――OLの陽菜子には秘密がある。実は代々続く忍者の里の頭領娘だが、忍者の生き方に嫌気がさして里を抜けだしたのだ。ある日、会社の上司・和泉沢が重要書類を紛失してしまう。話を聞くと、どうやら盗まれた可能性が。会社のためにこっそり忍術を使い、書類を取り戻そうと奔走する陽菜子だが、背後には思いもよらない陰謀が隠されていて……!? 人知れず頑張るすべての人に贈る、隠密お仕事小説!

 

 ──いつかこういう日がくると、どこかで覚悟していたのかもしれない。

 

 タンスの奥に眠っていた十数種類のウィッグを、陽菜子ひなこは腕組みしたままじっと見下ろした。これをすべて処分しなかった時点で、たぶん未来は決まっていたのだ。柄にもなく感傷的なことを思ったすぐあとに、口元を皮肉げに歪める。

 

 世の中に運命なんて存在しない。僥倖ぎようこうなんてものもない。あるのはただ、緻密な計算の上に成る結論のみ。

 

 繰り返し言い聞かせられてきた言葉。陽菜子の育った里の教え。

 

 大嫌いだった。夢も希望もない、合理主義で利己的な里の人間たちを、死ぬほど憎んできた。だから捨てた。二度と関わらないと逃げてきた。

 

 それなのに今、陽菜子は封じ込めてきたものを解き放とうとしている。

 

 遠い山奥でひそやかに継がれてきた、忍者の里に伝わる技を。

 

「──ばっかじゃないの?」

 

 つるりと漏れた言葉は予想以上にフロアに響いて、陽菜子ははっと口元を覆った。

 

 だが定時を五時間ほど超過した会社には、鬼の形相でパソコンに向かっている営業部の人間が二、三人いるばかりで、彼らは陽菜子たちに一瞥の興味も示さない。声を落とし、陽菜子は改めて目の前にいる和泉沢いずみさわに向かって吐き捨てる。

 

「あんた本当に、馬鹿でしょ」

 

「そう言うなよ、望月もちづき。同期のよしみで相談してるんだからさあ」

 

「よしみってどういう字か知ってる? 好みって書くのよ。わたし、あんたのこと全然好きじゃないんですけど。なんにも関係ないんですけど」

 

「だからそう言うなってえ。同じ部署の仲間じゃないか」

 

 へにょへにょと情けない声をあげるこの男は、これでも陽菜子より年上だ。国内最高峰の国立大学、すなわち東京大学の理学部を卒業し、あまつさえ大学院にまで進学していた彼は、同級生よりも二年遅れて和泉鉱業エネルギーに入社した。名前のとおり彼と縁続き、というよりも、彼の祖父が一代で興したこの会社に。

 

 つまりは正真正銘のおぼっちゃんである。

 

 山奥育ちの陽菜子とは、まるで気が合わない。──合わない、のだが。

 

「ぼくが相談できる相手なんて望月しかいないんだもん」

 

「三十一にもなる男がもんとか言ってんじゃないわよ。そんなだからボンなんて呼ばれるのよ」

 

「え、ボンって、坊ちゃんのボンでしょ。あまりうれしい呼び名じゃないけど、でも間違ってはいないよね?」

 

「ちがうわよ! あんたのボンは、ぼんくらのボン!」

 

 声を潜めながらも最大限に張る、というのはなかなか難しくコツのいる動作なのだが、忍びたるものどんな状況でも情報伝達ができねばならぬというのが忍術帳に書かれた教えのひとつで、騒がしい場所であれ静まり返った場所であれ、誰にも気づかれずに肉声を仲間に伝える技を陽菜子は身につけていた。そんな訓練の成果はいつだって、日常のどうでもいい場所で発揮されるのだけど。

 

「だいたいあんた、課長でしょ。まがりなりにも管理職でしょ。もっと威厳もたせられないの?」

 

「だって望月のほうが断然しっかりしてるし。……ね、それよりやっぱり、ごはん食べながら話そうよ。ぼく、奢るからさ」

 

「だめ。そんなところ行ったら誰に聞かれるかわからないじゃない」

 

「だったらせめて密談らしく階段の踊り場とか……座席で話すの、なんだか落ち着かないんだよね」

 

「あのね。階段なんて上も下も筒抜けよ? ここが一番安全なの。誰か来たらすぐわかるし」

 

「でも……」

 

「うっさい。文句があるなら、わたしは帰る」

 

 きつめに言うと、和泉沢はしゅんとうなだれた。そのまま消えてしまうのではないかと心配になるが、陽菜子は頓着しない。和泉沢のこれは半分くらいポーズなのだと、つきあいが長い分わかっている。もっとも、陽菜子以外の女子はたいてい、同期であろうと「母性本能がくすぐられるよね♡」などと呑気なことを言いくさるのだが、それがこいつをつけあがらせるのだと陽菜子にとっては苛立いらだたしいことこの上ない。甘やかす人間があとを絶たないからいつまでたってもボンなのだと、陽菜子は入社以来、自分だけは絶対にほだされまいと心に決めていた。

 

 それなのになぜだかこの男は、優しくしてくれる女の子たちをさしおいて、いつも真っ先に陽菜子を頼る。つまり、もめごとを持ち込んでくる。

 

「それで、いつなくしたの。飛行機に乗ったときは、持ってたんでしょ」

 

「降りるときも持ってたよ! ぼく、確認したもん」

 

 だからもんはやめろもんは、と心の声を押し殺す。それを言い出してはいつまでたっても話が進まない。

 

 要するに我らが和泉沢課長は、重要書類を紛失してしまったのだった。

 

 和泉鉱業エネルギー、通称IMEは、石油をはじめとするエネルギーの輸出入を主な事業としており、資源開発課の陽菜子たちは、新しい輸入先を開拓し、契約をとってくるのが主な仕事だ。和泉沢は、新たに発見された油田をもつ上等な新規顧客との交渉のさなかに、先方との打ち合わせのもと作成した契約書の下書きをなくしてしまったという。

 

 望月さん、ちょっと残業いいかな。なんて猫なで声ですりよってきたときにいやな予感はしていたのだ。誰もいなくなったとたん、どうしよう、誰にも言えない、と半泣きになった和泉沢の情けなさに、苦々しく舌打ちしそうになる。

 

「ったく、なんのためにドバイくんだりまで行ってきたのよ。子供のお遣い以下じゃない」

 

「そんな何度も言われなくても自分が馬鹿だってことくらいわかってるよお。ねえ、望月。どうしよう。あの書類には、うちが提示する価格や条件が全部びっしり書いてあるんだ」

 

「知らないわよ、そんなこと」

 

 新規油田は金の湧き出る泉だ。獲得しようと躍起になっているのは、IMEだけではない。肌身離さず持っていた、落としたはずがないのだ、という和泉沢の弁を信じるとしたら、油田を狙う誰かに盗まれた可能性が高い。

