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 夏枝が鍋のふたをとると、ぶわっと湯気が広がり、ほかの三人は子供みたいに「わあっ」と声をあげた。
「おいしそう、いいにおい~」
「ささ、食べよ、食べよ」
「いただきまーす!」
「レモン鍋か、さっぱりしていいね」秋生が豆腐をはふはふとほおばりながら言った。「年取るとさ、この手のさっぱり味がほんとにしみるよな」
「まだ家にいっぱいあるから、あげるよ」真冬は言う。鍋の素は先月、一人旅ででかけた広島で買ってきたものだった。
「なんかさ、今日スーパーにいって改めて思ったけどさ」と夏枝。「マジのマジで、物価やばいよね」
 それから真冬以外の三人は、やれトマトが高いだのインスタントラーメンが三袋入りになって価格をごまかしているだの岸田さんは庶民の苦しみをわかってないだのと語りだした。真冬は三人の顔を順繰りにながめながら、じっとタイミングをはかっていた。普段、会話にわって入ることなんて息をするように自然にやっているのに、今日はやけに難しい。
「どうしたの? 冬さん」そう声をかけてくれたのは、意外にも春来だった。「今日は大人しいね」
「あ、お肉足りない?」と夏枝。「まだたっぷりあるよ? 追加する?」
「あ、いい。あのそうじゃなくて」真冬は箸をおき、両手を組んでもじもじともんだ。「実はちょっと、みんなに聞いてほしいことがあって」
「なになに? 恋バナ?」と秋生がにやにやしながら、顔をのぞきこんでくる。
 真冬はうなずいた。「うん、まあ、恋バナ」
 そう言った瞬間、ふふふふふふと笑いがこみあげ、追って幸福感がせりあがってきた。このわたしが、友達に恋バナをする日がくるなんて、夢みたい。
 食卓に頬杖をつき、はじめて彼に会ったあの日のことから、順を追って話していった。三人の顔は全く視界には入っていなかった。ただただ、彼との楽しい思い出ばかりが、目の前に広がっていた。
「……というわけで、今、わたし、人生ではじめて、恋人ができるかもしれないってところまで来てるの」
 そう言ってようやく、三人の顔を見る。あれ? と一瞬、思う。笑ってない。こわばっている。思っていた反応となんだか違う。
「……あの、まだ、その、二人きりで出かけたりとか、そういうことはないんだよね?」秋生が言う。
「そうなんだよねー」と真冬は首をひねる。「彼も奥手っていうか、恋愛経験もあんまりなさそうだし、どうしたらいいのかわからないんだと思う。誘いたいのかなって、気配は感じるんだけど」
「け、け、気配とは」と春来。
「仕事してても、あー、今、話しかけたいのかなってしょっちゅう感じるの。だって、いつもわたしのこと見てるんだもん。男の人って、本当にわかりやすいよね。この間なんて、わたしが髪をお団子にしていったら、なんだかドギマギしちゃってて……」
「ドギマギ……」と夏枝。
「あのね、三人に聞きたいのは、この先、どう進展させていったらいいのかってことなの」そう言って、真冬は顔の前でぱちんと手を合わせた。「ご存じのとおり、わたしはそっち方面の経験って全然ないから、どうしたらいいのかよくわからなくて。でも、このままではなにも進まないし、自分からいくしかないって思ってる。そこで、経験豊富なみなさんに、ぜひご教授願いたいってわけ」
 真冬はわくわくして三人の顔を見回した。しかし、誰も何も言わない。
「……と、とりあえず」しばしの沈黙のあと、夏枝がようやく口を開いた。「付き合うとか、そういうことは考えずに、少しずつ仲良くなっていけばいいんじゃない?」
「そうだね」と秋生。「あんまり、先走りすぎるのはよくないと思うよ」
「向こうから何か具体的なアクションがあるのを待てばいいんじゃないかな? なかったら、まあそれは、脈なしということで」
