さて、二ヶ月ぶりで本筋に戻る前に、第十一回のおさらいを。

 第十一回では、横須賀市独自の取り組みである「わたしの終活登録」の内容について紹介しつつ、必要項目を埋めていく作業をしていたが、「所属のコミュニティ、グループ、支援事業所など」欄に書き込めるものが何もない現実に気づき、己の来し方行く末に思いを馳せる展開となった。

 己を省みるよい機会にはなったものの、だからといって状況は変わっていない。所属するコミュニティもグループもないまま、探そうという気も起きない。インディペンデントの気楽さが勝ってしまう。おかしいなあ、ものの本にはてんびん座生まれは天性のコミュニケーション上手だと書いてあるのに。そういえば二黒土星は真面目で堅実な性格だっていうけど、こちらも大外れだ。占いも当てにならないものである。

 いずれにせよ、ここで足踏みをしていても仕方がない。心の中のいかりや長介に「駄目だこりゃ、次いってみよう!」の掛け声をかけてもらって、次項に進むことにした。

 項目の四番目は「医師・アレルギー等」。医療関係の情報を書き込む欄になっている。

 アレルギーの有無に関しては、事実をそのまま書き込めばよいので特に問題はない。ちなみに、私は何のアレルギーもない。数年前、ひどい鼻炎に悩まされたので、何かのアレルギーではないかと徹底的に調べてもらった。その結果、「珍しいぐらい何もありません」とのことだった。だからといって万々歳ではなく、鼻炎の原因は自律神経失調症で、これはもう治しようがありませんと明言された。お医者さんって、原因がはっきりしない時はとりあえず自律神経失調症って言っとけばいいと思ってない? と疑ったりしないでもないのだが、それはさておき。アレルギーのみならず、食事や薬品の制約も皆無なので、すべて「なし」と記入する。

 ただ、いずれ書き直しが必要になることもあるかもしれない。今のところ全く気配はないのだが、さほど遠くない未来になんらかの生活習慣病を発症し、食事制限や服薬が必要になる可能性はなきにしもあらず、だからだ。

 人は年を取れば取るほど弱っていく。自然が想定していた人体の耐用年数がほぼ五十年である以上、半世紀も生きれば全体的にポンコツ化していくのは摂理なわけで、これは何人なんぴとたりとも免れ得ないのだろう。

 そう考えると、「生活習慣病」より、かつての呼び名「成人病」の方が、病の特質を表す言葉としては適しているのではないか。いやさ、いっそのこと「老化病」とした方がいい気がする。

 そもそも、なぜわざわざ「生活習慣病」なる少々座りの悪い名称に変えたのだろう。気になったので調べてみると、最新版(二〇一九年度版)の『現代用語の基礎知識』に答えがあった。

 日本では長年、がん、脳血管障害、心臓疾患など、40歳以上の成人がかかりがちな病気を総称して「成人病」と呼んでいた。前記の3大成人病だけでなく、高血圧症、慢性気管支炎、肺気腫、脂肪肝、肝硬変、糖尿病、変形性関節症、白内障、老人性難聴なども含まれる。公的に用いられたのは1957年。

 96年12月、これら成人病の多くが、各個人の生活習慣に深い関係があることから、公衆衛生審議会は生活習慣病という概念を導入し、より能動的な予防に取り組もうと提案した。「食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等の生活習慣が、その発症、進行に関与する疾患群」と定義された。早期発見・早期治療という二次予防からさらに踏み込み、健康的な生活習慣によって病気の発生を未然に防ぐ一次予防を重視するねらいがある。

 なるほど、国民に自覚を促すために改変したのか。

 発病に生活上の悪習慣が強く関与する病気があるのは、きっと間違いのない事実だ。脂肪肝、肝硬変、Ⅱ型糖尿病あたりが生活習慣次第、というのは感覚的にも納得できる。

 私の視野に入っただけでも、肝臓の慢性疾患で亡くなった人たちはひどい飲酒習慣の持ち主だった。喫煙も、元喫煙者として、たしかに体によくはない実感がある。止めてからすでに二十年近く経つが、いまだに喉の調子があまりよくない。たぶん後遺症と思われる。

