前にも一度述べた通り、本連載は実用書のつもりで書いているので、あまり死生観とか宗教/哲学の問題には触れるつもりはない。

 でも、最近になって、やっぱり私自身が「死」そして「生」をどう捉えているのか、ある程度はっきりさせておいた方がいいような気がしてきた。今後、リヴィングウィルや臓器提供、そして葬儀の問題に入っていく予定なのだが、この辺りの話題になるとさすがに「死をどう捉えているか」をスルーしては、実のある内容にできない。

 そこで、前回、「死」の自己決定について考えていくうちに「どの時点の自分が、自分の『死』を決めていい自分なのか」なんていうちょっと面倒くさいところに分け入ってしまったのを機に、一度明確にしておこうと決心したのである。

 まず、私の死生観の枠組みは仏教で出来ている。

 とはいえ、特定の宗派を信仰しているわけではない。へっぽこ我流で独学した、釈迦仏教から唯識と呼ばれる教えあたりまでの、古い古い仏教がベースになっている。

 仏教に古いも新しいもなかろうと思われるかもしれないが、釈迦が創始したオリジナル仏教と日本の鎌倉時代に興った新仏教の間にはおよそ二千年の隔たりがある。それほどの長期間、国を越えて何万、何億もの人々が伝言ゲームを営々と続けた結果、どんどん原型からずれた仏教が誕生した。宗派の中には釈迦の説とはまるっきり反対に見える教えを説いているものすらあるのだ。オリジナル仏教と時空が離れれば離れるほど、その傾向が強い。

 なのに、なぜ「仏教」というカテゴリーが破綻しないのかというと、どんな教えであれ、根本に「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」の思想があり、かつ「苦からの解放」を最大の目的にしているからである。

 一切皆苦とは、人生のすべては苦である、という事実。

 諸行無常とは、どのような現象も行為もすべて変遷するものであり、変わらないものは何一つない、という認識。

 諸法無我とは、あらゆる存在や現象に実体はない、という観念。

 あ~、そういう四文字熟語聞くだけで抹香臭え、と思いました?

 まあ、もう少しだけお付き合いくださいませ。

 釈迦は、死や病や老いはもちろん、生もまた「苦」だという。

 なぜなら、生まれてこなければ苦しむこともないからだ。

 よって、仏教的には「生まれてきておめでとう!」なんて話には絶対にならない。「生まれてきてお気の毒さま」なのである。

 人生を祝ぐどころか、もっとも歓びに溢れるはずの誕生まで「苦」と捉えた釈迦。浅く捉えればニヒリズムの極地のようだが、そうではない。

 事実、生きていくのは大変だ。私たちは日々それを実感しているはずである。たとえ超イージーモードの人生を与えられたとしても、一度も苦しまずに済む人生なんてありえない。そんな不確実で不安定な世界で生きている限り、私たちの苦しみは永遠に続く。

 だったら、なんとかして苦を脱する方法を探すべきだ。

 そんな風に考え、実現するための実践的かつ思弁的方法論を編み出したのが釈迦であり、その教えをまとめたのが「仏教」だ。

 だから、「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」がベースにある限り、どんな教えでも――かつて世を騒がせたあのオウム真理教ですら、仏教のカテゴリーに含まれうる。逆に「生きるって楽しい!」「ホトケさまさえ信じていたら人生All Happy間違いなし!」がメッセージのメインであれば、「宗教」としてはともかく、「仏教」としてはちょっと問題あり、だといえるだろう。

「え? そうなの? 近所のお寺に『生きる歓び 命の輝き』みたいなことを書いた張り紙があったけど」と思った方もいるかもしれない。

 これに関しては仏教学者の佐々木閑さんが「ココロ教」なる絶妙な名前を付けておられる。つまり、あれは近代科学や戦後の価値観(人生礼賛だとかスピリチュアリズムだとか)を仏教に反映させたゆるふわ仏教もどきであり、宗教の末期症状なのだ、と。

 今どきの人に「阿弥陀如来は西方浄土にいて、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽往生し、最終的に解脱できます」とか「即身仏となってずっと生き続けています」なんて説いたところで「そんなの迷信でしょ」と言われておしまい。だから、「仏はあなたの心の中にいるのです」みたいな感じで、すべてを「心の問題」にすり替えるしかない。と、まあ、この辺り、あんまり深入りするとまたいつものごとく本題から外れてしまうのでここまでにしておこう。

 とにかく、たとえ歓びや楽しみがあったとしても、それは容易に苦の原因になりうる。大好きなお菓子を毎日好きなだけ食べていたら糖尿病まっしぐらだし、愛する人がいたっていつか必ず来る別れに苦しまなければならない。誰がなんと言おうと、人生のすべては「苦」なのである。

 よろしいでしょうか?