「脈なしってことは、ないと思うけどなあ。だって、興味もない相手と毎日一緒にお昼食べたり、一日に何回も話しかけたりする?」
 三人は「う、うーん」と小さくうめいたり、困ったように首をかしげたりするだけだ。
 やっぱり、思っていた反応とは違う。
 春来がマッチングアプリや誰かの紹介などで女性と知り合った話をしたときは、夏枝と秋生はノリノリな様子で「今度こそいけるんじゃない?」「その反応は、春くんに気があるってことだよ」なんて言っていたのに。どうして自分には同じことを言ってくれないのか、真冬にはまるでわからない。
 もう十分仲良くなったし、十分待った。でも一向に進展しないからこうして相談しているのだ。
 そのうち三人はまた物価高の話をしはじめた。冬野菜も平年より高いらしいだの、米はまだ頑張ってるだの。真冬は仕方なく、食べることだけに集中することにした。そして気づくといつも通り、一人で半分以上もたいらげてしまっていた。

 彼──本庄保志と出会ったのは、今年一月のことだから、もうまもなく一年になる。
 将来のことも考えて、コンビニ以外の仕事もできるようになっておこうと派遣会社に登録し、週三日、通信会社でデータ入力の仕事をすることになった。彼はその派遣先の、研修講師だった。
 とはいえ彼は管理職というわけではなく、ただのベテラン非正規職で、研修が終わったら真冬の隣の席で同じ仕事をした。管理職や運営の正社員をのぞくと、中高年層の女性ばかりの職場で、彼はほぼ唯一の独身男性だった。歳は真冬より少し下の四十二歳、小柄で薄毛、さえない見た目をしているが、物腰がやわらかく誰に対しても親切なので、「ヤスくん」とみんなに呼ばれて人気者だった。
 研修五日目、新人全員と講師で、親睦もかねて一緒に食堂でお昼を食べているときだった。家族の話になった。それぞれが配偶者や子供、あるいはペットの犬や鳥の話をする中、保志はなぜか少しバツの悪そうな顔をして、こう言った。
「俺はいい歳して、去年まで母親と二人暮らしだったんですよ。母親、俺が高校のときに交通事故で障害者になっちゃって、ずっと俺しか、世話する人いなくって。去年亡くなって、ようやく自分の時間がもてるようにはなったけど、すっかりおじさんになっちゃってました、みたいな、ハハ。何もかも手遅れ、みたいな」
 みんなは気まずそうな笑顔を浮かべながら、「今からでも遅くないですよ」とか「男の人なら何歳でも間に合うよ」などとほとんど意味のないことを口々に言い、そのあとすぐに話題は変わってしまった。それから食事が終わった順番に、それぞれ三々五々食堂を離れはじめたタイミングで、真冬は保志に「わたしもです」と声をかけた。
「さっきは何も言えなかったけど、わたしも実は子供のときから、病気とか障害もちの家族の世話してて、自分のことを全然できなかったんです。わたしも気づいたら、こんな歳になっちゃってました」
 しかし保志は面食らったように硬直し、そのまま無言でそそくさとその場を離れてしまった。もしかして、彼は作り話をしたのかもしれない、と真冬は思った。
 ところがその日の仕事終わり、ロッカー室で身支度をしていると、保志が「梶田さん、ちょっといい?」と声をかけてきた。
「あの、昼休憩のとき、うまく返事ができなくて、なんだか、ごめんね。梶田さんのお身内のこと、教えてくれてありがとう」
 そのまま二人一緒に会社を出て、北風がふきすさぶ駅までの道をともに歩いた。それぞれの子供時代、どのように過ごしてきたか、語りあいながら。当然、時間はまったく足りなくて、どちらからともなくお茶に誘いあった。駅そばのマクドナルドに入り、コーヒーだけで二時間近くねばって話し続けた。