 

「おとといの日曜に帰国して、それからどうしたの。会社には寄らなかったんでしょう?」

 

「……うん。羽田についたのが夜の八時だったんだ。疲れていたし、まあいいかなあって……。一応さ、きのうは必死で探したんだよ。航空会社にも問い合わせて、おとといの帰り道とか、お店とか、全部たどって。でもなくて……」

 

「お店? どこか寄ったの?」

 

「あ、うん。その、ほら、おなかがすいたから」

 

 急にきょどきょどとわかりやすく視線を泳がせはじめた和泉沢に、陽菜子は深い深い息をつく。

 

「ひとりで?」

 

「えっ、それはもちろん……ねえ、ほら、やっぱり、日曜の夜だと、遅くなるのもあんまりよくないし、それで」

 

「ひとりだったの?」

 

 射抜くような視線を向けられたとたん、和泉沢は鼻の頭に汗を浮かべた。そしてやがて、吹けば飛ぶような声で「ひとりじゃありません」と弱々しく白状する。

 

「だれと行ったの」

 

「……美波みなみちゃん」

 

「だから、誰よそれは」

 

「ぼくの彼女。つきあって二カ月くらいになるかな。森川もりかわくんに連れて行かれた飲み会で知り合ったんだけど、意気投合しちゃって、二回目のデートではもう手をつないで、それで」

 

「あんたの馴れ初めなんて聞いてない。興味がない。それで、その美波ちゃんはどこで働いてるどんな子なのよ」

 

「……松葉商事で秘書してるって言ってた」

 

「松葉商事ぃ?」

 

 眉を吊り上げた陽菜子に、和泉沢は身をすくめて、うかがうように顔を覗きこむ。

 

「あの、でも、すっごくいい子なんだよ。優しいし、気配りもできるし、日曜だって飛行機が三時間も遅れたのにずっと空港で待っててくれて」

 

 ──そりゃ契約書をるためならどれだけでも待つでしょうよ。

 

 怒鳴りつけたくなる衝動を抑えながら、陽菜子は静かに長い息を吸った。だめだ。眩暈めまいがする。

 

 松葉商事は、IMEよりもずっとずっと規模の大きな商社だけれど、ここ数年、エネルギー事業に関してはIMEにわずかの遅れをとっている。動機としては十分だ。

 

 陽菜子が考えていることがわかったのか、和泉沢は顔を真っ赤にして勢いよく首を横にふった。

 

「ちがうからね! 美波ちゃんじゃないからね!」

 

「空港に出迎えてくれた彼女とごはんを食べに行って、家に帰ったら契約書が消えていたんでしょ!? それのどこがちがうのよ!」

 

「だって……だって、美波ちゃんがそんなことするわけ……」

 

「あんただって怪しいと思ったから素直に言えなかったんでしょうが!」

 

 今度は泣きべそをかいている。

 

 こんなのが自分の上司で未来の社長なのかと思うと、心底うんざりした。それでも陽菜子はあえて、子供をあやすように憐みの笑みを浮かべてみせる。

 

「今年、何人目?」

 

「え?」

 

「あんたが女に騙されるの。ほんっと、見る目ないわね」

 

 ぐうの音も出なくなった和泉沢から携帯電話をひったくると、陽菜子はLINEのやりとりの履歴、写真、それから彼女のInstagramやTwitterのアカウント、できる限りのすべての情報を奪って自分の携帯電話に保存した。そして、

 

「馬鹿はくたばれ」

 

 と吐き捨て、再起不能となった和泉沢を置いて席を立つ。一瞬だけ猶予をやるが、動く素振りを見せないので部署のエリアの電気も切った。なおも仕事を続けている営業部員たちだけが煌々こうこうと照らされているフロアで、和泉沢は死んだように気配を消している。ドアを閉める寸前に、すん、と鼻をすする音が聞こえてきたから、泣いているのかもしれない。知ったことではなかった。

 

 会社を出ると、強い木枯らしが陽菜子を襲った。あと一週間で十一月。はやく過ぎ去ってくれないだろうかと心底願う。秋はきらいだ。気持ちを切り替えようにも、空や街の色にどうしても感傷的にさせられる。

 

 ストールをぐるぐる巻くと、陽菜子は顔をうずめた。本当にどうして、あの男はよりにもよって陽菜子にばかりこんな話を持ち込んでくるのだろう。創業者である会長の孫で、現社長の愛息。助けを求める相手は、いくらだっているだろうに。

 

 泣きたいのはこっちのほうだと、陽菜子はビルを睨みあげた。

 

 

 

 和泉沢つくるは、入社当時から話題の的だった。

 

 顔、これくらいしかないよね!と片拳かたてをにぎる女子社員を、そんなわけあるかと冷ややかに見ていた陽菜子だったけれど、たしかに隣に並んで写真をとられるのがはばかられる程度には顔が小さく、椅子に座ればいつも余った足の置き場に困っており、スタイルが一般人にしては抜群にいいことは否定できなかった。

 

 だが、学生時代まではとんと女性に縁のない人生だったという。一度見せられた学生時代の写真に写っていた彼は、髪はぼさぼさに伸びきっていたうえ、いまどきどこで買えるのかというフレームのない瓶底眼鏡をかけ、首まわりのたるんだTシャツを着ていた。とてもではないが上場企業の御曹司には見えなかったし、女性でなくても敬遠したくなる風貌だった。

 

 だが人間、髪形と衣装でどれだけでも変わる。

 

 美容師になされるがまますっきりと髪を切りそろえてもらい、仕立てのいいスーツを身にまとった彼は、いまや会社中の女子が狙う、神輿みこしの上のプリンスだ。

 

 そんな和泉沢が、陽菜子はずっときらいだった。

 

 家族も故郷も捨ててきた陽菜子は、ぬくぬくとなんの苦労もなく育ってきたのであろう彼が憎らしくて仕方なかった。

 

 三年前の、あのときまでは。

 

 

 

「好きな男のために、あんなにいやがっていた忍術に手を出すの? けなげだねえ、ヒナちゃんは」

 

 ウィッグとにらめっこしていた陽菜子の背後に、いつのまにか同居人の篠山しのやま穂乃香ほのかが立っていた。シャネルの香水がぷんと漂う。きついのに、いやじゃない。むしろクセになる。その絶妙なラインを穂乃香は熟知している。

 

「気配を消さないっていうのが、同居のルールだったはずだけど?」

 

「消してないよ。ヒナちゃんがぼうっとしてただけでしょ」

 

「……ていうか、好きな男ってなに。しかも術を使うなんて一言も言ってないけど」

 

「えー、だったらどうしてそんなもの出してるのよー」

 

 そう言いながら、穂乃香は陽菜子にしなだれかかる。柔らかく豊満な胸を背中に押しつけられ、陽菜子は同性ながらもぞわりと快感に身をふるわせた。

 

