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 クリニックで処方された漢方薬はまじめに飲んでいたが、症状がよくなっている気は全くしなかった。日中、何もしていないのに倦怠感が常につきまとい、何かを食べるどころか、水を飲むのさえおっくうだった。連日の猛暑もこたえた。エアコンをつけても全く涼しく感じられないときもあれば、二十八度設定程度でも寒さで頭が痛くなるときもある。そして、夜は眠れない。
 休職も三週目に入った八月の終わり、妹からずっとすすめられていた婦人科に、やっといく気になった。そこは更年期障害治療に特化した有名クリニックで、どんな相談にも親身にのってくれる上、よく効く新薬を処方してくれるという。良子の紹介で受診している今のクリニックは、漢方薬しか出していなかった。
 これまで妹が何度かかわりに予約をとってくれたが、すべてすっぽかしてしまった。そのクリニックは江東区にあり、最低でも一時間近くかかる。酷暑の中の長い道のりを想像するだけで、つらくて涙が出た。
 けれど、ここ数日になってようやく、少し暑さが落ちついてきた。予約当日は久々に朝十時前に起きて、トースト一枚だけだったが、朝食を摂った。外は薄曇りで、気温は二十五度を下回っていた。
 実際にはひと月もたっていないが、数年ぶりに乗ったような感じのする地下鉄に揺られて数十分、そこは、人生ではじめて降りる駅だった。緑と運河に囲まれた静かなところで、古びた住宅が目立つ。が、運河の対岸はタワーマンションが林立する別世界だった。
 歩いて十分ほどで、クリニックに着いた。自動ドアを二つ抜け、受付エリアに足を踏みいれた瞬間、立ちすくんだ。
 周りは妊婦ばかりだった。大きなお腹を抱えて文庫本を読みふける妊婦、夫らしき男と口喧嘩している十代にしか見えない妊婦、三人の小さな子供をつれ、途方に暮れたように虚空を見つめている妊婦、そして、あちこちから響きわたる乳児や幼児の悲鳴。所在なさげな様子でうろついている男も数名。白い受付カウンターの向こうで、緑色の制服を着た女が怪訝そうな目でこちらを見ていた。恐る恐る前に踏み出し、受付の女に「予約した川村です」と言った。女はキーボードをすばやく叩いてから「ご予約入っていないようですけど」と目も合わさず言った。
 夏枝はすぐにくるっと背を向け、速足で自動ドアに向かった。恥ずかしさとわけのわからなさでパニックだった。意味がわからない。何が自分の身に起こっているのか理解できない。ただ、もう二度と外出しない、明日から一歩も、絶対に外に出ない、その決意だけが胸をぎゅっとしめつける。
 二つ目の自動ドアを抜け、ようやく外に出た。すぐにマスクをずりさげて、何度も深く息を吸い込んだ。知らぬ間に呼吸を止めていた。いつから? 中に入って、妊婦をたくさん見たときから?
「夏枝」
 背後から、名前を呼ばれた。振り返る前にすでに、元夫だ、と半ば無意識のうちで気づいていた。
 それでも振り返った。元夫がいた。
「ひさしぶりだね、体調悪そうだけど、平気?」
 声すら出ない。元夫の顔の下に、赤ん坊がいた。抱っこひもで前向きにくくられた赤ん坊は、よだれをたれながしながら、自分の小さなこぶしを食べている。
 夏枝の視線に気づくと、元夫は自分の顎の下にある小さな顔をちらっと覗き込み、それから夏枝にむかって優しく微笑んだ。
「俺、再婚したんだ、言ってなかったけど」
 もしかして、と思う。自分はパラレルワールドにでもきてしまったんだろうか。あのくずでろくでなしの宏昌が、完璧な家庭を築いて幸せになる世界線。
「最近、引っ越しもしてさ、家はこの近所。今、嫁さんは二人目のお産で、ここに入院してるんだ。今回は双子だから、もう大変だよ」
 照れくさそうに髪をかく。てっぺんがどうなっているのかは、よく見えない。着ているラルフローレンのボタンダウンのシャツには、しわ一つ寄っていない。
「驚いてるよね。俺、変わっちゃったろ? 嫁さんと、嫁さんの両親がすごくいい人でさ、俺、一からやり直せてるよ。今は、ギャンブルも一切やってない。人間ってこんなに変われるんだって、自分でもびっくりだよ。あの、夏枝にも、いつか会って謝りたいって、ずっと思ってた。ひどく苦しめてしまった気がしてて。でも今の夏枝が、どんな暮らしをしてるか、わからなかったから……その、なんとなく、連絡しづらくて」
 なんで? なんで連絡しづらいの? もしわたしが不幸だったら。今も一人で、孤独で、さみしく暮らしていたら。そしたらかわいそうだから、結婚のことも子供のことも言えない、そういう意味?
