今回はまず「消極的安楽死」について、一から見ていこうと思う。

 二十世紀になって目覚ましい進歩を遂げた医療は、進歩したがゆえに人類がそれまで経験してこなかった問題を生み出した。

 生と死の境界を曖昧にしてしまったのである。

 高度医療が最初に生んだのは「食べられなくても死なない患者」だった。

 人間は口から食べ物を摂取することで栄養を取り、命を養う動物だ。だから、食べられなくなったら、時間の長短はあるとはいえ、必ず死を迎えていた。

 ところが、高カロリー輸液の点滴や胃瘻で直接胃に食物を送り込む技術が生まれ、「食べられない」ことが「死」と直結しなくなった。水分も同様に経口でなくても問題なくなった。

 次は「自発呼吸ができなくても死なない患者」である。人工呼吸器をつければ、それが止まらない限りは命を保てるようになった。

 他にも人工透析や人工心肺装置が開発され、その都度、人間は「生」の十分条件を減らしていった。今は、自力で食べられなくても、呼吸できなくても、心臓や腎臓が機能不全になっても生きることができる。

 これにより重度の慢性疾患を持つ人や急性期において「今、この時だけ機械の助けがあれば回復できる」という人たちが元の生活を取り戻すことができるようになった。

 これは間違いなく恩恵だ。

 しかし、光あるところ必ず影がある。

 新たな技術は「脳死」や「植物状態」と呼ばれる一群の患者を生むことになった。

 脳死は生命維持装置を使えば心肺機能のみ保てる状態である。しかし、脳のすべての部分が完全停止しているため、ほとんどの場合、命は長くて数日しかもたない。

 一方、植物状態では、脳のうち生命維持機能を司る中枢部や感覚/運動神経の通路となる脳幹のみが比較的正常に残る。しかし、大脳や小脳などの思考や感情――つまり「人間らしさ」を形作る箇所が機能停止してしまう。

 よって、植物状態の患者は呼吸こそ自力でできるが、その他一切の行為、食事、排泄、移動などができなくなる。さらに、思考も感情も認識もすべて止まってしまう。

 ただ――これが判断を惑わせる一番の要因なのだが――植物状態の場合、呼びかけや音に反応したり、首を巡らせ周囲を見ているような仕草をすることがあるそうだ。また、表情の変化も見られる。一見まるで意識が回復したかのようだが、実はこれらは単なる反射であり、本人の意図や意識は働いてはいない。

 だが、家族にしてみれば、こうした反応を「単なる反射なので意味はない」と思うのは難しいだろう。

 植物状態になった患者の大半は、だいたいは六ヶ月以内に死亡するという。一方、五年以上生存する患者は約二十五パーセントいて、ごく少数だが、数十年生存することもある。そして、稀に意識が回復する場合もある。とはいえ、映画のように劇的に話せるようになったり、体を起こせるようになったりするわけではない。意思表示はできるが、全機能が完全に回復することはまずないそうだ。

 いずれにせよ、植物状態になってしまうと、生命維持装置なしでの生存は難しい。そして、現状、生命維持装置を途中で止めるのはかなりハードルが高い。医者の同意を得られないことがあるのだ。医療側が法的トラブルを恐れているためである。

 だからこそ、法制化が必要。そう考えるのは自然だ。

 しかし、法の規定がなくとも、生命維持装置を止めるのはまったく不可能ではない。最近は患者が「尊厳死」の意思表示をしていたら、それに対応する医療機関も出てきているのだ。書面も必須ではなく、生前に尊厳死を望んでいたと家族が証言したら、それが尊重される場合もある。

 しかし、胃瘻や点滴などを止めるのは、つまりその人間を餓死させるということでもある。それを見届けるのは、精神的負担が大きい。いくら本人が無駄な(とされる)延命治療の中止を望んでいたとしても、そうそう割り切れるものではない。

 もし、家族や身近な人間にそんな思いをさせたくないなら、やはり植物状態になる前に死んでおくに如くはない。つまり、延命装置を取らず、苦痛だけは取り除く医療措置を取ってもらい、自然に死んでいければベターなのだ。そのためにはやはり、事前の準備、少なくとも意思表示は必須だろう。もちろん、そんな状態になっても生き続ける選択もありだ。どちらを選ぶにしても、意思表示は必須だ。支えてくれる人たちに余計な迷いを起こさせないために。

 次に脳死だが、こちらは生命維持装置に繋いでも、ほとんどが数日で死亡する。だが、二〇一九年にはチェコで脳死状態となった妊娠中の女性が、一一七日間生命維持装置で延命した結果、帝王切開で女児を出産するというケースがあった。現代医学が本気を出せば、数カ月は脳死状態のまま生かすことができるのだ。しかも、妊娠という状態を保ったまま。

 自力では無理とはいえ、子を産める状態にある体を死者として認めていいのか。

 このケースはそんな即答できない疑問を社会に突きつけた。

 余談ではあるが、これについてもう一つ衝撃なのは、女性の体が実際に「産む機械」になりうる、ということだった。

 言うまでもなく、延命の上、出産させる道を選んだ家族や医師団に異を唱えるつもりはない。当の女性もきっとこの道を選んだだろうし、もし意識があれば子が無事に生まれたことを誰よりも喜んだだろう。

