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 ようやく発注作業が終わり、店を出る前に手洗いによった。用をすませて洗面台の前に立ち、ふと鏡にうつる自分と目があう。
 老けたなあ。
 ここ一、二年で一気にきた。ほうれい線はくっきりと深くなり、目の周りのシミが増え、頭は八割が白髪。そして太った。だいぶ太った。今穿いているジーンズもだいぶきつい。
 なんだか自分ばっかり老けている気がする。夏枝も真冬も、四十前後からあんまり見た目に変化がない。秋生にいたっては、どういうわけか年々若返っているような感すらある。
 恋人が途切れないせいか? どうしても納得がいかず、首をひねりながら店を出る。時刻は〇時前。夜食用に店からカップ麺を一つ持ってきたが、ふと足をとめて方向転換し、深夜一時まで営業しているスーパーに向かった。
 弁当、総菜類はほとんど売り切れだった。半額シールの貼られた高野豆腐、ふきの煮物、たまごやき、それらがぽつんぽつんと捨て子のように置かれている。そのうちの一つ、たけのこご飯のパックの前で、しばし立ち止まった。一度手に取ったが、かごには入れずまた戻した。
 結局、冷凍チャーハンとレトルトのミートボール、少し迷って、糖質オフの発泡酒を買った。
 帰宅し、空き巣にでも入られたように散らかった室内を見て、重たいため息をこぼす。昼に出かけるとき、鍵が見つからずにそこらじゅうのものを開けたりどけたりしたせいだ。床に散らばった枕や衣類や毛布を足で蹴飛ばして自分の通り道を作り、とりあえずシャワーを浴びた。風呂場から出ると、チャーハンとミートボールをあたため、皿に盛り、テーブルに並べた。冷やしておいたグラスに発泡酒を注いで、一口飲む。
 まずい。
 糖質オフなんてくそくらえだ。
 次にスプーンを持ち、チャーハンを一口すくって食べる。まだ中のほうが少し冷たかった。しかし、あたためなおす気力もない。
 ため息。
 スーパーで見た、たけのこご飯が脳裏に浮かぶ。
 昔、紗枝がよく、炊き込みご飯を作ってくれた。
 最近、ほとんど毎日のように紗枝のことを考える。ここ一年ほど、新たな出会いもなく過ごしているせいかもしれない。紗枝と知り合ったのは二十代半ば、婚約破棄をしたのは二十九歳のとき。あのあとすぐ紗枝は妊娠したのだから、もし無事に産んでいれば、子供はもう高校生のはず。
 思えば、これまでの四十七、八年の人生で、自分と結婚したいと心から望んでくれたのは、あとにも先にも紗枝だけだった。あのとき紗枝は、新人作家兼派遣社員という不安定な身分の男との結婚を父親に納得してもらうために、彼女なりに尽力してくれていた。それがうまくいかなかったので、「ちゃんとした会社の正社員になってほしい」と春来に訴えたのだ。しかし、当時の春来は、ただただ自分を否定されたように感じて、彼女の願いに背を向けてしまった。もっと、自分を応援してほしかった。今は不安定でも、いや不安定だからこそ、誰に反対されてもわたしがあなたの夢を支えると、そう、言ってほしかった。
 もし、あのとき。紗枝を選んでいたら。今頃、どんな暮らしを送っていただろう。少なくとも、深夜にひとりぼっちで、冷たいチャーハンを食べるなんてみじめは、味わわずに済んでいたはずだ──しかもゴミ屋敷同然の部屋で。