 もちろん、その程度で恋の予感を抱くほど、自分はうぶじゃないと真冬は思っている。「おじさんやおばさんは、少し優しくされるだけで自分に気があると思いがち」と前にコンビニの若い同僚たちが話しているのを聞いて以来、肝に銘じていた。実際、そんな若い店員たちに一方的に思いをよせて、連絡先を聞いたり手紙を渡したりする輩がときどき現れるが、ほとんどが自分と同年代の中高年層だった。
 自分はそんなみっともない醜態は、絶対さらさない。そもそもこんな自分のこと──太っていて、ブスで、学歴もなくて仕事も非正規で、まともな家族がいない──を好きになってくれるような人が現れるほど、日本という国は甘くないのだ。
 でも、けれど。それから、保志と休憩時間に雑談したり、食堂で一緒にお昼を食べたり、そんな時間を積み重ねていくうちに、生い立ちだけでなく、二人の間にもっと多くの共通点があることがわかっていった。食べることが好きなこと。一人旅が好きなこと。旅先でへんてこなおみやげを買って家にかざるのが好きなこと。恋愛に対する、どうしようもない憧れがあること。
 二人の間に、何か特別なものがうまれようとしている──そのことに、真冬はずっと気づかないふりをしていた。いくつかのサインはキャッチしていた。朝、自分を見つけたときにだけ見せる、特別な笑顔。仕事の合間に、ふと重なり合う視線。髪型を変えたときの、あからさますぎる照れた反応。今まで一度も、誰かの優しさを好意だと勘違いしたことなんかない。だからこそ、今、はじめて胸のうちに芽生えているこの予感は、本物なのだろうか。いや違う、やっぱり勘違いだ。毎日毎分毎秒、葛藤していた。
 予感が確信にかわったのは、十月のはじめ。ロッカー室で帰り支度をしていると、「梶田さん」と保志がささやき声でよびかけてきた。
「これ、鎌倉のおみやげ」
「え? もういただいたけど」
 昼間に保志は鳩サブレーを皆に配っていた。真冬は「梶田さんは大食いだから特別」といって、余分に三枚ももらっていたのだ。
「梶田さん、アクセサリーをつけたことがないって言ってたでしょ。そういえば、鎌倉に天然石のお店があったなあって思い出して。梶田さんに似合いそうなもの、探してきたんだよ」
 受け取った小さな袋からそれを出して、思わず「わあ」と声をもらした。アクアマリンとムーンストーンのブレスレットだった。
「つけてみて」
 そう言われたものの、真冬は困惑してその美しいわっかを見つめていた。自分の薪のように太い手首に、はまるのか? 
「あ、これゴムだから、結構伸び縮みするよ」
 するとこちらの心中を察したように保志はそう言って、真冬の手首をとると、ブレスレットをつけさせてくれた。
「ほら、ぴったりだ! わあ、やっぱりこの淡いブルーと白が、色白の梶田さんに似合うと思ったんだよなあ」
 自分の手首を、顔の上にかざした。ロッカー室の安っぽい蛍光灯の下で、それは奇跡のようにキラキラと輝いていた。
「店員さんにね、恋愛運にいい石はどれですかって聞いたんだよ。そしたらたまたま横にいたおばちゃんが急にわりこんできて、『これにしなさい、この石でうちの娘は結婚できたから』とか言ってきてさ。でも色もいいし、これしかないって思って買ったんだよ」
 そして保志は、いたずらっぽく微笑んだ。「こんなものをあげるのは、梶田さんだけだからね。みんなには内緒だよ」
 その日以来、二人の距離は加速度的に近づいていった、そう真冬は感じている。同じシフトの日は、示しあわさなくても一緒にお昼を食べ、一緒に帰る。どちらかが仕事で遅れるときは、当たり前のように「先に注文して待ってるね」「リフレッシュルームで待ってるね」と声をかけあう。休みの日は、LINEで何往復もやりとりをする。その日に食べたランチや、近所にいる野良猫の写真を送ったり、二人が大好きな水曜日のダウンタウンの感想を言いあったり。
 もうすでに、恋人も同然、といえばそうかもしれない。
 ただ、休みの日に二人きりで、会ったりはしないだけ。
