死んだ後、魂が残るか残らないかは死んでみないとわからないが、遺骨と遺品は確実に残る。こればっかりはどうやったって避けようがない。よって、独り死に逝くのであれば、これらの始末だけは必ず算段しておくしかない。

 そこで、死後のアレコレを「私がいなくなった世界で誰かにやってもらわなければならない五つの片付け」と名付け、整理してみた。ちょっとヒューマンドラマ系洋画の邦題を意識して、おしゃれな感じにしてみたのだが、どうだろうか。

 さて、身寄りがなくても発生するのは間違いない最低限の「死後処理」は以下の通りだ。

  1. 死亡届の提出など、行政官庁への届け出および臓器提供や献体などの手続き
  2. 納骨(つまるところは遺体処分)
  3. 家財道具の後始末(いわゆる遺品整理)

    1. 家財道具の片付け
    2. 有価値動産の売却/形見分け(私は心配ない)
    3. 所有不動産の始末(私は心配ない)
    4. パソコンやスマートフォン類の処分

  4. お金周りの後始末

    1. 公共料金、病院や施設の利用料など、未払い料金類の支払い及び利用停止手続き
    2. 健康保険、介護保険、年金などの公的サービスへの諸手続き
    3. 銀行口座の閉鎖およびクレジットカードなど各種カード類の解約手続き

  5. 諸々の後始末

    1. 世話が必要なペットや観葉植物を託す
    2. 必要な相手への訃報連絡
    3. SNSなどのアカウント停止

 ちょっと考えただけでもこの通りである。

 つくづく一人では死ねない社会だ。

 先に断っておくと、もっとも短絡的な結論は「金にあかせばなんとでもなる」である。死後処理の委託サービスはすでに存在し、機能しているからだ。

 だが、あいにく私には金が無い。

 だから、無いなりにどうにかする方法を考えておかなければならない。それができるのは、情報蒐集力と分析力がまだなんとか機能している今のうちである。

 怒る人もいるかもしれないが、身の回りにいる高齢者を観察するに、たいていの人は還暦を過ぎると判断力に衰えが見えてくる。そして、古稀の声を聞くと、認知症でなくても子供がえりを起こし始めるようである。それなのに能力の衰えは自覚し難いときているから、老化というのは実にタチが悪いわけで、だからこそ将来の衰えを先輩たちの言動を通して客観視できる四十から五十代、いわゆる分別盛りに目算ぐらいは立てておくべきなのだ。

 ここからは「私がいなくなった世界で誰かにやってもらわなければならない五つの片付け」、略して「イナゴ」を順番に見ていくが、基本は「まったく身寄りがない貧乏な独り者」のケースとして理解していただきたい。

 まずは「イナゴその一、死亡届の提出など、行政官庁への届け出および臓器提供や献体などの手続き」である。

 死亡すると、役所に必ず提出しなければならない書類がある。死亡届と火葬許可申請書だ。ただし、この申請については、葬儀業者が代行してくれるので、あまり心配する必要はない。直葬のようなもっとも安いプランを選んだとしても間違いなく代金に含まれている。これらの手続きなしには葬儀業者も動けないからだ。

 前回に説明した通り、日本では遺体は必ず埋葬しなければならない。なので、よしんば身寄りがないのに何の準備もないまま独り死んだとしても、自治体が葬儀……というか、火葬と埋葬およびそれに関係する法的手続きを代行してくれることになる。だから、特別な手配は必要ないとも言えるのだが、それを当てにするのは一市民として少々無責任というものだ。やはり、葬儀屋の手配ぐらいは自分でやっておきたい。

 次、臓器提供や献体の意思がある場合はどうすればよいだろうか。

 まず、誰にも看取られることなく死んだ場合、当然発見が遅くなるだろうから臓器提供は諦めなくてはならない。ちなみに、心停止後の処置で移植可能なのは腎臓、膵臓、眼球の三つのみ。心臓、肺、肝臓については、脳死、つまり身体はまだ動いている状態からでないと移植できない。まさに時間との勝負なのである。

 病院で死んだ場合、意思が事前に病院側に伝わっていて、かつ移植に耐えうる臓器と判断されれば、ほぼ間違いなく希望は果たされる。必要な手続きは病院側がやってくれるので心配ない。最近はメディカルソーシャルワーカーがいる病院が増えたので、もし意思があるならば彼らに伝えておくことをおすすめする。万事滞りなく進めてくれるはずだ。脳死の場合は、脳死からの臓器摘出可能な病院が限られるが、これも意思表示さえあればコディネーターがうまくやってくれるだろう。なにせ、移植可能な臓器は常に足りていないのだ。絶好の機会を医療関係者が逃すはずがない。

 死に場所が介護施設などだった場合、これも周囲に意思が伝わっているかどうかで状況は変わるだろう。ただし、介護施設で暮らさなければならないほどの年齢に達していれば、臓器提供自体できない可能性がある。提供意思自体に年齢上限は設けられていないのだが、一般的には心臓は五十歳以下、肺と腎臓は七十歳以下、膵臓と小腸は六十歳以下のものが望ましいそうだ。これ以上の年齢では絶対できない、というわけではないけれども、可能性はどんどん低くなると考えておいた方がよいだろう。

