第二章

一(承前)

 開け放たれた窓から、春の海風が入ってくる。二階から、沙羅は、マカオのリラウ広場をぼんやりと見下ろしていた。

「そばにマヌエル・カルバジャルがいたのでは逃げられなかったのでしょう。あの男があなたをかどわかして、四年以上も……さぞかし怖かったでしょう?」

「父からマヌエルに付いていき、そばを離れないようにと言われていたんです」

「いいえ。あなたは攫われたのよ!」

 伯母の、断定的な口調に、沙羅は思わず口をつぐんだ。

 伯母は、沙羅の父の姉だ。ポルトガルから赴任した夫と六年前までマカオに住んでおり、帰国するまでの四年間、日本人の母に代わり、ポルトガル女性として沙羅を厳しくしつけた。

 どっしりとした体格の伯母は、再会した時から黒色のドレスばかりを身に着けている。夫が三年前黒死病で亡くなって以来、ずっと喪に服しているのだという。

 物心がついた頃から、沙羅は伯母に叱られてきた。そのせいか、今でも伯母を前にすると、気持ちをうまく表現できなかった。

 母はいつも毅然としていたが、伯母が母に見下した態度で接するのを、沙羅は子供心に気付いていた。父は、そんな伯母の態度を何度か注意をしたが、一時収まるだけで根本的にはなにも変わらなかった。

 伯母は日本を、キリスト教を知らない東洋の未開の地、野蛮な国だと思っている。むろん行ったことはない。伯母の基準は、ポルトガルやイスパニアであり、西洋以外の国は蛮族らしい。

 伯母の厳しいしつけに沙羅が耐えたのは、母のためだ。自分がポルトガル人として言葉や作法をきちんと身につければ、母が貶められることない、そう思ったのだ。その一方で、母からは日本のことも教えてもらい、母の原点は守ろうと思った。それが沙羅なりの伯母への反抗だった。

「マヌエルに無理やり連れていかれたことにしたほうが、あなたのためですよ。結婚を考えてもいい年なのだから、少しは分別を持ちなさい」

 沙羅は、レースがふんだんに装飾されたドレスの胴着を引き上げたり、下げたりして整え、聞こえないふりをした。

 階下で人の声がし、伯母は部屋を出ていく。すぐ伯母は、若い男性を伴い戻ってきた。

 若い男は、トリスタン・デ・カリバーリョ。昨年、伯母とポルトガルからマカオへやってきたというリスボンの貴族の息子だ。沙羅の記憶にあるのは、母が亡くなった時、マカオで一度会ったことがある、それくらいだ。しかし、記憶の中の顔はおぼろげだし、二十二歳を過ぎた彼は見知らぬ人である。

 トリスタンは、沙羅が元気そうで安心したと言い、微笑んだ。

「三年前マヌエル・カルバジャル殿からわたし宛ての親書が届きました。でも、黒死病の流行で母と兄が相次いで亡くなり、リスボンを離れられず……ようやく昨年マカオへ着くことができました。これがそのマヌエル殿の親書です」

 マヌエルの手紙は、『シルバ家当主から託され、一人娘の沙羅・ベアトリス・ダ・シルバ嬢を養育している。しかし、今後を思うと、カリバーリョ家で暮らしたほうがよいと思うので、マカオまでシルバ嬢を迎えに来て欲しい。マニラにいる知人の商人に伝言を託せば、マカオで沙羅と会えるよう手はずを整える』という内容だった。

「指定されたマニラ商人に返書を預けましたが、音沙汰がなく……春になり、日本からの船が到着する時期になったので、いずれかの船にあなたが乗っているのではないかと思い、港に通いました。お目にかかることができてほっとしています」