 食習慣に関しても、栄養の偏りが体の異常を呼ぶのは間違いない。新卒で入社して三年目か四年目の頃、初めてちょっとした現場を任されたのだが、あまりの忙しさに昼はコンビニ弁当か惣菜パン、夜はほとんど何も食べないまま強い酒を呷ってバタンキュー、朝は食べる余裕なしの生活を半年近くやったら、覿面てきめん体重が低下し、体も頭もまともに動かなくなったことがあった。あの頃はまだ若かったからなんとか回復したが、今同じことをやったら、病院行き必至だ。

 だから、「生活習慣病という概念を導入し、より能動的な予防に取り組もう」という目的は理解できる。

 たが、使い始めから四半世紀ほど経った今、この言葉もちょっと独り歩き気味なんじゃないかと思わないでもない。というのも、「正しい生活習慣さえ保っていれば、病気にならない」みたいな思い込みが、世の中に蔓延しているような気がするのだ。そのせいで、かえって病気になった時、ネガティブ方向に過剰反応する人が増えているように思う。

 そもそも、正しい生活習慣を実践していようがしていなかろうが、人間病気になるときはなる。特に遺伝子のコピーミスが原因になって発生する癌は、男性の三人に二人、女性の二人に一人が生涯に一度は発症するそうだ。この割合だと、生活習慣云々関係なく、罹るべくして罹るというしかない。

 何を食べればいいだの悪いだの、発がん性物質がどうだの、世の中にはいろんな情報が飛び交っている。しかし、癌の発症との相関が明確なのは喫煙と飲酒とウイルス感染だけだそうだ。その他は、科学的に立証されているとまでは言えない、つまり「相関があるかもしれない」「あるんじゃないかな」「あったらいいな」のレベルらしい。

 そんなのに一々付き合ってはいられないし、付き合う必要もないと個人的には考えている。よほど破滅型の生活を送っていればともかく、普通に暮らしている限り、細々と気にして一喜一憂するほうが健康によくないだろう。

 けれども、若い頃のような無頓着が通用しなくなっているのも確かだ。齢を重ねれば重ねるほど、心身のメンテナンスにお金も手間暇もかかるようになってきている。若々しさを保つというより、長患いや寝たきりになりたくなければ、ある程度は自己管理をしていかなければならない。

 現在、私は基本的に至って健康だ。

 だが、三年ほど前に加齢による婦人科系の物理的な不具合(更年期障害ではありません)を治療するため、入院して手術をした折には、ものの五日で退院できる程度の軽い手術だったにもかかわらず、驚くほど体力が落ち、丸一ヶ月は戻らなかった。正直、これほど回復しないものかと驚いた。

 体にメスを入れたのはこれが二度目で、一度目は中学三年生の時にやった慢性虫垂炎の手術だった。入院日数はほぼ同じだったのだが、当時は体力の衰えなんぞ微塵みじんも感じなかった。歩いてよしの許可が出た途端、病棟内を散歩しまくるものだから看護師さんに叱られたほどである。病院食もまったく足りず、家族親族が日替わりで持ってきてくれる差し入れをバクバク食べ、「こんなによく食べる入院患者も珍しいな」と主治医に呆れられた。

 そういえば、まだ流動食だったタイミングで、空腹に耐えかねてこっそり売店で大福を買って食べた記憶がある。粒餡なんて絶対駄目でしょって話なのだが、特段異常も来さず、おかげでバレずにすんだ。アホの子は元気だったのだ。

 それから三十年以上経ち、許可が出てから病棟の散歩を試みたのは同じだったが、今回はすぐに体が音を上げた。食事も出てくるものだけで十分だった。

 衰えたものである。だが、これもまだ序の口なのだろう。これからもっと衰えて、何かあったらどんどん体力が戻らなくなっていくのだ。体よ、なんでお前はそうも年月に弱いのか。もっと抗えないのか。嗚呼、加齢の馬鹿。

