第二章

二(承前)

 多聞は、駿府へ向かうため旅支度を整えた。表向きの理由は、「大坂や駿府で書物を手に入れ、遠国を旅することで知見を広めるため」だ。

 ロドリゲスは、徳川家康に渡す書状を書き、多聞はそれを布袋に入れ、首から提げて着物の懐に忍ばせた。密事で急を要する旅だったので、かなう同行者を見つけることができなかった。一人旅はなにかと不用心なので、多聞は同じ行き先の旅人を道中で見つけて一緒に歩くことにした。

 パードレ・原は、豊前小倉によく知ったキリシタンや商人がいるから、困ったことがあればその者たちを頼るよう紹介状を書いてくれた。喜久の父も、かつて行商で利用した旅籠をいくつか教えてくれて、そこの主人とは親しいので自分の名を出せば、快く旅の便宜を図ってくれるはずだと言った。その上、長崎の町から最初の峠、日見峠の手前まで、多聞を見送ってくれた。

 駿府までは、急げば三十日はかからないはず。まずは、長崎街道を進んで豊前小倉まで目指そうと多聞は思った。長崎街道は何度か歩いたことがある。長崎から小倉までは五十七里。天候に恵まれて山道の状態が良ければ、早足で約七日で到着できるだろう。

 急勾配と長い坂が続く日見峠の道は、落ち葉に埋もれていた。晩秋の物寂しい山道を一人黙々と歩いていると、背後から行商人二人がやってきた。多聞は彼らに声をかけて同行の許しを得ると、彼らの目的地である肥前佐賀の牛津うしづまで行動を共にすることにした。

 歩き慣れた彼らは足が速く、多聞はついていくのに必死だった。彼らは多聞に気を遣い、途中、山から見える眺望を見ながら一緒に一休みをしたり、時々遅れ気味になる多聞を立ち止まって待ってくれたりした。

 その日のうちに、日見峠を超えて幕府領長崎を出た。その後は、さらに三つの峠越えをし、牛津へ向かうことになる。

 宿場では三人で旅籠に泊まり、翌早朝に発つという日程である。道中は、彼らの足手まといにならないように多聞はただ歩いた。鬱蒼とした林を抜け、小さな集落や刈り入れを終えた田畑の畦道あぜみちを進み、道端の石仏のそばで岩に腰かけて彼らと共に握り飯を頬張る。景色を楽しむ余裕はなく、いつも無心か、自分との対話のどちらかになった。そのせいか旅は順調に進み、四日で長崎街道のほぼ中間にあたる牛津に到着した。

 翌朝、旅籠前で二人と別れた多聞は、牛津の田圃の広がる街道を一人歩いた。

 こんなに気を張り詰めて歩いて、駿府まで体力と気力が持つのだろうか。それに、歩き方次第では草鞋わらじがすぐにだめになる。脚だってもたなくなるだろう。

 銀杏の葉が舞い散る辻で、ふと多聞は立ち止まった。自分の呼吸と風に揺れて葉が触れ合う微かな音だけが聞こえる。

 陽を浴びて金色に光る扇形の葉がたゆたうままに落ちてくる。そのさまは、儚く、美しかった。

 辻にある地蔵堂の前で、旅姿の男女一組が屈んで祈っている。

 幼い頃を思い出した。赤子の弟を背負い、今年は収穫がたんまりありますようにと道端の石仏に祈っていた頃のことを。

 関ケ原で、私はお兄やお姉のような働きができなかった。体躯も貧弱で、非力だったから。お兄やお姉は田植えや稲刈り、薪割や水汲みも大人と同じようにこなしているように見えたし、お父とお母からもありがたがられていた。幼い弟はその存在だけで家の中を明るくした。私は弟の子守りをし、お母から感謝されたけど、さして役に立っているとは思えず、いてもいなくてもいい……少なくとも、当時はそう思っていた。

 心の隙間を埋めてくれたのは学問だった。読み書き、算術ができれば、お父やお母、周りの人から重宝がられた。もっと知識をつければ、人の役に立てるし、自分なりの居場所ができる、そう思った。

 関ケ原を離れて九年になるけれど、いまだに心は満たされない。まだまだ知らないことばかりだし、人の役に立てているとも思えない。無知で無力のままだ……。

 だから、せめて、この務めは果たさなければ。

 

 地蔵堂前で祈っていた二人は三十代の夫婦で、筑前黒田の山家やまがにいる縁者を訪ねるという。多聞は、二人の道連れになって先を急ぐことにした。女の脚もあり、山家まではほぼ平地だったので、道中は楽だった。

