐらいは必要だろう。ちなみに、お寺さんに渡すお金は「代金」ではない。「喜捨」である。そこらへんを双方がごっちゃにするから、やれ料金表がどうとか、相場がどうとかいう話になるのだ。

 本来、喜捨の多寡に宗教者が文句をつけるなどおこがましいにもほどがある。とはいえ、釈迦の時代からお布施の少なさに悪たれ口をつく出家者はいたようだし、まして寺院経営が家業になっている現代のお坊さんたちは生活がかかっているのだから仕方ない部分はある。制度として社会に組み込まれている宗教は、もはや経済活動の一環なのだ。そんなわけなので、宗教的な慰めを得たいならば、その対価を免れることはできない。そもそもお金とは「何かをする権利」の数値化に過ぎないのだから。

 それに、遺体の始末はまだまだ終わらない。むしろ、燃やしてからが本番である。

 墓の問題だ。

 タイムリーなことに、ちょうどこの原稿に取り掛かる少し前、郵便受けに墓地の広告が入っていた。私が住んでいる辺りは高度成長期に住宅造営が進んだ地域なので、今は超高齢化社会の最前線になっている。勢い、広告には老人を対象にしたものが多く、お墓販売のチラシも時々投函される。需要が高いのだろう。

 今回のチラシの広告主は、隣接する市にある霊園の販売事務所だった。運営主体は公益財団法人である。海が見える小高い丘に位置する公園墓地で、敷地内には墓地のほか、日本庭園や地域の特産品を売る販売店もあり、ちょっとしたピクニック気分で墓参できるようになっている。当然駐車場は完備、自動車がなくても最寄り駅から公営バスで徒歩十分の場所まではたどり着けるし、盆正月春秋彼岸には最寄り駅から送迎バスが出る。

 東京からだと車で一時間半、公共交通機関利用で二時間弱。横浜だと車で一時間、公共交通機関利用でも一時間半ほどなので、ドライブあるいは行楽がてら利用できる感じだ。霊園内が遊山仕様なのはそのためだろう。

 そんな良環境の墓地、価格表を見ると、土地代と墓石代、さらに工事費消費税諸々込みで八十万から二百万程度で頒布されていた。なんでもこれは墓石を五十パーセントオフすることによって実現されたバーゲン価格だそうで、私なんぞは、なるほどお墓も値引き対象になるのだなと妙に感心したわけなのだが、それはさておき。

 当然ながら、総額は墓所の広さや墓石のランクで変化するが、新規で建てるつもりなら、平均して百五十万程度は見ておいたほうがいいようだ。

 毎年何度も墓参に来る「誰か」がいて、なおかつ死後の安寧を墓で保証したい、という目的がぼんやりとでもあるならば、投資としては悪くないのかもしれない。だが、私のように誰もこないのは確実の人間にとっては、完全に無駄金である。

 すでにある家の墓に入るならば、費用はそこへの交通費と納骨法要のお布施ぐらいだ。だが、統計資料によると都市部に住む人の半数以上が墓を所有せず、どこに入るか決まっていないという。そんな中には「家の墓」に入りたくない人もいるだろう。そう、私のように。

 前回の最後で、私は「一般的な選択は、家族や一族の墓に入るというところなのだろうが、私はこれが嫌なのだ」と書いた。

 こう言ってしまうと「あら、ご家族やご親類と険悪なのかしら、ワクワク」みたいな誤解を生んでしまうかもしれないが、そうではない。単純に、できれば「墓」なる施設に入りたくないのである。

 理由は特にない。あえて言うなら、焼いた後のカルシウムになってからとはいえ、ジメジメした冷たい場所に、土にも帰れない状態で放り込まれるのが、どうもしっくりこないのだ。

 死んだら終わりって思っているなら、お骨がどこに入ろうがどうでもいいんじゃない? という話ではあるのだが、どうにも何かが嫌なのだ。死んだ後、腐りたくないのと同様、「嫌なものは嫌だ」レベルの我儘なのである。

 あえて理由を述べるならば、よほど裕福かつ多産な一族でもない限り、墓なんぞ百年保たずにどうせ合祀されてしまうという現実を重視した結果、といえる。

 我が家系の父方母方どちらを見ても、私と同じ世代から次世代あたりで祭祀継承者が絶えるのは目に見えている。父方の墓には父の遺骨を入れてもらったし、母は母方の墓がいいそうなので、そちらに入れたあとは両方の墓の維持に協力していこうとは思っているが、私が死ぬ頃には先が見えていることだろう。

 よほど「家」の継承に熱心かつ土地から出ていかない一族でもない限り、祭祀などそうそう継承できるものではない。最近の墓じまいブームが何よりそれを物語っている。

 いや、うちは永代供養だから大丈夫! と思っているとしたら、それは大きな間違いだ。永代供養というと、いかにも永続して墓地を専有し、なんらかの供養を受けられる制度のように思われがちだが、実際はだいたい上限が五十年程度。その時期に追加でお金を払ってでも墓地を維持しようという殊勝な子孫がいなければ、墓地所有権は墓地管理者に戻り、墓石は無縁塚、骨は合祀墓に入れられてしまう。

 うちは子供たちがしっかりしているから大丈夫、と思うあなた。その子供たちも、ずっと墓参りができる範囲に住むとは限らない。

 現実を知りたければ、一度多磨霊園のような大規模霊園を散歩してみればいい。

 広い敷地に、見上げるほど立派な碑が建っているような「家」の墓所でも、墓石が隠れるほど鬱蒼と草が生え放題になってしまっているケースも珍しくない。世話するものが、すでにいないのだろう。霊園の一等地に堂々たる墓碑を建てられるぐらいである。さぞ名も金もある由緒正しきお家だったに違いないが、百年経たずそんなことになってしまうのである。