「あの……でも、どうしてマヌエルは、あなたにこの手紙を?」

 トリスタンは、驚いたように少し身を引いた。「ご存じないのですか?」

「なにをですか?」

「お父上から聞いているでしょう?」伯母が口をはさんだ。「シルバ家とカリバーリョ家の約束ですよ。トリスタンは、あなたの婚約者です」

 驚きのあまり、沙羅は目を見開く。

「口約束のようですが、わたしは、十年前から父から聞いていましたよ」

 徐々に沙羅の記憶が蘇る。そういえば、母の葬儀で初めてトリスタンに会った時、父から将来の夫と紹介されたような……。七歳の沙羅にとって、トリスタンはリスボンから来た洗練された少年だった。でも、その後、沙羅がトリスタンについて訊いても、父はあやふやに答えるばかり。おそらく父も彼についてよく知らなかったのだろう。父も話題にしないので、沙羅は二年も経つと、そんな話があったことすら忘れてしまっていた。

「今回のマヌエル殿のゴアへの移送は思いがけないことで、わたしも驚いています。お父上からわたしたちの婚約を聞いていたマヌエル殿は、居場所を知られるかもしれない危険を承知の上でわたしに連絡をくださったのでしょう。勇気のいることです」

「トリスタンは、あなたがあの船内に拘束されているのを知って、マカオのイエズス会本部にかけあって、あなたを船から下ろしてくださったのよ。さすがカリバーリョ家ね。一族から司教様や教皇庁の枢機卿猊下すうききようげいかを輩出しているだけはありますよ。あなたも感謝なさい」

 伯母は、沙羅に高圧的に言った。

「ご配慮ありがとうございます」

 礼を言いながら、沙羅は、知らないところで事態が動いていることに言いようのない不安を感じた。

「イエズス会本部に一族の縁者がおりまして。釈放については他言無用とお願いしました。異端者とかかわりがあると知られると、不利益を被ることもありますから。公訴でもされるたら、それこそ人生が狂ってしまいます。マカオにも異端の疑いをかけられて一文無しになり、貧困のうちに亡くなった老婦人がいるとか」

 トリスタンは、沙羅に近づき、向き合った。

「イエズス会に松田沙羅の行方を捜しているというマカオ商人が訪ねてきたそうです。どこから情報が漏れたのか、あなたが船を下りたことを知っていた。応対したパードレは、その商人は日本から来たポルトガル商人に捜索を頼まれたと話したそうです。妙なことに巻き込まれないために、イエズス会の上層部を通じて、あなたはイスパニア商人に引き取られてマニラへ向かったことにしてもらいました。そのパードレは、商人にそう説明したはずです。これからあなたは、シルバ家の沙羅・ベアトリスと名乗ってください。松田姓は、決して公にしないよう。ふた月は人前には出ないで、ほとぼりが冷めた頃、マカオへ戻ってきたことにして普通に暮らしていけばよいと思います」

「心強いわね、沙羅。このような方がそばにいるなんて!」伯母は、大げさに喜んだ。「トリスタンがここにいらしたのは、マカオ情勢を本国に報告するためでもあるのよ」

「王命が行き届いているかどうかを報告するのがわたしの務めです。イエズス会と市政が対立していると聞きますし、オランダや明の動きもお知りになりたいと国王陛下は仰せです。本国にいては知りえぬことですから、客観的な見地からの情報と分析をとお望みなのです。マカオは、ポルトガルにとって東洋の重要拠点ですから」

 トリスタンの役目にあまり興味はなかった。沙羅は、マヌエルが書いた書簡の文字をじっと見つめる。

「あの……マヌエルを救うことはできませんか?」

 沙羅は、マヌエルの船に乗った経緯から、長崎で世話になったことなどを話した。

 トリスタンは、表情を曇らせる。

「隠れユダヤ教徒の嫌疑はわたしにはどうにもなりません。ですが、誘拐した件は誤りだとゴアに伝えることはできますよ」

「だめです!」伯母は、反対した。「沙羅は、マヌエルとずっと一緒だったんですよ。誘拐でなければ、自ら進んでそばにいたことになります。隠れユダヤ教徒とかかわったら、いえ、異端者とはかかわらないほうがいいとさっきおっしゃったじゃありませんか! わたしは、いやですよ。シルバ家がやっかいごとに巻き込まれるのは!」

「わかりました。では……マヌエル殿があなたを保護していた、なにかそれらしい理由を添えて伝えます。それでよろしいですね?」

 伯母を宥めると、トリスタンは、また訪問しますと言い、礼儀正しく挨拶をして立ち去った。

「融通の利く方でよかったわ」伯母は、胸を撫でおろした。「沙羅、カリバーリョ家は、シルバ家より資産家でもあるし、家柄としても申し分ないわ。あなたの後ろ盾にふさわしい。とてもいい縁談で、リスボンにいる我が一族も喜んでいるのよ」