 しぶしぶ、またチャーハンをすくって口に入れる。冷たい、どころか中の方はまだ凍っていた。もはや何もかもどうでもいい気分で、皿を持って一気にかきこみ、発泡酒で流し込んだ。
 そのとき、LINEの着信音が立て続けに鳴った。スマホを見ると、四人のグループLINEに夏枝が画像を連投していた。
 どうやら今日、バスケットボールの社会人サークル主催のトーナメント大会があったらしく、夏枝のチームは優勝し、さらに彼女自身は大会MVPにも輝いたようだ。ユニフォーム姿の夏枝がちゃちなトロフィーを頭にのせてはしゃいでいる画像が、なぜか五回も連続で投下されたあと、「間違えちゃった! 今打ち上げてよっぱらい」というメッセージが、追って送られてきた。
 見なかったことにしよう。スマホをベッドの上に放り投げる。よっこらしょと立ち上がり、冷蔵庫から買いだめしてあるストロングゼロ無糖ドライ500ミリ缶を出すと、その場で開けて、立ったまま一気に飲んだ。
 これであと三十分もすれば、眠れる。
 最近、夏枝も真冬もそれぞれの趣味で忙しく、そして詳しい事情はしらないが秋生も川口の家族のことでやはり忙しいようで、今年に入ってからというもの全く四人で集まれていなかった。所詮、友達なんてそんなもの。すねた気分で思う。大人になればなるほど、友達の優先順位は下がっていく。
 そんなもんだ。
 眠くなってきた。そんなもんだ、そんなもんだとぶつぶつ言いながら、洗面台に向かい、適当に歯を磨いた。部屋に戻ると散らかったままのテーブルが視界に入らないようにすぐに明かりを消し、ベッドに横になった。
 なぜ、女は孤独に強いんだろうか。
 夏枝と真冬は二人してしょっちゅう「もう誰かと同居なんてできない、一人暮らしが最高」「わかる~」などと話している。今年の正月、久しぶりに中学の同窓会に出席したら、未婚やバツイチの女たちが全く同じ話題で盛り上がっていて驚いた。「さみしくないの?」「老後が心配じゃない?」とやや不満げに口をはさむのは未婚既婚問わず男たちばかりで、既婚の女たちは無関心そうにしていた。
 自分はとても、そんなふうに思えない。一人暮らしが最高だなんて。人を殺したいと口にするのとほとんど同じぐらい、ありえないことだ。毎日さみしくてさみしくて仕方がない。こんなふうに、薄汚れたおっさんたった一人で、胎児のように丸くなって眠る夜はもうごめんだった。なぜ、夏枝も真冬もこれに耐えられるのだろう。なぜだろう。なぜ俺だけが、こんなにも孤独でつらいのだろうか。
 このまま、五十歳になってしまうのが怖い。幸せな未来は到底思い描けない。たった一人、このゴミ部屋で暮らしながら、誰もよりつかない偏屈でおかしなおっさんになっていく。そういう考えがときどき自分を支配して、身を切られるほどに恐ろしい。
 ──本当は、女たちだってさみしいんじゃないのか? 考えるのがだんだん面倒になって、瞼がどろりとたれて闇が落ちてくる。

 昼過ぎに目覚めると、当たり前だが部屋の中は散らかったままだった。
 はああ、とお決まりのため息をつき、再び布団の中にもぐりこむ。枕元においたスマホを手に取り、普段の習慣通りにツイッターを開いた。次の瞬間、驚きとショックと、そして自分でもどう名付けていいのかよくわからない感情で、体がかーっと熱くなった。

 一月に発売した佐伯哲郎さんの『博愛』がこのたび笹山賞にノミネートされました! お読みくださった方、メディアなどで推してくださった方、本当にありがとうございました! 