 寺院墓地はさすがにそこまで草茫々になることはなかろうが、それでもまだ比較的新しく見える墓にもかかわらず、墓所に「関係者は御連絡ください」と掲示されているのをたびたび見かける。あっという間に、誰も来なくなってしまったと思しい。規定料金の支払いがなければ、早晩墓地は没収される。購入時にいくら払ったかわからないが、金の切れ目が縁の切れ目なのは死後も変わりない。別にそうした現状を批判するつもりはない。諸行無常の響きあり、お経などよりもよっぽど釈迦の教えの本質がダイレクトに伝わる光景だ。

 とにかく、何をどうやっても最終的には合祀されるなら、最初から合祀墓に入ればいいではないかと思うのだが、どうだろう。

 私は、叶うことならば自然に帰っていきたい。だが、法律がそれを許してくれない。合法的に森林や海洋上で散骨するのも悪くはないが、一部では環境汚染や近隣住人の軋轢など、社会的な問題が指摘されている。墓地の樹木葬は、墓石がないというだけで、実質通常の埋葬と大差ない。

 唯一惹かれるのが「宇宙葬」である。読んで字の如く遺骨を宇宙に打ち上げる葬送方法で、日本でもこのサービスを提供している会社がある。

 宇宙葬には、人工衛星として地球を回る軌道にのるタイプ、月に遺骨入りのカプセルを打ち上げるタイプ、さらにはボイジャーのようにノーリターンの宇宙の旅に出るタイプの三つがあり、私はもうせん最後の「宇宙の旅」葬に憧れてしまう。

 やりたいことの大方は実現してきた人生だが、唯一の見果てぬ夢が「宇宙の旅」だ。

 銀河鉄道999に銀河漂流バイファム、コブラ、スター・トレック、スター・ウォーズ。とにかく、宇宙を旅する物語が大好きなワタクシ。八つや九つの頃、「宇宙探検の『物語』は盛んだけど、実際に行くことはできない時代に生まれた私って、すごくかわいそう。百年後に生まれればよかった」と思ったのをよく覚えている。

 生前果たせなかった夢を、死んでから叶える。これぞロマンではないか。

 だから、唯一望む葬送方法があるとしたら「宇宙葬 宇宙探検プラン」なのだが、残念ながら、これがむちゃくちゃ高い。最低ランクで二百五十万円である。宇宙まで打ち上げるのだから当然といえば当然だが、墓を建てるより高額だ。今後、最高額の宝くじが当たるレベルの幸運に恵まれるならともかく、今の私にはとてもではないかがそんな余裕はない。残念ながら諦めるしかない。

 次善の策を考えよう。

 親族の墓に関しては、お願いしたら隅っこぐらいに入れてくれるかもしれないが、どうにも気を使う。墓の維持には手間も金がかかる。そのコストを負担せず、おこぼれに与る形で入るのは気が重い。それなら最初から合祀前提の墓に決めておいた方が、生きている間の心理的負担は少ない。

 合祀墓は、公営から寺院経営まで色々とある。だが、私の場合、おそらく葬儀屋に納骨までを頼むことになるはずだから、その際にスムーズに事が運ぶよう、万事整えておく必要がある。それを考慮に入れると、交渉相手の顔がはっきりと見える寺院墓地の方がいいのかもしれない。

 幸い、最近は身寄りのない独身者向けの合祀墓を提供している寺院が増えてきている。そうした中から、信頼できそうなお寺さんを選んで事前に話を通しておけばいいだろう。

 方針は決まった。

 そして、そんなお墓を探そうとし始めた途端、またまた情報が向こうから飛び込んできた。

 FBで友人登録しているある僧侶の方のお寺が、合祀墓を持っておられることを投稿で知ったのだ。しかも、それは私が相場を調べるためにチラシを見ていた霊園にあるという。

 そして、価格を見たら、なんと十四万円! 個人墓の十分の一ほどの金額だ。私には、これで十分である。さらに探すうちに三万円で埋葬までを引き受けるNPOもあった。こちらも、真摯な活動をされているので問題はないだろうが、やはり生前から御縁のあるお寺さんに頼んだ方が何かと安心できる。差額は安心料だと思えばいいだろう。No hell below us, above us only sky(私達の足の下に地獄はなく、頭の上には空しかない――ジョン・レノンが遺した至高の歌詞)が信条の私が死後の安心を言っても説得力がないかもしれないが、ここで得られるのは生前の安心だ。

 やれやれ、である。求めよ、さらば与えられんではないが、興味を持って情報を探していけば、必要なサービスに当たる世の中になっていることを改めて実感した。

 ここまでの流れをもう一度整理しておこう。

  1. 葬儀は直葬。遺体の引取りから納骨まで請け負ってくれる葬儀屋を探しておく。
  2. 遺骨は合祀墓へ。こちらも事前に目鼻をつけておく。
  3. 喪主になる人がいる間はエンディングノートに「ここに連絡して、こんな風に処理してください」と依頼しておく。いなくなれば、自力で契約し、葬儀屋と納骨先に遅滞なく情報が届くよう、エンディングノートのほか、「私の終活登録」に情報を記載する。
  4. 予算はおよそ五十万円。今の所、それぐらいの貯金はあるので、崩さないよう死守する。

 よし、これで一と二、つまり「遺体」の後始末は解決した。

 次は三から五、「遺品」および「生活の痕跡」の後始末である。これもまた、情報収集から始めなければならない。

 いやはや、独り者の安楽を求める死に準備とは情報蒐集との闘いと見つけたり、でだ。

(第二十一回へつづく)