 けれども、身体機能さえあれば、脳機能の大半が停止していても出産できることを現実に証明してしまったことは非常に恐ろしい意味を持つ。ここに深く立ち入ると話が逸れ過ぎるので、今はここまでにしておくが、医療が生む美談の影には、必ず恐ろしい可能性が潜んでいる。そのことだけは、忘れずにいたいと常々思っている。

 さて、話を戻そう。

 脳死を人の死と認めるかについては、日本では一九九〇年代に盛んに議論された。「臓器移植法」の制定のためである。生体臓器移植は「脳死の人体」有りきの技術だ。だから、法律上、脳死が死と認められなければ、移植医は殺人罪に問われる。そんなことになっては医療が成り立たない。だから、議論されたのだ。

 賛否両論はあったが、最終的には脳死は人の死と認められた。これにより、「脳機能が完全に止まって、数日内に必ず死ぬと認められたものは、人為的に命を絶ってよい」と認められた。つまり、脳死になったとしても、事前に臓器提供の意思さえ示してあれば、今でも合法的に安楽死できるのだ(ちょっと語弊があるかもしれないが)。

 ここまで見てきたように、今現在「安楽死の法制化」が必要なケースは、世間がぼんやりと想定しているほど多くはない。ほとんどがその手前でなんとかなる。極めて厳しい状態になることがあらかじめ決まっているALS患者の方々のようなケースは少数だ。

 この現実がもう少し広まれば、嘱託殺人事件をきっかけにあまり深くまで考えないまま「ぼんやりとした安楽死」の法制化を求めようとする声は少なくなるのではないかと思う。

 さて、次に「尊厳死」について、改めて検討していきた。

 尊厳死という考え方は今現在、世の中におおむね好意的に受け止められている。だが、問題がないわけではない。

 今回、この原稿を書くにあたって、安楽死や尊厳死に対する賛否両論を併せて読んだ。

 その上で気になったのは「尊厳死」や「平穏死(自然な老衰死)」を勧める書籍のほとんどが医療関係者によって書かれていることだった。しかも、高齢者の医療や介護の現場にいる人からの発信が多い。彼らはそれだけいわゆる「無駄な医療」とされるものをたくさん見続けてきたのだろう。

 ただ、どうしても気になるのが、文章に見え隠れするパターナリズムだった。パターナリズムとは、「あなたのためですよ」と言いながら、相手の行動に強く干渉しようとする態度や行動を指す。

 尊厳死を勧める書籍のほとんどが、延命治療の末路の悲惨さや家族の心身への負担、そして言外、時には直接的に現代医療への負荷を記述している。そして、それらの指摘は正鵠を射ている。だから、とても説得される。

 それゆえに、危うい。ああした書物を読みすぎると、老後への不安を無闇に抱えてしまい、必要のない安楽死まで求めるようになるのではないかという気がするのだ。

 その好例が脚本家の橋田寿賀子氏の著作『安楽死で死なせて下さい』だ。

 寝たきりになったり、重度の認知症になったら死にたい。ベストセラーになった本書で、氏はそう語っている。気持ちは痛いほどわかる。わからないなら、こんな連載はやっていない。

 けれども、人権や福祉が軽んじられがちな日本において、「自分の面倒を見られなくなったら、自由に死んでいい」は、相模原事件の植松聖死刑囚が衆議院議長宛に書いた手紙の文面「障害者は不幸を作ることしかできません」と、遠いながらも同一線上にある。残念ながら、それは間違いない。

 橋田氏も批判があるのを認識しているようで、二〇一八年三月五日の朝日新聞の記事で「安楽死について発言すると、うるさく言われることが多いんですよ。」とした上で、「日本は、議論をぐちゃぐちゃにしているんですよ。安楽死を短絡的に、『役に立たなくなった人は死ねということか』という議論に結びつけるのは違うな、と思います。」と述べている。橋田氏は意図と違う捉えられ方をしたのが不本意だったのだろう。

 私も、以前なら橋田氏の意見に同調したと思う。だが、相模原事件や今回の嘱託殺人事件が起こり、その世間の反応を見てしまった今、議論は短絡的に『役に立たなくなった人は死ね』に結びつくと学んだ。反対論者の懸念は杞憂ではなかったのだ。

 また、安楽死がすでに認められている諸国では、安楽死の概念が徐々に拡大解釈されつつある。オランダでは、妻を亡くし、悲嘆にくれた男性が安楽死を希望し、それが叶えられたケースが発生した。日本だと自殺幇助になって、罪を問われるだろう。オランダでも賛否両論があった。否定する人々が懸念したのは、重度の鬱病だったという男性を治療や生活補助などで助ける努力が十分に払われていたかという点だ。

 死が簡単にチョイスできる選択肢の一つにまで落ちてしまうと、生きるための選択肢を構築し、維持する努力が払われなくなるのではないか。そうした反対派の懸念は、決して大げさではないように思う。