 
 佐伯哲郎は同じ新人賞を一年違いで受賞した、春来にとっては唯一の作家友達、いや”売れない”作家友達だった。 
 若いときはよく飲みにもいったが、ここ数年はあまり連絡もとらなくなっていて、コロナ禍直前の年末にインボイスについて電話で相談しあったのが、最後の会話だった。「互いに次の本で最後かもしれないから、こんな心配なんてしたって意味ねえよな」と哲郎は笑って言った。そして春来自身は、本当にその通りになった。編集者から「これがダメだったらもううちからは依頼できません」と言われて出した青春ミステリー小説は、メディアにとりあげられることは一切なく、アマゾンランキングも十万位以下をはいつくばりながら、ほとんどの書店では平積みもされず、そしてそのまま、編集者からの連絡が途絶えた。
 その二カ月ほどあとに出た哲郎の新刊も売れていないようだったが、春来はもう、出版にかかわることすべてをなるべく視界に入れたくなかった。哲郎だけでなく、版元、作家、書店、とにかく業界に関係ありそうなツイッターアカウントは見つけ次第、ミュートした。
 だから、哲郎が去年の秋に出したSF純愛小説が話題になっているらしいということをしったのも、発売から少し遅れた今年の一月のことだった。
 笹山賞にノミネートされました! 笹山賞にノミネートされました! 笹山賞にノミネートされました! 頭の中でなぜか女の声でリフレインされる。この出版社のアカウントをフォローしているわけでもないのに、タイムラインに出てきたのはなぜなのだろう。ツイッターのわけのわからない仕様が憎かった。
 胸がいたくて、苦しい。泣きたい気分だが、涙はさすがに出てこなかった。とにかく、今日は店にいく気にはとてもなれない。美穂に今日は休むとLINEしようと思いついたところで、偶然にも、その美穂から電話がかかってきた。
「もしもし、春来くん? 今何してる?」
 その声は、いつもより急いているような印象を受けた。でも、気のせいかもしれない。
「寝てた。どうしたの?」
「あの、実はね、今日少しはやく店にきてくれないかな? はやくきてくれるなら、何時でもいいんだけど、今すぐでも」
「なんで?」
「あの……ちょっと……智樹に頼まれたことがあって」
「ごめん、ちょっと体調悪くて、休もうかと思ってたんだけど」
「そっか、じゃあいいよ。ナビさんに聞いてみるね!」美穂はそう早口で言って、そのまま電話を切ってしまった。
 なんだかやっぱり、いつもよりせっぱつまっているというか、どことなく様子がおかしい気がした。智樹に頼まれたことが、そんなに大変なことなのだろうか。しかし、美穂の夫でコンビニのオーナーでもある智樹の使いで、役所や取引先に出向いたりするのは、ごく日常的なことだった。これまで、特別な助けを求められたことは一度もない。
 どうせ、たいしたことはないのだろう。
 三秒後にはもう美穂のことも店のことも忘れて、春来は二度寝の海におぼれかけていた。

 翌日もなんとなく外に出る気にならず、美穂に「今日も休む」とLINEした。なぜだか既読にならなかったが、春来はとくに気にしなかった。最近ハマっている元祖ニュータンタンメンの袋麺に卵を二つ落としたもので朝飯兼昼飯を済ませたあと、酒を飲みながらネットフリックスで『孤独のグルメ』を初回から順番に見ているうちに、夜になっていた。
 翌日はもともと休みだった。昼過ぎに目が覚め、昨日と同じく元祖ニュータンタンメンを食べたあと、『孤独のグルメ』の続きを見ようとつまみと酒の準備をしていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。
 当然、居留守を使った。ところが、インターホンはいつまでも鳴りやまず、それどころか訪問者はどんどんと乱暴にドアをたたきはじめた。
 何事かとドアスコープをのぞく。真冬が立っていた。すぐにドアを開けた。
「店長! もう何回もLINEしたし電話もしたし! なんで出ないの?」
「あ、見てなかった、ごめん」
「わたしのLINE、ブロックしてるんじゃないでしょうね」