 会社帰りにどこかに寄ったのも、あのマクドナルド、一度きり。
 二人に足りないのは、一歩踏み出す勇気。それはわかっていた。できれば彼から、誘ってほしかった。女心、なんて陳腐な発想はしたくないけれど、でも、心の中の一番素直な場所で、そう願っている。彼のほうから、男らしく告白してほしい。
 しかし、そう願い続けて、いつの間にかもう師走。一向に何も起こらない。このまま待ち続けるだけでは、ただの同僚という味もそっけもない関係から一歩も進めないまま、どんどん歳をとって、やがて自分は、死ぬ。

 そして、暮れも押し迫ってきた。クリスマスイブは土曜日だったので、隣駅に新しくできた和食屋まで、夏枝と一緒にランチに出かけた。
 店の前に五組ほど並んでいたが、ちょうど客の回転するタイミングと重なったのか、列についてすぐ入ることができた。店内にはフランク・シナトラの曲が流れていて、飾りつけも目いっぱいされてクリスマスムード一色だった。今年は派遣仕事をはじめたのもあって、母の回忌法要をかねた長野旅行を見送っていた。テーブルについてぼんやりあたりを見回しながら、いつか保志と教会のクリスマスツリーを見にいけるだろうか、と思いをはせる。最近、隙あらば保志のことを考えてしまう。
「ここね、おしゃれな店だけど、ボリュームたっぷりで有名なんだって」
 夏枝が言った。が、真冬はメニュー表を見てもとくに悩むことなく、夏枝と同じ量が少なめのレディースセットを注文した。「朝ご飯食べすぎたの」と言い訳をしたが、夏枝は何かを察したらしく、少し黙ったあと、「この間、話してた同僚の人と、どうなの?」と真冬に尋ねた。
「うーん」と首をひねっただけで、真冬は何もはっきりとは口にしなかった。
「あの、余計なことだとは百も承知だけどね、ほんと、承知してはいるんだけど、でもね、職場で誰かのことをいいなと思って、その、気持ちを伝えたりしてさ、そのままうまくいけばいいけど、そうじゃなかった場合、いろいろ、その、職場に居づらくなっちゃうこともあるからさ、慎重に考えてね」
 つまり夏枝は、たとえ真冬から告白しても、ふられると思っているということだ。真冬は黙り込んでしまった。
「まあさ、わたしも昔、職場でいろいろあったりして、いらぬ心配しちゃっただけ! あの、気にしないで。今の、やっぱなし! 忘れて忘れて」
 夏枝はすぐに話題を変えた。最近、生活を改めることを真剣に決意し、親孝行にまで精を出している春来のことや、今の恋人に結婚を迫られて困り果てている秋生のことを、いつも通り面白おかしく語る。真冬は雰囲気を悪くしないように、ふんふんと楽しく聞いているふりをしながら、内心で、しばらく夏枝たちとかかわるのは控えたほうがいいかもしれないと考えた。
 食事が終わり、店を出ながら、真冬は言った。
「今年のお正月の初もうで、わたしはいけないかもしれない」
「えー? そうなのー?」と夏枝はレシートを財布にしまいながら振り返る。「まあでも、実はわたしも年末年始は忙しいかも。姪っ子の子守で」
 さっき食事をしながら、夏枝の妹が初期の乳がんで入院することになったという話を聞いたところだった。つい胸が痛んで「手伝えることがあったら……」と言いそうになったが、ぐっとこらえた。
「それに、春くんは年末からお母さんとかおばさんをハワイ旅行につれていくって言ってた気がする。お金はお母さんが出すらしいけど。秋くんも、新しい恋人と一緒に過ごしたいだろうし。今年は四人での初もうで、見送りかもね。あー、毎年やってたのにねえ」
「来年はいこうね」
 真冬は言った。来年は。来年は、恋人のいる身で、みんなと会いたい、いや会えるはず。
「冬さん、これから映画見に行くんでしょ? たけしのやつだっけ? 駅いく?」
「いや、まだ時間あるから、歩こうかな」
「そっか、じゃあ、ここで」