 穂乃香の香は色香の香、と言われるだけのことはある。同じ産院で五日違いで生まれて以来、一緒くたに育てられてきた陽菜子でさえ、不意打ちをくらうと惑わされそうになる。生まれたてのころからその笑みで院内中の男性医師をとりこにし、おかげで陽菜子はしばらく生まれたことさえ気づかれなかったという嘘か本当かわからない逸話が残っているくらいだから、穂乃香は天性のくノ一なのだろう。なんで頭領娘のお前はああじゃないんだ、と父がぼやきたくなるのもわかる。わかりすぎて、嫉妬心も出ない。

 

 ええいうっとうしい、と肩で穂乃香を押しのけると、「ヒナちゃん冷たぁい」とねるような声が飛んだ。

 

「変な勘繰り、やめてよね。わたしは里を捨てた人間なんだから」

 

「うふふ。久しぶりに見られるんだね、ヒナちゃんの変身術。常々、もったいないと思ってたのよ? その才能。ね、今からでも遅くないから、あたしと一緒にお店で働こうよ。ヒナちゃんなら絶対、会社の人にもばれないから」

 

「だから聞いてる? そんなんじゃないって言ってるでしょ? だいたい才能ってなによ。穂乃ちゃんだって変身はうまいじゃない。いつもの出勤スタイル、とてもじゃないけど今と同一人物には見えないよ」

 

「あたしのはただ化粧を盛ってるだけの変装。見る人が見たら、あたしだってすぐにわかるもの。でもヒナちゃんはちがう。誰ひとり、ヒナちゃんのことは見破れない。だから〝術〟と呼べるのよ」

 

 どこか誇らしげな穂乃香に気まずい気持ちになりながら、陽菜子はウィッグのひとつに手を伸ばす。

 

 勉強も、剣術や体術も、陽菜子は何においても十人並みかそれ以下だった。

 

 それでも頭領一家の跡取り娘かと叱りつけられ、納屋に閉じ込められ、夕飯を抜かれて、泣きながら努力だけは続けてみたが、生まれ持った才には限界がある。いつまでたっても陽菜子は里一番の落ちこぼれだった。

 

 そんな陽菜子が、唯一褒められたのが変身術だ。

 

 まわりに溶け込む。目立たない。誰にも印象を残さないまま、任務を遂行する。その訓練だけは、誰にも負けなかった。

 

 だがそれはつまり元の素材が異常に地味だということに他ならず、褒められたところで嬉しかった記憶は一度もない。

 

 そんな技がなんの役に立つのだと、逃げることを許さず、すべての術の体得を強いる親も里のしきたりも、陽菜子はずっと嫌悪し続けていた。

 

「ヒナちゃんが復活して里に戻ってくれたら、頭領──ヒナちゃんのお父様も喜ぶと思うんだけどなあ」

 

「どうだか。一度決めたことも守れんのかってますます怒るだけじゃない」

 

 ふたりが生まれ育った八百葛やおかずらは、四百年以上も連綿と続く忍者の一族が住まう里で、人口三百人にも満たない山奥に潜む集落だ。

 

 里の子供はみな、物心つくより前から忍びとしての高等教育をほどこされ、高校を卒業するまでにそのすべてを習得させられる。とはいえもちろん、フィクションの世界で描かれるような黒装束を身にまとい、四六時中、手裏剣をかまえているわけではない。むしろ目立たないよう凡庸に世間に溶けこんでいる。穂乃香のように色香を控えても目立ってしまう場合もあるが、あくまでよくいる〝クラスで人気者のかわいい子〟という程度だ。

 

 卒業後は、忍びの身分を隠したまま、ある者は大学へ、ある者は専門技術を学ぶ場へ、あるいは働き口を見つけて外に出る。政治、金融、医療に芸事の世界――それぞれの能力を生かせる職業につき、里からの指令にいつでも応えられるよう備えるのだ。在野にあっても八百葛の忍びとしての誇りを失うなかれ、指令がくだれば必ず従え。それは、戦国の世の終わりとともに職を失った忍びたちが、諜報員として生き延びるために敷いた暗黙のルールだった。穂乃香が夜の店に勤めているのも、日本の中枢に進出していく一族の人間を補佐するためだ。

 

 一族の頭たる望月家の一人娘である陽菜子も、当然、そうすることを求められた。IMEに就職すると告げたときは、よくやったと両親はもろ手をあげて喜んだものだ。これからの時代、エネルギー産業は必ずや日本の大きな要となる。その業界に身を置くことは、一族のためにもなる、と。

 

 だが陽菜子は断った。

 

 家を継ぐことも、一族の誰に協力することも、絶対にしない。わたしは里から離れた場所でひとりで生きていく。

 

 そう告げた陽菜子に、何カ月もの争いの末、ついに父はこう言った。

 

 ならばお前は永遠に日陰の存在として生きていけ。決して目立つな。里との関わりを一切絶て。もし約束を破ればお前を社会的に抹殺する。

 

 冷徹にそう告げた父が、電話を一本かけるだけでそれができる力をそなえていることは知っていた。だから陽菜子は、徹底してその約束を守った。忍術にも二度と手を出すまいと心に決めた。

 

 だが。

 

 しょぼくれた和泉沢の顔が脳裏に浮かぶ。どうしよう、とすがるように陽菜子を見た、あの眼差まなざしが胸を刺す。

 

「ま、いいんじゃなぁい。前の彼氏と別れてから三年でしょ。ヒナちゃんもそろそろ新しい恋をするころよね」

 

「だから、わたしがいつ好きな男がいるなんて言ったのよ」

 

「だって昔から、ヒナちゃんが積極的に術を使うのは、決まって誰かのためだもん。ヒナちゃんに友達はいないから、残る可能性は男でしょ」

 

「失礼な……」

 

「あら、反論があるなら受けつけるけど?」

 

 口をへの字に結んだ陽菜子に、穂乃香は勝ち誇ったように笑う。あるわけがない。陽菜子にとっては穂乃香が唯一の家族であり友達だ。

 

「……もう、いいから出てって。わたしはわたしで、することあるんだから。ていうか穂乃ちゃん、仕事は? お店行かなくていいの?」

 

「今日はお休み。だから手伝ってあげられるよ? 久しぶりだといろいろ勘も鈍ってるでしょ?」

 

「いらないってば! 休みの日くらい、はやく寝なよ。はい、おやすみなさい!」

 

「あっ、やだ、ちょっとぉ!」

 

 無理矢理に部屋から穂乃香を締め出すと、陽菜子はきっちり鍵をかけた。

 

 ねえヒナちゃん、一緒に住もうよ。あたしは夜出勤だから、生活もかぶらなくて気楽じゃない? 家賃はんぶっこしたほうが、いいとこ住めるしさ。

 