「死にたくなったらいつでも死ねばいい」が社会の共通認識になったとして、それが自分にだけ向けられている間はまだいい。だが、他人にも向けられるようになったら、どうなるだろうか。

 尊厳死の手段として積極的安楽死を認めるようになると、真っ先に危険にさらされるのが自分の意志を表明する手段を失った(あるいは持っていない)人たちである。次に、空気を読みすぎて自分の意志を強く持てないタイプも危ない。他者からの無言有言の圧力に屈したにも関わらず、あたかも自分の意志で死を選んだかのように処理されてしまいかねない。

 今回の嘱託殺人事件の犯人は医師だった。Dr.キリコを名乗り、インターネット上で「死にたい人」を募った。尊厳死や平穏死を勧める著者に医師が多い事実と重ね合わせると、なんだかちょっと不気味になる。医師につきもののパターナリズムは、最後まで健全性を保つことができるのだろうか。容疑者に同情する人々の声は、巡り巡って死にたくない人に死を迫る圧力にならないだろうか。

 ちなみに、法曹関係者には法制化慎重論が多い。また倫理学などのアカデミズムは慎重論から反対論が目立つ。

 当事者団体を見ると、障害者団体などは反対、尊厳死協会は当然ながら推進派だが、今回のような嘱託殺人を含め、積極的安楽死には反対する立場を取っている。

 結局のところ、私たちの社会が安楽死法制化を議論する前にすべきは、当事者が最後まで安心してくらせる持続可能な環境づくりだとする主張は、継続して安楽死/尊厳死に取り組んできた人たちの共通見解なのだ。

 一度延命装置を付けたら二度と外せない、という「常識」はゆっくりではあるが変わりつつある。確かにハードルは高いが、遺志さえ明確にしておけば越えられないほどではない。今後、この傾向はどんどん進んでいくだろう。

 そうなると、私たちが向かい合わなくてはいけない最後の課題は、嘱託殺人事件の被害女性のような「不治の病で今後厳しい闘病生活を送っていかなければならない人が死にたいと願う」ケースのみになってくる。

 これについては、正直いって、私はまだ答えを出せないでいる。

 同じALS患者でありながら国会議員になった舩後靖彦参院議員は「見解」という名で発表した談話の中で、自身も全介助で生きなければならないことを受け入れられず死を願っていたことを明かした。だが、その後、当事者団体での活動などを通じ、生命維持装置を使って生きることを選択したと語っている。

 そして、「見解」は次の言葉で締められている。

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。

 舩後議員は生きる道を見つけた。そして、理解者の支援も得た。だから、人工呼吸器をつける決断をすることができた。

 だが、現状七割のALS患者が人工呼吸器を装着せず、死んでいく方を選ぶという。七割の人たちに「あなたたちも生きる希望を見つけるべきだった」とは、私はとてもではないが言えない。ただ、もし舩後議員のような環境が整えば、七割がどれぐらいまで減るだろうと、とは思う。

「自分は厳しい環境の中でも幸せを見つけることができた、だからあなたも」論法には生存者バイアスに似た傲慢さを感じる。けれど、小さな幸せの積み重ねが人生を形作るのも確かだ。

 結局、死にたくなる要因をことごとく潰していったら、最終的にどれぐらいの人が「それでも死にたい」と願うのか。

 私たちの社会が「安楽死」を制度化するのは、その答えが出てからでいいのではないだろうか。もちろん、そんな悠長なことを言っていられるのは、自分が曲がりなりにも健康で人並みの生活を送れているからなのだが。ただ、私もいつ不治の病や事故ですべてがままならない状態になるかわからない。決して他人事ではない。その状態にならないとわからないことは山程あるのは間違いない。だからこそ、舩後議員の言葉も、嘱託殺人被害者の訴えも、常に心に留めておきたいし、安楽死を全否定するつもりもない。

 前回の冒頭に書いた通り、安楽死--というより「選択肢としての死」は必要だという認識も変わっていない。安楽死を法制化した国で、自死を可能とする薬を合法的に入手した患者が、かえって精神的に安定し、最終的に薬を必要としなくなったケースもあるそうだ。「いつでも死ねる」という安心感が、かえって生きる力になったわけである。この気持ちの流れはとてもよく理解できる。明日にでも死ねるのだから、今日一日は生きてみようと思うのは自然な心理だろう。

 だが、繰り返すが、人権への理解が脆弱で、福祉も穴だらけの日本で即法制化議論に入るのは危険という思いは変わらない。安楽死そのものについての議論は継続して行いつつ、死ななくてよかった、と思える社会を作るのが先だ。

 一方、どれだけ制度を充実させても、必ず網の目から落ちる人々はいる。そうした「真のマイノリティ」に対して、社会は何ができるのか。それも考えていかなければならない。自分だっていつ「真のマイノリティ」になるかわからないのだ。

 次回からまた「死に方さがし」に戻るが、同時にこの問題についても引き続き考えていきたいと思う。

(第十五回へつづく)