「どんな死に方が嫌か」を考えるにあたり、思考がこんがらがるのを防ぐため、まずは何をどう考えていくか方針を決めることにした。自慢じゃないが私はADHDっぽいので(診断を受けたらたぶんグレーゾーンだと思う)、事前にある程度筋道を立てておかないと、思考が四方八方に拡散して収まりがつかなくなるのだ。自分と半世紀近くも付き合うとさすがに「傾向と対策」は見えてくる。

 さて、では、まず何から考えよう。

「死に方」とざっくり括っているが、「死因」と「死んだ時の状況」は分けて考えた方がいいだろう。

 たとえば、死因が凍死として、死んだ時の状況が自室なのか、自宅近くの道路なのか、冬山なのかでは取るべき対策が大きく異なるからだ。

 自室での凍死を想定するとなると貧困から社会崩壊まで幅広いシナリオを考える必要がある。

 だが、自宅近くの道路の場合、ほぼ百パーセント「真冬に泥酔した挙句うっかり外で寝てしまって凍死」なので、対策は「泥酔するまで飲むな」の一択になる。冬山に至っては「そもそも行くな」で終わってしまう。

 ことほどさように死因と死んだ時の状況――毎回「死んだ時の状況」とタイピングするのも面倒なので今後は「死況」という造語を使うことにするが――は峻別されるべきなのだ。

 そんなわけで、まずは死因である。

……と、さっさと話を先に進めるのが、ネットエッセイの定石なのだろう。だが、その前にどうしてもチェックしておきたいことがあった。

「死」と「寿命」の今日的定義である。

 なんでそんな基本からなの? 今さらそこはどうでもよくね? と思ったかもしれない。まあ、私も多少はそう思わないでもない。でも、気になるんだもの。しょうがないじゃない。

 細かいところまで気になってしまうのが僕の悪い癖でしてね、と心の中の杉下右京に言い訳をしてもらいつつ、とりあえず参考になりそうな本を積読棚から探すことにした。

 そうして見つかったのが『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者として有名な本川達雄氏の著書『人間にとって寿命とはなにか』と雑誌Newton別冊『死とは何か』の二冊である。 なんというお誂え向き! 特に前者など帯文が「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」である。まさに私が気になっているところではないか!

 こいつは春から縁起がいいやとばかりに意気込んで読み始めた、のだが……。

 え? ナマコ? 冒頭いきなりナマコの話なの? 

 「ナマコは動かない」なる小見出しに大いに戸惑う私。

 だが、負けずに読み進めていった。いったのだが、以後ナマコを詠んだ著名俳人たちの句とか、ナマコは神に選ばれた特別な生物であるとか、著者のナマコ愛ほとばしる記述が延々と続く。おかげで、私は予期せぬ知識を得て、にわかナマコ博士になった。ナマコについて見識を深めたい方、この本、とってもおすすめです。

 もちろん、目的に合致する情報も見つけることができた。

 人間、遺伝子がまともに働くのは五十歳あたりまでなのだそう。それ以降になると遺伝子が暴走することが増えて、癌化する細胞が増えていく。また、関節が動かなくなってきたり、各種能力が目に見えて低下したりするのも、自然が想定していた人体の耐用年数の上限が五十年ほどであるためらしい。

 つまり、身体的には五十を過ぎれば完全に「余生」なのだ。

 居酒屋で脂ぎったおっさんが「今どき五十六十はひよっこよ!」と吹き上がっていても、Twitterで意識高い系アカが「現代女性は五十歳でもおばさんじゃありません!」と声高に主張していても、ネイチャーは「いや、もう十分年寄りやで~。おじさん/おばさんどころか、おじいさん/おばあさんやで~」と囁いているのである。

 本川氏は言う。

 現代人の長生きはひとえに技術の賜物であり、その技術を稼働させるためのエネルギーをお金で買って、寿命という時間を得ている。よって、今の長寿者は技術が作った「人工生命体」なのだ、と。

 この指摘は、今後シュリンクしていく日本社会で老いゆく者にとって、非常に重要だ。

 今の日本はまだ個人にも社会にもエネルギーや技術を買う余力がある。

 だが、五十歳以下の大人は、バブル崩壊後凋落する一方だった世の中で社会人生活をスタートさせている。それはつまり、初手から財産形成できるチャンスが乏しい社会に生きているということであり、同じ成果を上げても生涯で得られる社会からの分け前は少ないということでもある。