 大学を卒業する一カ月前、穂乃香はおもむろにそう言った。幼いころから姉妹同然に育った穂乃香がそばにいてくれるのは、家族と縁を切られた陽菜子にはとても心強かった。だが反面で、彼女は父の命でそれを申し出たのだということを、陽菜子は知っている。陽菜子が里の秘密を外に漏らすようなことはないか、誰かに情報を売ることはないか、その監視を命じられているのだろうということも。

 

 ──報告、されるかな。

 

 でもそれでもいい。契約書をとりもどすのは、和泉沢のためだけでなく、陽菜子やほかの社員のためにも必要なことだ。知ってしまった以上、無視はできない。

 

 ──要は、目立たなきゃいいのよね。

 

 ノートパソコンを開くとそこにはターゲットの写真が五十枚ほど並んでいた。

 

 杉原すぎはら美波。入社五年目。松葉商事秘書室勤務。わざわざ会社の広報ページのリンクをシェアしてくれているから、彼女の仕事ぶりもまるわかりだ。きのうは三井みついという専務取締役について、工場の表敬訪問をしていたらしい。

 

 ──ばかね、こんなに情報をあけっぴろげに公開して。

 

 Instagramは誰でも見られる状態だし、連動しているFacebookの公開設定は「友達の友達」まで。陽菜子は彼女の友達ではないが、当然、和泉沢とはつながっているので簡単に見ることができる。ふだんめったに見ることはなく、一度たりとも投稿をしていないどころか、基本情報も最低限しか入力していない陽菜子だが、なにかにつけ便利なので「友達」の数はやたらと多い。そろそろ五百人は突破しそうだ。

 

 自分の情報はほとんど明かさないまま、他人のプロフィールは際限なく覗き見られる。まったく便利な世の中だ。

 

 ざっとここ一年の投稿歴を眺めただけでも、美波に仲のいい妹がいること、半年前に彼氏と別れたこと、最近はサイクリングにハマっていることがすぐにわかる。

 

 それからもう一つ、酒が好きで、水曜の夜は行きつけの飲み屋で開催される〝ビール大学〟という講座に参加しているということも。

 

 会場となっている居酒屋「アルゴ」のホームページによると、樽生ビールを何種類も常備している世界中のビール専門店で、ただ飲んだくれるだけの集いではなく、産地や製法を学びながらどんな食事にどのビールがあうのか、飲み方や注ぎ方などを学んでいくらしい。

 

 水曜は、明日だ。

 

 すぐさま申し込みフォームを開く。参加費五千円の文字に一瞬躊躇ちゆうちよするも、しかたなく財布からクレジットカードをとりだした。

 

 ──カード番号くらい暗記していろ。無駄な動きで情報は簡単に漏れるぞ。

 

 不意に、もう何年も思い出したことのない声が耳元でささやいて、陽菜子は無意識に身体をこわばらせた。俺だったら今のお前の指の動きだけで簡単にカード番号も暗証番号も盗める。本当に危機感がない。お前は心底、忍びには向いていない。

 

 そう言った男の、父よりもさらに底冷えする氷のようなまなざしを思い出し、心がずんと沈むのを感じる。

 

 けれどそれを懸命にふりはらい、美波の写真を隅から隅まで眺めながら、五段重ねのメイクボックスから必要な道具をとりだした。アイシャドウはオレンジとベージュのグラデーション、眉毛は薄いグレーで太め、アイラインはペンシルとリキッドの二本使い、ナチュラルに見えるつけまつげを三種類ほど、彼女の顔になるための道具を次々と迷いのないしぐさで選び出す。

 

 たぶん会社の人は誰も、陽菜子が毎朝の化粧に二時間もかけているなんて想像だにしていないだろう。里にいるときも、大学時代も、今の会社に入ってからも、陽菜子はいつだって〝最大公約数〟の顔になる。化粧だけじゃない。髪形も服装も、立ち居振る舞いまですべて、その場所でいちばんありふれていて、印象に残らないものをつくりあげる。それはもう、陽菜子に染みついた呪わしき癖であり習慣だった。

 

 誰も陽菜子の素顔を知らない。つきあっていた彼氏にだって、一度たりとも見せたことはない。

 

 そんな陽菜子だから、できる。

 

 この女から契約書を奪い戻すことができるのは、陽菜子だけだ。

 

 

 

「へえ、さやかちゃんってマッサージのお仕事してるんだぁ」

 

 頬を赤く染めた杉原美波を捕獲した、水曜の夜九時。

 

 あまりに首尾よく事が進みすぎたことに若干の不安を覚えながらも、さやかと名乗った陽菜子は、ペールエールのグラスを傾け、美波と乾杯をかわした。

 

 ふだん進んで酒を飲まない陽菜子にはいまいち理解しがたいが、酒好きというのはそれだけで年齢も職業も性別もすべて簡単にとびこえてしまうらしい。喫煙所に集うスモーカーたちのように、店内には、なにを確認したわけでもないのに「同志だ」と認定しあう、不思議な空気が流れていた。

 

 五十人の参加者が溢れる店内で、美波を見つけることはさして難しくなかった。Vネックの白のトップスに、ハイウエストから広がるシャギーチェックのフレアスカート。耳元から垂れるピンク色の天然石らしきピアス。計算しつくされた口角に、揺るぎない意志の強さが感じられるまなざし。甘ったるさをほどよく混ぜたしゃべりかた。情報収集したとおりの彼女がそこにいた。

 

 会社を定時で退散してすぐ、デパートのトイレにとじこもりメイクをし直した陽菜子も、彼女とごくごく似たいでたちだ。限りなく黒に近いダークブラウンのウィッグを丁寧に巻き込んだミディアムヘア。グレーのニットに、ネイビーのミモレ丈スカートをあわせ、やはり華奢なピアスをさげている。隣で飲んでいる会社役員だという五十代男性に十分後に尋ねても、どちらがどちらか覚えていないだろう。

 

「でもくやし~い。それ、絶対誰とも被らないと思ってたのに」

 

「今日は持ってないの?」

 

「うん。さすがに会社に持っていくには目立つ色だし。ね、どこで買った? 私、銀座ぎんざのお店を定期的にチェックしてるんだけど」

 

 美波が言うのは、穂乃香に借りたケイト・スペードの新作バッグのことだ。鮮やかなイエローは限定色で、二週間前に美波がSNSで自慢していたのを知っているからこそ持ってきた。レンタル代は一晩につき、穂乃香お気に入りのレストランバー「ツリーハウス」での飲食一回分。食事だけなら一人五千円もあれば足りるが、穂乃香は一人でワインボトル二本は空ける。自分のためでもあるとはいえ、和泉沢のしりぬぐいをするには高くつきすぎているような気がしたが、ここまできたらそんな文句を言っていてもしかたがない。

 