「でも、向こうは、落ちぶれ小貴族のシルバ家との縁談になんの得が?」

「トリスタンは跡取りではないの。三兄弟の末っ子よ。名家ではあるけれど、トリスタンよりあなたのほうが資産を持ってると思うわ。つまりは、お父様の遺産ね」

 妙に納得した。そうでもなければ、東洋まで迎えにこないだろう。

「でも、この十年で情勢は変わりましたよ。さっき聞いたでしょ。トリスタンの兄上が亡くなったの。もう一人の兄上は病弱で、後継者としては不安視されているんですって。縁談は進められているけど、当の兄上はその話を躊躇っているそうよ。結婚をしても、子を遺さず亡くなる可能性もあるわ。そうなれば、トリスタンが家を継ぐことになるのよ。とにかくカリバーリョ家と縁組をすれば、不愉快極まりない疑惑は持たれなくて済むし、どう転んでもシルバ家にとって悪い話ではないわ」

 伯母の頭にあるのは、一族の繁栄らしいと沙羅は思った。会ったこともないような一族のために、自分の縁談が進められるのかと思うと虚しくなる。

「沙羅、お父様を支えていたお仲間が助けてくれるはずだから、あなたは商いを興して、そして得たお金の一部をイエズス会に寄進なさい。そうすれば、ここでの地位は安泰よ。いい、わたしの言う通りになさい。すべてはあなたのためよ」

 嘘。伯母の言う通りにしていたら、一生窮屈な思いをして生きていくことになる。

「伯母様、父の後を継いで商いをすることに、わたしになんの躊躇いもありません。でも、縁談はわたしの意思――」

「お父様の後を継ぐというのなら、その意志も継いでちょうだい。シルバ家のためにお父様は交易を始めたのよ。なけなしの資産を船につぎ込んで、一族に借金をしてここへ来たの。幸い商いはうまく運んだ。あなたは小さかったから知らないでしょうけど、お父さまは一族からの借金をすべて返済し終えたわけではなかったのよ。お父さまが亡くなったことで、一族への仕送り……返済が途絶えてしまった。こんなことをあなたには言いたくはないけれど、あなたはマカオで贅沢な暮らしをしてきたでしょう? あなたのお母さまもね。リスボンで一族が豊かとはいえない暮らしを送っていた時も……お父さまは命をかけて海へ出て交易されていたから、贅沢はよしとしても、あなたたちは……!」

 伯母は、わざとらしく一旦言葉を切ると、沙羅を睨めつける。

「だから、あなたにはお父様に代わって一族へ恩とお金を返していく義務があるの。言っていること、わかるわね?」

 伯母の飾りのない物言いは、沙羅の胸を貫いた。撥ねつけるには、今の沙羅には重すぎた。

「あなたのお父さまは、マカオで一家を構えてから、少しずつ変わっていった。一族への恩義を忘れていったわ。借金の返済も後回しにするようになって……一族の繁栄のためにここへ来たはずなのに、目の前の……東洋の女にうつつを抜かして。まったく情けないったら」

 まただ……また母の悪口を聞くなんて。沙羅の記憶は、一瞬にして子供の頃に引き戻された。きれいな発音ではない、作法が粗野だと叱られ、ポルトガル人ならこれくらいできると伯母から嫌味を言われ続けた日々のことを。父は、子供の頃からそんな完璧な子はいないと慰めてくれたが、沙羅は深く傷ついた。

 この人は何も変わっていない。いつまで経っても、母が父を堕落させたと思っている。その上、母とわたしが一族の資産にたかったと思っている。それを言葉の端々で感じる。伯母にとって、父は身内であっても、母とわたしは一族ではない。

 伯母が父母の結婚を快く思っていないのは、幼い頃から感じていた。しかし、ここまで線引きをされていたとは。怒りと悲しみ、そして罪悪感が胸に去来する。伯母に言い返せない、生涯自分を愛してくれた、今は亡き父母を守り切れない罪悪感を。

