「私の終活登録」項目埋め作業は続く。

 五項目と六項目は「リビング・ウィル」と「エンディングノート」の置き場所である。

 「リビング・ウィル」については、第十回で書いた通り、すでに公益財団法人尊厳死協会に登録済みだ。そして、「リビング・ウィル」の写しは冷蔵庫の「緊急医療情報キット」に保管してあるので、その旨を記入する。

 よし、これでOK。

 なお、リビング・ウィルは、協会に登録しようがしまいが、明確に意思表示した書面になっていれば一応は有効である。だが、メモ書き程度では医療側が訴訟リスクを恐れて採用してくれない可能性がある。その点、協会が提供する書式に署名押印し、原本が協会で保存されている書類ならば、間違いなく「正式な意思表示」として採用してもらえる。代弁者がいない独り者ゆえ、より確実な意思伝達を期して協会への登録を選んだわけである。

 次は「エンディングノート」だ。

 保管場所は書棚。詳しい場所を記した紙は「緊急医療情報キット」に入れてあるので、これも問題ない。

 よし、これもOK。

 ちなみに、エンディングノートは、書店で一番安かったものを購入した。市販のエンディングノートは高級品から安物まで幅広い。色々と見比べたのだが、記入事項には今後変動する可能性がある内容も少なくない。それならば安いのを購入して、定期的に書き換えた方がよろしかろうと考えたのだ。

 傾向として、高級品ほど書き込む内容が増えていく。中には自伝や立派な家系図まで書き込めるようなものもあったが、そういうのはもう完全に趣味の世界だ。私には必要ない。

 正直、最初に一冊購入すれば、書き残しておくべき内容は把握できる。よって、書き換え時は普通の大学ノートでもよいだろうと思っている。書き込み式のほうが楽だし、漏れがないのは確かなのだが。

 いずれにせよ、エンディングノートは定期的に書き換えする方針でいた方がいいだろう。気持ちも事情も刻々と変わるものなのだから。

 さて、項目の七番目は臓器提供に関する意思表示を記入する欄だ。

 私は、脳死になれば全臓器を提供するつもりでいる。なので、「私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します」と書かれた欄にチェックを入れた。署名、押印、年月日の記入をして、この項目も終了である。

 死んでしまえば、まだ使用に耐える内臓も燃やすしかない。それはそれでちょっともったいない気がする。もし、誰かに使ってもらえるなら、それに越したことはない。

 「私」がこの世から消えてからも、どこかの誰かの体内で私の心臓が鼓動を打ち、私の肺が新鮮な空気を吸い、私の眼球が知らなかった景色を見る。

 なんだかロマンがあるじゃないですか。文学的でもある。一つ間違えればホラーだけど。

 気分がよくなったところで次項に進もう。

 八項目からは死後の始末について記載する欄だった。つまり、葬儀や埋葬、遺品整理をどうするのか、それを指定しておいてくださいというオーダーだ。

 独り者にとって、死後の始末を誰に任すのかはなかなか厄介な問題だ。 

 日本では、人は死んだら必ず埋葬しなければならないと法律で決められている。どこかに放棄して、腐ちて土に還るに任せるわけにはいかないのだ。孤独死したあげく、誰にも見つけてもらえず骨になっていたとしても、見つかってしまえば誰かに埋葬してもらわなくてはならない。

 この場合、警察や自治体が親族に連絡を取るわけだが、身寄りがまったくない、あるいは親族が引き受け拒否をした場合、故人は行旅死亡人、つまり行き倒れと判断され、行旅病人及行旅死亡人取扱法に従って自治体が火葬と埋葬をすることになる。この場合、当然葬儀はなく、遺骨は自治体が管理する合葬墓に入る。代金は、故人に遺産があればそこから差し引かれる。ない場合は公費負担となる。

 つまり、まったく身寄りがない人間でも、骨ぐらいはどこかに入れてもらえるシステムに法律上はなっているのだ。

 遺産や遺品に関しても、行旅病人及行旅死亡人取扱法に定めがある。預金や不動産は相続人がいないのを確認した上で国庫に入る。遺品は自治体での保存が原則だが、売れるものは売って火葬などの費用に当てることができるし、保管に費用がかかりすぎる場合は廃棄してもよいことになっている。

