第二章

 龍之進は、サン・ラファエル号の船首で風を受け、空と大海原を眺めた。

『やはり後を追うことにした。しばし無沙汰をするが、案ずるな。のち消息する』

 龍之進は、多聞宛ての消息(手紙)を弁天窟に残した。内容は、人物や物事を特定されないようにあえて簡潔にした。誰かに見られた時、多聞に迷惑をかけないためだ。

 多聞は怒っているだろうな……。

 龍之進は、木切れで作った玩具のように小さな自作の四分儀しぶんぎで、太陽の高さを見るまねごとをしてみる。

 サン・ラファエル号は、船首楼と船尾楼のある、三本の帆柱を持ったナウ船である。ずんぐりとした丸みを帯びた船体で、船首に突き出したやり出しに小さな帆を、前帆柱と主帆柱に横帆を、後帆柱に三角形の帆を張る。広い船倉があり、糧食、積み荷が多く詰める帆船だ。

 船長以下乗員が四十人ほどで、龍之進が港で話しかけた男が船長だった。ポルトガル人で、ロペスという。水夫の多くは、唐人、日本人、褐色や黒い肌の異国人と多様で、傭兵は龍之進を含めて六人の日本人だった。

 傭兵といっても、武芸訓練をのぞけば、やることは水夫と同じで、帆の補修、絞帆綱しぼりほづなを締めたり、四時間ごとの当直も割り当てられた。

 明け方と夕暮れ時になると、キリシタンの聖歌と、キリシタンの祈りの声が船内に響く。船長ロペスは、船首楼甲板に立ち、昼は太陽の位置を確かめ、夜は星の動きを眺めては、操舵手に指示を出す。これが毎日繰り返される。

 春の海風は冷たく、甲板を吹き抜けていく。

 龍之進は、他の傭兵や経験の浅い水夫たちと、強面の日本人傭兵隊長の掛け声に合わせて木刀を振った。

 毎日見るものといえば海原と空しかなく、食事は毎度同じの干し飯、干し魚、塩漬け肉、ビスケット。単調な日常の暇つぶしに、船に慣れた水夫らが時々ひやかしに現れる。

「頭、首、腹、脚! 続けて攻めろ! 敵は、唐人、日本人、南蛮人、紅毛人……誰が襲ってくるかわからんぞ!」

 船上にいまだ慣れない龍之進は、木刀を振りながら大きな波の揺れに少しよろけた。

 見物する水夫たちの失笑が聞こえる。

「ふらふらするな! 戦の最中よろけたら死ぬと思え!」

 傭兵隊長は、大股でこちらへ向かってくると、龍之進の脚を木刀で叩き、振り向きざまに龍之進の背後にいた童の腕と脚を同じく打った。その勢いで童の手から木刀が落ちた。童は龍之進と同じ年頃で万吉といい、木刀の握り方も振り方もまるでさまになっていない。

「万吉! お前は傭兵だろ! 死んでも刀は離すな! そんな動きでは、敵の脳天をぶち割る前に殺られるぞ!」

 万吉は、慌てて木刀を拾うと、頭を下げた。「かんにん――」

「死にたくなければ、気張れ! ためらわずに振れ! 殺られる前に殺らねば死ぬ。このままでは、お前は人の楯にしかならんぞ!」

 万吉の他にも武器を手にしたこともなさそうな男と女が一人ずついた。彼らは、マニラへ行く奉公人で、それまで船上で水夫として働く。しかし、いざという時、戦えるよう訓練を受けている。万吉同様、傭兵隊長の叱責と特訓の標的になっていた。

