予想外の疾疫災、SARS-CoV-2のオオバカヤロウのせいで大いに予定が狂った私の「異変があったら気づいてもらえる体制づくり」だが、かと言って異変はいつ何時やってくるかわからない。

 のんびり構えている暇はないのである。

 そこで、とにかくできるところから進めていくことにした。

 前回の更新以降、LINEスタンプぽちぽち作戦は、友人と安否確認サービスの他、この連載を担当してくれている編集者氏も加わってくれることになった。おかげでひとまず矢は三本揃ったことになる。ありがたいことだ。

 しかし、これで安心してはいられない。

 ひとまず安否は確認できるようになったところで、それだけでは無意味。でバッタリ倒れているのをなんとか発見してもらえたとして、生きていたら生きていたなり、死んでいたなら死んでいたなりでやらねばならぬことがあるからだ。

 もし、死んでいたら。誰かに死後の始末をしてもらわなけれならない。その体制づくりもなかなか面倒そうだが、調査を進めたところ、札束さえあればなんとかなりそうなことがわかってきた。どうやら、死ぬより面倒なのが生きていたケースのようなのだ。

 もし、生きていたとしたら。

 たぶん、私は病院に運ばれることになるだろう。

 その際、体は動かないながらもはっきりと意識があり、かつ正常な判断が下せる状態であれば問題ない。だが、人様から安否確認が入るような事態に至って、シャキシャキ受け答えできるってのは、ちょっと考えられない。

 よって、ここで大きな問題が発生する。

 死ぬか生きるか自分で選べなくなる、という問題だ。

 幸い生きて見つかったとはいえ、最終的にはあの世に行くのがその時本来の天命だったとしよう。要するにぶっ倒れた時が適切な死に時なわけだ。

 それなのに、救急車で運ばれて最新医療技術を駆使してもらった結果、大変ハンパな状態で命だけが繋がってしまうかもしれない。というか、結構な確率でそうなる。今の日本は救急車で運ばれたらまず例外なく延命処置を施されるし、日本の医療が持つ延命技術は普通なら助からない生命をも救えるほど高度で素晴らしい。とてもありがたいことだ。

 だが、前回でも触れた通り、私は死んで腐るのと同じぐらい「死に時に死ねないこと」を強く恐れている。独り身がうっかり死に損ね、ただ心臓だけが動いているような状態に陥るなんて考えると、それこそ怖くて夜も眠れなくなるのだ。

 誤解しないでほしいのだが、私は決して「自分の面倒を自分で見られないなら死んだ方がいい」と思っているわけではない。

 人は、ただ生きているだけで尊い。

 半世紀ほどの人生の中で何度も家族親族友人知人の「死」に直面した結果、私は心の底からそう思うようになった。もちろん、実体験だけでなく見聞したニュース、読んだ本、鑑賞した映画や芝居等々にも影響されているが、いずれにせよ「生命の尊さ」は決して綺麗事ではないと確信している。

 生命は、たとえほんの僅かな時間しか生きられなくても、もしくは何ら自発的活動ができなくても、「生まれてきた」「懸命に生き続けている」、ただそれだけで人の心を動かす。心の動きは波紋となって広がり、やがて本人すら与り知らないどこかで何かを起こす。

 出来事の大小、また吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知るだが、生命とは「ただる」だけで世界を変えるポテンシャルを持っているのだ。優生思想が許されないのは言うまでもないが、あれこれ御託を並べるまでもなく、どんな生命も等しく「そこに在る」権利を持ち、そしてそれは何人たりとて侵害できない。絶対に揺るがない原則だ。

 だがしかし、である。

 自分自身に降り掛かってくる現実問題として「家族のいない人間が自発的意思を失ったまま生きながらえる状態」を想像すると、正直怯んでしまう。

 意思表現の自由を失い、快不快すらまともに示せなくなったら、生活の一切は他人に委ねるしかない。

 この場合、家族がいて、かつ公的または準公的な支援事業と繋がることができれば、環境が許す限りのレベルで快適な生活を送れるだろう。だが、どちらかしか頼るものがなければ色々と困ったことが起こる。具体的には、生命維持には十分だけれども、決して快適とはいえない状況で生きなければならなくなる可能性が高い。

