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「何しにきたの?」
 実家の玄関で春来を出迎えた夏枝は、まるでここが本当の我が家であるかのような顔で聞いた。
「あ、おふくろが、加湿器が壊れたって昨日言ってたから、買って持ってきた」
 母はリビングでテレビを見ていた。春来の顔を見ても何も言わず、にやにやするだけだった。その顔にはこう書いてあるようだった──夏枝ちゃんに会いにきたんでしょ。
「ご飯、まだだったら一緒に食べていく? 店は休み?」
 夏枝が聞いた。春来は「ああ、うん」と意識してそっけなく答えた。
 今晩の献立はサバの塩焼き、ほうれん草の胡麻和え、にんじんしりしり、みそ汁。動けないから体によくて太りにくいものを食べたい、と母がリクエストしたらしい。
 食卓で、母と夏枝は昨日と同様、二人だけでおしゃべりして盛り上がっていた。食後、母に言われて風呂場の排水溝の掃除をしていると、「おーい、春くーん」と夏枝に声をかけられた。
「明日と明後日はこられないから、おかずを作ってるんだけど、春くんも持って帰る?」
 うん、とうなずき、掃除が終わったあとに台所まで見にいくと、たくさんのおかずがタッパー詰めされていた。
「好きなの持って帰っていいよ」夏枝がフライパンからきんぴらのようなものをタッパーに移しながら言った。「味薄めに作ってあるから、そんなに日持ちしないけどね」
「あの、炊き込みご飯とか……」
「え? 何?」
「炊き込みご飯とか、作れる?」
「作れるけど、何?」
「いや、食べたいなと思って」
「甘えてんじゃないわよ!」
 その声は、背後から飛んできた。母だった。
「食べたいなら、自分で作りなさい!」
 少し離れたリビングでテレビに見入っていると思っていたのに、相変わらずの母の地獄耳。春来は妙に恥ずかしくて、思わず歯を食いしばる。
 夏枝はそしらぬ顔で、汚れた食器を洗いはじめた。
 その晩も帰りに、夏枝を飲みに誘った。断られた。

 それから、夏枝は週に二、三日の頻度で春来の実家に来るようになった。いつ来るのか、と本人にきくのはさすがに気がひけたし、夏枝の来る日だけ顔を出すのはどう考えても不自然なので、春来は店の仕事の合間に、ほぼ毎日出向くようにした。はじめはどういうわけか若干迷惑そうにしていた母だったが、体が不自由な今はなんだかんだ助かるようで、そのうち「今日は何時にくる?」となどとLINEしてくるようになった。
 店のほうはナビとナビの友達のおかげで問題なく営業できていた。美穂は依然休んでいて、智樹がときどき店に顔を出した。しかし智樹は智樹で、多忙なのか女と毎晩よろしくやっているのかいつも疲れ切った様子で、会うたびにやつれていくようにも見えた。が、なんとなく事情は聞きにくかった。
 母のケガから一カ月半が過ぎた五月下旬、ようやく手術日が決まった。入院期間は八日間。母の病院も、見舞いは禁止されている。
 夏枝が望んだので、当日は二人で病院につれていった。この日のためにわざわざ有休をとったらしい。医者や看護師からの説明も三人で聞いた。だから夏枝は何度か「奥様」と呼ばれていたが、とくに否定はしなかった。
 病棟に向かうエレベータの前で母と別れた。夏枝が「お腹すいた」と言うので、病院の最上階にあるレストランへ向かった。
 二時過ぎだったのもあり、客はまばらだったが、家族連れが多かった。その中に混ざって夏枝と二人でしょうが焼き定食なんて食べていると、自分たちは長年連れ添った夫婦なんじゃないかと、ふいに思えてくる。
「もし、わたしたちが大学でも付き合ってて、そのあと結婚してたら、夫婦としてお母さんを連れてきてたのかな」夏枝がハンバーグを箸で割りながら言った。「子供も二人ぐらいいてさ。もう高校生とかかな。こんなふうにおしゃべりできる夫婦になってるかな。それとも、お互い大嫌いになってるかな」
「どうだろう。なんだかんだ、うまくやれてるんじゃない?」
「そうだよね。春くん、やさしいし。前の夫と結婚するより、よっぽど幸せになれたんだろうなあ」