 真冬はいぶかし気な顔でにらみつけてくる。ブロックはしていない。が、四人のグループLINEと三人それぞれの個人アカウントを、すべて通知オフにしていた。でないと、今日はどこへいっただの何を食べただのというメッセージがひっきりなしにやってきて、うるさくて仕方がないからだ。
「で、あの、何?」春来は聞いた。
「ここじゃなんだから、部屋あげて」
 真冬はそう言って強引に玄関に入ってきた。しかし、靴を脱ぎながら奥を覗き込むと、「ここでいいや」と言って靴を履きなおした。
「あのね、美穂っちが、倒れちゃったの」
「え? 倒れた?」
 真冬によれば、二カ月ほど前に智樹が家出をし、以来、コンビニだけでなくほかの飲食店のオーナー業務も、ずっと美穂一人で担っていたというのだ。家出の原因はどうやら女らしい。さらにそこへ追い打ちをかけるように、美穂の実母に胃がんが発覚した。ただし、入院先への見舞いはコロナを理由に禁止されているので、世話に時間をとられて大変というわけではないようだ。どちらかというと、精神的なダメージのほうが問題だった。美穂は実母とかなり親しかったのだ。
「もうその時点でてんやわんやなのにさ、一昨日、店長のお母さんがゴルフ場で転倒して、左ひざ靭帯だっけな? とにかく何かを切断したらしいの!」
 春来はぽかんとしてしまった。母の大ケガは初耳のうえに確かに大事だが、それと美穂とどう関係があるのか。
「お母さんが最初に美穂っちを病院によんだよ。そのあとも家に連れ帰って、お世話してあげてたみたい。お母さんから何か聞いてない?」
「なんにも聞いてない」
 春来がそう答えると、真冬はますますけわしい目になってにらみつけてくる。
「だろうね。少しは自分のお母さんに関心持ちなさいよ。知らないみたいだから教えるけど、その前から美穂っちは、ときどき店長の実家にいって、お母さんのお手伝いしてたんだよ。まるでお嫁さんかのようにさ。春来は一人っ子だからそうしてやってくれって、智樹さんに言われてたらしいよ」
「えっ」と発したきり、言葉が出なかった。美穂と母は以前同じ合唱サークルに入っていて、親しくしていることはしっていたが、そこまでとは思っていなかった。春来自身は、最後にいつ実家に帰ったのかさえ、すぐには思い出せない。少なくとも、コロナ禍以前であることは確かだ。
「ちょっと、しっかりして!」そう言って、真冬が春来の顔の前でパンと手をたたいた。「とにかく! 今いろんなことがしっちゃかめっちゃかで大変なの!」
「わかった、とりあえず五分で支度して、店いくよ。駅前いけばいい?」
「いや、店は大丈夫、なんとかなってる。智樹さんも戻ってきたし。それにナビさんが友達を何人か呼んでくれて、臨時で雇い入れたの。みんなコンビニ経験者だから」
 嫌な予感がする。動悸がした。思わず胸を押さえた。
「今すぐ実家にいって、お母さんを病院につれていってあげて」
 出くわさないよう、慎重にさけていたはずの怪物が、突然、目の前に現れた。そんな感覚がした。

 母とは単に気が合わなかった。今となっては、ただそれだけのこととも思う。
 母は独身時代、女優を目指して劇団に入っていた。結婚後に春来がうまれたあとは保険のセールスレディーとなり、バブル期だったのもあって相当稼いだよう。四十過ぎで退職した後は化粧品輸入会社を立ち上げ、一時は地方に支社を持つほど事業を拡大させた。つねに大勢の友達、知り合いがいて、ゴルフ、社交ダンス、囲碁と休日もスケジュールがびっしりだった。
「人生楽しまなきゃ、損!」
 それが母の口癖だ。
 対照的に、電車の車掌から延々出世せず、楽しみは毎日の晩酌だけだった父は、春来が作家デビューする前年、すい臓がんが見つかってすぐに死んだ。その通夜の控室で、母が自分の姉妹たちにこう話しているのを、春来は聞いて愕然とした。
「あー、これで主婦の呪縛から解放されるわ」
 母は掃除や洗濯など最低限の家事はしていたが、父や自分の世話に手を焼いていたというわけでは決してない。むしろ、ほったらかしもいいところだった。とくに会社をおこしてからは、週に半分ほどしか台所に立たなくなった。食事は基本各自でとり、洗濯物は母が洗って干したものを、各自で回収する。掃除はあまりされず、家はいつも散らかっていた。父は仕事柄、帰宅が深夜になることも多かった。食べるものが何もないと、よく自分でインスタントラーメンを作って食べていた。下着姿で背中をまるめてコンロの前に立つ、その後姿を覚えている。ほかの人と結婚していたら、父は間違いなくもっと幸せだったと思う。
