さて、先程はなんの前触れもなく「孤立死」なる言葉を登場させたが、これは「死況」と違って私の造語ではない。行政が使っている立派な公的概念である。

 厚生労働省が出した平成二十二年度版の高齢社会白書では、孤立死を「誰にも看取られることなく息を引き取り、その後、相当期間放置されるような悲惨な」死と表現している。そして、孤立死の明確な定義や統計はないとした上で、東京都監察医務院が公表しているデータなどを元に、六十五歳以上の高齢者に孤立死が増えていると指摘している。

 六十五歳以下の統計がないのは、その年齢層には孤立死はほとんど起きないという前提に立っているからだろう。必要のない統計を取るほどお国も暇ではあるまい。ま、これから先も必要ないのかどうかについては疑問だけれど。

 独身者/独居者が増加している現状が数値上でも明らかなのに、現代社会における平均的市民モデルは依然として「既婚、子あり、被雇用者」である。つまり、誰か同居している人間がいて、会社に通うことで社会的繋がりを常に保っている人が大半と判断されているわけだ。

 同居している家族がいる。

 勤めに出ている。

 このどちらかでもクリアしていたら、孤独死をしたところで、長期間発見されないような事態は避けられる。

 みんなそう考えている。

 でも、本当にそうだろうか。

 気になったので「孤立死」「家族」「同居」をキーワードにググってみた。

 そうしたら、案の定出てきたのだ。

 家族と同居しているのに、孤立死した人の例が。そんな馬鹿なと思うだろうが、今の日本社会ではしばしば起こっている。ドメスティックな孤立死とでもいうべきこの現象の最前線は、老老介護の家庭だ。

 二〇一八年、神戸市にある集合住宅で、一人の男性が死後一週間を過ぎた状態で見つかった。彼には同居する妻がいた。だが、妻は通報できなかった。なぜか。重度の認知症だったからだ。異変に気づいたのは近所の住人だった。ベランダに洗濯物が干しっぱなしになっているので、おかしいと思い通報したのだという。

 妻は、何もわからないまま、一週間死体とともに暮らしていた。季節は夏。部屋には相当な異臭が立ち込めていたはずだ。虫も湧いていただろう。

 想像するだに悲惨である。

 逝った方も、遺された方も、気の毒でならない。

 だが、この末路は決して避けられなかったわけではない。

 もし、夫婦が公的介護サービスを適切に受けていたら、発見はもっと早かったはずである。この世代特有の「人様に迷惑をかけない」精神が悲劇を生んだ可能性は大きい。

 世の中には福祉サービスを受けることを極端に嫌う人がいる。

 これはきっぱり昭和の悪しき遺風と断じてよい。

 公共が提供するサービスは、生活保護であれ、老人福祉であれ、とにかくどんどん使えばいいのだ。そのために私たちは税金や保険料を払っている。

 そもそも公共福祉サービスとは「社会全体が受けることができる、幸福になるための配慮やサービス」なのであるから、それを利用するのに後ろめたさを感じる必要はない。

「おいらぁ人様の世話にはなんねえ! ほっといてくんな!」とタンカを切る江戸っ子風のおじいちゃんが周囲にいれば、こう問いかけてみてほしい。

 サービスを利用しなかった挙げ句こんな最期を迎えてしまっては、どっちの方がより人様に手間をかける結果になるのか、ちょっと考えてみて、と。

 これから何度でも繰り返すことになると思うが、人間、百パーセント他人の世話にならずに生きるのは絶対に無理だ。

 そもそも、人類なる賢い猿は種族間の共助を生きるすべとして選んだ動物である。遺伝子レベルの生存戦略からして、「他人に迷惑をかける」のが前提なのだ。

 叶恭子お姉さまならきっと「あら、美香さん。共助こそ人としてのネイチャーなのですよ?」とおっしゃるに違いない。

 それなのに、ネイチャーに逆らって生きようとするとどうなるか。

 絶対、どこかで自滅する。

 あれですよ、あれ。我慢するだけした挙げ句、突然爆発して、かえって周りに嫌な思いをさせてしまうパターン。心当たりありませんか?

 もっと問題が小さいうちに共有しておけば、自分も周りも被害が少なくてすんだのに、ってやつ。

 おそらく、死に際も同じだ。

 早いうちから周囲と持ちつ持たれつの適正な関係を築きながら、逃げずに準備しておけばきれいにフィニッシュできる。逆だと最後にとてつもない爆弾を仕掛けて終わることになる。

 そして、より強い助けになるのは、家族よりも社会制度だ。

 検索で出てきた記事の中には、こんな例もあった。

 二〇一七年のことである。子や孫と同居していた七十五歳の女性が自室で死んでいるのが見つかったのだが、発見時すでに死んで二日が経っていた。

 そんなのありえる? って話だが、実際に起こったのだ。普通は同居家族の姿を朝から一度も見なかったら、不審に思って部屋を覗くぐらいはするだろう。だが、この家族においては、死亡女性の姿を一日中見かけないのは珍しいことではなかった。

 女性は足が悪かったため部屋に引きこもりがちで、食事でさえ共にすることは少なかったという。女性の息子は単身赴任で他所に住んでいて、同居する嫁は家事、子育て、パートにてんてこ舞い。孫は祖母に関心を持たず、結果として家族一同、祖母の姿が見えないなら見えないで気にもならなかったのだそうだ。