「わたしは青山あおやま。このあいだまで、表参道おもてさんどうの整骨院で働いてたんだ。でも美波ちゃんのピアスもすごくかわいいね? そういう色、大好き。長さもちょうどいいし。シンプルなやつって、逆になかなか好みのが見つからないんだよね」

 

「わかる~。だからこれ、オーダーメイドなの。友達の友達がショップやってて。お手頃だし、よかったら紹介するよ」

 

 ──情報を引き出すにはまず、相手に染まれ。

 

 諜報の、基本中の基本だ。相手にとって、いちばん共感の得やすいスタイルになる。そしてそれをわかりやすく提示する。そうすれば苦労することなく親近感が得られ、会話もはずみやすくなる。

 

 特に女子にとっておしゃべりは必須だ。三十分ほど、どうでもいい話題に花を咲かせながら、陽菜子の視線はつねに美波のバッグと携帯電話にあった。和泉沢が契約書を奪われてからすでに三日が経っている。誰の指示で盗んだかは知らないが、すでに手元にはない可能性のほうが高い。

 

 だが反面、重要書類だからこそ肌身離さず持っている可能性もなくはない。

 

「やっぱり、そういうピンクトルマリンみたいな石もってたほうが、恋愛運あがるのかなあ」

 

「さやかちゃん、彼氏いないの?」

 

「ぜーんぜん。美波ちゃんは?」

 

「私もいな~い。もう干からびちゃいそう」

 

 ──ということはやはり、和泉沢のことはただ利用しただけか。

 

 ふつふつと怒りが湧く。

 

 懲りずに変な女にばかり引っかかり続ける和泉沢にも、社会人デビューを引きずったまま女慣れしていない和泉沢をいいようにあしらっている美波にも。けれどもちろん、そんな心情はおくびにも出さず、美波と一緒に新しいビールを選びにいく。講義が終わったあとは各自、入店時に渡されたチケットを使って、全種類のビールをグラスで楽しむことができるのだ。ペールエールの苦みに少々飽きてきた陽菜子は、さくらんぼの風味がするというビールを選んだ。

 

 互いに最初の一口を味わったあと、本題を切り出す。

 

「ね、よかったら、手相みてあげようか」

 

「えっ? そんなことできるの? マッサージ師なのに? すごーい、見て見て! どっちの手?」

 

「趣味でね。じゃあ、両方見せて」

 

 色白でほどよく肉づいた、触り心地のいい手のひらだった。手相の線もシンプルで、くっきりと強く深く引かれている。

 

「おっとりして見えるけど、けっこうはっきりとものを言うタイプなのかな。意志も強くてしっかりしてる。でも、感情の起伏はわりと激しいね。飽きっぽいけど、いったんハマったらなかなか抜けられない。恋愛も仕事も趣味も全部」

 

「あはは、当たってるかも」

 

「あとはそうだなあ。さよならの線が出てるね。ここ半年くらいのあいだに彼氏と別れた? でも、出会いの線も出てる。最近、新しい出会いもあったでしょう」

 

 手相見と事前に収集した情報をおりまぜながら手のひらを親指でさする。本気にしていなかった様子の美波も、目の端をきらりと光らせた。

 

「なにそれ。そんなの、手相に出てるの?」

 

「まあ、うっすらとね。結婚は二年以内くらいかな。相手がその新しい人かはわからないけど。……好きな人、いるの?」

 

「うん。でも全然、相手にされてない。ていうか、なんだかいいように利用されてる気がするのよね」

 

 少し酔ってきたのか、ちびちびと舐めるようにビールを飲む。そんな男に振りまわされるくらいなら和泉沢の相手をまともにしてくれたらよかったのに、そうしたらわたしがこんな面倒をかけられることもなかった。と、理不尽な文句が出そうになるが、「ええっ、ひどぉい」と美波と声のトーンをあわせて大げさに驚いてみせる。

 

「利用ってなに? お金とか?」

 

「まさか、そんなんじゃないよ。フーゾクとギャンブルは許せないたちだから。なんて言ったらいいのかなあ、仕事を手伝ってるっていうか」

 

 もしかしてビンゴか、と前のめりになりそうになるが、こらえる。諜報の鉄則その二。無駄に焦るな。「いつのまにか自然にしゃべってた」と相手に思わせる流れをつくれ。それには多少の時間も必要だ。

 

 そのあいだも、陽菜子は美波から手を放さなかった。指先から伝わるぬくもりは、それだけで相手に安心感を与えているはずだ。

 

「美波ちゃん、尽くすタイプなんだね」

 

「そういうわけじゃないんだけど……ちょっとした資料をね、集めろって言われたの。でもそれが相当大変で。うまくいけばその人も私も仕事がうまくいくから、自分のためでもあるんだけどさ」

 

 ふうん?と陽菜子は首をかしげてみせる。なんかよくわかんないけど大変なんだね。わかりやすく表情で告げると、美波は小さく、くすりと笑った。

 

「ごめん。こんな曖昧な言い方じゃわかんないよね」

 

「うん、正直ね。でもまあ、仕事だと言えないこともいっぱいあるしね」

 

「いちばんストレスなのはね、そのために好きじゃない人とも仲良くしなきゃいけないこと。ご機嫌とったり、時間さいたりさあ。けっこう疲れるんだよね」

 

「美波ちゃん、そういうの得意そうだけど?」

 

「あは、バレた? でも、得意だからってやりたいかどうかは別でしょ」

 

 これで完全に、和泉沢は眼中にないことが確定し、陽菜子はやれやれと宙をあおいだ。ほっとするというよりも、どうしてあいつはいつもこうなんだというあきれのほうが先立つ。ほとほと女を見る目がない。

 

「要するにさ、その資料を好きな人に渡せば喜んではもらえるんだけど、そこでありがとう、ハイおしまい、じゃ悲しいじゃない。これをネタにつきあって……とまではいかなくても、デートくらいはしてもらおっかなって」

 

 一日二日一緒にいれば、それなりにどうにかできる自信あるし。

 

 そう言いながら美波の視線がほんのわずかな一瞬、鞄に向いた。やだあ、美波ちゃん、それどういう意味ぃ。わざとらしく嬌声をあげて茶化しながら確信する。

 

 契約書は、鞄の中だ。

 

「うまくいくといいね。ていうかさ、がんばったんだから、デートくらいはしてほしいよね」

 

「でっしょお? クリスマスも近づいてるし。身体使ってでも落としたいから痩せなきゃ。最近、なかなか体重落ちなくて。なんでかな」

 

「これだけビール飲んでたら当たり前だよ。……そうだ。脂肪を燃焼しやすくするツボ、押してあげようか」

 

「えっ、ほんとに? 効く?」

 

「占いよりそっちが本業だし。末梢神経が冷えてるみたいだし、肩も凝ってるんじゃない? 凝りがたまると太りやすいよ」

 