 なんだか急にドキドキして、夏枝の顔が見られなくなる。中学生男子みたいにしょうが焼きをがつがつ食べはじめる。
「ずっと一人でいいやと思ってたけど、なんだか今回のことで不安になっちゃった。五十代とか、六十代ぐらいまでの自分の姿はなんとなく想像できても、七十代となると未知って感じ。あんなふうに急にケガしたとき、一人でどうにかできるのかな」
 俺が助けてやるよ──そう言ったら、どうなるだろう。しかし、そんな言葉は到底、出てこない。
「まあ、冬さんとお互い困ったときは助け合おうって言いあってはいるんだけどね。でもさあ、冬さん、あの食べっぷりで長生きできるのかなあ。健康診断の数値はいつも花丸だって、自慢げに言ってるけど」
「あ、それつい昨日も店で言ってたよ。休憩中に肉まん三個食いしながら」
 アハハハ、と夏枝は笑う。「目に浮かぶ~。この間なんて、二人で定食おかのにランチ食べにいったんだけどさ、あそこのランチってワンコインで安いけど、ちょっと量が少なめじゃない? だから冬さん、A定食とB定食とC定食、三つとも食べるって言いだして、本当に三人前をご飯粒一つ残さず食べきっちゃったんだよ。おかのさんもびっくりしてた。なんかさ、冬さんの食べっぷりってあまりに豪快で、見てると爽快感すらあるんだよね。ユーチューブで、大食い動画とか人気じゃない? あれを生で見てる感じ」
 高校時代にほんの少しの間だけ付き合っていたときも、大学時代に友達付き合いをしていたときも、こうして夏枝のおしゃべりを聞いているのは楽しかった。女性と二人きりになると、自分が会話をリードしなければ、相手を楽しませなければと勝手にプレッシャーを感じてしまう。真冬に対してだって、ときどきそんな気持ちになることがある。しかし、夏枝だけは特別だった。プレッシャーなど一度も感じたことがない──一緒にいて楽、というのは、こういうことなのかもしれない。
「それでさ、冬さんが……って、なんだかわたし、さっきから一人でしゃべってるね」夏枝がふいに、我に返ったように言った。「うざくない?」
「いや、聞いてて楽しいよ」
 そのとき、二人の視線がかち合った。お互い、なぜかさっとそらしてしまう。ほんの一瞬、つかまえることもできないほどの一瞬の、気まずい空気。
 ──もしかして、お互いに、同じ気持ちでいる?
「あ、そうだ。秋くんだけどさ、最近、川口の家族とよく会ってるじゃない? 息子くんの絵の指導とか言ってるけど、あれ、半分嘘だってしってる? 実はね、向こうでよくいくカフェがあるらしいんだけど、そこの店員さんと仲良くなって、付き合いはじめたらしいよ。すごくない? なんであの人って、すぐ恋人できるんだろ? ずるくない?」
 夏枝は何事もなかったかのようにまたおしゃべりをはじめ、春来はすっかり冷めたみそ汁をすすった。レストランの窓から、午後の明るい日差しが入り込んでくる。もし俺たちが夫婦だったなら。これまでも、この先も、こんな穏やかでぬるったい時間が積み重ねられていく。
 
 近くに住んでいる妹のところに寄るという夏枝と、病院前で別れた。別れ際、余ったおかずをたくさんもらった。その後、春来は駅前のほうの店にいき、深夜まで仕事をしたあと、帰宅した。
 部屋は、ずっとゴミ部屋のまま。
 しかし、食べるものは普段とは違う。夏枝の手作りのおかずだ。
 白和え、きんぴらごぼう、鶏ハム。それにスーパーで買ってきた、レンジで温めるパックごはん。酒は今晩は、やめておく。
 おかずはどれもおいしかった。誰かが自分のために作ってくれた(正確には母のためだが)と思うと、味もひとしおだ。 
 次に夏枝に会うのは、母が退院するときになりそうだった。その日も有休をとったらしい。
 春来は箸をテーブルにおいた。腕を組んで、テーブルにならんだおかずをながめる。どれも皿には盛らず、タッパーのまま出した。味は文句なしだが、食卓の景色としては、やはり味気ない。
 これから、自分がやるべきことは、何か。