 店の角の交差点で、「よいお年を」と言いあいながら、夏枝と別れた。夏枝も春来も秋生も、自分にとってとても大切な存在だ。でも、今は少し距離をおくときなのかもしれないと、夏枝のほっそりとした背中を見送りながら、改めて思う。ネガティブな気持ちになりそうなことは、当分誰からも言われたくない。
 映画館のあるイオンまで、徒歩二十分。通りに立ち並ぶ店は、どこもかしこもクリスマスの飾りつけがされて、見ているだけでわくわくした。映画を見た後は家に帰って、用意してあるチキンを焼いて、年に一度のシャンパンをあける。二十年物の小さなクリスマスツリーには、すでに飾りつけを済ませた。テレビは何を見ようかな。明石家サンタまで起きていられるかな。
 あまりに幸せで、ふふっと笑いがこみあげる。一人でいたって、クリスマスはずっと楽しい。でも来年は。きっともっと暖かくて、素晴らしいクリスマスになる。そんな気がしてしょうがない。
 ただ一つ、目下の問題は、二人の間の距離をゼロセンチにする具体的な方法が見つからない、ということだ。
 
 久しぶりに一人きりで、静かに年末年始を過ごした。コンビニも年末から改装のため休業していた。はっきりとは聞いていないが、春来は智樹からオーナー業を引き継ぐつもりでもあるらしい。とにかく最近心を入れ替えて、いろいろなことを人任せにしたり、自堕落に生きたりするのをやめにしたそうだ。
 派遣の仕事は二十八日が最終日だった。昼休憩の時間がずれてしまったので、お昼は一緒に食べられなかったが、帰りはいつも通り、二人で駅まで歩いた。
 今年一年、同じ道を、彼と何度も歩いた。なんて素敵な繰り返しだろうと真冬は思った。駅前の交差点で大量にまたたくテールランプ、パチンコ屋のやかましいLEDビジョン、跨線橋の下を走り抜ける山手線、そんな都心のありふれた風景が、長野で一人きりでながめるクリスマスツリーよりも美しくきらめいて見えた。
 本当は最後ぐらい「お茶でもどう?」なんて言ってほしかった。しかし、駅に着くと保志はさっさと改札を通ってしまった。彼に続いてホームへの階段をのぼりながら、「保志さん、お茶でも」の言葉をのどの奥から引っ張り出そうとした。が、どうしても出てこない。ようやく真冬が「や……」と言いかけた瞬間、「あ、俺の電車きてる! じゃあ、よいお年を!」と言って、彼は走り去ってしまった。
 翌日は一人用のおせちを作り、できあがると写真を撮ってインスタグラムにアップした。インスタをすすめてくれたのは保志だ。フォロワーなんて一人もつかないだろうと思っていたが、保志がタグ付けのやり方を教えてくれたおかげで、同じ料理好きなユーザーが続々フォローしてくれて、もうまもなく百人をこえそうだった。
 大みそかは春来の母からもらった飛騨牛ですき焼きを作った。元日はニューイヤー駅伝とおせちをつまみに昼から酒を飲んでぐでぐでと過ごし、二日は初もうでがてら浅草まで出かけた。
 そして休暇最終日の三日の晩、布団に入って目をとじると同時に、素晴らしいアイディアがひらめいた。
 バレンタインデーがある! バレンタインデーなら、こちらから告白する理由になるじゃないか。それにとってもロマンティックだ。もしかすると、一月の自分の誕生日に、彼からなにかアクションがあるかもしれない。が、もし、万が一、何もなかったら、バレンタインデーに手作りのチョコレートスイーツを彼に渡し、そのときに……と考えたところで、頭のクローゼットの奥にしまい込んだはずの古い記憶が、ふいに、ひょっこりと出てきた。
 高校三年生の冬。学校から帰ってくると、渚がトイレを失敗していた。渚が汚れた手であちこち触ったせいでトイレットペーパーがすべてダメになってしまっていた。急いで渚の体を洗い、その後始末を済ませると、近所のドラッグストアまで買い物に出かけた。その途中の公園で、見かけたのだ。