「あなたの役目は、シルバ家を再興させることよ。それはお父様の遺志でもあるんだから。この縁談もお父様がお決めになったこと。お父様のためにも、わたしはトリスタンとの婚姻を進めるわ。いいわね」

 わたしが失敗すれば、母が悪く言われる。子供の頃そう思って、悔しさを呑みこんできた。あの時は、母の存在がわたしを支えていた。母がいなかったら、わたしは耐えられず、逃げ出していただろう。そして、今、伯母に亡き父母が卑しめられないように、わたしはまた背負わなければならないのか。

 沙羅の心に、龍之進の笑顔が浮かんだ。長崎での温かい風を受け、龍之進がなにか話している。話した内容も思い出せないほどのささやかな日常。でも、そこに喜びがあった。

 ここには親族とは名ばかりの、氷の棘のような冷たさがあるだけだ。

 会いたい……そうすれば、ざわめくこの気持ちは落ち着き、心は温かさに満たされる。

 龍之進は無事だろうか? 今どこにいるの?

 ルソン島のマニラに着いた龍之進は、沙羅を引き取ったとされるイスパニア商人を訪ねた。しかし、彼は不在だった。留守を預かる召使いは、「まだ戻っていない。ルソン島内か、高砂、トンキン、ホイアンへ行ったのかもしれない」と教えてくれた。念のため、マニラの日本人町で沙羅の消息を聞き回ったが、誰も知らなかった。

 マヌエルが龍之進に教えてくれた商人の知識は実践的だった。金銀の重量や貨幣単位、度量は国によって違う。その上、単位と度量の種類が多いので、正確な知識を持ち、交換比率に従って素早く計算できることは、品物の真贋を見分ける力と同様に、商いで損をしないために必要な能力だった。

 ロペスは、龍之進の知識と能力を買い、取引の場にも連れていくようになった。龍之進は、もはや傭兵だけでなく、帳簿をつける会計係も任される、ロペスのなくてはならない腹心だった。

 ロペスは、老朽化したサン・ラファエル号に代わり、マカオ商人と出資し合って、ガレオン船を手に入れた。ロペスは、そのハイニャ・ド・マール号の船長となり、龍之進も引き続き彼を補佐した。しかし、その後まもなくロペスはマラリアに倒れ、死は免れたものの、体調が芳しくなく、時々床に臥せるようになった。そのため、龍之進は、ロペスの代理を務めることも多くなった。

 龍之進は、高砂、トンキンに寄港し、さまざまな取引をしながら、行く先々でイスパニア商人を捜し、沙羅の消息を求め続けた。

 自分が手にした稼ぎは、沙羅の身受けも考えて蓄え続けた。しかし、依然として沙羅の行方はわからないまま、三年の月日が流れた。

 一六〇七年六月 ホイアン

 広南ベトナム国の港ホイアンで、龍之進は、とうとう件のイスパニア商人を見つけた。しかし、商人は沙羅を知らないと答えた。マカオによく寄港して取引もするが、沙羅という娘を引き取った覚えはないし、なぜイエズス会のパードレがそんなことを言うのかもわからない、人違いではないかと話した。龍之進が納得しないのを見て取ると、商人は、気が済むのなら船内を捜してみたらいいと龍之進を自分の船に案内した。沙羅はいなかった。

 希望の糸を絶たれ、龍之進は、気持ちも気力も萎えてしまった。しかし、さらに気分を落ち込ませる情報を耳にする。

 ホイアンに着いたポルトガル船の船乗りから、マヌエルの死を知らされたのだ。

 三年前、船乗りはマラッカにいた。ある日、ゴア行きの帆船が入港してきて、船には長崎で捕らえられ、ゴアへ移送される途中の男の囚人が乗っていた。囚人が船内で病死したので、遺体はマラッカ沖の海に水葬されることになり、船乗りは小舟を沖へ出す手伝いをしたという。