 俺はずっとそうだったのだ、と思う。やるべきことから目をそらし続ける人生だった。後悔ばかりが、ゴミ山のように積み重なっている。紗枝ときちんと向き合わなかったこと。売れる小説とは何かを一度でもまともに考えず、書きたいものだけ書き散らし続けてきたこと。あるいは見込みのない夢をさっさと捨て、自分にもっと向いていて、かつ確実な収入が得られる堅実な仕事に就くことを、まじめに検討しなかったこと。そして何より、紗枝と別れたあと、もっと積極的に結婚相手を探さなかったこと。
 面倒なこと、しんどいことから全力で目を背け続けてたどり着いたのが、このたった一人のゴミ部屋だ。
 このままここでひとりぼっちで暮らし続けていたら、きっと、いや確実に心を病んでしまう。さみしさにすべてをむしばまれて、俺はおかしくなってしまう。幸せそうな人たちを憎み、攻撃的になり、すべての人から存在を疎まれるおっさん──それが十年後、いや五年後の自分かもしれない。そういうおっさんがしょっちゅう店に酒や煙草を買いにやってきては、若い店員に因縁をつけたり、大声を出したりする。いつだかバイトの若い女子が言っていた。
「あーあ、あのおじさんのことを愛している人、この世に一人もいないんだろうなあ」
 あんなふうになりたくない、絶対に。
 きっと夏枝も同じ恐怖を抱いているのではないか。だって同じ、高齢独身者なんだから。誰からも愛されないさみしいおばさんにはなりたくないと、毎晩ふるえながら眠っているのではないか。
「よし」と春来は口に出し、また箸を持って鶏ハムをつまみ、口に入れた。絶妙な塩加減に思わず「うまいっ」とうなる。
 次に夏枝に会ったときに、プロポーズしよう。

 母は予定より一日遅れて退院した。約束通り夏枝と一緒に迎えにいき、帰りに母のたってのリクエストでうなぎを食べにいった。その晩、夏枝はそのまま春来の実家に泊まった。俺も泊まる、となかなか言い出せず、二人が寝支度を済ませたあとももたもたと居座っていたら「邪魔だからはやく帰って」と母から言われてしまった。プロポーズどころか、照れくささとプレッシャーで、夏枝とまともに目をあわせることすらできなかった。
 その日以降も夏枝はマメに母のもとにやってきて、ときには春来の代わりにリハビリにつれていってくれた。夏枝と二人きりになるチャンスはいくらでもあったが、結婚のけの字も口に出せないまま、季節は長い梅雨のトンネルに突入し、やがてそれもあっけなく抜け出して、みじかい夏がやってきた。
 八月はじめの晩、夕食を食べているとき、母が唐突に言った。
「夏枝ちゃん、もうこなくていいから」
 その晩の献立は、よだれ鶏、麻婆豆腐、枝豆、白米。最近は夏枝の食事にありつくために、店の仕事がある日もわざわざ中抜けしてくるようになっていた。
「もうなんでも一人でできるし。いつまでも夏枝ちゃんに甘えてたら、何にもできないわ」
 確かに母は担当の理学療法士いわく“驚異的な”回復力を発揮し、今では杖もサポーターも必要なしで歩けるようになっていた。車の運転はさすがに控えているので隣駅のイオンは厳しいが、近所にある小さなスーパーにはすでに一人で通えている。
「わかりました」
 あっさり答えた夏枝の横顔を、春来は思わず、じっと見つめてしまった。
「今までありがとね。助かったわー。ご飯もおいしいのにヘルシーで、ケガしてから一キロも増えてないの」
「お母さんがちゃんとリハビリしてたからですよ」
「そうそう、リハビリがてら、たまに買い物いったり、映画を見に行ったりしましょうね。夏枝ちゃんがヒマなときでいいから」
「ええ、ぜひそうしましょう。じゃあせっかくだし、今日は最後に泊まっていきます」
 それから二人はいつものように、韓国のアイドルやゴルフの話題で盛り上がっていた。食後はリビングに移動し、最近二人でハマっている韓国ドラマを見はじめた。春来は二階にあがって意味もなくうろうろしたり、風呂場にいって水漏れしていないか探したりした。すると、風呂場の換気扇がかなり汚れてしまっていることに気づいた。さっそく流しの下から雑巾とバケツを出し、せっせと掃除しはじめる。さっきから尻ポケットでスマホが振動し続けている。真冬からの、はやく帰って来いという催促の電話だと思われた。途中で手を止めて、スマホの電源を切った。
