今後の人生、医療とどう関わっていくのか。

 検査と予防と治療をどう考えるべきか。

 あっさり死にたいと言いつつも、普通は体調が悪くなれば病院に行くし、突然倒れたら救急車を呼ぶことになるだろう。そこで治療を受けた結果、死ねなくなったらどうすればいいのか。

 そもそも、うまく死んでいくのに適切な医療の「使い方」とは?

 ……わかんないな。わかんないなら、とりあえず詳しい人に聞いてみよう。

 軽いノリで、日本海側にある小さな街で開業医をしている旧友のFさんに話を聞きに行ったのは今年一月のことだった。疫疾災が日本に及ぶ、ほんの少し前のことである。あの時期、武漢における新型コロナウイルスの猛威はすでに報道されていたが、まだ対岸の火事だった。今思うと、取材旅行するにはギリギリのタイミングだった。

 Fさんがその小さな街で内科系医院を開業したのは今から数年前のこと。それまでは長らく近隣の政令指定都市にある大学病院で勤務していた。

 中学時代、年相応に華やかな職業への憧れは持ちつつ、内心では「会社に就職して数年働いて結婚退職して子育てするんだろうな」といわゆる“世間並みの生活”しかイメージできていなかった私に比べ、彼女は当時からすでに医師を目指して猛勉強をしていた。そして、夢を叶えた。人間として出来が違う、私にとってはまさに畏友というべき存在である。

 昔の友を取材するのはなんだか気恥ずかしいものがあるが、気張らずぶっちゃけ話もできるだろう。こんなテーマを訊く相手としては理想的だ。

 事情をメールで説明し、アポのお願いをしたら、あっさりOKしてくれた。多忙だろうに、まことありがたいことである。

 取材は彼女のクリニックで行うことになった。

 ロードサイドにある平屋建ての建物は、外装からあたたかで親しみやすい印象のカラーリングでまとめられており、地域性を反映してか複数台駐められる駐車場も完備されている。待合室は広く、明るく、清潔で居心地がいい。昭和の町医者とはずいぶんと違う。医療を巡る環境の変化がそのまま反映されているのだろう。今や、医者もサービス業だ。

 事実、私が訪問したこの時も、土曜日の夕刻でとっくに診療時間は終わっていたにもかかわらず、「今から行くから診て欲しい」と電話をかけてきた患者がいた。私の感覚ではアホかって話なのだが、Fさんは快く応じていた。応召義務があるから、と事も無げに言っていたが、居留守を使おうと思えば使えるはずだ。電話に出なければ「応召」されたことにはならないのだから。だが、もしかしたら命にかかわる緊急事態かもしれない。だから、出ないわけにはいかない、そうである。

 この時の電話の主が訴えたのは単なる発熱だったが、高齢者でインフルエンザの疑いがあるということで、Fさんは来院を促し、診療した。

 地域医療を支える地の塩としての医師の姿が、そこにあった。

 前回では「かかりつけ医なんて絵に描いた餅」とかブーブー不満を述べたが、Fさんのように献身的な医師もいる。地域に彼女のような人が一人いるだけで、どれほど安心できることか。ていうか、うちの近所で開業してくれないかな。

 本当は彼女の名前と医院名を出して、みなさんに「とてもいいお医者さんですよ!」と声を大にしてお勧めしたいところだが、これ以上忙しくなっては彼女が過労死しかねないので、控えることにした。ちょっとヒアリングしただけでも、その日常は鬼のようだったので。

 そんな忙しい人の手を煩わせた上で、放った質問が「スムーズに死ぬためには何をしておけばいい?」なのだから、よく追い出されなかったものだと思う。Fさん、優しい。

「そうね……。まずは自分がどうしたいか、明確に書面で残しておくことが大事だと思うよ。書面と言ってもいつ誰が書いたのかわからないようなメモ書きでは駄目。もっとも望ましいのは公的証書にしておくことかな」

 現代の医療でもっとも重視されるのは患者本人の意思だと彼女は言う。

「昔と違って、本人の意向を無視してでも延命、みたいな治療をする医師はほとんどいないと思う。終末医療に対する社会の意識がずいぶんと変わってきているからね」

 だが、もう一つ「意思の確認」が重要な意味を持つ理由がある。

 増え続ける医療訴訟への、医療側のリスクヘッジだ。

 医療に百パーセントの安全はない。それでも、現場の医療者はできる限り百パーセントに近づけようと努力している。だが、防ぎようのない不幸な事故はどうしても発生する。もちろん、とんでもないケアレスミスで起こることもあるが、その場合、まともな病院であれば情報をきちんと開示し、誠実な対応をするはずだ。良心の問題もあるが、不誠実な態度によって訴訟に発展してしまえば、その方が病院にとってはリスク大だからだ。