 訓練が終わっても、龍之進は、万吉と木刀や槍の合わせや突き受け、跳ね上げを続けた。

 午後二時を告げる時鐘が鳴ったので、龍之進は、鍛錬を切り上げて万吉と居住甲板へ下りた。龍之進は、釣床が並ぶ水夫部屋を抜けて帆布置き場へ万吉を手招きする。

「万吉、腹すかない?」

「うん。干し肉の雑炊じゃ、すぐ腹が減るよ」

 龍之進は、にんまりと笑うと、屈んで帆布の下へ手を入れ、小さな壺を取り出した。

「内緒だぞ。夜中に食糧庫からくすねておいた。瓜の酢漬けだ!」

 万吉は、背後を見て誰もいないのを確かめると、目を輝かせて壺の蓋を取った。辺りにつんとした鼻をつく匂いが漂う。

 壺を傾けて中を見る万吉の顔が曇る。「龍之進……黒い水があるだけだ」

「え?」龍之進は、壺を覗き、あちこち傾け、さらに指を突っ込んだ。「あれ? なんで? 誰かに食べられたのかな」

「中は確かめたの?」

「確かめた、確かめたよ! 木箱に何口も壺が詰められてて、二口だけ中を見たんだ。そしたら、いっぱい瓜が詰まってた。番人が戻ってくる前に、急いで一番小さな壺を盗ったんだ。それがこれ」

「それで、中を見たの?」万吉が繰り返す。

「うん? いや……みんな同じだと思って、確かめなかった」

 万吉は、がっかりしたように肩を落とす。「それ、ただの酢だよね」

「そうだね……葡萄酒酢だと思う」

 万吉は、しゃがみ込むと、壁に寄り掛かった。「ああ、腹減った」

「ごめん。期待させて」龍之進は、壺を抱えたまま、万吉の隣に腰を下ろす。

「ちゃんと確かめろって。いざという時、食いっぱぐれるよ。はい、これ」

 万吉は、腰に提げた小袋から干し魚の欠片かけらを二枚取り出し、一つを龍之進に差し出した。自らも欠片を齧る。

「儂もな、たまに食糧庫に忍び込むんだ。ほんとにたまにだよ」

 二人は、帆布の陰に隠れ、小腹を満たした。

「龍之進は、武芸の心得があって羨ましいよ。畑を耕してただけの儂とは構えが違う。もしこの船が襲われたら、儂みたいなのは真っ先に殺されてしまうんだろうな。知ってる? 倭寇は、日本刀と火縄銃で襲ってくるんだって。日本刀はよく斬れるし、火縄銃も的によく当たるから」

「倭寇って……日本人なの?」

「昔はそうだったと聞いたけど、今の倭寇は唐人が多いらしいよ。武具だけじゃなく、日本人も兵として好まれるんだって。主人に忠実で勇ましいから、南蛮人や紅毛人は日本人を雇うらしい。そう思われて、儂もこの船に乗れたんだ。でも、傭兵のうち、お侍は一握りだよ。ほとんどは儂みたいな百姓でさ、儂らは殺されるために乗るようなもんだよな。死ぬ瞬間て、どんな感じなんだろう?」

「知らないよ。死んだら、ここにいないし。それに俺は……まだ死ねない」

「な、生きていて、おもしろい? 生きるのに精一杯で、楽しいことなんてないだろ?」

「会いたい人がいる。守りたい人がいるんだ。それだけだよ」

 万吉は、少し淋しそうな笑みを浮かべた。「いいな。儂には……いない。儂は、親の借金の形に売られた。棄てられたんだ。だから、このまま死んでも誰も悲しまない。親兄弟は、儂を死んだもんだと思ってるさ」