 当然、長寿のためのエネルギーや技術を買うことができる層は縮小するだろう。現在、男女ともに八十歳を超える平均寿命を誇る我が国も、二十一世紀後半には首位陥落どころか、戦前のレベルまで落ちているかもしれない。

 もっとも、それが不幸に直結するか否かは別の問題なのだが、今はそこには触れまい。ひとまず、現代の長寿は人工生命体レベルであり、そんな世の中だから死ぬのが難しくなってしまっているのだということを確認しておくに留めよう。

 次に、Newtonの方である。こちらは老舗科学雑誌の特集だけあって、テーマずばりの記事が並ぶ。そこで得た、本連載に関係ありそうな知識は下記のとおりだ。

 一、死に明確な定義はない。

 現代の世の中において、人間個体の死を社会的に認定するのはお医者さんである。死亡診断書がなければ、どれだけしっかり死んでいても火葬も埋葬もできない。よって、医学的には超明確な「死の基準」があるのだろうと思っていたが、実際はそうではないらしい。

 心臓が止まって、呼吸が止まって、瞳孔反射をしなくなったら、とりあえず死んでるってことでいいんじゃない? ぐらいのノリで個体の死が決定されるそうなのだ。確かに、この三拍子が揃っていたら、ほとんど生き返ることはないだろう。だが、稀にはあるので、死の判定は心肺停止から数十分の時間を置いて確定し、火葬は死んだと診断されてから二十四時間経過しないとできないことになっている。

 時々生きたまま焼かれる系のホラーがありますけど、ああいうのは現実的には起こらないようなので、皆さん安心してください。

 

 二、死因に老衰はない。

 厚生労働省が発表している死亡統計の項目には「老衰」があるが、医学的定義として「老衰」はないそうだ。たとえば、高齢になって嚥下機能が衰え、誤嚥性肺炎を発症して死んだとする。この場合、医学的には肺炎による死である。よって老衰ではないという、なんだかトンチみたいな話だが、自然に枯れゆく死を望むワタシ的にはどのような死因が老衰に含まれるのか、調べてみる必要がある。

 三、人の寿命は環境と遺伝が3:1で影響する。

 長生きしやすい家系は実際にあるけれど、それが生まれ持った因子によるのか、家族として同じ生活習慣を共有しているせいなのか、明確にはなっていないそうだ。

 生活習慣、やっぱり大事。

 以上、ちょっと回り道をしてしまったが、他にも色々と「死」について学ぶことができた。これによって少しは脳が活性化し、ボケ到来日が一日延びたかもしれない。そうであればいいのだけれど。

 結局のところ、死や寿命はまだまだ研究途上にあり、こちら方面を深堀りすることで「ベストな死に方」の答えを探すのは難しそうである。やっぱりふりだしに戻るしかない。

 というわけで、再度「これだけは絶対嫌な死に方」を考えていこう。

 まず思いつくのは「天災や事故犯罪に巻き込まれる不本意な死」である。だが、こればっかりはいくら気をつけたところで、意のままには防げない。

 天災の恐ろしさは今ここで改めて述べるまでもないだろう。この十年だけでも私たち日本人は嫌というほど実例を見てきた。

 事故や犯罪は、戸締まり用心火の用心を励行、日々注意深く行動し、人間関係に気をつけ、護身術などを身につけておけば、ある程度は防げるかもしれない。

 しかし、天災レベルの事件――暴走車が歩道に突っ込んできたり、空から飛行機が落ちてきたりとなると、これはもう何をやっても無駄だ。テロも同様だろう。ランボーレベルの肉体でもない限り、巻き込まれたら一巻の終わりである。

 よって、奇禍による死は、絶対嫌だけど対策なしと判断してリストから外す。こればっかりは神のみぞ知る、だ。ちなみに私は趣味と実益を兼ねて年間百近い寺社にお参りするので、神頼み方面はバッチリである。

 さて、次に嫌な死に方はなんだろう。

 仕事部屋でぼんやりと考えていると、ふと片隅に飾ってある故・水木しげる氏のイラストが目に入り、その瞬間「餓死です、餓死」という氏の声が頭にこだました。

 そうだ。食を何よりも愛する私としては、餓死だけは絶対に嫌だ。

 貧しい紙芝居作家を経て貸本マンガ家からキャリアをスタートさせた水木しげる氏は、戦後の貧しい時代、仕事のないマンガ家仲間が餓死するのを目の当たりにした。そんな経験からよく「アンタ、働かなきゃ餓死ですよ!」と言っておられたと聞く。しがないフリーライターの私にとって、この言葉は金言であり至言だ。