 中学のとき同級生だった名前もわからない女子と見知らぬ男子が、ブランコに座っていた。男子の膝にはチョコレートの箱が開かれていて、「うめえ、うめえ」と言いながらむしゃむしゃと食べていた。女子はうつむいて、指先をもじもじさせていた。真冬は思わず立ち止まって、その景色に見とれてしまった。 
 冬の空はどこまでも薄青く、空気は透きとおり、地面ではすずめが二羽鳴いていて、何もかもが完璧な恋の風景だった。ふと女子がこちらに気づいて、「あ、梶田さんだ」と言った。真冬はとっさに顔を隠そうと、髪の毛を払うようなしぐさをした。そのとき、何かひやっとしたものが指に触れた。渚の便だった。
 記憶を再びクローゼットの奥に押し込めるように、ぎゅっと目を閉じる。そんなことはなかった。そんなみじめな思い出なんかなかったんだ。明日、会社終わりに本屋に寄って、レシピ本を物色しよう。ザッハトルテ、カップケーキ、チョコレートのどら焼きなんてのもいいかも。次々に脳裏に浮かぶおいしそうなチョコレートスイーツに今晩の夢を託し、真冬は眠りに落ちる。

 一月の誕生日、保志はロクシタンのハンドクリームをくれた。が、その日はシフトの時間帯がずれていたので、一緒に帰ることすらかなわず、結局、それ以外は何もなかった。それから数日、真冬はさんざん考えて、バレンタインデーに渡すチョコレートスイーツは、これまで何度も作ってきて失敗の心配が全くないチョコパウンドケーキに決めた。合わせて渡すプレゼントは、西武園ゆうえんちのチケット二枚。テレビで紹介されているのを見て以来、西武園ゆうえんちの冬のイルミネーションを、いつか見にいってみたいと思っていたのだ。
 もちろん、一緒にいこう、と言ってもらうために、二枚。さすがにそのぐらいは、言ってくれるだろう。
 そして、迎えた当日。チャンスは帰り道。幸いにもシフトは同じ時間帯。とにかく、残業だけはなんとしても防がなければならなかった。
 その日は特別忙しくもなく、保志も自分も、仕事をやり残すことなく帰れそうだった。保志は日中、中高年女性たちからたくさんのプレゼントやお菓子をもらっていて、まるでアイドルみたいな人気ぶりだった。
 やがて、定時の五時半になった。真冬は早々にパソコンをシャットダウンし、荷物を片付け、退勤の記録をした。
 保志の様子を見にいくと、まだ自席で何か作業している。彼はこちらに気づくと「いやあ、困ったなあ」と言って腕を組んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、次の研修の資料を作ってたんだけど、内容を大幅に間違えちゃっててさ。いやあ、勘違いしてたなあ、やり直ししなきゃ」
「研修って四月ですよね?」
「そうだけど、気になるし、今日はちょっと残って、直してから帰ろうかな」
「あ、じゃあ手伝いましょうか?」と言ってすぐ、すでに退勤の記録をしてしまったことを思いだした。
「あれって、やりなおせるかな。社員の人に相談して……」
「いや、できない」と保志はやけにきっぱりと言った。「遅くなりそうだし、今日は先、帰ってください」
 保志は席をたち、真冬を置き去りにしてどこかへいってしまった。仕方なく真冬はすごすごとロッカー室へ向かい、帰り支度をした。
 が、やはりこのまま帰るわけにはいかない。リフレッシュルームで彼を待つことにした。残業するといっても、何時間もやるわけではないはずだ。長くても一時間かそこら。不要な残業は基本的に禁止されているのだ。
 ところが、一時間たっても彼は現れなかった。定時から一時間半たった七時過ぎ、さすがにおかしいと思ってロッカー室に戻り、愕然とした。
 壁の洋服掛けに、保志のコートがない。
「あれー、梶田さん。まだいたの?」
 背後からそう声をかけてきたのは、一番遅い夜間帯シフトの橋本さんだった。真冬は彼女に「ヤスさんのこと、見ました?」と聞いた。