 にわかに上の露天甲板が騒がしくなった。足音と大声が響く。さらに、銃声が二発轟いた。

 急いで龍之進と万吉は、露天甲板へ上った。

「槍、刀、銃を持て!」傭兵隊長の怒号が聞こえる。「倭寇だ! 海賊船だぞ!」

 水夫たちは、後方を見ている。龍之進も船縁に身を乗り出し、後方の海を見た。二隻の唐船がついてくる。

 唐船は二手に分かれ、一方は真後ろに付き、もう一方は大きく右へ迂回する。真後ろについた唐船が近づくにつれ、甲板にいる武装した男たちの光る槍や刀が見えた。

 龍之進は、震え上がった。

 サン・ラファエル号の大砲が火を噴き、あたりに煙が立ち込める。砲弾は海中に沈み、唐船からも何本もの火矢が放たれ、銃声が轟いた。

 大回りしたもう一隻の唐船がサン・ラファエル号の右舷の船縁に体当たりする。

 ロペスと傭兵隊長が銃で唐船の倭寇たちを撃った。少しも怯まず他の倭寇たちが槍を繰り出し、盾で水夫たちに体当たりして、素早く渡り板を渡って乗り移ってくる。

 刀や剣、槍を持ったサン・ラファエル号の傭兵と水夫、そして倭寇たちが入り乱れての戦いが始まる。龍之進と万吉も四方八方に刀を構えるが、斬り合いに圧倒されて後ずさるばかりだ。

 女の悲鳴が聞こえる。見ると、水夫の女は手にした刀で斬りかかることもなく、あっけなく斬り捨てられてしまった。武芸に不慣れな他の水夫たちも次々と斬られていく。それを目にした万吉は、小刻みに全身で震え出した。

「そこの傭兵! この帆を切り落とせ! 炎が他の帆に燃え移る!」

 船尾楼甲板から銃で応戦していたロペスが頭上で燃える三角帆を顎で指す。龍之進は、船尾楼の階段を駆け上がり、後帆柱の三角帆を切り落とした。

「また別の唐船だ! こっちへくるぞ!」見張り台から声が悲鳴に近い声がする。

 龍之進は、目を凝らして船尾楼から大海原を見回した。夕暮れが迫る中、五艘の唐船がこちらへ向かってくる。

「あの黒い帆は……!」船尾楼へ上がった唐人の水先案内人が呟いた。「この近海を仕切る倭寇の頭目だ!」

 こいつらの仲間か! 龍之進は、絶望的な気持ちになった。今でさえ船のあちこちで火が燃え、敵の人数も多い。甲板の各所に、仲間の水夫や傭兵は血を流して倒れている。

 しかし、船長のロペスは、諦めなかった。「左に旋回、左舷砲撃準備だ! 操舵手と砲手に伝えろ!」と、号令を発した。

 露天甲板では、万吉が大柄の男に船縁に追い詰められていた。龍之進は、手近の側板に刺さった火矢を抜き取ると、船尾楼から飛び降りた勢いで、男の背に矢を突き立てた。

「万吉、『操舵手に左旋回、左舷砲手に砲撃準備』と伝えてくれ!」

「わかった!」震える万吉は、忘れないように呪文のように繰り返し、船尾楼へ駆けていく。

 男が背中の矢を抜き取り、龍之進に斬りかかる。怒りに任せて叩き込んでくる男の力は強く、刀を持つ手が痺れた。男が刃を合わせ、体重をかけてのしかかってきたので、龍之進は男の脛を蹴った。男は、反射的に龍之進の腹を蹴り飛ばし、その拍子に手から刀が飛んだ。その時、たまたま足元に転がっていた槍の柄を踏んで尻餅をつく。

 男は、刀を振りかざし、突進してきた。龍之進はとっさに槍を握ると、男の脇腹目がけて振った。槍が撓り、穂が脇腹を割く。

 龍之進は、肩で大きく息をした。死ぬわけにはいかない。ここで死ぬわけには!