「囚人の罪はなんだったんです?」龍之進は訊いた。

「隠れユダヤ教徒と聞いたなぁ。ゴアの異端審問所へ連行する途中だったみたいで。長崎で訴えられたが、それ以前にゴアでも公訴されていたらしい」

「なにをしてた人ですか?」

「交易商よ。名前はまではわからないが、三十半ばで、ずいぶん稼いだみたいだぞ」

「他に家族は乗っていなかったんですか?」

「さあ? 男に息子はいたらしいが、長崎で死んだとか。妻はずいぶん前に死んだみたいだ。他に家族がいたかどうか、乗っていたかもわからないな」

 マヌエルだ……。龍之進は、マヌエルの死を信じられなかった。でも、囚人の状況や身元に関する情報は、マヌエルを指している。

 龍之進は、マヌエルの従者についても訊いたが、わからないと船乗りは答えた。

 龍之進は、このことをロペスに話した。ロペスは、沙羅より先にマヌエルを追ったとしても、きっとマヌエルの死に間に合わなかっただろうと龍之進を慰めた。

 床に横になるロペスは、ベッドの縁に座る龍之進の手を握った。

「マヌエルがあまり苦しまず亡くなったことを祈ろう。俺は、マヌエルに感謝している。マヌエルは、お前に商人として、船乗りとして……人として大切なことを教えてくれた。お前がこうして病気がちな俺のそばにいてくれるのも、マヌエルのおかげだと思っている。龍之進、これからもそのマヌエルの遺産を大切にしろ」

 河口岸に立って夕焼けに染まる海を見つめていると、龍之進の目の前にマヌエルとの思い出が懐かしく蘇る。笑ったこと、喜びあったこと、怒ったこと、そして泣きたくなる時もマヌエルはさりげなくそばにいて、寄り添ってくれた。

 絶望に嘆きそうになる。でも、まだ沙羅を諦めるわけにはいかなかった。マヌエルとの約束だからだ。

 もう一度マカオへ行き、一から確認してみよう。龍之進は、自らを奮い立たせた。

 龍之進は、ホイアンで李旦とも再会を果たした。三艘の漕ぎ舟に曳かれ唐船がゆったりと流れる広い川を遡ってくる。そのさまを二人は、岸辺から眺めていた。

 今や龍之進は、交易商として頭角を現し、港の商人の間で知られるようになっていた。武芸に優れ、商いに明るく、ポルトガル語とイスパニア語、日本語を操る龍之進を、李旦は〝実力のある頭目〟という意味を込めて〝龍王ロンワン〟と称した。その通り名は、海を渡る商人と船乗りの間で広まり、今や龍之進よりも龍王のほうが通りがいい。

 李旦は、これまで高砂と泉州界隈の海をよく航行していたが、近年は拠点を平戸に移し、平戸の唐人商の頭領を務めているという。近いうちに朱印状を手にいれるつもりだと言った。

「明と日本は正式な交易をしていない。だから、儂みたいな海商が明の品を運び、日本に喜ばれるネ。その上、朱印状を手にできたら、儂は幕府の正式な交易船の頭目だ。もう海賊だとは、誰にも言わせない。龍王、お前ももっと欲を持つことネ。なめられるな。その道で名を馳せることができれば、やがてあちこちに顔が利くようになるヨ。力と強さがあれば、それが正義になる。強くなければ正義は通らない。たとえどんなに正しくてもな」

 マヌエルが力を持っていれば、捕まらなかった……いや、俺が力と強さを持っていれば、マヌエルを救えただろうか。

「李旦はすごいよ。自分を信じて、前進してる。でも、俺は、そこまで強くない。今だって……病のせいで甲板に立てなくてもロペスがいるから、みんな俺に従うんだ」

「ロペスはそんなに悪いのか?」

「体調もだけど、少し気弱になってる。みんなの前では決して見せないけど」

「どんな時も、ロペスは船長の役割を演じるんだな。見上げた野郎だ。で、他にお前の代わりになれる優れたやつがいるのか? もしいたとしても、他の誰でもない、お前と船に乗りたい、商いがしたいと思わせるなにかをもっと身につければいいネ。それがお前の価値だ」