 さて。

 私はどういうわけだか、子供の頃からお寺や神社が好きだった。

 ごく幼い頃はおそらく日常からかけ離れた空気を宿す空間に心惹かれていたのだと思う。外国であれ、遊園地であれ、とにかく「ここではないどこか」を生来的に好む性質が三つ子に宿っていたのである。

 しかし、成長するにつれ、仏教そのものに興味を持つようになった。

 たぶん中三の頃だったと思うが、角川書店発行の『仏教の思想1 知恵と慈悲〈ブッダ〉』という分厚い本と出会い、漠然と捉えていた仏教と釈迦の教えがまったく違うことに驚いた。

 釈迦の人生観は、前述の通りとてもシビアだ。そのシビアさが、生意気ざかりの小娘にはビビッと来たのである。そこで、受験を控えて勉強しなければいけない時期だというのに、学校図書館の司書さんにアドバイスをしてもらって、仏教解説書を読み始めた。完全に現実逃避だが、でもまあ、あの時期の読書がなければ今の私はないわけで、ひとまずは良しとすべきなのだろう。

 ……ん? もしかして、あの時期にあんなのを読んでなければ、こんな変調子の人生は送っていなかったとか? ……まあ、そこは不問に付しておこう。

 そんなこんなで、大学を卒業する頃までに、いろいろな仏教書を読んだ。

 そんな中、うら若き乙女であった私が一番興味を持ったのが「アビダルマコーシャ」という古い仏教論の中にある「刹那滅」という考え方だった。

 これをざっくりと説明すると、次のようになる。

 私たちは、一旦生まれてしまえば、死ぬまでの間、常に「私」として存在し続けていると考えている。

 だが、これは間違いで、人間を含むありとあらゆる存在は刹那に生まれては消える、を繰り返しているという。つまり、発生と消滅を繰り返しながら刻々と変化しているのだ。よって、厳密には、瞬間ごとに現れる「私」はすべて別の存在であり、それがたまたま繋がっているように見えているだけ、ということになる。

 人間に限らず森羅万象のあらゆる存在はそういうものだと、古代の仏教学者たちは考えたのだ。

 たぶん、一読しただけでは何のことだかまったくわからないと思う。私も最初はさっぱりだった。「自分」が瞬間ごとに生まれては消滅しているなんて、なんですかそれ、である。

 私は昭和四十六年に生まれて以来ずっと同じ肉体で存在している。その証拠に古い傷だってあるし、経年を示す皺の数々も最近では実に立派になってきている。昔の記憶も、部分部分は薄れてはいるが、それなりにある。

 それらはまさに常に「私」というものがあったなによりの証拠ではないか。

 普通はそう思う。

 だが、この「刹那滅」という考え方では、時間をめちゃくちゃ細かく分解する。日常語でも刹那はごくわずかな時間を意味するが、仏教用語の「刹那」は時間の最小単位とされている。物質における原子のようなものだ。よって、一般的な人間の感覚では認識できない。

 原子は陽子と電子の電気的結びつきで成り立っていて、そこには隙間的なものがある、はずだが、私たちの皮膚や肉に隙間は見えない。手のひらに水を受けても指の間以外からは漏れたりしない。それでも電子顕微鏡で見れば隙間がある。

 そういう極小の話を、時間にも適用したのが刹那滅だと思えば、一番わかりやすいかもしれない。

 とにかく、認識できないほどの短い感覚で発生と消滅を繰り返しているので、超高速で明滅する灯りがずっと点いているように見えるのと同様、私たちも何も変わらず常に存在し続けているように見えているだけ、なのだそうだ。

 なんだかわかったようなわからないような話だ。「諸行無常」「諸法無我」という仏教の原理を補強するために無理やり捏ねた理屈ように思えなくもない。だが、この考え方は仏教だけのものではなく、インドの古代宗教に広く片鱗が見られるのだそうだ。さすがはゼロの概念を発明した(といわれている)人たちである。

 とにかく、「私」は「刹那の現在」を形作る因縁(ヤクザのインネンではなく、物事を生起させる原因)によって常に発生と消滅を繰り返している。

 つまり、一瞬前の自分も、一瞬後の自分も、厳密にいえばこの瞬間の自分とは異なるのである。

 そう考えると、「私」という連続体のすべての中心となる「私」はいないことになる。

 こうした概念を完全に体得して、悟りを開いてしまえば私は立派な覚者。歴史上の釈迦牟尼世尊と肩を並べることができるわけであるが、残念ながら凡下の身。思考は卑近な「死に方探し」に流れてしまう。