 船尾楼甲板では、ロペスが男らと剣を交えていた。傍にいた唐人の水先案内人は胸と腕を負傷していて、ロペスは二人の男を相手にしている。

 その間にも、黒い帆の船団はぐんぐん近づいてくる。

 万吉が戻ってきて、砲手の人手が足りず、砲撃に手間取っていると龍之進に言った。少し後に、一発火を吹いたが、砲弾は的はずれの場所に落ちた。

 とうとう追いついた不気味な唐船がサン・ラファエル号に接舷し、梯子と綱を使って男らが素早く乗り込んできた。

 ロペスは船尾楼から降り、露天甲板で先にいた倭寇と応戦していたが、右手首を斬りつけられ、満足に刃を合わせられなくなった。見過ごせなかった龍之進は、ロペスの横に滑り込み、胴丸を着た倭寇に槍を振った。胴丸の男が槍を刀で払いのけ、刀を横に振りきったところを、龍之進は腰を落として相手の腹を打つ。男は少しよろけて後ずさった。しかし、次の瞬間、龍之進に向かって勢いよく刀を突いてきたので、槍で男の刀を跳ね上げ、回転して石突いしづきで男の喉を突いた。

「後ろ!」ロペスの絶叫が響く。

 長い髭を蓄えた男が背後から刀を振り下ろす。槍の太刀打ちで止めたが、男は執拗に柄を打ち据えてきたので、凄まじい早さで槍の柄に亀裂が入っていく。

 はっと顔を上げると、男の残虐な笑いが目に入った。

 殺られる!

 次の瞬間、銀色に光る笹のようなものが目の前に現れ、男を弾き飛ばした。

 見ると、目の前に派手な着物を羽織り、だらしなく帯で押さえた男が背中を向けて立っていた。男は、槍の先に向かって笹の葉のように小さな刃がつく、奇妙な槍を手にしている。

 男が振り向く。「よお、小童、生きてたか」

「李旦……! どうしてここに」

「日本刀にはこの狼筅ろうせんだナ」李旦は、得意げに狼筅を立てた。「明軍が倭寇の日本刀対策に作った槍だけはあるネ」

 狼筅で叩かれた男は、李旦の足元に血だらけで倒れている。

「頭目、やつらが逃げていく」声をかけたのは、長崎で会ったあの水夫長だ。

「追え。ここらを荒らした落とし前はきっちりつけてもらう」

 李旦が倭寇の頭目? 龍之進は、李旦を睨みつける。

「倭寇だったのか。俺を騙して手下に引き込もうとしたんだな!」

「儂は、海で商いをしてるだけネ。お前が船を捜していたから、親切心から案内しただけヨ」

「他の船から盗るんだろ? 抜け荷だってーー」

「抜け荷くらい大したことはないヨ。海商なら、誰でもやってるネ。他船の荷物を譲り受けることはあるけど、たまのことヨ。言っておくが、儂は商人だ」

「こいつらの仲間か?」

「いや。やつらは、新参者か、流れ者ネ。こんな樽みたいなナウ船は海賊には狙い目ヨ。速度は遅いし、日本からのお宝をたんまり積んでるし、それも一隻で航行してる」

 倉口から、李旦の手下が行李を運び出し、自分たちの唐船に積み始めた。

「おい! なにしてる! あれは――」

 ロペスが抗議すると、「銀を詰めた行李だろ? 半分残しておいてやる。他の荷には手をつけない」と李旦がイスパニア語で返す。「やつらに全部取られて、船ごと焼き払われ、全員お陀仏だったかもしれないんだ。あれくらいお安いもんだろ。襲われたくなかったら、ポルトガル艦隊に護衛を頼めばよかったんだ。その分、金と時間がかかるから、それが嫌で単独で動いていたんだろ?」