 一方、献体の年齢上限のハードルは、臓器提供よりも低い。ただし、日本臓器移植ネットワークのような全体を総括する組織がないため、希望する献体先に事前申請しなおかなければならない。献体先は医学部や歯学部のある大学のみで、献体希望者に求める条件はそれぞれで異なる。

 そういうわけなので、臓器提供よりも手続きのハードルは高い。さらに、最近、問題になっていることがある。なんと、受け入れ先によっては献体が余り気味だというのだ。そのため、大学によっては申込みを断る、あるいはハードルを高くして“実質お断り”の状況をあえて作っているそうなのだ。

 なぜ、そんなことになったのか。

 その答えを率直に書いた文章がある。平成二十三年十二月に発行された「献体の会 会報」に献体の会理事 前川芳一氏が寄稿した「献体を取り巻く変化の潮流」がそれだ。

 氏は、献体を巡る歴史的な流れを整理した後、最近は供給が需要を上回りつつある現実を指摘し、次のように述べている。

 献体は煩わしさがなく費用も掛かりません。亡くなって大学に連絡すると自宅はもちろん病院の霊安室にまで寝台自動車で遺体を取りに来てくれます。それで寝台自動車を見送ればすべて終わりです。(中略)

 大学は受け取った遺体を解剖実習に使うまで防腐処置を施して保管し、実習が終われば大学側の負担で火葬し、遺骨を遺族に返還します。遺骨の引き取り手がなければ大学は大学専用の納骨堂に安置し、春と秋の彼岸に供蓑する。またどこの大学も年一回、解剖体追悼式といった形で盛大な慰霊式を行なっています。個人ではとてもできない至れり尽くせりの弔いをしてくれます。このような丁重な取り扱いをしてくれる献体に人気が高まっているということではないでしょうか。

 要するに、我が身と引き換えに、普通にやれば百万円は下らない葬儀一式を大学側に面倒みてもらおう、しかも永代供養付きで、と考える人間が増えたのだ、というのだ。

 もちろん、純粋に医学教育に貢献したいと願う人もいるだろう。だが、葬式や埋葬の費用に不安があり、かつ後世を弔ってもらえるかどうかわからない人たちの受け皿になってしまっている現実もあるのだ。

 もし、老いの貧困、もしくは人生儀礼への軽視が献体希望増加の背景にあるのだとしたら、この傾向は決して歓迎していいものではない。葬送儀礼と供養を得られるならかわりに我が体を差し出しましょうというなら、それはある意味、身売りだ。

 どのような選択肢であれ、本人が納得ずくならば他人がとやかく言うべきではないが、私は発想にいわゆる経済的徴兵制と同じニオイを感じてしまう。

 経済的徴兵制とは、「貧困層の若者に対し、学費免除や医療保険加入などの経済的支援を提示して、軍への入隊を募ること。強制的・制度的な徴兵ではないが、貧困から抜け出す道が限られている若者が、やむをえず募兵に応じざるを得ない状態」(デジタル大辞泉)を指す。つまり、選択肢がほとんど与えられていない中で、一見自由意思であるように見えながらも、実質は「それしかない」道を選ばされているのだ。

 実際、貧困者の献体を制度化している自治体がある。

 なんのとこはない、私が住む横須賀市だ。

 横須賀市は、二〇一六年、神奈川歯科大と「献体事業」協定を結んだ。市の終活支援「エンディングプラン・サポート」事業の一環として、サポートプラン登録者が献体を希望した場合、その希望が叶うよう市がサポートするというのだ。

「エンディングプラン・サポート」事業の詳細については改めて触れるが、この制度ではひとり暮らしで収入・資産が一定額以下の高齢市民は、死亡届の提出や死亡連絡のほか、二十万円程度を先払いすることで市が葬儀や火葬を見届けてくれることになっている。だが、その二十万さえ準備するのが難しい人が選べる一つの選択肢として、献体をした人の火葬までを大学側が負担することで、個人負担を五万円程度に軽減するというのだ。

 従来、身寄りのない高齢者は、同意を得られる親族がいないことや遺骨の引取先がないなどの理由で、献体を断られることが多かった。それを市が代行することで解決したのである。

 悪い制度ではない、とは思う。だが、献体はそもそもの理念が無条件・無報酬。純粋に医学の発展を願う心が動機でなければならない。大学側が供養を行うのは、あくまでも厚意に対する無形の返礼であって、代償ではない。もし、個人負担の軽減を目的に、本来であればやりたくもない献体を選ぶ人がいたとしたら……。それは献体の本来の理念から大きく外れてしまう。でも、背に腹は代えられないこともある。老いた末に、たった二十万が用意できないことも十分にあるのだ。私なぞはまったく他人事ではない。

 もちろん、横須賀市の取り組みは“経済的献体制”ではない。むしろ、身寄りがないという理由で志を遂げられない人をサポートしようというものだ。

 ただ、先程引用した通り、医学部の現場では少なくとも十年ほど前から献体の主たる目的が「葬送費用の節約」に変化してきていると感じているわけである。

 それを前提に考えると、少なくとも経済的に余裕のある人は、葬送費用の節約を目的にした献体は考えてはいけないだろうと私は思う。それは、アカデミズムと貧困層に対する、二重の搾取になりかねない。

 その辺りをよく考えた上で決めなきゃいけないだろうな、と思う。

(第二十回へつづく)