「でもね、どれだけ真摯に対応しても訴訟になってしまう場合ってあるのよ。だから、病院側も可能な限り自己防衛しなきゃいけない。やたらと同意書を取るのはそのため」

 最近、いわゆる「クレーマー」が世の中のあちらこちらを目詰まりさせているが、残念ながら医療現場はその最たるものになっている。ちょっとでもミスや手違いがあると、鬼の首を取ったかのように理不尽な要求を突きつける患者が跡を絶たないのだ。

 私も過去、サービス業で働いていたことがあるのでよくわかるのだが、世の中、相手の些細なミスにつけ込んで図に乗る人間は想像以上に多い。彼らは卑しい嗜虐性をだだ漏れさせているに過ぎないのだが、自分では正当な要求をしているつもりだからたちが悪い。「無理が通れば道理が引っ込む」を何度目撃したことか。

 時々真剣に考える。理不尽なクレーマーを「社会をギスギスさせ、あらゆるシステムを面倒でややこしくしている元凶」として告発できないものかと。社会全体がクレーマー対策に費やしている時間と労力を思えば、彼らは十分罪に問われるに値すると思うのだが。

 閑話休題。

 本人の意志が明確でない場合、医療者は全力で患者を「生かす」方向に走り出す。医師が独断でそれ以外の道を選択することはない。「患者を死なせる」ことが最大のリスクだからだ。

 もし、処置後に延命拒否の意志が確認されたことで患者側と揉めたとしても、何もせずに死なせてしまったことが明るみに出ることに比べたら、社会的リスクは遥かに小さい。少なくとも「人の命を救う」ことが第一義である医療現場において、患者の意志が明確でなければ、命は無条件に救うべきものなのである。

 つまり、もし「延命拒否」を選択肢に入れておきたいのであれば、事前に意思表明しておくしかない、というわけだ。それさえあれば、医療者は訴訟の心配をすることなく、患者の意志に沿うことができる。

「リヴィングウィルやエンディングノートに書いておくのももちろんいいとは思うけど、やっぱり公的証書が一番。それだと、裁判になっても揺るぎない証拠になるから、医師も安心して患者さんの思いを尊重することができるでしょ」

 一人で死んでいくならともかく、医師という第三者に関わってもらう以上は、その人たちの負担や不利益にならないように万事整えておく必要があるわけだ。ますます死にづらい世の中である。

 しかも、準備はできるだけ、いわゆる後期高齢者になる前にやっておいたほうがいいとFさんは言う。

「どれだけしっかりしているように見えても、やっぱり後期高齢者と呼ばれる年代になると、やっぱり怪しいところが出てくるのよ。これはもうどうしようもないよね。本人の気質や生活態度などによって個人差はあるけど、七十代に入ると誰でも認知に問題が出てくるし、病気も増える。三大疾病は当たり前に起こると思って、そのための心構えはしておかないと」

 そうなんだよなあ。絶対病気にはなるんだよなあ。

「そう。だからこそ、自分はどんな病気にかかりやすいのかを理解しておくのは大切だと思う。頭がしっかりしているうちに認識して、備えてさえいれば、いざという時にも必要以上に動揺せずに済むしね。そのためには健診を受けて、異常値が出たらできるだけ軽いうちに治しておく。たとえば癌だって、早期に発見できれば日帰り手術で済む場合もある。それだったら立会人を立てる必要もないでしょう? 早期発見早期治療は、患者にとっても医療者にとっても負担が少ない、最善の道なわけよ。リスクが大きくならないうちに、芽を潰す。何事も回避が一番」

 まったくおっしゃる通りです。

結局、この日の取材はくだんの急患の発生によって予定より短くなってしまったのだが、取材終了後、御礼を兼ねて食事に行った店ではもっとざっくばらんな話をした。

 そんな中、やっぱり出てきたトピックがあった。

 人間関係が大事、という“いつものあれ”である。

「やっぱりある程度は頼り、頼れる人間関係を保持しておくことは大事かな。本人は無頓着でも、家族が異状に気づいて病院に連れてくるケースが結構多いからね。たとえ家族がいなくても、友達がその代わりになるし。とにかく、なんらかの繋がりを保っていれば、高齢者の独居も問題ないと思うよ。」

 やっぱりそこかあ……。

 目をつぶっても耳をふさいでも出てくる「人間関係」。毎日高齢者を相手にしている人が言うんだもの。確実に重要なポイントなのだ。

 過去、Fさんの患者にも天涯孤独の人がいたという。親族はもちろん、友人もほとんどいなかった。そんな人が病気になり、さらに認知機能にも問題が出てきた。当然働けるはずもなく、生活保護を受けることになったが、すでに介護保険制度の対象となる年齢だったので、役所の計らいで地域包括支援センターと即座に繋がり、身の回りの世話をするヘルパーもついたそうだ。一見モデルケースのような顛末だが、やはり三六五日二十四時間のケアは不可能だった。