「お前が……この辺りの頭目か。噂には聞いていたよ」ロペスは、李旦をめつける。

「そりゃどうも。高砂辺りは気をつけな。オランダ船がポルトガル船を待ち伏せしてる。なんなら、儂が警護してやってもいい。その代わり、報酬はたんともらい受ける」

「断る!」

「そうか。ま、せいぜい気をつけるんだな。ご忠告申し上げると、高砂の海岸沿いを進むのはよしたほうがいい」

「信じられるか!」

「儂が悪人なら、この船はとっくに儂のものになってる」

 李旦とロペスは、無言のまま、しばし睨み合う。

「よし。引き上げるぞ!」李旦は、手下に号令をかけた。

 龍之進は、去ろうとする李旦を追った。「李旦、嘘は言ってないよね?」

「信じろ。南蛮人は嫌いだが、大事な商売相手ネ。でも、なにごともただってわけにはいかないヨ。オランダ船の情報は、助けてやった謝礼の銀に含めておいてやる。じゃあな、小童、もっともっと強くなれ。一瞬でも戦いをやめたら、死ぬだけネ」

「俺には龍之進っていう名がある!」

 李旦は、一瞬やさしい目をした後、鼻で笑う。「お前が海に出る限り、また会うことになるさ。早く大人になれ、ロン!」

 その夜、龍之進は、ロペスに船長室へ呼び出された。

 机には、海図と羅針盤、ディバイダー、観測器、天体暦が散らかっている。

「お前は、あの李旦を知っているのか?」

「長崎で乗る船を捜していた時、声をかけられました。でも、高砂までしか行かないと言われて……」

「そのわざとらしい下手なイスパニア語はやめろ、タデウス・カルバジャル」

 龍之進は、凍りついた。「え? 旦那さん……いったい?」

「お前は、ポルトガル語もイスパニア語も流暢に話せるんだろう? 長崎の港でポルトガル船とイスパニア船に、お前らしき人物の手配書が回ってた。十五歳前後の日本人。マヌエル・カルバジャルの奴隷。人を傷つけ逃亡中。ポルトガル語とイスパニア語を話す、確かそんなことが書かれていた。その時は、さして気にも留めなかった。お前はイスパニア人学者に雇われていたことがあると話したし、そいつの名は俺も知っていた。それで片言のイスパニア語を話す理由もわかる。なにより、手配書の本人がまさか目の前に現れるとは思いもしなかった。でも、船内で共に過ごすうち、なんとなく気づいた。お前は他の日本人と違う。他の日本人のようにやたら微笑まないし、俺たちポルトガル人に慣れている、ポルトガル人同士の会話を理解していると感じた。さっきもお前は俺の命令を訊き返さずに行動した。とっさの行動には素が出るもんだ。ところで、マヌエルは、逮捕されたそうだな」

 龍之進は、はっとして視線を上げる。

 読みが当たったロペスは、微かに笑う。「やはりな。マヌエルとは親しかったわけじゃない。ただやつがやたら儲けていたのと、キリスト教徒ではないらしいというのは耳にしていた」

 ランタンの明かりが揺れ、壁に映る二人の影がうねる。龍之進は、ただ黙って聞いていた。ロペスの意図がわからない限り、下手に口を開かないほうがいい。

「この船は、さっきの戦いのせいで、傭兵や水夫が負傷したり、命を落とした。満足に動けるのはせいぜい半数だ。その上、水先案内人は出血がひどくて死にかけて、会計係も重傷で帳簿をつけられる状態じゃない……」ロペスは、疲れ切ったように額に手を当てしばらく無言になった。

「単刀直入に訊く。マヌエルの下でなにをやっていた? どんな仕事をしていたんだ? 警護か? それとも荷運びか? 商いの補佐は? お前、お手製の四分儀まで作って、昼は太陽を見て、夜は星を見ていただろ。マヌエルから航海術を教わっていたのか?」

 それでも龍之進が押し黙ったままでいると、

「人手がいる。傭兵の代金は全額きちんと支払う。もし他に能力があるなら、それに見合う報酬を追加で出す」と、ロペスは補足した。「そう警戒するなよ。傭兵も水夫も罪や借金、貧しさから逃れるため、まあ、それなりの事情があって船に乗るのは承知の上だ」