 今夜、このままここを離れたら。
 プロポーズする機会を永遠に失ってしまう。そんな気がした。次にいつ夏枝に会えるかわからない。四人で集まることは、最近ほとんどない。自分から声をかけたとしても、実現するのは当分先の可能性がある。わざわざ夏枝だけを呼び出すのは変だ。理由がない。照れくさい。なんとか今夜、二人きりになれたら。やっぱり今日は帰る、なんて言い出さないだろうか。
 そして二人きりの帰り道、いろいろなことがうまくいって、夏枝のほうから「わたしたち、結婚する?」なんて、言ってくれたら……。
 物音がした。春来ははっとして手を止めた。誰かがやってきたようだ。
「あんた、何やってるの?」
 母だった。
「風呂に入りたいんだけど」
「あー、ごめん。換気扇、掃除してた。すごく汚かったから。もう終わる」
「なんなの、急に」
 ちっと舌打ちの音が聞こえた気がした。自分があまりに情けなくて、笑えてさえくる。何やってんだ、俺。心の中でつぶやきながら、もたもたと掃除道具を片付け、とぼとぼとリビングに向かった。
 台所を通って、二人がいるリビングに顔を出そうとしたときだった。「春来」と自分の名前が聞こえた。とっさに足を止め、二人から姿を見られないよう、数歩下がって食器棚の陰に身をひそめた。
「実際のところ、どう思ってるの?」母の声だ。「春来のこと。悪くない組み合わせだって、わたしは思うんだけど」
「うーん」と夏枝の声。
「夏枝ちゃん、わたしは真剣なの。今、ほんっとうに真剣に話してる。あなたたち、結婚しなさいよ」
「うーん」
「もし今さら照れくさいって言うのなら、わたしが仲人してあげてもいいから」
 まさか、こんな展開になるとは。ドキドキしてきた。思わず左右のこぶしをぎゅっとにぎる。
「春くんは、もっと若い子がいいんじゃないですかね。子供もほしいかもしれないし」
 夏枝ははぐらかすためか、わざとふざけたような口調で話している。そんなことない! と二人に割って入りたかった。
「そうだとしても、もう贅沢言ってる場合じゃないでしょ。あの子はね、このまま独身だったら終わりよ。まともな食事もとらないで、酒ばっかり飲んで、病気になって孤独死まっしぐら。この間、着物友達から聞いたんだけどね、既婚男性、既婚女性、未婚女性、未婚男性の中で、未婚男性だけ極端に寿命が短いんだって。あの子には、夏枝ちゃんの支えが必要よ」
 沈黙。「うーん」の声すら聞こえない。
「夏枝ちゃんだって、将来が不安じゃない? こんなふうにおばあさんになってケガでもしたらどうするの? 年とるとね、一人じゃなんにもできないのよ、本当に」
 やはり、沈黙。掛け時計のカチカチという音が、やけに大きく聞こえる。
「……あの、本当におおげさでも、なんでもなく」夏枝はようやく語りだした。「四十すぎてからのわたしは、春くんのおかげで生きていられてるんですよ、本当に。春くんがいるから、今、とても幸せなんです」
 鼓動がさらに跳ね上がる。すべてが、自分の思い通りに、運んでいく気がする。
「わたしって、本当に男運なくて。運というか、まあ、自分が変な男を選んでいるだけなんですけどね。わたしが今まで付き合った人の中で、わたしの話をちゃんと聞いて、心から笑ったり反応してくれたりするのは、春くんだけです。ほんっとう、男って女の話、聞かないですよね。前の夫なんて、わたしが職場の愚痴話でもしようものなら、ものの数秒で目つきがうつろになって……ってまあそんなことは横に置いておいて、とにかく、春くんみたいな人は、本当に二度と出会えないって思います。わたしは離婚するとき、この人のために生きるのもいいな、いや生きようって思ったんです」
「つ、つまり?」と母が聞く。春来も心の中で「つまり?」とつぶやく。
「つまり」と夏枝。「つまり、夫とか、子供とかじゃなく、友達のために生きるっていうのも悪くないって、わたし、思ったんですよ」