 というわけなので、法律上は一応何も決めていなくても、片付くことにはなっている。なってはいるのだが、準備なしでは各方面に相当な迷惑をかけるのは必定だ。

 公に負担もかけるもクソもあるまい。それだって公僕の仕事だ。やらせればいい。

 そんな風に考える人も、中にはいるだろう。

 だが、私は嫌だ。やっぱり自分の後始末ぐらいは自分でしたい。

 そのためには、葬儀、納骨、そして遺品整理の生前契約をしておくこと、そして私が死んだ後、契約先に遅滞なく連絡が届くように体制を整えておく必要がある。

 おお、死に方探しも本格的になってきたぞ。ここさえ整えてしまえば私の死に方探しの行程は八割に達するはずだ。そろそろゴールが見えてきた。

 まずは葬儀である。

 葬儀に関しては直葬でよい。直葬とは、法定の遺体安置時間である二十四時間が経過したら直接火葬場に運んで火葬する葬送方法のことだ。宗教儀礼はなし、通夜振る舞いも火葬中の食事会もなし。もっともシンプルな送り方だといえる。

 身寄りのない人間には、これで十分だ。

 戒名も読経も、私には必要ない。

 別に「葬式無用、戒名不用」を気取っているわけではない。

 魂も、死後の世界もない。人間、死ねばそれで終わり。だから、宗教的な儀式や墓は無意味であり、不要である。

 それが私の死生観なのだ。付け加えると、徹底した無神論者でもある。

 私をよく知る人は「え? あなた仏教ライターなんでしょ? それに怪談とか妖怪とか大好きって言ってなかったっけ?」と訝しむかもしれない。

 だが、私の中では、唯物的な死生観と、宗教やお化け話を愛好する行為の間になんの矛盾もない。なぜなら、神も仏もお化けも魂も、あの世に属する一切合切は人間がこの複雑な世界を理解するために生み出した人工的な文化体系に過ぎないと考えているからだ。

 私は神仏の前では必ず手を合わせる。宗教儀礼も尊重する。幽霊を見た人がいたとして、それが嘘だとも思わない。その人は確実に何かを見、感じたのだ。

 けれども、それが実在するとは思っていないし、実在する必要もない。

 もし、本当にあの世なんてものがあるならば、なぜ民族や宗教ごとに様子がゴロッと変わるのだろうか。それどころか、同じ民族や宗教であっても、時代とともに語られる内容は変化する。もし、巫者に死後の世界を語らせたとして、古墳時代と平安時代、そして現代では言うことがバラバラだろう。死という現象は、何一つ変わらないのに。

 生命そのものは自然に属する。ゆえに、文化や宗教に影響は受けない。

 仏教国だろうが、キリスト教国だろうが、太陽は東から上って西に沈むし、海はしょっぱい。同様に、生命現象も自然法則にのみ従う。人間の想像力はたくましく、豊かだ。だが、自然法則に干渉する力はない。

 よって、死に際しての儀式はもっぱら生者のためのものであり、死者がそれに影響を受けることはない。影響を受ける主体としては、すでに存在しないからだ。

 もし、私の死後、私に連なる生者がたくさん残るのであれば、彼らのために葬送儀礼は行われるべきだろう。だが、私にはいない。よって、直葬で十分なのである。事務手続きをしてくれる人以外は立ち会いも不要だ。すでに死んでいる私が認識することはないのだから。

 繰り返すが、葬送儀礼は生者のためのものである。

 だから、遺族が多ければ多いほど、きちんと葬送儀礼は行ったほうがいいというのが私の考えである。宗教的な要素は必須ではないが、生者の心の慰めになるのであれば、積極的に取り入れるべきだろう。

 生きている人間に、宗教的儀礼が与える力は二十一世紀の今でも相当に大きい。

 たとえば、「戒名」。仏教界のボッタクリ体質の象徴のように言われて久しい制度だが、戒名なしの選択をする人は現代でもさほど多くはない。中には葬式は無宗教でするけれども、戒名だけはつけてくれ、という人もいるそうだが、これなんぞは実にバカバカしい。なぜなら、戒名とはそもそも仏教に帰依して出家した人につけられる仏弟子ネームだからである。

 平安時代、日本では仏教的な地獄の概念が人々に広まり始めた。

 元来、日本にはさほど明確な「あの世」観はなかったとみられている。古事記に出てくる「黄泉」は穢らわしい場所ではあるが、生前の行い如何で罰を受けるような場所ではなかった。