「……奴隷じゃない」龍之進は、ポルトガル語で応えた。「マヌエルは、俺を引き取って、息子として育ててくれた」

 龍之進は、マヌエルとの出会いに始まり、カルバジャル家での暮らし、捕らわれたマヌエルたちを救い出そうと思って船に乗ったこと、マヌエルが交易商人に必要な知識と役立つ技術を教えてくれたことなどを話した。

「なるほどな。つまり、マヌエルは、ゆくゆくはお前を商人にするつもりで教育していたというわけか。それで、多少なりとも航海術を学んだと。では、緯度と経度の計算はどうだ? 計測数値を補正して推算できるか? 海図を書いたことは?」

「あります。マヌエルは、この天体暦と同じ本を持っていた」龍之進は、机の上の本を指した。「太陽や北極星の位置から緯度を計算して船の現在位置を割り出し、目的地までの距離を推定するんですよね?」

「そうだ」

「マヌエルは、俺を外へ連れ出して四分儀の使い方や緯度の計算の仕方を教えてくれた。まず四分儀で太陽の高度を測定して、次に天体暦を使って、その日の太陽の天頂距離を出す。天頂距離は、天頂に対する太陽の高さの余角だから、九十度から太陽の高度を引けばいい。それがわかれば、緯度がわかる。海図に当てはめて現在位置を推算し――」

「わかった。試しにやってみろ。計算を間違えるなよ」

 船長室から出ると、舷灯の下で露天甲板の血や汚れを洗い流していた万吉が駆け寄ってきた。

「なんだったの? なにか悪いことでも?」

「いや、大丈夫。人手が足りないから、海図を描く手伝いをしてくれってさ。俺、長崎にいた時、ポルトガル商人から教わってたから引き受けた。船長はその商人を知ってて、俺のこともわかってたみたいで、俺に声をかけたってさ」

「そうか」万吉は、安心したのか、思い切り息を吐き出した。「心配したよ。呼び出されるなんてさ、叱られるんじゃないかと思って。で、海図ってなんだ?」

「船が無事に目的地につけるよう、船の道筋を表す地図みたいなもんだよ」

「へぇ……龍之進は、そんなものも描けるんだ。すげぇなぁ。怖がりもしないであの唐人の頭目と話している時も驚いたけどさ」

「李旦とは、長崎の港で会ったことがあるけど、その時は船団を率いる頭目とは知らなかったし、ただの胡散臭い男にしか見えなかったよ」

「儂は、てっきりその李旦とかいう頭目のことで船長に呼び出されたのかと思った。龍之進は、頭目と知り合いみたいだったから、仲間と疑われて酷い目に遭ってるんじゃないかとかさ。でも、よかったよ。妙な疑いをかけられなくて」

「ありがとう、心配してくれて」

「いや。儂こそ、まだ礼を言ってなかった。お前は強いな。やっぱり儂みたいなにわかじゃまだまだ実戦は無理だ。龍之進のおかげで助かったよ。お前は、儂の恩人だ」

「そんな……必死だったしさ。俺は、ほんとは戦がいやで。お父は戦で死んだし、人の死は見たくないんだ。とりわけ親しくなった人は、もう誰も失いたくない」

 龍之進は、俯いた。病で母を亡くし、戦で父を失い、弟のように思っていたペドロは殺された……もっとずっと長く一緒に過ごしたかったのに。もう笑い合うことも、触れることも、会うこともできない。

「万吉、お前がいなくなったら、俺は悲しむよ。俺はぜったいお前が死んだものだとは思わないし、会って話がしたいって思うよ。どんなにひもじくても、干し魚の欠片を分け合いたいって思うよ。だから、万吉、死ぬ瞬間なんて考えるな。できるだけ長く生きて……死なないでくれよ」

 顔を上げると、万吉は、目を見開いて龍之進を見ていた。それから、ちょっと照れくさそうに口元に笑みを浮かべる。

「あの時、男が迫ってきて、儂はもうだめだ、死ぬって覚悟した。でも、こんなところで死にたくないってとっさに思ったんだ。儂はこれまで自分には生きる価値なんてない、いつ死んでもいいと思っていたけど、儂な……生きたいらしい」