「ヤスくん? 十分ぐらい前に帰ったと思ったけど?」
「え!」と真冬は驚き、それから慌てて会社を出た。リフレッシュルームで待っていたとき、ロッカー室へ続く廊下が見える位置に座っていた。けれど、彼の姿は見なかった。いつ帰ったのだろう? 「リフレッシュルームで待ってます」とLINEもしたはずだ。そう思ってスマホを確かめると、メッセージは未読だった。
 しかし、十分前に出たのが確かなら、走って追いかければ間に合うかもしれない。ひとつ息をつくと、夜の山手通りを、真冬は可能な限り全速力で走りはじめた。自分でもわかっている。太ったおばさんがぜえぜえあえぎながら走る姿ほど、間抜けで、おろかで、はた迷惑なものはない。現に今、すれ違った若い男がぎょっとした顔でこちらを見た。けれど、だけど、今がわたしの勝負どころなのだ。ここでやらなきゃ、いつやるんだ! 冷たい風が耳をきつくはじく。膝が大きな悲鳴をあげている。あまりに苦しくて吐きそうだ。しかし、真冬は走るのをやめなかった。今日の昼、「たくさんチョコレートもらって、モテモテですね」と真冬が言ったときに見せた保志の笑顔が、脳裏に浮かぶ。保志は上の前歯が一本、下の前歯も一本、ない。だから笑うと、とてつもなく間抜けな顔になる。そこが、一番好きなのかもしれない、と真冬はそのとき気づいたのだ。おいしいご飯の話をいつまでもしていられること、少しでも疲れた顔をしていると「大丈夫?」と心配してくれるところ、落ち武者みたいにハゲ散らかした頭、ダサい服、小学生みたいに汚れたスニーカー、好きだ、全部好きだ。誰かを好きになるなんて、ずっとなかった。ずっとずっと、なかった。そんなこととは無縁の人生だった。自分には、許されないんだとすら思っていた。何十年ぶりに訪れた、恋心。絶対に、無駄にしたくない。
 駅前の交差点が見えてきたときだった。信号待ちの集団の中に、保志の姿があった。その時点でもう心臓と膝が今にも破裂しそうだったが、最後の力をしぼりにしぼってさらに真冬は走った。駅の改札直前で、ようやくその後ろ姿に追いついた。
 背後から、綿の飛び出した彼の古いダウンの袖をつかんで引き留めた。保志は「わあ!」と周囲の人が振り返るほどの大声を出した。
 息があがってしまい、とても言葉が出てこない。真冬はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、リュックからプレゼントの入った紙袋を出し、彼に渡した。
「あの……これ……」
 ようやく、それだけ絞り出す。保志は恐る恐る受け取ると、紙袋の中をのぞいた。そして、薄いグリーンの封筒を取り出した。
「これ、手紙?」保志が聞いた。
 真冬は首を振りながら、そうか、手紙でもよかったんだと思った。
 保志はやっぱり恐る恐る封筒の中からチケットを取り出した。それを数秒見つめたあと、真冬が予想もしなかったことを口にした。
「わあ、西武園ゆうえんちのチケットだあ。イルミネーションがきれいなんだよね。うれしいなあ。今度、彼女といくよ」
 その瞬間、世界が止まった。周囲の景色がぴたっとかたまって、ただ、目の前で保志だけがのんきに笑っている。
「とにかく、ありがとう。いやあ、うれしいなあ。じゃあ、また明日ー」
 保志はいつもと全く同じ角度で手を振り、その場を去った。周囲の景色が再び動き出す。自分だけが、永遠にループする2024年のバレンタインデーという悪夢の中においてけぼりにされている。そんな感覚がする。
 
 それでも、やがて、真冬は歩き出す。泣いたりなんかせずに。いつも通りのルートで電車を乗り継ぎ、家の近所のスーパーに寄って、夕飯の材料もきちんと買った。そして帰宅した真冬を待ち受けていたのは、先日受けた人間ドックの「要精密検査」の通知だった。

 

(第16回につづく)