 家を出てから、母に会いたくないという気持ちは年々増した。会うと決まって半笑いの顔で「小説の仕事はどうなの?」と聞く。その続きは口にはしないが、春来の耳には聞こえてくる。
「どうせ売れてないんでしょ? 向いてないことをいつまでも続けるなんてバカよ」
 真冬に急げと言われたのに体が動かず、のろのろと身支度をして、実家についたのは三時すぎだった。玄関のドアをあけた春来に、母はやっぱり言った。
「ひさしぶりね、小説の仕事はどうなの?」
 半笑いの口元は見たくない。目を伏せながら、春来は母に聞こえないぐらいの小さな声で「もう仕事ないよ」とつぶやいた。聞こえなかったのか、反応はなかった。
 
 病院は一人でタクシーでいったので、買い物につれていけ、と母は命じた。母の車を運転して、最寄りのイオンにいった。母は杖をついていたが、それ以外は元気そのものだった。しかし、再来月の手術のあとも長いリハビリを要し、走れるようになるまでに一年近くかかるらしい。また、その後にもう一度に手術をしなければならない可能性もあるという。
 ──という情報を、春来は直接、母から聞いたわけではない。車内でもイオンについてからも、母のスマホにひっきりなしに電話がかかってきて、そのたびに母は同じ話を繰り返した。今、イオンの食品売り場で今晩の手巻き寿司の具材を選びながら話している相手は、すでに四人目だった。
「七十も過ぎてるから、リハビリも大変よ。でもね、一年後にはラウンドまわるって決めてるから……あ、カニカマ入れて。その、一番右の。あとは海苔と卵ね」
 春来はハイハイ、と小声で言いながら指示に従う。
「五時にはこれる? うれしい。じゃあ、準備はまかせちゃっていいかしら?」
 誰かくるのなら、俺はさっさと帰ってよさそうだなと内心でほっと息をつく。母と二人きりで手巻き寿司なんて、地獄もいいところだ。
「LINEのタイムラインにケガのことをのせた途端、こうなんだから。みんな心配性で困っちゃう」
 四人目との電話をきると、母は嬉しそうに言った。 
 食材の買い出しを終えたあとも、やれスタバが飲みたいだのシュークリームが食べたいだのと母の欲望はつきなかった。ようやくイオンを出て家の前につくと、夕闇の中、誰かが門扉のところにたたずんでいた。母が「わあ」と声をあげながら、助手席から手を振った。
「夏枝ちゃん! 久しぶり」
「え!」
 春来は慌ててガレージに車をとめると、運転席を飛び出した。
 確かに夏枝がいた。仕事帰りなのかスーツ姿で、少し疲れた顔で手をふっている。
「夏っちゃん、何してるの」
「ちょっと! おろしてよ!」
 背後で母が叫んだ。夏枝が慌てて母を迎えにいく。
「全く、夏枝ちゃん相手だと、犬みたいによろこんで駆け寄っていっちゃうんだから」夏枝に支えられて助手席からおりながら、母がぶつくさ言った。「家の鍵あけて、はやく入れてちょうだい」
 春来は慌てて門扉をあけてドアを開錠しながら、目で夏枝に事情を教えろと訴えた。夏枝は一つこくりとうなずいた。「あとでね」と伝えているように思えた。
 家の中に入ると、夏枝は母と一緒に別室へ向かった。手洗いや着替えを手伝ってくれているようだった。二十分ほどして、夏枝だけが戻ってきた。
「お母さん、ご飯までお昼寝するって。手巻き寿司の準備するから、春くん手伝ってよ」
「いやいや、その前になんで夏っちゃんがここにいるのか、説明してよ」
「別にたいした理由はないよ。LINEのタイムラインでケガのことしって、電話したの。もう何年も会ってはなかったけど、年賀状のやりとりはしてて、LINEも一応、つながってたし」
 確かに夏枝は大学時代、この家によく遊びにきていた。母は面倒見と気前が異様にいいので、この家に居ついてしまう友達はほかにもたくさんいた。中でも夏枝はゴルフや高級レストランにつれていったりとかなりのお気に入りだった。活発でバイタリティのあるもの同士、性格が合うようだった。
「お母さんと最後に会ったのは、結婚したときだっけなあ。お祝いで洗濯機買ってもらったの」