「友達」と母がくり返す。春来もまた、口の動きだけで「友達」と言った。
「今、春くんとか、ほかの友達とときどき会ったり、困ったことがあったときは無理のない範囲で助け合ったりしながら、基本的にはみんな一人で、一人だけで頑張って生きるっていうかたちが、とてもいいなと思っていて。誰かのために生きるっていうと、たいていそれは家族とか、恋人になるじゃないですか。でも家族とか恋人って関係だと、どうしてもどちらか一方がどちらかのお世話したり支えたり、なんていうか、バランスが偏りがちになっちゃう気がして。わたしは、そういうのは、もういいんです。友達としてなら、お互いずっと対等でいられるかもしれない。友達とだって、わたしは、人生はわかちあえると思うんですよ。友達のために生きながら、基本的にはわたしは、自分のお世話は自分でする、そうやって生きていきたいんです。
 えーっと、で、だから、なんだか、話しててよくわかんなくなってきちゃった」
 ハハハと夏枝は笑った。母はしばらく無言でいたが、やがて「言ってることの半分はよくわかんないけど」と低くつぶやいた。
「友達のために生きるとか、そういう青臭いのはよくわかんないけどさ、まあ、何年残っているかもわからないこの先の人生を、男の世話に費やすなんて、ごめんよね。わたしだってそうだわ」
 それから今度は二人でハハハと笑った。そのあとすぐ「春来ー!」と母が自分を呼ぶ声がした。
「何してんのー? 風呂はまだー?」
 春来はいったん風呂場に戻り、心の中で五秒数えてから、リビングに顔を出した。そして、言った。
「掃除、終わったよ、じゃあ俺、帰るわ」
 いつの間に二人はテレビのニュース映像に夢中になっていて、返事はなかった。画面には、警察署らしき建物から出てきて、居並ぶカメラを前に一礼する男が映っている。ここ数カ月、世間をにぎわせた給付金詐欺容疑の男が保釈されたらしい。やけに長く量も多い髪の毛がすさまじい強風にあおられて、男の顔面を覆いつくしていた。その滑稽な姿を、二人で楽しそうに笑って見ている。

 ゴミ部屋に帰る気にならず、家の近所をぐるぐる歩き続けていた。そして気づいたら、夏枝が普段よく散歩しているらしい公園にたどりついていた。
 この近辺での生活は夏枝よりずっと長いが、春来自身はここにくることはめったにない。散歩するという習慣をもったことが、かつて一度もない。
 もう夜も遅い時間だったが、夏休みがはじまったばかりということもあってか、人出は多かった。中央の広場までくると、花火を楽しんでいる家族連れが何組かいた。鼻と目を刺激する煙が懐かしく、つい近くのベンチに座ってしまう。
 何を考えたらいいのか、よくわからなかった。はっきりしているのは、自分の間抜け極まりない目論見は、どう考えても成功しない、ということだった。
 何を考えたらいいのか、本当にわからない。
 ただ、夏枝の声が頭の中をぐるぐる回っていた──わたしはそういうのは、もういいんです。
 何度も何度も反芻しているうちに、夏枝だけでなく、これまでに関わったすべての女たちに言われているような気がしてきた──そういうの、もういいです、あなたのお世話はもうしたくないんです、一人さみしく生きていってください──と。母や、真冬や、これまで知り合ってデートしてきた女たちや、紗枝や、美穂や。結局自分は、人生のパートナーではなく、自分の世話をしてくれる人を求めていたのだ。気づいていたが、目をそむけ続けていた事実。必死で求めながら、その一方で、なぜ女たちは俺の世話をしないのだと怒りくるってもいた。そして拗ねていた。ふてくされていた。ゴミ部屋で一人、安い酒を飲みながら。
 なぜ拗ねてはいけないんだと反発する自分もいる。さみしいんだから仕方ないじゃないか。助けてくれたっていいじゃないか。なぜ女たちだけひとりぼっちで平気なんだ。ずるいじゃないか。男は弱いんだ。助けてくれよ、あたためてくれよ、優しくしてくれよ。
 父の背中。
 夜の台所で、下着姿でインスタントラーメンをゆでていた父の背中。あるとき、そばにいる春来に気づいた父が、振り返って「もっとうまいもん食いてえよ」とつぶやいたことがあった。気の毒でたまらなかったし、作ってやらない母が憎かった。