 ……単なる愚痴になってきたので、話を戻そう。

 どうしていきなり三年前の手術の話を始めたかと言うと、「人間、必ず弱って死ぬんですから」って話をしたいのとは別に、この前後の経験で健康診断の大切さと第四項に書き込むべしとされている「かかりつけ医」について、ちょっとした知見を得たからである。

 手術に至るまでの経緯はこうだった。

 婦人科系の不具合は三十代に入った頃から続いていた。しかし、生活に差し障るようになったのは四十代に入ってからだ。下手をすれば月の半分が体調不良という事態になって、さすがにこれはまずかろうと思った。そこで、国民健康保険の健康診断を受ける際、婦人科系の診査を追加してみたわけである。健診は総合病院に付属する健康管理センターで受けた。

 診査には、機器での検査の他、医師による問診が付いていた。そこで先生に症状を説明し、どれだけ困っているかを話したところ、「これは放置しておけないね」とその場で親病院での診察予約を取ってくれた。おかげで早々の受診が可能となり、最終的に手術が決まったのである。手術は設備の整った大学病院ですることになったのだが、病院間の連携もスムーズだった。

 そして、術後は長年苦しんでいた慢性的な貧血が解消し、私のQOLは劇的に改善した。

 ここから、私は二つの教訓を得た。

 一つは、死病ではないもののQOLを下げる症状はとっとと退治したほうがいい、ということ。

 もう一つは、可能であるならば健康診断は個人医院ではなく、総合病院で受けた方がいい、ということだ。

 ただし、これだと国策の真逆をいくことになるが。

 今現在、日本では国をあげて「かかりつけ医」制度の普及を推し進めている。たぶん、ポスターなどで言葉自体は見たことがあるのではないだろうか。

 日本医師会のホームページによると「『健康に関することを何でも相談でき、必要な時は専門の医療機関を紹介してくれる身近にいて頼りになる医師のこと』をかかりつけ医と呼んでいます」だそうで、要するに近所に「いつも通う頼りになる医院」を作っておきましょう、と旗を振っているのだ。

 この制度が始まった背景には、またもや高齢化問題がある。

 日本の年寄りはとかく“おおげさな治療”を好む。ちょっとした風邪でも病院に行って、薬は言わずもがな、必要のない検査や治療を要求する。たくさん検査や薬を出してくれる医者が「いい医者」だし、立派な病院に通うのが一種のステータスになる。ちょっと何を言っているかわからないと思うかもしれないが、本当に「ステータス」になるそうである。人間、何にでもヒエラルキーを持ち込めるものだと感心したものだが、その結果、医療の効率化が阻害され、医療費が増大する負の影響が看過できなくなった。

 そこを是正するため、軽い病気は診療所などの小規模な医院で済ませ、高度治療を必要とするケースのみを大きな総合病院につなぐことで、適正な医療を保とうとするのが「かかりつけ医」制度の骨子である。

 要するに、かかりつけ医は“地域医療のダム”のようなものだと理解していいだろう。

 そんなわけだから、山井養仙では務まらない。医師会によると「何でも相談できるうえ、最新の医療情報を熟知して、必要な時には専門医、専門医療機関を紹介でき、身近で頼りになる地域医療、保健、福祉を担う総合的な能力を有する医師」のみがかかりつけ医を名乗れるらしい。

「おお、そうか。確かに健康に関することを何でも相談できて、最新医療にも詳しい近所の医者とつながっていると心強いな。よっしゃ、私も一発探しておくか」

 なんでも真に受ける私は、心安く診察を受けられる近所の開業医を探し始めた。

 そして、撃沈した。

 「かかりつけ医」なるものも所詮は画餅と悟ったのである。

 先ほども述べた通り、私は基本的には健康体なのだが、長年胃腸の不調に悩まされているのも嘘ではない。昔、サラリーマン時代に過敏性腸症候群を発症し、完治しないままずっと来ている。また、胃弱体質で胸焼けや胃もたれをよく起こす。