 そして、エアポケットのようにポッカリと発生する「公的ケア不全」のしわ寄せをまともに被ったのが、訪問医療を引き受けていたFさんだったという。

「日曜日に具合が悪いって電話がかかってきたから往診に行ったのね。それで、診察して、処方箋も書いたけど、ヘルパーさんが月曜にならないと来ないから薬を取りに行けないって。結局、私が行くしかなかった。あと、排泄のお手伝いなんかもしたよ。する人がいないなら、やるしかないよね」

 医師である彼女は、排泄介助や薬の代理購入などをする義務はない。だが、ヘルパーは決められた日にしか来ないし、土日になれば支援センターはストップする。

「そんな状態で、目の前に困っている人がいて、ほっとくわけにはいかないでしょう」

 それはまあそうだろうけど。診察以外の行為は完全にボランティアだ。責任感が強く、優しい彼女だからやれたのであって、これは決して「医者として当たり前」の行為ではない。Fさんには脱帽するばかりである。

 だが、同時に、この話は私に「身近に介護者がいない現実」をまざまざと見せつけた。

 もし、私がこの患者さんと同じような状況に陥ったとしたら。

 そして、Fさんのような医師と出会えなかったら。

 詰む。

 どう考えても詰む。

 やっぱり、今のままでは私は「介護が必要な状態」に陥ると、望まない生活を送る羽目になる。

 それは嫌だ。

 嫌ならば、「介護が必要な状態」になっても快適に過ごせる体制を作っておくか、「介護が必要な状態」になる前に死ぬかしかない。

 いや、もう一つある。

 そのどちらになっても大丈夫なように用意しておくことだ。

 では、両方準備するには何が必要か。

 それは自分にとっての「死に時」はいつなのかを、明確にしておくことだ。リミットを設定すれば、タイムラインを計画しやすくなる。

 よし、ではまず自分の死に時を決めよう。

 まず、今はまだ死に時ではない。

 なぜなら、母が元気で存命しているから。

 よほどのことがない限り、見送るのは私の義務だろう。

 母が平均寿命ぐらいまでは生きると仮定したら、少なくともあと十五年間は死より生を優先して生きていかなければならない。心身ともに健康でいられるように生活を管理し、きちんと健診を受け、病気の芽はこまめに摘んでおく。当初方針通りで間違いない。医療とは健全なお付き合いをしていくことになるだろう。

 その上で、母が死んだらどうするか。

 私をこの世に縛り付けておく「他者への義務」は一切なくなる。言い換えれば、いつ死んでもよくなる。母が九十歳を前にあの世に行ったとして、その頃の私は六十代後半から七十代前半になっている。

 もし、その段階で死に至る病気が見つかったら。

 見つかった病気で従容として死んでいくべく、根治は目指さず、苦痛があれば緩和ケアに専念し、万が一の救急も拒否する。

 それができれば、私が憂いている「介護が必要な状態」は最小限で抑えられるはずである。

 だが、いざそうなった時、私は本当に「そのまま死んでいく」道を選ぶことができるのだろうか。

 まだ五十歳にも満たない今の私は、七十前後まで生きたらもう十分と思っている。欲を言い出せばキリはないが、少なくともここまでの人生にやり残しはない。残りの人生がオマケとまでは言わないが、何が何でも長生きしなければ気がすまないわけでないのも確かだ。

 今は、脳内でいくらシミュレーションしても「生に執着する理由は特にない」という結論しか出てこない。だから、死に時は「母が死んだ後、最初に死病が見つかった時、もしくは死に至る事故や事件に遭遇した時」と決めることができる。

 しかし、いざ死が切迫してきたら、こんなにフラットな気持ちで「死」に相対できるのだろうか。本当に命が惜しくならないのだろうか。

 こればっかりはその時に至らなければわからない。

 もう一つ、不安要素がある。

 ボケてしまった場合だ。

 認知機能が著しく低下し、これまで考えてきたことを全て忘れてしまったら。

 そして、生物のプリミティブな反応のまま、ただ生きたいと願ったら。

 この場合、認知機能がまともだった頃の私の意志が優先されるべきなのか、まさに死に直面している「ボケた私」の意志が尊重されるべきなのか。

「ボケていなかった過去の私」は「ボケてしまった時点の私」の意思決定代理人たる資格があるのか。

 いろいろと思いを巡らせた末にこの問題にたどり着いた瞬間、私は立ち往生した。

 自己決定権について曖昧な認識しかなかったことに、今更ながら気がついたのである。

 いったいいつの「自己」が下した決定に私は従うべきなのか。そもそも、決定した「自己」と決定された「自己」は同じ「自己」なのか。

 あ、あかん。これ、ややこしいやつや。

 避けねばやばい、泥沼だと思ったが、気がついてしまった以上、逃げることはできなかった。深みが手招きしている。アビダルマが提灯を振って待っている。

 アビダルマってなんだ? ですか?

 はい、次回ご説明いたします。

(第十七回へつづく)