 途中一泊し、山家で夫婦と別れると、多聞は、いよいよ急坂で難所といわれる峠に差し掛かった。

 この峠を越えて次の宿場に着けば、豊前小倉まであと一日。暗くなる前に宿場に着かなければ。初めて通る道でもないし、大丈夫、一人でも行けるだろう。

 小川の冷たい水を口に含むと、多聞は気合いを入れた。曇天の空からは、今にも雨が降りそうだ。

 往来する人はいなかった。空が見えないほど鬱蒼と樹木や竹がのび、脇に藪が繁る細い坂道を歩いていると、さすがに気持ちも陰鬱になってくる。

 そこに、駆けてくる複数の足音がした。背後からの気配に、多聞が脇へ避けようと振り返った時、左頬に痛みが走った。

 なにが起こったのかわからなかった。気がつけば、多聞は地面に張り倒されていた。振り向きざまに横顔に腕をかけられて倒されたらしい。

 蓑笠をまとった男二人が目の前に立っている。一人は短刀を抜き、もう一人はすぐさま多聞に襲いかかってきた。それから、二人は起き上がろうとする多聞を殴り、蹴り上げ、多聞が地面に崩れ落ちても手加減なく繰り返した。多聞が動けなくなると、二人は無抵抗になった多聞の旅行李や着物を物色し、なにがしかの物を奪い、道脇の藪へ多聞を蹴飛ばして去っていった。

 追剥ぎ……?

 多聞は、気が遠くなっていくのを感じた。その時、顔にぽつぽつと冷たい水滴が当たり、現実に戻った。雨が降り出したらしい。

 動けなかった。

 体中が痛い。私は……ここでなにをしているんだ?

 龍之進なら、あいつらを追い払えた。私も強ければ、こんなことにはならなかったのに。龍之進ほどの体力もなければ、身を守る術もないのに、務めが大きすぎたのか。

 ――多聞は俺と違って賢いんだから、その頭を活かしたほうがいいよ。

 子供の頃から、龍之進はいつも私を励ましてくれた。どんなに心の支えになったか。

 龍之進のように体は強くないけど、私は頭を使って知識を蓄えてそれを力として使う。そう決めた。知識があれば、人を助けられる。人を楽にできる。そのためにも、もっともっと身につけたいことがいっぱいある。

 私は、まだなにもやり遂げていない。龍之進なら、きっと諦めないで、立ち上がる。だから、動かなければ!

 ――愛してくださる神に恥ずかしくない行動をしようと思うのです……。

 パードレ・ロドリゲス、ここで投げ出したら、あとで恥ずかしいと思うでしょう。この瞬間も、神は見ていてくださるから。

 多聞は、力を振り絞って立ち上がろうとした。大きく息を吸い込んだ時、胸が痛んで思わず呼吸が止まった。胸の骨が……! 足もひどく痛い……いや、右足が動かない!

 でも、行くんだ!

 多聞は、呼吸を整えた。

 なぜそこまでするかって? やり遂げたら、周りから認められるから? そこに自分の存在意義を感じられるから?

 いや、違う。自分の栄光や誉のためじゃない。目立つ働きをして評価されたい、褒め称えられたいからじゃない。すべてはしゆしもべとして働くため。だから、多聞、気張れ。

 多聞は、上半身を立てて、木に寄り掛かり、首から提げた布袋を確かめた。

 ない……そんな!

 多聞は、辺りを見回した。あの男たちに荒らされ、散乱した紙を這いながら掴み、一枚一枚見ていく。ロドリゲスの書状はどこにもなかった。

 なんてことだ!

 多聞は、全身をまさぐった。腰紐に忍ばせた銀貨は無事だ。しかし、藪に落ちていた旅行李を見ると、銭貨を入れた袋や銀貨を納めた見せかけの短刀もなくなっている。

 来た道に書状が落ちているかもしれない。多聞はふらつきながら、藪を掻き分けて這い上がった。紙や布袋は、どこにも見当たらない。気のせいか、視界がぼやけて薄暗かった。視野がどんどん狭くなり、吐き気がして、次の瞬間脱力して倒れてしまった。