 龍之進は、小さく何度も頷いた。「万吉って……いい名だよ。あらゆる吉に恵まれるようにって意味だろ」

「こうして生きてるしな」万吉は、船縁に寄って夜空を見上げる。「儂がいた集落は、食い物は満足に穫れないし、よく赤子の口べらしがあった。親兄弟に殺されずに済んだだけでも吉なのかもしれないな。そういえば、お母は儂を手放す時、ちゃんと俺が食っていけるか、そればかり気にしてくれてた」

 しんみりとした万吉は、振り返って船大工が黙々と隙間と穴を補修する甲板を眺める。

「死ぬかと思ったけど……儂より武芸のできるもんが死んで……いつ死ぬかなんて誰にもわからないんだな。だから、その時まで生きることにするよ。死ぬ気で訓練して、生きるために戦って、楽しみを見つけるさ」

 長崎を出てから、四十二日後の四月初旬、李旦の忠告に従い、航路を変更したサン・ラファエル号は、無事にマカオへ到着した。

 マカオの海は、まるで鏡のようにまぶしい陽光を反射し、凪いでいた。多くの唐船が沖に停泊し、小舟が浜に揚げられている。

 サン・ラファエル号に明の兵が乗り込んできて、先を誘導する小舟に従って入港する。錨が下ろされると、ロペスは唐の言葉を話すポルトガル人通辞と船の整備のための作業員を雇った。

 龍之進は、ロペスにゴアへ連行されるはずのマヌエルたちのようすを知りたいと話した。するとロペスは、マカオは交易の集積地なので、船は寄港するはず。港で訊き込めばなにか情報が得られるかもしれないと、雇ったばかりのポルトガル人通辞を同行させてくれた。

 龍之進は、通辞を連れて小舟に乗り、砂浜に降り立った。万吉や水夫たちがパンや酒、肉や魚を買い求めている中、龍之進は、港で働く唐人や日本人たちに訊いて回った。

 船大工の日本人棟梁から、日本から来たポルトガル船が数日前到着したが、昨日、ゴアへ向けて港を出たという情報と、その船から若い娘が一人だけ下ろされ、若い男にどこかへ連れていかれたという話を聞いた。

「娘は日本人ですか?」

「遠目だったからよくわからないが、髪は黒くて日本の衣を着ていたな。男のほうは、ポルトガル人かイスパニア人か、ま、そんなとこだろうな。だから、娘は男の奉公人かなと思ったね」

「他にも、三十代のポルトガル人と柬埔寨カンボジア人の男は下りませんでしたか? あまり待遇はよくなかったかもしれません。捕らわれていたり、兵士の付き添いがあったかも」

「さあな。そいつらは罪人か? そんな目立つような男らは、儂は見てないなぁ」

 他に、娘が若い男に引き取られる場面をより近くで目撃したという唐人の水夫にも出会った。

「その若い男なら、船が着く十日くらい前から、港で見かけたよ。ポルトガル人と日本人との間に生まれた娘を捜してた。日本からの船が着くたびに港に現れてさ。目当ての娘を見つけて喜んでたね。でも、娘のほうは……男と面識がないのかもな。親しい関係ではなさそうだった。そう……男は、娘のことをサラって呼んでたよ」

 しかし、マヌエルと従者の情報は、なにも得られなかった。

 約三年間、龍之進は沙羅と共に暮らしたが、沙羅の生い立ちについて知らないことも多かった。松田という姓は、平戸藩士の娘だった母方のものと聞いたが、父母の名すら知らない。マカオのどこに住んでいたのかも……商人で、市政しせいの役人だったという父のポルトガル姓も。