 春来は言葉が出なかった。当時、春来自身は夏枝とすっかり音信不通状態で、結婚したことすらしらなかったのだ。
「ぼやぼやしてる時間ないよ! まず春くんはご飯炊く準備して。それぐらいできるでしょ」
 それから、二人で手巻き寿司の支度をした。夏枝は手際よく食材を切ったり並べたり春来に指示を出したりしつつ、少しでも手があけば、洗濯物を取り込んだり、掃除機をかけたりしていた。
 そして、午後七時過ぎに昼寝から起きてくる頃には、テーブルに食事の準備がととのっているばかりか、やや散らかっていた室内が完璧に整理整頓された状態になっていた。
 もちろん、母は大感激していた。そして春来が内心で、言うんだろうなあとぼんやり思っていたことを、案の定、食事中に言った。
「夏枝ちゃん、今でも遅くないから、うちにお嫁にきてよ」
「言うと思いました」夏枝がそう言って、鉄火巻きをほおばる。「でも、もう遅いですよ」
「あら? なんで?」と母は言いながら、海苔に酢飯をのせ、その上に大好物のうなぎときゅうりをのせていく。「まだ四十代半ば? 後半? ぜーんぜん遅くないわよ。この先の人生、長いわよ。一人より二人でいたほうが、楽しいかもよ?」
「うーん」
「わたしもね、お父さんが死んじゃって、こうしておひとり様を謳歌してるように見えるかもしれないけど、やっぱりときどきさみしいもんよ。とくにこんなケガしちゃうとさ、誰かいてくれたらなあって思うもの。息子はいないも同然だし」
 そう言って、春来にちらっと視線をよこす。春来は気づかぬふりして、ビールをあおった。
「まあでも、うちの春来には、夏枝ちゃんはもったいなさすぎるわね。美人だし、お金もちゃんと稼いでさ。肌もきれい、三十代でも通じるんじゃない? それにひきかえ、見て、この子。すっかりおっさんよ、情けないわ。この子とは違って夏枝ちゃんは、きっとすぐにいい人見つけて、再婚しちゃうわよね」
「どうでしょうねー」
 二人はそれから、ゴルフや韓国アイドルの話でもりあがっていた。春来はほとんど口をはさまなかった。
 食後はイオンで買ったシュークリームを夏枝がいれてくれた温かい紅茶と一緒に食べ、九時過ぎ、夏枝と二人で家を出た。
「これからはいつでもきてね、夏枝ちゃん。ここを我が家だと思ってくれていいから」
 そう言って玄関先で笑う母の顔は、門灯が逆光になっているせいもあって、やけに不気味で本物の怪物に見えた。夏枝はふふっと笑うと、春来にとっても意外な言葉を返した。
「うれしいです。わたしは実家どころか、親なんていないも同然だから。また、絶対にきますね」
 それから、駅までの暗い道を、二人で歩いた。思えば、こんなふうに二人きりになるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
「どうする? 一杯飲んでく?」
 少し前を歩く夏枝に聞いた。
「うーん。明日も仕事あるし、やめとこうかな」夏枝は振り返ることなく、そう答えた。「ねえ、明日もご飯、作りにいくよ」
「え?」
「お母さんのところに。明日だけでなく、できる限りお手伝いにいくよ。だから春くんは、自分のことをやってていいよ」
「自分のことって?」
「え? だから、小説書いたり、いろいろ。忙しいんでしょ? がんばってね」
 もうとっくに仕事がなくなっていることを、実は三人にははっきり言えていなかった。駅の改札が見えてきた。夏枝の最寄り駅に着く前に、もう一度、飲みにいこうと誘ってみよう、と春来は思う。
 しかし、あっけなく断られた。春来よりひとつ前の駅で、夏枝は電車をおりた。扉がしまる直前、夏枝は振り返って小さく手を振った。やがて電車が動き出し、その姿はあっという間に残像になる。
 ──だから春くんは、自分のことをやってていいよ。
 その声が胸の奥に響く。気遣ってもらえたことが、うれしかった、とても。
 窓に顔をよせ、夜のむこうを流れていく集合住宅のあかりの連なりを見送る。誰かと過ごす一晩が恋しい。夏枝はこれから一人で家に着いて、どんなふうに過ごすのだろう。どんな気持ちで布団に入って、目を閉じるのだろう。そのとき俺のことを、思い出すのだろうか。

 

(第14回につづく)