 生きるために他者の介護が絶対必要になったとして、今の私の境遇だと身の回りの世話は百パーセント家族以外の人間に頼ることになる。そうなった時、最低限の看護または介護は受けることはできるだろうけど、満足な看護または介護までは望めないだろう。

 看護や介護は一通りではない。家族だからできること、その道のプロだからできること、ボランティアだからできることがそれぞれ異なる。

 そもそも、人の面倒を看るのは、看る方も看られる方も心身ともに大きな負担が伴うものだ。それなのに、すべてを家族だけで完結しようとすると誰か(多くは家事を担わされる女性)にしわ寄せが来て、最悪無理心中などの破局を迎える結末になる。一方、いかに介護のプロフェッショナルといえども百パーセント「家族のように」世話をするのは無理だ。プロであるがゆえに、やることを絞らなければならない局面も出てくる。

 立場が違う複数の目と手があって初めて被介護者が快適に過ごせる持続可能な環境は成立するのだ。

 こういう話をすると必ず甦るのが、認知症がひどくなった父を入所させる介護施設を探していた時期の思い出である。

 私としては、後は悪くなる一方の父に全精力を注ぐより、これからの人生がまだある母の負担を最小限にする方を優先させたいと考えていた。私の人生だって大切だ。冷たいようだが、家族共倒れだけは避けなければならない。なので、父を施設に入居させることにためらいはなかった。母は一時的に抵抗感を示したが、今どきの施設が彼女のイメージとは異なることを実見して以来、ひとまず異を唱えなくなっていた。

 そんなわけで、私は複数の施設を見学に行った。暑い時期だったような気がする。自転車にのって右往左往……じゃない、東奔西走した。交通手段を自転車に限ったのは、当時はまだ自動車の運転をしていた母が、いずれ運転できなくなる時のことを考えたからだ。私としては七十歳を過ぎたら免許証を返納してもらうつもりでいた。本人はまだまだ現役のつもりだったが、傍から見ればそろそろ危なっかしくなってきていた。まあ、結局のところ、運転を止めせるのはなかなか簡単ではなかったのだが(ああ思い出すだけでうんざりする)、それはさておき、そうこうしているうちに最終候補が三つほど残った。

 さて、どの施設にお願いするか。

 私は大いに悩んだ。いずれも一長一短があり、なかなか決めかねたのだ。親を施設に放り込むに躊躇ない冷たい娘(とある親族評)である私といえども、やはりできるだけ快適な生活を送らせてやりたい(と思っていたんですよ、とある親族様)。

 施設Aはスタッフのみなさんの雰囲気がとてもよかった。いわゆるアットホームというやつだ。だが、共同使用エリアの端々に掃除が行き届いていない様子が見られた。

 施設Bは内装がとても豪華だった。支払額を考えると破格である。ただ、スタッフは精彩を欠くというか、生気が感じられず、対応もロボットのようだったのが気になった。

 施設Cはスタッフも施設もそこそこだったが、温泉水を運んできているとかいう大浴場が広々としていて快適そうだった。風呂嫌いの父だったが、大浴場なら喜んで入っていたなあなどと考えた。スタッフは適度にスマイルで、適度に事務的だった。

 いずれにせよ、これという決め手がない状態で思いあぐねていた。そこで、Facebookに現状をアップし、介護経験者のみなさんにアドバイスを求めたのだ。

 すると、複数の人から「スタッフはいずれ入れ替わる。施設と運営体制で決めろ」とのアドバイスがきた。なるほど、その通りだと膝を打った。そこで「施設と運営体制」を判断基準に熟慮を重ねた結果、最終的には大浴場のある施設Cに決めたのだ。そして、その施設Cが父の終の棲家となったわけだが、私としては正しい選択だったと思っている。

 施設Cは運営母体が大手ホテルを経営する企業だったために、介護から家族対応まで一切の業務が完全にマニュアル化、システム化していた。結果として、スタッフの能力による作業ムラが最低限に抑えられていたのだ。