 父もずっと拗ねていた。拗ねながら死んだ。そうなのだろうか。
 そんなふうにはなりたくない、と強く思う。今の自分と父とで、大きく違うことが一つだけある。今、自分には、こんな自分のために生きたいと言ってくれる人がいる──友達として、という条件付きではあるけれど。それでもきっとこのままじゃ、いつか見捨てられてしまうかもしれない。そうならないために、どうすればいいのか。
 答えはもう、わかっていると思う。ただ、それを認めるのが、まだ少し怖い。
 俺はこのままひとりぼっちで、生きていくしかないのだろうか。
 
 翌日、夜八時前に店の仕事を終え、帰りにスーパーに寄った。いつもはショートカットする野菜売り場にまっすぐ向かい、スマホでレシピを確認しながら、にんじんとしめじとえのきをかごにいれた。ほかに鶏もも肉と油揚げ、調味料は醤油しか持っていないので砂糖と酒とみりん、そして米。計量カップと計量スプーンも売っていたので買った。糖質ゼロの発泡酒となくなりかけていたトイレットペーパーも足したら、指がちぎれそうなほどの大荷物になってしまった。
 帰宅すると、やはりゴミ部屋はゴミ部屋のままで、しかし時間がないのでとりあえず床に転がった衣類や毛布などを足でよけて通り道を作ると、手洗いうがいをし、そして、台所に立った。
 それから。
 何年前に買ったかもわからない刃こぼれしまくっている包丁で約一時間かけて野菜や肉の下処理を終え、米を研ぎ、調味料と具材をまぜて炊飯器にセットした。数十分後、炊飯器から炊きあがりのメロディーが流れてきて、ドキドキしながらふたをあけると、そこにあったのは。
 色のついた、粥。
 第一印象は、それだった。
 おそるおそる、しゃもじですくって、一口食べてみる。べちゃべちゃな上に、少し塩辛かった。思わず「なんでだよ」とひとりごちる。レシピ通りにやったはずだった。買ってきた計量スプーンと計量カップもちゃんと使って、正確に分量を量ったはずだった。なぜこうなるのか。
 しばし考えて、春来はスマホで目の前にあるべちゃべちゃの色つき粥の写真を撮った。それを夏枝にLINEで送り、こうメッセージを打った。

 たまには自炊しようと思って炊き込みご飯にチャレンジしたら、失敗した。

 送信してすぐ、取り消した。
 じゃあ、わたしが作ろうか、という返信を期待している自分に気づいたからだ。画像も既読がつく前に取り消した。そのままスマホで「炊き込みご飯 失敗したら」と検索した。すると、電子レンジを使って復活させる方法があることがわかった。色つき粥を皿に薄く盛り、レンジで加熱しながら、ときどき水分を飛ばすようにしゃもじで混ぜるといいらしい。
 何度か繰り返すうち、かなりマシな状態になった。が、味が塩辛いのはどうにもならない。
 それでも、できあがったものをどんぶりにたっぷり盛り、テーブルに持っていって、糖質オフの発泡酒で流し込むようにして食べた。あまりになさけなくてみじめで、もういっそ、笑えてくる。こんな生活、とても続けられそうにない。自分で作ったまずい飯を自分一人で食べる。あまりに物悲しい。悲劇だ。耐えられない。
 ──わたしは、そういうのは、もういいんです。
 それでも、俺は。俺は、このままひとりぼっちで、生きていかなければいけない。自分で自分の世話をしながら、これからはもっと健康的に、規則正しく、身の回りを清潔に整えながら生きていかなければいけない。誰かの世話を求めて、怒りくるって拗ねてふてくされながら、おかしなおっさんに成り果ててはいけないのだ。あなたのために生きる、そう夏枝に思い続けてほしいから。
 ようやくすべて食べ終えた。しかし炊飯器にはあとどんぶり三杯分はある。捨てたら負けだ、となぜか思う。冷凍しておいて、意地でもすべて食べきりたい。
 そして明日は、部屋の掃除をしよう。そう固く決意して、糖質オフの発泡酒をぐっとあおる。まずい。糖質オフなんてくそくらえだ。

 

(第15回につづく)