 言いながら、手の全体を強めの力でもみほぐす。指先があたたまってきたところで、はしゃぐ美波の背後にまわり、耳の下や首筋、そして肩甲骨のあたりを軽く押していった。さりげなく椅子の位置を変え、美波の視界から鞄を隠す。隠しながら、足でそっと自分の座席のほうへと鞄を移動させる。

 

 押したのは、血行をよくするツボと、そして睡眠を促進させるツボだった。

 

 ひととおり強めに押したあと、ここぞとばかりに陽菜子は美波にビールを勧める。身体がぽかぽかしてきたかも、と上機嫌になった美波は、それからも聞きもしないことをよくしゃべった。

 

 かくして二十分後、陽菜子にあおられ度数の高いビールを三杯もあおった美波は、無防備に机につっぷし、ぐっすりと眠りに落ちたのだった。

 

 ──ほんと、スパイには向いてないわ、この子。

 

 陽菜子の生まれ育った八百葛以外にも、日本にはいくつか忍びの里が潜んでいる。同盟を結んでいる里もあるがごくわずかで、そのほとんどはどこに存在しているかも定かではない。ゆえに、美波ももしかしたら、陽菜子の知らない里の忍びかもしれないという疑念はあった。堂々とSNSに情報公開をしているからといって、そのすべてが本当とは限らない。むしろ、あやしまれないようにあえて偽りの自分を装っているケースもある。

 

 だが美波は本当にただの女の子だった。好きな人に気に入られたい、その一心だったのだろう。自分も誰かに仕掛けられるなんてつゆほども思っていない。あまりにあっけなさすぎて不安になるが、一般人相手ならこんなものかもしれない。

 

 美波の鞄から取り戻した契約書を小さく折りたたんで、上着の内ポケットにしまう。二重底になっているから、落とす心配はない。ついでに、机の上に放置された携帯電話にも手をのばした。暗証番号は、指の動きで確認済みだ。0713。プッシュすると、あっけなく解除される。

 

 メールボックスにめぼしいものはない。

 

 とするとやはりLINEかと、未開封のものをうっかり読まないように気をつけながら、その好きな人とやらの履歴をさがす。

 

 そして。

 

 ──嘘でしょ。

 

 見知った名前に唖然あぜんとしたのは一瞬で、ううん、と動いた美波を横目に、すばやくやりとりのスクリーンショットを撮り、自分のアドレスに送った。契約書を奪った証拠にと、美波は相手に画像を送信していたため、その元データも消しておく。念のため写真フォルダも一巡したあと、指示したと思われる人物とのツーショット写真を確保し、すべての痕跡を消すと、ようやく、気持ちよさそうに寝息をたてている口元に携帯をもどした。あとは立ち去るだけだ。

 

 明日になればきっと美波は、陽菜子の顔をはっきりとは思い出せないだろう。限りなく美波に近く、そして美波の友達にいちばんよくいるタイプに変装したのだから。

 

 ──そういえば、社会人になってから外でこういうことするの初めてだ。

 

 大学を卒業するまでは、学費の援助を打ち切られても困るので、里の言うなりに動くこともあった。けれどやめてからどれほど経っても、陽菜子の表情も言葉も心とは裏腹に計算どおり動いてくれる。たとえいま嘘発見器にかけられても、見破られない自信がある。

 

 ──だから、いやなのよ。

 

 平気で人を欺き、嘘をつける自分が。

 

 それに対する罪悪感をかけらも抱けない自分が。

 

 やっぱりやめておけばよかった、と後悔しながら店を出る。余計なことをするから、さらに余計な情報を手に入れてしまった。

 

 だけどやってしまったものは仕方ない。とりあえず目的は達した。いまはそれで十分だ。

 

 一晩だけの友人に別れを告げて、陽菜子は足早に駅へと向かった。

 

 

 

「あれ、森川もりかわさん。今日ははやいんですね」

 

 煙草ルームと呼ばれる三畳の広さもないガラス張りの部屋で、森川俊之としゆきは煙をくゆらせながらぼんやり窓の外を見ていた。

 

 無駄にイケメン。それが課の先輩である森川に対する印象だ。

 

 歳は三十四くらいだっただろうか。仕立てのいいアクアスキュータムのグレーのスーツに、ボルドーのネクタイをしめ、革靴はどこのブランドかは知らないがいつ見てもぴかぴかに磨き上げられている。上から下まで伊勢丹でそろえました、というわかりやすいファッションだが、センスがよく女性にも男性にも受けがいいことには違いなかった。学生時代はラグビーをやっていたという体格の良さも、それに似合う濃い顔立ちも、やはりわかりやすく爽やかだ。

 

 隙がない。自己演出が徹底されている。それが陽菜子にはむしろ過剰に思えて、無駄、という感想が出てくるのかもしれない。

 

「あれ、望月って煙草吸うんだっけ? イメージないな」

 

「やめてたんですけどね。なんか疲れちゃって」

 

「どうした、朝から。いま、なんか仕事たまってた?」

 

「課長に言われて、資料を集めているんですよ。ドバイとの契約内容、見直すんですって。まったくこういうギリギリになって言うの、やめてほしいですよね」

 

「……へえ?」

 

 わずかに興味を惹かれたように、森川が眉をあげる。

 

 けれど涼しい顔をして、陽菜子はフィリップモリスに火をつけた。臭いがつくのがいやだから、できれば吸いたくないのに。あのくそ馬鹿のせいで。と、毒づきながら、慣れたしぐさで息を吐く。

 

「俺、手伝おうか? 今そんなにつまってないし」

 

「ありがとうございます。でも大丈夫です、もうほとんど終わってますから。ただ無性にボンにムカついてきちゃって。指示も下手だし、スケジュール管理もむちゃくちゃだし。ほんとあんなのが上司なんて世も末ですよ」

 

「しょうがないさ、社長のご子息様なんだから。でも意外だな、望月は課長と同期だろ? 仲がいいのかと思ってた」

 

「そう思われるのが心外なんです。無駄にやっかみ買うし」

 

「ああ……モテるからなあ、あの人」

 

 食えないな、と森川の表情をつぶさに観察していた陽菜子は嘆息を漏らす。

 

 

 

〈手に入った?〉

 

〈うん。ばっちり〉

 

〈ばか。画像で送るな。証拠残るだろ〉

 

〈ごめん。でもこれで、一緒に働けるんだよね?〉

 

〈そうだな。土産にしようとは思ってるけど〉

 

〈専務もまた飲みたいって〉

 

〈よろしく伝えといて〉

 

 

 

 ゆうべ確保した、美波と森川のやりとり。

 

 森川は万が一のことを考えて「消しとけよ」と言っていたが、そこは乙女心が働いたのだろう。すべての履歴がばっちり残っていた。

 

 ──全然、気づかなかった。

 

 ぼんくらな和泉沢に代わり、実質は課を率いるエースも同然の森川が、転職を考えていたなんて。それも、自社を売ってまでライバル会社へ移ろうとたくらんでいるだなんて。

 