 21世紀になった今でも、マニュアル接客やマニュアル業務というのは一部ピープルに大変評判が悪い。心が通っていないそうである。

 だが、あえて言おう。

 大切なのは心ではない。マニュアルである、と。

 そもそもマニュアルっていうのは、誰がやっても同じ結果を得られるように定められる手引書である。そして、毎日の業務にあたっては「誰がやっても同じ結果」になるというのはとっても重要だ。元小売店店長として断言できる。日常生活においては能力よりも習慣性がより物を言うのは、たぶん誰もが実感するところではないだろうか。どんな作業であれ、寝ていてもできるレベルに習熟してこそ、はじめて心を乗せる余裕が出てくるというものである。

 質の良い介護を求めるなら、個人技に頼ってはいけない。マニュアルがしっかりしていて、かつそれに沿った運用がなされているのが第一歩だ。まして、マニュアル以上の感情労働をプロの介護者に求めるのは傲慢というものだし、うちの家族にはどうしても「きめ細やかな心遣い」が必要だというなら、そこは自分が提供すればよい。オプションの選択権はサービス利用者にあるが、オプションの品揃えは提供者が決めることであり、利用者が提供者に過剰なサービスを求めてはいけないのである。たとえ「金を出している客」であっても。

 美味しい料理を出すのが仕事のレストランに行って、料理の提供時には跪いて恭しく皿を出せと客が要求したら「頭、大丈夫ですか?」って話になるのは誰でも納得すると思うが、介護ではなぜかそれに近い的はずれな要求する利用者がいる。それもやっぱり「頭、大丈夫ですか?」なのに。

 ……あれ、何の話だったっけ?

 そうそう、「立場が違う複数の目と手があって、初めて持続可能な介護は成立する」でした。

 とにかく、施設とマニュアルさえしっかりしていれば「生きるために必要な介護」と「最低限の環境」は提供される。

 だが、人の手と目は限られた資源であり、一人ひとりが快適と感じるレベルまですべてを整えるのは到底無理だ。

 たとえば、うちの父の場合、服にはよく食事時のものと思しきシミが付いたままになっていた。もちろん、異臭がするわけではないし、病気の原因になるほど不潔ではない。だが、見た目は汚らしい。健常者であれば着替えるだろう。けれど自分で何一つできないのであれば「汚れた服を着たまま過ごす」日常を甘受するしかない。

 こうした「生命保持だけが目的なら不要だが、人としての尊厳を守るためにやったほうがいい作業」を細やかに提供できるのは家族や、家族に近い感情を持っている人間だけである。

 そして、残念ながら私にはが最初から抜け落ちている。

 さて、またまた想像の世界に入っていきたい。

 もし、社会保障制度が今後も現在のレベルで持続するとしよう(そうあってほしい)。

 一文無しの私が急病の末に取るものも取り敢えず病院に運ばれ、救急治療を受けた結果「自発的に動けず意思表明もできない状態」のまま延命する羽目になった。

 絶体絶命っぽい状況だが、今の日本なら病院付きのメディカルソーシャルワーカーの皆さんが、私の生命が維持されるよう様々な手続きを取ってくれるだろう(メディカルソーシャルワーカー、略してMSWについては今後また触れます)。

 日本の皆保険制度や福祉制度によって、私の生命は保全されるかもしれない。だが、前述したようなは保証されない。結果として、生活の質が大幅に低下するのは間違いないことだろう。人としての尊厳が損なわれるかもしれない。

 それは、とっても嫌だ。

 すでに人事不省なんだったら、自分の状況なんてわからないんだし、生きていれさえすればいいのでは? と思うかもしれない。

 確かにその通り。

 だけど、嫌なものは嫌なのだ。

 死体になってからも同じである。もう死んでいるんだから、腐ろうが燃えようが関係ないといえば関係ない。

 だけど、私は腐りたくないのだ。

 詰まるところ、人間の尊厳を守るとは、生死にかかわらずその人が「これだけは嫌だ」と思うことだけはことなのだと思う。

 そして、「これだけは嫌だ」と思うのに難しい理屈はいらない。

 嫌なものは嫌だ、でいいのだ。

 だから、私は死に時が来たら逆らわずに死んでいきたいのである。よって、いつでも死に時に死ねる体制を整えるのが喫緊の課題なのである。

(第十回につづく)