 ロペスが知り合いのポルトガル商人たちに、沙羅について聞いてくれた。長崎と同じく、マカオにもポルトガル人と異国人との間に生まれた子はたくさんおり、彼らはポルトガル人として暮らしているらしい。中には、沙羅を引き取った商人がいるかもしれないとロペスが考えたからだが、そのような者はいなかった。

「身寄りのない十代の娘が一人で生きていくのは大変だからな。マカオの慈善院にもあたってくれたようだが、いなかったそうだ」

「そうですか……」龍之進は、落胆した。

「耳よりの情報もあるぞ。商人仲間の一人がマカオのイエズス会本部にあたってくれたんだ。知り合いのパードレが調べてくれて、松田沙羅という娘は、マカオにはいないはずだというんだ」

「どういうことですか?」

「イスパニア商人に引き取られて、ルソン島のマニラへ向かったという話だ」

「マニラへ? じゃ、港にいた若い男はその商人?」

「あるいは、商人の身内か、使用人かだろうな」

「そのイスパニア人と沙羅は、どういう関係なんですか?」

「そこまではわからない。パードレもどういう経緯で娘が船を下りて、イスパニア人に引き取られたのかは知らないそうだ。イエズス会が拘束していた娘だからな。解放したのには、それなりの理由が……なんらかの力が働いたと思うんだが、そのパードレでは掴めない、もっと複雑ななにかがあるか……もしかすると、公にはできない事情が裏に潜んでいるのかもしれないな」

「裏の事情? なんですか、それは?」

「そうだな、たとえば……」ロペスは、言いにくそうに躊躇いを見せる。「娘をゴアへ連行しなくても裁判はできると判断して、ここで第三者に売ってしまったとか。むろん身寄りのない娘ならば、誰も抗議をしてこないと踏んでのことだ。孤児を引き取る……聞こえはいいが、待遇を保障するものではないからな。奴隷のような扱いを受けたり、下手をすれば、裏社会へ渡されたりすることもある。いずれにせよ、マカオで下ろされたなら、お前が捜す娘は、マラッカやゴアには行かないということだ。そして、マヌエルは、ゴア行きの船に乗っているはずだ。で……どうする?」

 龍之進は、真意を測りかねて、まじまじとロペスを見つめる。

「龍之進、俺はもともと用事があるからマニラへ行くが、お前は選ばなければならないだろ? マヌエルを追ってゴアへ向かうか、娘を捜しにマニラへ行くか」

「いいんですか? 俺が選んで?」

 ロペスは、気にするなと言う代わりに片手を振る。「契約はまだ残っているが、お前がどうしたいのか、まずはそれを聞こう。お前は倭寇との戦いの時、俺を守ってくれたし、航海士としてもよくやってくれた。できる限りのことはしよう。俺としては、まだお前と航海を続けたいと思うがな。戦えて、算術に長けて、海図も描け、ポルトガル語とスペイン語、日本語を話せて、読み書きもできるやつはそうはいない」

 龍之進は、ロペスに感謝した。そして、考えに考えたが、どちらか一方を選ぶことはできなかった。

 ふいに、マヌエルの声が耳に蘇った

 ――沙羅を頼む……。

 ――俺が沙羅を守ります。

 そうだ、マヌエルに約束したんだ。

 龍之進は、胸に手をやり、マヌエルの指輪を強く握り締める。

 ――待ってて。絶対助けるから。

 龍之進は、目を固く瞑った。俺は、あなたを救い出すと言った。でも、選ばなければならない。

 ――わたしはお前といつも一緒だ。たとえ遠く離れていても、お前のそばにいることができる。

 マヌエル! 俺が二人いれば! そうすれば、二人を追える。いや、俺がもっと大きな力を持っていれば、人を動かすこともできたのに。ごめん……!

 心が散り散りになりそうな思いと涙を堪え、龍之進は、声を絞り出した。

「沙羅を捜します」

(第6回へつづく)