「ほんと、あんなに頼りないのになんで課長なんだろ。森川さんのほうがずっと上司にふさわしいと思うんだけどなあ」

 

「厳しいな、望月は。でも課長にもいいところはあるよ。あの人があれだけゆるいから、俺たちは自分の采配で自由に動けるところもあるし。ほかの課のやつらなんて、もっと理不尽にふりまわされてるみたいだぜ」

 

「ふうん。そんなもんですかねえ」

 

「俺は係長程度がちょうどいいんだよ」

 

 そう言いながら二本目の煙草に火をつけた、森川のまばたきが瞬間的に増し、唇の端がほんの一ミリほど歪んだ。声のトーンもわずかに揺れている。

 

 嘘をついている人間の、典型的な行動だ。

 

 森川は、自分の境遇にまるで納得なんてしていない。

 

 ──ねー、あのヒトがなんて言ってるか知らないけど、つきあってなんかないからね? 森川さんに言われなかったら、私連絡先だって交換してないよ。わかってるでしょ?

 

 誤解されないように必死な美波は、森川以外が見えていない。

 

 わかってるよ。ありがとう。感謝してる。お礼は必ずするから。美波のあけすけなアプローチも、森川はやんわりかわしている。この男もまた、美波のことなど眼中にないのだった。

 

 最初から仕組まれていたのだ。飲み会に和泉沢が連れて行かれた時点から。いやもしかしたら、それよりもずっと前から。どの酒を飲むと酔いやすいか、どんな女の子の仕草しぐさに弱いか、森川は少しずつ集めた情報を美波に流して、和泉沢が心を奪われるよう画策した。

 

 契約書を奪うため、だけじゃない。それだけなら社内でいくらでもチャンスがあったはずだ。

 

 わざと、あえて、美波に盗ませた。

 

 女にうつつを抜かす和泉沢をわらい、あげく足をすくうために。

 

 ──許せない。

 

 笑顔の仮面をつけた陽菜子は、拳をにぎりしめることだってしない。嘘つきの片鱗も、感情のかけらも、誰にも見せない。

 

 ただ心に誓う。絶対に、許さない。

 

「まあでも、ドバイとの契約はほとんどフィックスしてるみたいですし、一安心ですね。なんか、他社の横槍が入りそうだって聞いてたんでひやひやしてたんですけど、先方からほぼ確定のお返事いただけたみたいですよ」

 

「……へえ。よかったじゃん」

 

「ま、来期がどうなるかはわかりませんけど……。あーあ、なんかこう、湯水のように湧き出る油田とか、一生なくならないエネルギーとか発明されないかなあ? 経済ニュース見るの飽きちゃいましたよ」

 

「ははっ、それを探すのが俺たちの仕事だろ。気持ちはわかるけど。……じゃ、俺は先に行くわ。今日、午前中にアポが入ってんだよね。準備しなくちゃ」

 

「はあい、またあとで」

 

 にこにこと森川を送り出し、姿が消えたところで煙草の火を消す。

 

 あれだけ自己顕示欲の強い森川が、どこかの里の忍びということはないだろう。上昇志向の強い、ただの野心家だ。であれば、今問い詰めてどうこうするよりも、社内で泳がせておいたほうが得策だった。

 

 内部のスパイは、外部のそれよりたちが悪い。放擲ほうてきするよりは、飼ったまま監視するのが一番だ。

 

 煙草ルームを出て、わずか十分かそこらのあいだにスーツに染みついてしまった臭いに、陽菜子は顔をしかめた。今後は森川と交流するためにも頻繁に出入りすることになろうが、個人的には、ゆうべの五千円よりもこっちのほうが痛い。無料で貸し出されている消臭スプレーをありったけ吹き付けていると、フロアのドアが開いて「ああ、いたいた!」と呑気に頬をゆるませた和泉沢が姿を現した。

 

「もう、どこにいたんだよ、望月。探しちゃったじゃないかあ」

 

「……なんか用。わたし今、いちばん見たくないのがあんたの顔なんだけど」

 

「ひどい言い方だねえ。前から思ってたんだけど、ぼく、望月になにか恨まれるようなことした? 同期でもぼくにだけ冷たくない?」

 

 ひょっとして嫌われているのかも、とめげることのないその精神はむしろ尊敬に値する。返事をするのも面倒くさいので、「それで、なに」と冷たくあしらう。

 

「そうそう、あのね、契約書が見つかったんだ! 鍵つきの引き出しに入ってた。ぼく、鞄の中にずっと入れていたつもりなんだけど……もしかして無意識のうちにしまってたのかなあ?」

 

「…………ああ、そう。それはよかったわね」

 

 あまりに疑いのない笑顔に、全身の力が抜けていく。

 

 ふつうに勝負をしたら、あの森川にこの男が勝てるはずがなかった。すべてを信じる人のよさ。がんばれば夢は叶うと、真顔で言ってのけそうな世間知らず。森川が憎みたくなるのもよくわかる。こんなのが社長の息子というだけで自分の上に立つなんて、きっと許しがたい屈辱だろう。その点だけは、同情する。

 

「ごめんね。ぼくがしっかり確認してなかったから、望月にも心配かけちゃって。お詫びにごはん奢るよ。今夜とか空いてる?」

 

「いいわよ、そんなの。疲れてるから、今日ははやく帰りたいし」

 

「でもそんなの悪いし……」

 

「じゃあランチ奢って。李桃庵りとうあんの旬御膳」

 

「え……でもあれ……一人五千円くらいするやつだよね……?」

 

「夕飯食べるのとたいして変わらないでしょ」

 

 会話を続けるのもいやで、とっとと席に戻ろうとした陽菜子の隣で、和泉沢はしごくご機嫌だ。

 

「ああ、でもよかった。美波ちゃんを疑わなくて。連絡がつかないから、ぼく、直接聞いてみようと思ったんだよ。それできのう会いに行ったんだけど、結果的には会えなくてよかった」

 

「……会いに行った?」

 

 足を止めてふりかえった陽菜子の動揺に気づかず、和泉沢はあいもかわらずぽやぽやと笑っている。

 

「うん。望月もビール大学は知ってるよね? 美波ちゃん、毎週通ってるから、そこに行けば会えるかなと思って。でも、ぼくが行ったときにはもう終わりかけでさ、人もごちゃごちゃしてたし、会ってなにを話せばいいかわからなかったし、帰ってきちゃった」

 

「ちょっと待って。なんでわたしがビール大学を知ってるって……」

 

「だっていたでしょ、ゆうべ。帰りを急いでたみたいだし、距離もあったから声はかけなかったけど」

 

 二の句が継げず立ち尽くす陽菜子を前に、「おっといけない」と和泉沢は腕時計を見やる。

 

「会議が始まる時間だ。じゃあね、望月。ぼく、行かなきゃ」

 