 しかし、地獄はそうではない。些細な罪でも罰せられ、苦患を受ける。しかも、無罪放免される可能性はほとんどない。罰則規定がむちゃくちゃ細かいのだ。ごく慎ましやかに暮らしていても、地獄堕ちはほとんど避けられない。

 ところが、坊さん曰く、出家さえしておけば地獄で“仏弟子優遇”が受けられるそうなのだ。「私、仏様の弟子ですねん」と申告すれば、いろんな罪がチャラになる。そんなうまい話があるなら、乗るに限るではないか。

 というわけで、財力のある貴族などは、死に際に大急ぎで出家儀式を行うようになった。そして、時代が下ると、いつの間にやら「死んでからの出家でもOK」という話になった末に、「何をやってもらっているか理解していないけど、とにかく読経してもらって戒名をつける」という慣習が出来上がったのである。

 要するに、本来の仏式の葬儀は仏弟子になるためのセレモニーであって、厳密にいうならば弔いのためにやっているわけではない。ただ、参列者がそれを弔いと解釈しているだけである。ちなみに、神葬祭に至っては仏教葬儀の向こうを張るために江戸時代になって創設されたニューカマー葬式だ。神職が死穢に触れるなど言語道断のはずだが、人間の都合が優先されたのである。

 だが、そんな小理屈を知らなくても、読経を聞き、焼香をし、合掌して頭を垂れれば、あるいは祝詞を聞きつつ榊を手向ければ、死者に対して何かをしてやれたような気分になるのが人間というものだ。その心理的、あるいは社会的作用を否定するつもりはさらさらない。

 むしろ葬送儀礼は文化の極致だと思っている。

 そして、私は古人が培ってきた文化を何よりも愛し、尊重している。

 だから、魂の存在を信じていたり、死後の世界に不安を持っているならば、むしろ積極的に葬儀の準備をしておくべきだと思う。その方が、日々安心して暮らせるし、逝く際にも心安らかだろう。前回の最後でも述べた通り、宗教は人が幸せになるための道具だ。道具は必要な時に使ってこそ、である。

 一番駄目なのは、お金をケチるためだけに宗教儀礼を排することだ。これをやると、必ず遺族間で諍いが起こるし、後悔の種になる。

 私同様、身寄りがいないならば直葬で十分だろうが、独身者でも親族が多いならば葬儀を行う方向で検討しておいた方がいいだろう。無宗教式でも構わないが、その場合は生前に周囲の人間をよくよく納得させておく必要がある。故人の希望で無宗教葬にしたものの、参列した親類からクレームが出て大騒動になるケースも珍しくないそうだ。

 係累が多いほど、葬送儀礼は自分だけのものではなくなる。

 それだけは覚えておいたほうがいい。

 私の場合は、自分の始末のためだけの葬送なので、直葬でよい。費用はいくらかかっても十万円ほど。生前契約しておいてもさほど負担にはならない金額だ。今から毎月五千円ずつ貯めたとして、二年もあれば十分である。

 ただし、どのタイミングで生前契約しておくかという難しさはある。あまりにも早い段階でやってしまって、死ぬ頃には契約先の葬儀会社が潰れていました、では話にならない。

 一般社団法人である全日本冠婚葬祭互助協会に所属する互助会ならば、私企業であっても割賦販売法に基づいて掛金はある程度保護される。しかし、私のように直葬を望む場合は、掛け金総額の方が実際の葬儀費用を上回って損になりかねない。

 よって、今のところは「直葬」という方針のみ明記しておけば十分だ。

 もし、明日ばったり死んでしまっても、今ならまだ喪主となってくれる人がいるし、保険金もあるので費用負担をかけることもない。将来的には自分の体調を見極めながら、どこかのタイミングで安全そうな葬儀屋と契約すればいい。おそらく、それが必要になる頃には、葬儀業界も今よりもっと充実した、安心安全の「身寄りのない人向け葬送事前予約プラン」を整えていることだろう。「身寄りのない人向け葬送事前予約プラン」の需要が増えていくのは間違いないことだ。必要は発明の母である。

 というわけで、次の問題はお骨だ。

 一般的な選択は、家族や一族の墓に入るというところなのだろうが、私はこれが嫌なのだ。

 どうして嫌なのか。

 次回、その辺りから話を進めていこうと思う。

(第十九回へつづく)