 この家族が特別薄情だったのかどうか、私には判断がつかない。ニュース記事には、死亡女性が家族とどのような関係を築いてきたかまでは書かれていなかったからだ。

 もし、七十五歳の女性が過度の「家族に迷惑をかけたくない」シンドロームに陥っていたとしたら、自分の方から家族を避けていた可能性がある。長年一緒に暮らしているうちに埋めようのない溝が双方に出来ていたかもしれない。もちろん、女性がネグレクトの被害者だった可能性もあるわけだが、

 しかし、もしこの女性がデイサービスや訪問介護を利用していたら、少なくとも死後二日も発見されない事態には至らなかったのではないか。足が悪いぐらいだと要介護認定1が関の山だから、数日に一度の利用しかできないだろうが、部屋の出入りがなくてもおかしいと思われないほど引きこもる事態にはならなかったろうと思うのだ。

 家庭は時として機能不全に陥る。しかし、社会制度はオートマティカルであるがゆえに、一度流れに乗ってしまえば滞りなくことが運ぶことが多い。

 ゆえに、制度に則った福祉サービスは、誰もが社会との繋がりを保つ術としてはとても有効だといえる。

 介護保険のサービスを受けられるようになるのは六十五歳になってからで、しかも要支援・要介護認定を受けて必要と認められなければならないが、もしその年令になったらまずはものの試しで地域包括支援センターに連絡を入れ、認定を頼んでみるのもいいかもしれない。

 たとえ「自立」と判断され、なんの支援も受けられなかったとしても、元気なうちに支援センターの雰囲気や使い方を把握しておけば、本当に必要になった時の手続きがスムーズだろう。なんでも予行演習が大事なのである。私の場合、父の認定を経験しているので、自分の時にはちょっとしたアドバンテージになるかもしれない。まあ、制度がガラッと変わってしまっている可能性も大いにあるが。

 さて、ここまでは老人になってからの孤立死について考えてみた。

 だが、先述した通り、本当に孤立死の危険が高いのは、実は私のような中年独居在宅仕事フリランサーだと思っている。

 理由は言うまでもない。一日中人と会わないなんてことがざらにあるし、定期的に安否確認してくれる人もいないからだ。

 十五年ほど前、こんなことがあった。

 当時はまだ会社勤めをしていたのだが、ある日、終業時間直前になって他部署の五十代男性が突然死したとの連絡が入ってきた。自宅で一人、事切れていたという。単身赴任だったために、突然の発病に為す術もなくそのまま死亡したらしい。

 他部署とはいえ面識はあり、また死の一週間ほど前にたまたま姿をお見かけした時はまったく元気そうだったので、訃報に驚くとともに、命の儚さを感じたものだった。

 望まぬ孤独死を遂げてしまった彼だったが、すぐに発見されたのは、連絡なしの欠勤に胸騒ぎを覚えた上司がすぐに様子を見に駆けつけたからだと聞いている。

 普段の実直かつ遺漏ない仕事ぶりが早期発見に繋がったのだ。もし、彼が無断欠勤の常習犯であれば、上司が迅速な行動を起こすことはなかっただろう。

 会社という社会との健全な関係性が、孤独死を孤立死にはしなかったわけである。

 やっぱり、社会との繋がりは大事だ。

 しかし、これは会社に所属していたからこそ発動したセーフティネットといえる。

 私のように在宅で仕事をしている人間はそもそも出勤しないので、誰かに気づいてもらえる機会がおっそろしく少ない。たぶん、ほぼゼロだ。

 よしんば、死んだ日がなにかの原稿の締切日だったとしても、よっぽど切羽詰まった進行でもない限り、締切日当日に原稿が送られてこなかったからといってわざわざ連絡してくる編集者はほとんどいない。

「ほんともう、しょうがないなあ。明日にでもメールするか」程度である。

 しかし、当の私はというと、床だか風呂場だかで倒れ刻一刻と死後硬直していっている。カチンコチン体操である。

 翌日、催促のメールがパソコンに届く。それは未開封のまま、虚しくサーバーに残り続けるわけだが、発信者はそれに気づかない。

「なに? 無視? 感じわるーい」と思うだけだろう。

 その頃の私は死後硬直が解けてちょっとソフトになりつつ、そろそろ腐敗モードに入り始める。

 翌々日はさすがに電話してくるかもしれない。これ以上遅れるとヤバいとなると、絶対してくるはずだ。取材の待ち合わせなんかがあると、編集者はパニック状態で電話してくることだろう。

 でも、私は死んでいるんだから、出ることはできない。主を失ったスマホは、ただただ空しく着信音を発するだけだ。

 このぐらいになると、さすがに「なんかおかしいな」と思ってくれるかもしれない。だが、家にまで様子を見に来ようとする編集者はまずいないと思う。親しい人に連絡しようとしても、編集者がライターの個人的付き合いなんて知るはずもない。

 結局、五日か六日ほど経ってから、よほど面倒見のよい編集者か、何かを察した同業者が警察に「門賀さん、見に行ってもらえません?」と電話してくれて、見事ぷすぷすに腐っている私をおまわりさんが見つける、ってな寸法になると思われる。

 ああ、やだやだ。やっぱり腐るじゃないか。

 どうすれば介護サービスを受ける老人なみに継続的な安否確認をしてもらうことが可能なのか。

 現時点では完全にノーアイデア。お手上げである。

(第六回につづく)