「あっ、ちょっと……!」

 

「とにかくありがとうね。またランチのときにゆっくり話そう。美波ちゃんのことも相談乗ってね」

 

 そう言い捨てて、スキップでもしそうな足取りで会議室へ向かう。

 

 ああそうだ。あの女にはもう近づくなと言わなくちゃいけないんだった。森川とつきあっているらしい、やめとけと、さりげなく忠告しなくては。あのお人好しの坊ちゃんのことだ、本当は好きあっているのに擦れ違いが生じて別れていたらしい、とかなんとか話をつくればすんなり身を引き、心の底から二人の幸せを願うだろう。

 

 だが今は、そんなことよりも。

 

 ──また、バレた。

 

 今とはまるで別人の装いだったはずの陽菜子を、どうしてあいつが見破れた。

 

 三年前と同じ衝撃を天辺てんぺんからくらって、頭が焦げそうだった。

 

 なんであいつに。

 

 あんな奴に。

 

 悔しさと恥ずかしさがないまぜになって、三年前の記憶が掘り起こされる。

 

 

 

 忘れもしない。

 

 あれは三年もつきあっていた彼氏にフラれた冬の日のことだ。

 

 ──お前と一緒にいても、なんだか落ち着かないんだよ。

 

 いつまでたっても心を開いてくれない。本当の顔を見せてもらえている気がしない。これから先の人生を、一緒に歩んでいく自信がない。矢継ぎ早にそう言う彼に、陽菜子はなにも返せなかった。反論もしてくれないのかよ、と悔しさと苛立ちをないまぜにした顔で、最後くらい泣いてすがってほしかったと言い捨てると、彼は陽菜子の前から去っていった。

 

 あっけない終わりはショックだった。結婚したいと思っていたからなおさらだ。でもその半面、なんでわたしが泣かなきゃいけないの、と理不尽にも感じた。

 

 自己を殺すことこそが何より優先と叩きこまれて育った陽菜子には、彼の言っていることの意味がまるでわからなかった。一緒にいて楽しかった。幸福と感じた。それだけで何故だめなのかと。わがままを言えとか、甘えてくれとか、そんな曖昧なことを求められても困る。もっと合理的に、具体的に指示してくれなきゃ何をどうしていいかわからない。

 

 そんなふうに憤った自分に辟易へきえきした。けっきょく自分は、里から逃れられないのだと、絶望するような気持ちになった。

 

 だからとりあえず泣いてみたのだ。

 

 泣けと言われたら泣ける。笑えと言われたら笑える。だから、泣いてみた。通りがかりに見つけた公園のベンチで、木枯らしに吹かれながら、出尽くす限りの涙を流し続けた。遠慮がちに陽菜子をうかがう通行人より、尻が冷えて痛かったことだけを覚えているくらい、その涙にはなんの意味もなかった。

 

 ――みんなさあ、よく「自分」なんて曖昧なもの信じてられるよね――。

 

 あれは確か、就職活動をしていたときのこと。陽菜子の持っていた「自己分析シート」をチラ見した穂乃香が醒めた声で言ったのだ。陽菜子も同意見だった。人は、自分の望みを映した相手に好意を抱く。人間関係で大切なのは、いかに自然に懐に潜りこむかで、そこに自分の意志など不要だと陽菜子たちは教わってきた。信頼や絆なんてものは、目標を達成するためのプロセスに過ぎない。それで何もかもうまく運んでいたし、恋人との関係だって良好だったはずだ。それなのに。

 

 ――本当の顔って、なによ。なんでそんなもの、求めるの。

 

 はなをすすりながら、自分が少しだけ怒っていることに気づき、陽菜子は自嘲気味に笑った。こんな自分でも、感情を失っているわけじゃない。

 

 気づけば鼻の下ががびがびに乾き、当然のことながら化粧も落ちていた。二時間かけてつくった顔は、ものの十五分で簡単に壊れた。子供たちが泣いて逃げ出す、ハロウィンの仮装のような顔になった陽菜子は、しかたなく水飲み場で顔を洗った。ウィッグもはずし、自宅以外ではさらしたことのない素顔のまま、ふたたびベンチに腰かけ、ぼうっと雲の流れを眺めていた。

 

 そのときだ。

 

 ──あれえ、望月。そんなところでなにしてるの?

 

 ボウルに山盛りになったカスタードクリームみたいな甘ったるい声がして、見ると和泉沢が彼女らしき女と腕を組みながら歩いてきた。美波とよく似た、わかりやすくかわいい女だった。その彼女に「同期の望月さん。年下なのにすごくしっかりした子なんだよ」と紹介している和泉沢を、陽菜子は呆然と見返した。

 

 ──どうしたの、なんか今日、雰囲気ちがうね?

 

 雰囲気どころの騒ぎじゃない。目鼻立ちの印象も、輪郭も、髪の長さや色だってちがうのだ。

 

 それなのに和泉沢は、目の前にいる女が望月陽菜子だと、微塵も疑っていないようだった。

 

 ──ぼくたちこれから映画なんだ。また月曜、会社でね。

 

 屈託のない和泉沢の笑顔に呆然としつつ、立ち去る二人の背中を眺めていたら、無性におかしくなった。陽菜子は人目もはばからず腹をかかえて笑った。さっきまでは憐れむようなまなざしを向けていた通行人が、胡散うさんくさげに顔をしかめていたが気にしなかった。なんなの、これ。なんなの、あの人。

 

 途方もない馬鹿だと思っていたのに。

 

 頭はいいけど役に立たない、そう後ろ指をさされ続けるぼんくらなのに。誰も見分けたことのない陽菜子の素顔を、陽菜子自身ですら見失いそうな本当の姿を、一瞬で見分けた。きっと馬鹿すぎて本能まるだしなんだ、そう思ったら笑いが止まらなかった。そんなふうにコントロールのきかない感情を味わったのは、生まれてはじめてだった。

 

 たった、それだけ。

 

 それだけのことで、陽菜子の心は激しく揺さぶられた。

 

 馬鹿なのは知っている。どうしようもなく腹は立つ。あのお人好しをねじ伏せたくなる、嗜虐的な衝動も消えていない。けれど一方で、彼の純粋無垢さを守ってみたいという想いがふつふつ湧くのだ。どこまで貫けるものか、見てみたいと。

 

 だから。

 

 森川が和泉沢を害しようというなら、持てる力を最大限に駆使して食い止めたい。それが里の掟にそむくことになろうとも。

 

 ──どうしようもないな、わたし。

 

 和泉沢以上の大馬鹿だ。

 

 苦笑したそのとき、ポケットで携帯電話が震えた。着信したメールを開いて、表情を凍らせる。

 

〈日曜、朝九時。本丸の展望台で〉

 

 差出人は向坂惣真さきさかそうま

 

 それは、次代の頭領として里の誰より恐れられている男からの、約七年ぶりの連絡だった。