 誰かが近づいてくる足音がする。今度こそ殺される。あの二人が止めを刺しに来たんだ……逃げなくちゃ。でも……指一本動かない。

「もし、お気を確かに!」

 男の声だ。応えようと思ったが、重い瞼はちっとも動かない。そして、無音の世界へ落ちていった。

 二週間後―― 十二月 長崎

「申し訳ございません! 大事な書状を紛失してしまいました」

 多聞は、大神学校に到着すると、挨拶もそこそこに部屋で書きものをしていたロドリゲスに頭を下げた。

 ロドリゲスは立ち上がると、真っ先に多聞のケガの状態を心配した。多聞は、骨を痛めた胸にきつくさらし布を捲き、ケガをした右足を庇うために杖をついていた。

「神よ、感謝します。セバスチャンが戻りました!」

 二週間前、多聞を助けた男は薬売りで、親切にも旅籠に多聞を運んでくれた。ケガですぐに動ける状態ではないとわかると、多聞に一週間旅籠で休養したほうがいいと助言し、多聞がしたためた文をロドリゲスに届ける手配までしてくれた。その上、翌朝、旅籠の主人には多聞が長崎に戻る際は馬を頼むよう言ってから、旅籠を発ったそうだ。

「しかし、駿府へ参らなければ……また書状を書いていただけませんか。今度こそ――」

 ロドリゲスは、ゆっくり首を振った。

「もういいのです、セバスチャン。ゆっくり休みなさい。お前は大層ケガをしているのだから」

「パードレ……私がふがいないばかりに」

 多聞は、項垂うなだれた。パードレの代わりに届けると言ったのに、それを果たせない自分があまりにも情けない。

「お前のせいではありません。すべてはわたしの身から出たこと。いずれこのようなことになるのではないかと思っていました。それが思ったよりも早く現実になったということです」

 多聞は、顔を上げてロドリゲスを見つめる。なにを言っているのか。

「わたしは……長崎を出ることになるでしょう」

「え? どういうことですか?」

「イエズス会は、そう決定するはずです」

「なぜそのようなことに?」

 なにがあった? 私が長崎を離れている間に、なにが?

「また駿府から書状でも届いたのですか?」

「いえ。お奉行様から、イエズス会はペソア総司令官の説得をできない責任を取るべきだと、そのためにわたしを日本から退去させるようにと申し出がありました。お奉行様は、もしわたしが日本から出ていかなければ、キリシタンを迫害すると脅してきました」

「そんな! イエズス会の責任って……それをなぜパードレお一人に?」

「おそらくセバスチャンを襲ったのは、お奉行様か、お代官様の手の者でしょう。あの書状がお奉行様の手元にありました。わたしは呼び出され、これはどういうことかと問い質されました。おそらくわたしに内府様から書状が届いたと知った時から、わたしの周りの動きを監視していたのでしょう」

 多聞は、両手の拳を握り締めた。あのならず者たちがお奉行様かお代官様の……おそらく私が一人になる時を狙っていたんだ。

「パードレ、私があの者たちに書状を奪われたばかりに――」

「いえ、それは一つのきっかけに過ぎません。これまでもお奉行様とお代官様は、わたしを排除しようとしていましたから。むしろ、お前を危険に晒してしまい、申し訳なく思っています。お奉行様は、司教様に、フランシスコ会から寄せられるイエズス会、とりわけわたしへの苦情を並べ立て、過去のわたしに対する告訴を蒸し返し、ペソア総司令官を説得できない責めも含めて、わたしの追放という形で始末をつけてはいかがかと伝えてきたそうです。そのため、近々、長崎のイエズス会は、わたしへの聴聞会を開くことになりました」

 多聞は、感情が高ぶってしまい、言葉を失った。考えもしなかった。まさかイエズス会がロドリゲスを追い詰める立場をとるなんて。

 私が駿府へ書状を届けると言い出さなければ、油断して一人で峠越えをしようとしなければ……私がやったことは、お奉行様にパードレ・ロドリゲスを追い詰めさせる好機を与えただけではないか!

 それなのに、パードレ・ロドリゲスは、少しも私を責めない。それが辛かった。

 私に慎重な考えが足りなかったばかりに。もっと先を読んで行動すべきだった!

 多聞の握り締めた両手の拳は、悔しさと怒りのあまり小刻みに震えた。

「パードレ、失礼します。セバスチャン、司教様がお呼びだよ」

 戸口に現れた神学生がそう告げた。

 司教館で出迎えたセルケイラ司教は、杖をつく多聞に寄り添って歩いた。

「セバスチャン、御身に神の御加護を。パードレ・ロドリゲスから聞いた時は驚きました。駿府へ向かう途中、襲われるとは」

 司教は立ち止まると、心配そうな顔で多聞の両手を自らの手で包み込んだ。多聞が司教の厚意に感謝の言葉を述べた。控えの間に入ると、司教は多聞にも椅子を用意してくれ、道中なにが起こったのかを説明する多聞の話に聞き入った。