 以下続くもにょもにょは、仏の教えとはまったく関係ない、手前勝手な「仏教を利用した私見」なので、心ある人には叱られるかもしれないが、そこは大目にみてほしい。

 「刹那滅」を編み出した人たちの言に依ると、今現在の「私」は過去の累積ではなく、さまざまな原因が重なった帰結として、未来に散在する「可能性のひとつとしての私」が現在という瞬間にひょこっと顔を出したものであるそうだ。

 さて、そんな淡雪のような存在に、未来に何万何億と存在する「可能性の私」の全てを断つ権利はあるのだろうか、というのが、前回の最後に湧いてきた疑問の正体だった。

 今の所、私は望まぬ状況になるぐらいであれば、そのまま死にゆくのを大方針としている。

 そして、間違いなくその方針が実行されるよう環境を整えるのに奮闘している。

 けれども、いざその瞬間を迎えた時に出現する「一つの可能性としての私」が、「どんな状況になっても生きたい私」でない保証はどこにもない。

 出現した「どんな状況になっても生きたい私」は、それまでの「死にゆくのを大方針にしていた私」に従うべきなのだろうか。それとも、過去は過去として、瞬間の変節を優先すべきなのだろうか。

 また、優先された「生きたい私」が選んだ先にある「未来」に生きる自分が、その過去の私の選択を歓迎するのか、後悔するはめになるのか、それもわからない。

 ただ、ひとつだけはっきりしているのは、少なくとも「過去の私」たちの望みに従い、命を終える決断をしたその瞬間、「未来の私」たちはすべて無に帰すということだ。

 ならば、いったい、どの時点の私なら、過去現在未来を代表して、すべての未来を閉ざす決断を下す権利を持つのだろうか?

 そもそも、古代インドの宗教哲学に近世欧州由来の「権利」なる概念を持ち込むのはいかがなものか、という話ではある。しかし、どちらも知識として齧ってしまっている現代人の私が、こんな疑問を抱いてしまうのはしょうがない。

 今の所、私が無理やりな延命は拒否する立場であることは揺るぎそうにない。

 だから、この後の回でも「死に方探し」を粛々と進めていくことになる。

 だが、同時に「生きたい私」もまだ見ぬ未来に存在している可能性は考えておかなくてはならない。ある程度「死に方」が定まったら、次の課題はそっちの「私」のための準備をすることかもしれない。

 人に仏教とは何かと問われたら、私なら「執着を捨てるための教え」と答えるだろう。なぜなら、執着こそすべての苦の原因だからだ。

 だから、「生きたい」に執着するのと同じぐらい、「死にたい」に執着するのもよくない。

 喜怒哀楽も、生老病死も、人の身である以上、絶対に逃れることはできない。

 だが、喜怒哀楽にも生老病死にも執着しないことはできる。

 喜楽に執着すると、利己的で強欲な人間になるだろう。

 怒哀に執着すると、破滅的で無慈悲な人間になるだろう。

 老への恐怖から若さにしがみつく人間は醜い。

 死や病を恐れるあまり人生を楽しめないなら意味がない。

 だが、生に恋々としすぎても、やはり人生を楽しめないのではなかろうか。

 死と生はいずれも「苦」であり、同時に刹那的なものであるという考え方を知ったおかげで、死を必要以上に恐れず、かつ過度に重く考えないようになったのは私にとっては大きなプラスになった。

 だから、これから死に方探しの旅に出ようと思う時には、ほんのちょっとでもいいから、宗教や哲学を視野にいれておくことをおすすめする。別に信者になる必要はないし、洗脳カルトには最大限の注意を払うべきだが、先人たちが人生の苦しみをどう宥めたり、かわしたりしてきたのか、それを知ることは決して無駄ではない。

 仏教に限らず、あらゆる宗教や哲学は、一人で考えるには重荷すぎる物事に道筋を見出すための集合知、一種のシェアリングエコノミーだと私は思っている。だから、自分のニーズや気性、性癖にあわせてチョイスするのが一番だ。

 特に宗教なんて、縛られるものではなく、幸せになるために都合よく利用するべきものなのだから。

 たぶん、このあと出てくる、臓器提供の意思表示や葬儀墓所の準備などにおいて、私は常識的な人たちから見れば「とんでもない!」と叫びたくなるようなことを言い始めると思う。だから、前もって知っておいてもらいたいのだ。まったく考えなしでの暴言というわけではないことを。

 と、まあ、前フリをしないといけないほどの「暴言」が、次回以降に出てくるかもしれません。その場合には、どうぞ御海容のほどお願いいたします。

(第十八回へつづく)