 いつも李旦の言葉は力強い。龍之進に勇気を与えてくれる。

「わかったよ、李旦。ところで……」龍之進は、懐から消息を取り出した。「これ、また頼まれてくれないかな。長崎へ行ったら、甲斐セバスチャンに渡してほしいんだ」

「ああ、イエズス会の小神学校で学んでるセバスチャンか? わかった。ここで銅を売って、砂糖、沈香、鹿革を買い付けたら、そのまま平戸と長崎へ行くつもりネ。うまくいけば、ふた月後にセバスチャンに届けられると思うヨ」李旦は、丁寧に預かると、書簡を懐に入れた。「で、お前が捜す松田沙羅という娘は見つかったか?」

「いや、あちこちあたってはいるけど……」

 李旦は、平戸や長崎でもそれらしき娘の噂は聞かなかったと言った。

「そういや、女といえば、マカオに大層羽振りのいい女商人がいるらしいネ。近海の島の香辛料を欧州に、マニラや日本の銀を明に、明の生糸や広南の香木を日本に売って儲けているそうヨ。目利きな上、無駄のない品選びをして、その土地で売れそうな品を提案するのもうまいと聞く。職人を雇って、緞子どんすや金、銀、宝石にひと手間かけて加工させた品は飛ぶように売れているとか」

 ――国や土地によって、欲する品は違うから、それを把握して、彼らの望む品を届けるんだよ。

 マヌエルが言った通りことを、その女商人は実践しているらしい。品そのものを届けるだけでなく、品を加工して売るという発想は、女ならではかもしれないと龍之進は思った。勘所のよい、商才に長けた人物なのだろう。

「一度会ってみたいですね。さぞかし貫禄のある女商人なんでしょう」

「『シルバの女主人』。そう呼ばれているそうだ」

 同じ頃 マカオ

 小雨が降りしきり、窓から見える遠くの海が霞んでいる。

 沙羅は、今しがた部屋を出て行ったポルトガル人商人の話を思い返した。

 長崎に丹羽龍之進、もしくはタデウス・カルバジャルという男はいない。いるかもしれないが、まったく消息がつかめない。当時港では手配書が回っていたそうなので、長崎を離れたのではないかという報告だ。

 長崎へ行く商人に龍之進の情報収集を頼み、長崎からやってくる日本人商人に龍之進の消息を尋ねたが、いずれも同じ内容だった。

 ――絶対助けるから。

 龍之進が助けにくることを期待していたわけではない。もし来たら、大変なことに巻き込まれる。だから、来なくてよかったと思う。ただ長崎の牢屋敷で会った時が最後と思いたくない。それだけだ……。

 もし会えなくても、今、どこでどうしているのか、無事なのか、それだけでもわかればいい。無事に生きているとわかれば、安心できる。でも、それさえも叶わないらしい。

 トリスタンが部屋に入ってきた。

「沙羅、広州の買い付けはどうだった?」

「うまくいったわ。いい絹が手に入ったの」

「それはよかった。ところで、事業も軌道に乗ってきたように思うけど……そろそろ進めてもいいかな。僕もいい年になってきたし」

「それは、暗にわたしがいい年になってるってこと?」

「いや、そんなことは言ってない。あくまでも、僕の話で」

 カリバーリョ家からトリスタン宛てに書簡がたびたび届いているようだと伯母は言う。伯母が聞くところによれば、トリスタンの兄の体調と縁談がなかなか進まないという内容らしいが、沙羅との婚姻についても触れられているはず、いつまで先延ばしにするのかと、沙羅は伯母からせっつかれている。

「一年、あと一年待ってくれる? そうすれば、数字的にも目途が立って、わたしも安心できるの」

「わかった。じゃ、今後の事業計画について話し合おうか。下で会計係が待ってるよ」

 トリスタンは、嫌な顔ひとつせず引き下がると、部屋を出ていった。

 時を稼いでなにになるのだろう? 龍之進が見つからないのなら、どうしようもないのに。

 やはり心のどこかで、龍之進が現れるのを期待している。ただ現れてくれれば、そうすればなんとかなる……そう思っていた。でも、歳月が経ち過ぎてしまった。もう後戻りができないくらいに。

 トリスタンは、これまで公私ともに援助してくれた。時が経つほど、その恩が大きくなることもよくわかっている。

 ――沙羅、もう三年も経っているのよ。このままでは、カリバーリョ家のほうからお断りされてしまうことだってあり得るわ。トリスタンを跡継ぎに決めて、ポルトガルにいる別の貴族の娘と娶わせることだって考えられる! なんのために引き延ばしているの? これ以上は許しませんよ!