 多聞の話が終わると、

「戻ったばかりで申し訳ないのだが、セバスチャンに確かめておきたいことがある。パードレ・ロトリゲスのことだ」

 多聞は、緊張した。「どのようなことでしょうか?」

「セバスチャンはパードレ・ロドリゲスのそばにいるが、パードレに……なにか不審を抱くような行いはなかったか?」

「あの、おっしゃる意味が……よくわかりませんが?」

「パードレ・ロドリゲスが不義を働いているという訴えがあった」

「なにかの間違いではありませんか? あのパードレが……女子おなごと?」

 多聞は、想像できなかった。これまで宴席で女子をはべらせたと非難された聖職者はいるが、その点ロドリゲスはどうみても堅物。長崎代官のような女好きならまだしも……。

「わたしも信じているわけではない。でも、訴えられたからには、聞き取りを行わねばならん」

「どなたからの訴えなのですか?」

「お代官様だ。パードレ・ロドリゲスが信者の家で、告解こつかいと称してその家の妻や娘と二人きりになっていたと。そのような訴えがお代官様のもとに寄せられたそうだ。もう三年前になるが、お代官様の妻と不義密通をしたと訴えられたことがあった。妻もキリシタンで、お代官様のお屋敷で、パードレ・ロドリゲスが二人きりで不審な行いをしているとお代官様自ら証言してきたのだ。パードレ・ロドリゲスはそのような者ではないとわかっていたから、あの時は問題にしなかった。今回も三年前と同じく、パードレ・ロドリゲスは、妻や娘と二人きりになったことはないし、あらぬ疑いをかけられぬよう、信者の家への出入りは細心の注意を払っていると言っている。念のため、お代官様に当の女子は誰かと訊くと、女子を守るため身元は明らかにできないと申されて、こちらで真実を確かめようがないのだ。その上、お代官様は、三年前のことを蒸し返され、疑念を持たれるロドリゲスが悪い、それこそが聖職者にふさわしくない証であるから、早急にロドリゲスをあらゆるお役目から辞させ、長崎から退去させるように訴えてきた」

「司教様、ずっとパードレのおそばにいるわけではありませんが、私はそのような場面を見たことも聞いたこともございません。あのパードレが……ばかげております」

「そうか……そうであろうな」

 どこか悲しげで、神妙な面持ちの司教を見ていると、多聞は司教がすべてお見通しなのだと察した。ロドリゲスがありもしない罪で訴えられ、日本から追われそうになっているのを。

「お奉行様は、友好を続けたければ、イエズス会がロドリゲスをマカオへ追放するように求めてきた。それも、内府様のご不興を買わないように、あくまでもロドリゲスが自ら去る形を取るようにと。そうすれば、イエズス会に対して、ペソア総司令官の説得がうまくいかない責めを問わないよう取り計らぬこともないと。今のままでは、イエズス会が内府様のご不興を買うのは必須だろうと仰られて」

「ペソア総司令官は、今どうされているのですか?」

「船に籠もったままだ。春になって東風が吹けば、早々に港を出るつもりだろう」

「そうなった時、われらはどうなるのですか?」

「神のみぞ知るです。内府様がやすやすと出帆をお許しになられるとは思えないと、お奉行様は仰っている。いずれにせよ、このままではすまないということだ」

 三日後、イエズス会のパシオ副管区長以下聖職者数名が司教館に集まり、ロドリゲスの聴聞会が開かれた。

 多聞は、岬の教会で祈りながら結果を待った。ロドリゲスに対して告訴された内容に、会士たちが意見を述べるらしい。

 もう結論は出ているのも同然だ。それは多聞もわかっていた。しかし、なにかよい解決策があるのではないか。そんな一縷いちるの望みを捨てることができなかった。

 三十分もしないうちに聴聞会は終わった。

 イエズス会マカオ本部を代表する形で出席していたバレンテがこう言ったからだ。

「お集まりのみなさん、この審議は無駄に時を費やすだけです。パードレ・ロドリゲスの弁明がたとえ真実であろうと、われわれの結論は見えています。イエズス会は、日本で布教を続けなければなりません。そのためには、パードレ・ロドリゲスはこの国を去らなければならない!」

〝日本のイエズス会の温存を図るため、ロドリゲスを追放する〟というバレンテの主張は、満場一致で採択された。

 ロドリゲスが日本からいなくなれば、長崎奉行との関係も良好に向かい、揉め事も減るだろう。しばらくはこれまで通り活動することができるはずとイエズス会士たちは判断したのである。

 しかし、火種はそれで消えたわけではない。大きな火種がまだ残っていた。

(第14回へつづく)