 そこで、かかりつけ医になってもらうなら胃腸科の専門医がよろしかろうと考え、地域の総合病院が出している「かかりつけ医」リストをチェックし、最寄りの胃腸科医院に行ってみた。

 そして、「何でも相談できる」の言葉を信じて、胃弱と腸の不調で悩んでいるのを切々と訴えてみた結果が、「なんか症状が色々ですね」の返事ひとつだった。しかも、微妙に揶揄やゆする感じで。軽く上がった口の端が「はいはい、また不定愁訴系ね。どうせ気のもんだろうけどね」と語っていた。いや、本当にそう思っていたかどうかはエスパーでもない我が身には定かではないが、少なくとも眼前の相手にそうと感じさせる態度だった。

 こりゃ駄目だ(今回二度目)、である。

 まあ、医師が一々患者の話を真面目に聞いていられない気分になるのはわからいでもない。だが、せめて初診の時ぐらいは耳を傾けてくれたっていいではないか。少なくとも「何でも相談できるかかりつけ医」の看板を背負っているのなら。

 あくまで私の狭い観測範囲内での経験談だが、「患者の話を聞かない医師」は総合病院より町医者の医師に多い気がする。実は、先述した婦人科系の病気の時も最初は町場の産婦人科医院に行ったのだが、若い男性医師は触診すらしようとせず、不機嫌そうに「それ、別に様子見でいいですから」の一言で終わらせた。

 冗談じゃない、こっちはまじで大変なんだよと頭に来たが、こいつに何を言っても同じだなとも思ったので、そのまま引き下がった。

 ところが、健診で問診してくれた医師にこの経緯を話すと、「いや、これだけ症状がはっきりと出ていて経過観察なんてありえないよ。その医者、何を考えているんだ」と私以上に怒ってくれ、前述の流れになったわけだ。転院し、施術を受けた病院は大学病院だったが、こちらの先生も実に丁寧に対応してくれた。「これだけひどくなっていたらそりゃ生活にも差し障りますよ。大変だったでしょう」のひと言がどれほどありがたかったか。

 こういう先生たちこそが、医師会やらお国の目指す「かかりつけ医」ではないのか。だが、開業医がそれをやってくれない以上、健診で総合病院と繋がり、結果に問題があればそれを取っ掛かりに診察を受けた方が時間の節約になる。何より、不快な思いをしなくてすむ。

 もちろん、信頼できる町医者だっているだろう。だが、町医者にかかるのは、術後の管理や慢性疾患の経過観察など、目的がはっきりしてからの方がいいのではないかという気がしている。

 まあ、あくまで「私はそうだった」という話なので、全く正反対の経験をした人もいるに違いない。たまたま私の町医者運が悪かっただけかもしれない。ただ、よほどでないと医者には行かない私のようなタイプは、大きな病院で健診を受け、その時に気になっている部分を自費で受診してみて、その担当医師に相談してみるのが一番のようだ。

 というわけで、「かかりつけの医療機関」欄は空白のままにしておくことにした。

 しかし、死に方を考える上で、医療とどう関わっていくのかという問題はゆるがせにはできない。

 私が理想とする死を迎えるためには、QOLを下げる慢性疾患や病臥が長くなるタイプの病、つまりかかりつけ医が必要となる事態は可能な限り避けたい。そのためには、一年に一度ぐらいはしっかりと検査して、病の種を早いうちに潰しておく方針は正しいはずだ。

 だが、もう一つ考えておくべきことがある。

 万が一、検査で死病の種が見つかった時、これを治療するのか、それともその病気で死ぬ方向で進むのか。

 安楽死の問題とも関わってくるところなので、次回に持ち越しでじっくり考えてみたい。

(第十六回へつづく)