 これ以上は……延ばせない。

 龍之進は、なにも知らない。ずっと想っていても、わたしは独りだと思い知るばかり。

 龍之進、あなたは日本のどこかで無事に暮らしているのでしょう? それなら、それでいい。幸せでいてくれれば……。

 そうして年月の流れとともに、わたしとの思い出も薄れていくのでしょうね。

 一年後―― 一六〇八年十一月 マカオ

 ロペスは、五か月前からマカオの自宅で療養するようになった。

 九月になると、航海を終えた龍之進は、ロペスの自宅に泊まり込んで彼を看た。ある晴れた日、朝食を持っていくと、ロペスはベッドに横になったまま息を引き取っていた。まるで眠っているかのようだった。

 ロペスは、がさつに見えながら、相手の立場や心情を思いやれるやさしい男だった。規則があっても、都合のいい時は従い、そうでなければ平然と破る、現実的かつ柔軟な考えの持ち主でもあった。

 龍之進は、ロペスから逞しさを学んだ。李旦の船団が現れた時に見せた、不利な状況でも諦めず、なにができるかと考える豪胆さ、病に倒れ体に不安はあっても船乗りたちの前ではそんなことはおくびにも出さず、船を指揮する責任感。人の真価は、危機的状況に現れるというけれど、ロペスはそれを身をもって示してくれた。

 龍之進は、ロペスに代わってハイニャ・ド・マール号の船長になった。

 ロペスに妻子はいなかった。マカオにあるロペスの家、かなりのまとまった額の金銀貨幣、ロペスがこれまで書いてきた航海日誌を、ロペスは龍之進に渡す遺言状を残した。航海日誌は、彼が開拓した航路や土地のようすを記した、船長ならば誰もが欲しがる貴重な財産だ。

 マカオにある聖ロレンソ教会堂は、海に向かって建っている。

 療養するようになったロペスは、よく子供の頃の話をした。ポルトガルにいた時、海が見える教会の前にロペス少年は座り、港を出ていく帆船を眺めていたそうだ。昔を思い出すのか、少し体調がいいと、ロペスは外出して聖ロレンソ教会前の階段に座り、海を見つめていた。

 ロペスを想い、感傷的になると、龍之進は、聖ロレンソ教会へ向かう。

 肌寒い海風が時々音を立てて吹き、浜の砂を舞い上げる。

 聖ロレンソ教会には、船乗りの夫や息子が無事戻ってくるように願い、家族が祈りを捧げにやってくる。この日も、木造の聖ロレンソ教会前の階段に女たちが群がっていた。

 教会の正面扉から人々が出てくると、女たちは、とりわけいい身なりをした一人の女に声をかけた。

「シルバの女主人、うちの旦那の船がそろそろ戻ってくるんですよ」

「船が無事に戻ってくることを祈ります。いい風が吹きますように」

 え? シルバの女主人? 龍之進は、驚いて目を凝らし、輪の中心にいる女を見つめる。

「先日はありがとうございます。あれで当座の暮らしが楽になります、ドナ・サラ」

「あなたの職人としての腕は必要よ。またいつでも言ってちょうだい」

 ドナ・サラ……? 

 龍之進は、その場に立ち尽くしていた。他の景色はなにも目に映らない。一点に光が当たっている。正面から歩いてくる若い女一人だけに。

 龍之進は、心臓が止まるかと思った。まさか……いや、見間違いかも?