 餓死したくなければ十分な貯蓄をするか、死ぬまで働き続けるかしかないのだが、宝くじでも当たらない限り、選択肢は後者しかない。今のところ、ライター稼業だけでなんとか糊口をしのいではいるが、原稿の注文が来なくなったら即失業である。

 もっとも、ライターの口が無くなれば他の仕事をすればいいとは思っている。世の中、どれほどどん底の生活になったとしても、とにかく働いていれば餓死だけは免れるだろう。

 だが、働けなくなったらどうだろうか。家族親族に頼れる相手がいない上、預貯金もほとんどないときている以上、あとは餓死への道をたどるしかあるまい。

 考えてみれば、兄弟姉妹もいない独身子無しの上に仕事は不安定な自由業って、なにそれ。人生常に崖っぷちじゃん。バカじゃないの?

 けど、考えようによっては、なんとか人並みの生活はしているんだから、けっこうすごいのかもしれない。もしかしたら、みんなに讃えてもらってもいいレベルの快挙かも。

 と、自己評価が徹底否定から超肯定に急カーブを描いて上昇したわけだが、どれだけ自己評価が高かろうが「日々黄信号」なのは変わりない。

 もちろん、この国にはセーフティネットとして生活保護制度はある。だが、受給要件は年々厳しくなっていると聞く。高齢化社会の進展によって受給者が増えているからだ。今後、経済縮小は避けられない日本社会において、貧困老人は益々増えていくだろう。ということは、ものすごく年寄りになってからならともかく、四十代や五十代であれば「働けないから」と申請しても門前払いを食らう可能性がある。

 いや、実際に門前払いの末に亡くなった例がある。

 二〇一二年一月、札幌市のマンションで四十代の姉妹が遺体となって発見された。姉は四十二歳、妹は四十歳。直接的な死因は、姉が脳内血腫による病死、妹は凍死だったが、発見された時点で冷蔵庫の中は空っぽだったという。姉は長らく体調不良に苦しみ、妹には知的障害があった。働くのが困難になり、失業してしまった姉は、役所で生活保護の受給相談を三度もしていたが、受給には至らなかったそうだ。

 収入が妹の障害年金しかない状況が長らく続き、国民健康保険の保険料を払えないため未加入の状態になっていた。もし、姉妹が生活保護を受けられていたら、姉は病院に行くことができ、冷蔵庫が空っぽになることもなかったはずだ。そして、姉が生きていれば、妹も死ななかっただろう。

 彼女たちの無残な死は、まったく他人事ではない。生活の手段がなくなり、社会との関わりも断たれたら、誰でも同じ末路をたどるだろう。

 自分は大丈夫。そう思っているあなたも例外ではない。

 長寿化は、退職金と年金で老後の生活を支える昭和モデルを破壊した。堅実に蓄えをしていたはずが、長期に及ぶ引退生活で使い果たし、だからといって満足な働き口もなく、徐々に貧困化していく老人は確実に増えているそうだ。だが、子や孫も生活に余裕がなく、援助は難しい。だから、生活保護に頼るしかない。

 総務省の資料によると、今の六十歳以上の高齢者世帯貯蓄額の中央値は一六三九万円。厚生年金で月額十五万円程度もらっていたら、一見安心な数字に見える。どこかの大臣が老後資金に二千万円貯めておけと曰って物議を醸したが、根拠のない数字ではない。

 だが、人生何があるかわからない。予想外の事態が起こると途端に話は変わってくる。 さらに、最後の人口ボリュームゾーンである私たちの世代、いわゆる団塊ジュニアは、今の老人たちほど年金はもらえないことが確定している。そして、今の老人たちほど資産を築けないことも。

 この辺りのことについては、今後じっくりと触れていくつもりだが、一生自分の金だけで安心安定の暮らしを維持していこうと思ったら二千万円どころでは足りないのは必至だ。もし、現在の中央値以下の貯蓄しかなければ、誰もが「餓死です、餓死」の道をたどるかもしれないのだ。

 ああ、怖い。私なんて読者の皆さんよりはるかに餓死確率が高いのであるから、嫌な死因の第一に「餓死」をあげ、今後の調査項目の一つに「餓死しないで済む方法」を加えることにしょう。これは主に経済問題および社会との関わりの問題になりそうだ。メモメモ。

(第三回につづく)