 棒立ちの男が目の前を塞ぐので、若い女も立ち止まり、困惑したような顔をして、じっとこちらを見つめる。その目が徐々に大きく見開かれた。

「沙羅? 沙羅だよね……?」

「龍之進……? ほんとうにあなたなの?」

 龍之進は、嬉しさのあまり、沙羅に駆け寄って抱きついた。

 それから、龍之進と沙羅は、聖ロレンソ教会の前に広がる砂浜を歩いた。龍之進の脳裏に長崎の思い出が蘇る。よく二人でこうして海辺を歩いた。

 あまりに突然の再会だったので、龍之進はなにから話せばいいのかわからなかった。

「シルバの女主人って、噂には聞いてたけど、まさか沙羅だったなんて。こうして会えたのも、まだ信じられなくて」

 龍之進は、高揚感で一杯だった。

「亡くなった父が財産を遺してくれていたの。商いを始めるにあたって補佐してくれる人にも恵まれて、シルバ商会はうまく運んでるわ」

 ドナという敬称付きで呼ばれる沙羅は、もう龍之進の知る松田沙羅と名乗っていた頃の童女ではない。美しく、凛とした素敵な女性になっていた。

「龍之進は、いつここへ?」

「九月からここにいるよ。それまであちこちの港を転々としてて……あ、俺ね、商船の船長になったんだ。マカオに家があるから、これからもたびたび滞在すると思う。俺……ずっと沙羅を捜してた。四年前、長崎から連れ出されたと知ってから、ずっと」

「捜してくれていたの?」沙羅は驚いたようで、龍之進をまじまじと見る。「わたしも龍之進があのあとどうなったのか心配で、出入りの商人たちが長崎へ行った時、尋ねてもらったの。でも、あなたのことは誰も知らなかった。だから、きっと日本のどこかで暮らしている。そう思うことにしたの……生きて、無事でいてくれたら、それでいいって」

「長崎で俺の消息を知るのは、幼馴染みの多聞だけだから。俺の安全のために、誰にもしゃべらなかったんだと思う。多聞は賢いし、口が堅いからね。だから、誰も行方を知らない」

「そうだったの。でも、まさか日本を出ていたなんて思わなかった」

 沙羅は、再会を喜んでいるようではあったが、どこかぎこちない笑みを浮かべている。

「俺もさ。沙羅がマカオにいるなんて。マカオのパードレから、イスパニア商人に連れていかれたと聞いたから、その商人を捜したんだ。やっと見つけて沙羅のことを訊いたら、なんのことだって言われてさ。で、ここで、またそのパードレに訊くと、同じことを繰り返すんだ」龍之進は、首を振った。「もうなにがなんだか……でも、よかったよ。沙羅が無事で。マヌエルも喜ぶよ」

「マヌエルのこと……知ってる?」

「マラッカにいたっていう船乗りから聞いた。船内で病死したって」

「ええ、そうなの」沙羅は、神妙な顔つきになった。「マヌエルの従者を覚えてる? ベルっていう? 彼は、今わたしの屋敷にいるわ。マラッカの商人宅にいるのがわかって、人に頼んで身請けしてもらったの。今は、長崎にいた時のように家内を取り仕切ってもらってる。龍之進……ここではタデウス・カルバジャルという名は使わないほうがいいと思うわ」

「どうして? まあ、ポルトガル名で呼ばれることはないし、通り名のほうが通じるけど」

「沙羅!」聖ロレンソ教会の前にいる若い男が声をかけてきた。男は、こちらへ向かって駆け下りてくる。「沙羅、こちらは?」二人の前に立つと、龍之進を見る。

「龍之進船長よ。子供の頃、長崎で一緒に学んだり、遊んでいたの」

「龍之進です。商船の船長をしています」龍之進は、自己紹介をした。

「初めまして。沙羅の婚約者、トリスタン・デ・カリバーリョです。元老院で書記を務めています」

 龍之進は、聞き間違えたかと思った。「婚約……?」

「ええ。シルバ商会の商いが軌道に乗るまで延期していたんですけど、半年以内には挙式するつもりです」

 俯き加減の沙羅は、「行きましょう。帳簿のことで、わたしを呼びにきたんでしょう?」と、トリスタンに抑揚のない小さな声で話しかけた。

「船長、シルバ商会に遊びにきてください。いろいろ情報交換をしましょう」

 トリスタンは、龍之進に微笑みかけた後、踵を返した。

 龍之進は、去っていく二人を見送ることができなかった。

 ただ海のほうへ目をやる。でも、瞳にはなにも映っていなかった。

(第7回へつづく)