「ところでさ、あの、聞きにくいんだけど……」元夫は言い淀みながら、背後のクリニックをちらっと振り返った。「どうして、ここに来たの?」
 ふええと、赤ん坊が甘い声を出した。おーよしよし、と父親は優しくゆすってやる。
「あのさ、まさか、妊娠してるんじゃないよな? 違うよな、まさかな。あの、だったら、もしかしてだけど、あの、間違ってたらごめん、あの、この裏手にさ、更年期障害専門のクリニックがあるんだけど、そっちと間違えたんじゃない? こっちのクリニックは、産科がメインのはずだから」
 そのとき、LINE電話の着信音がけたたましく鳴り出した。元夫は「あ、嫁さんだ」と言って電話に出た。「あ、モモちゃん、うん、うん、待って、すぐいくね」。聞いたことのない声色だった。そのまま顔の前で夏枝に向かって手刀を切ると、クリニックの中へいそいそと戻っていった。
 死に遅れたツクツクボウシが、どこかで鳴いている。周りには誰もいない、自分一人だけだ。夏枝は安心して、再び深く息を吸い込む。いいタイミングで電話が鳴ってくれた。おかげで元夫の前で「ちがうちがう。更年期障害じゃなくって、生理不順の相談をしたいだけなの」なんて間抜けな言い訳をせずに済んだ。よかった、本当によかった。しみじみと思いながら、何度も息をはいて、吸う。ずっと呼吸が乱れて、胸が苦しい、死んでしまいたい。

 起きているのか眠っているのか、もうよくわからなかった。
 ろくに食べもせず、水分もほとんどとらず、スマホの電源はずっと切れたまま。カーテンも閉め切って、昼も夜もわからない。気づくと涙が流れてくる。夢の中でも泣いている。泣けば泣くほど、みじめさと情けなさが瓦礫のように折り重なって、また涙が出てくる。元夫の顔が、子供が壁に貼った古いシールみたいに脳裏にこびりついて剥がれなかった。夏枝の体調を気遣う心配げな顔。赤ん坊をいとおしげに見る顔。誰かと出会い、ともに生きることで、人は変わる、よりよい人間になる。それが人生の本質なんだろうか。たった一人、誰とも幸せを分かち合うことなく、孤独に生きている。だからわたしは、何ひとつ変われないのだろうか。
 この苦しみは、嫉妬の苦しみだ。夏枝はきちんと自覚していた。元夫の新しい人生がねたましくてしょうがない。だからつらい。苦しんで死ねばいい、そんなことすら考えてしまう。なぜあんなくずのろくでなしが、すばらしい結婚相手を見つけて幸せな家庭を持てるのか。真冬の明るい性格と頑丈な体もねたんでいる。老眼を笑われた。たったそれだけのことなのに、どうしても許せない。
 それに。本当は。聖子が自分をねたんで意地悪したのではなく、自分が聖子をねたんで、ねたんでねたんでねたましくてしょうがなくて、入社したばかりの頃、少しだけ、そっけなくしてしまった。自分がやったことなのに、ずっと、なかったことにしていた。
 はじめて聖子に会ったとき、出身地を聞かれたので、都内だと答えた。すると聖子は目を輝かせて「わたしも都内! 東京出身の人って意外となかなか知り合えないんだよね! 何区? わたしは港区!」と言ったのだ。
 それから数回、朝、聖子と会っても挨拶しなかった。
 あの海抜ゼロメートルの場所で、害虫みたいにはいつくばって生きていたのと同じ頃。聖子はどんな暮らしをしていたのか。ダメだとわかっていても、考えてしまう。毎日どんな朝ごはんを食べて、母親にどんな素敵な髪型に結ってもらい、クリスマスはどんな楽しい夜を過ごしていたのか。気づくと、一方的に相手をねたんで、するべきでないふるまいをしてしまう。それは、とてもささいなこと。二、三回挨拶を無視するとか、その程度のこと。それ以上はいけない、と自分をいさめることがまだできている。だからその程度なら、見逃してくれる人もいる。聖子はダメだった。きっとその二、三回で嫌われてしまった。けれど、嫌われて当然だと思う。
 誰か、支えになってくれる人がそばにいたら、違うのだろうか。
 ねたみを、苦しみをわかちあう誰かを、見つける努力をするべきだったのだろうか、元夫みたいに。一人ぼっちでいる限り、変われない。新しい人生なんて手に入れられっこない。もっと歳をとったらもっともっとねたみ深くなって、もっとひどいことを他人にするようになってしまうのだろうか。一人で歳をとるとは、そういうことなんじゃないか。
 涙がまたあふれてきて、もはやおぼれてしまいそうだった。呼吸が正常にできていないような感覚がする。鼻が完全につまっていた。それなのに口の中はかわききって、息がうまく吸い込めない。
 少ない力を振り絞り、横になったまま手を伸ばして、床に転がっているはずのお茶のペットボトルを探した。ようやくつかむと、その体勢のままごくごくと飲んだ。ぬるくて、まずかった。くさっているかもしれない。どうでもよかった。
 ペットボトルを投げ捨てた。同時に、真っ暗だった部屋に、突然まばゆい光がともった。
 壁にとりつけたテレビだった。ペットボトルがリモコンに当たってしまったらしい。まぶしさに目をほそめながら、夏枝は画面を見た。
 視界がぼやけてよくわからないが、何らかの室内スポーツの映像のようだった。そうかオリンピックか、と考えて、すぐに自分の思い違いに気づく。よく見ると、選手たちは車いすに乗っていた。もう今は夏の終わり、これはパラリンピックだ。
 手を伸ばしてリモコンをつかむと、音量を上げた。同時に飛び込んできた言葉に、思わず上半身を起こした。
「車いすバスケ界の流川楓こと──」
 夏枝は完全に起き上がってベッドの上に正座した。前のめりになって画面に食い入る。誰が流川と呼ばれているのか、すぐにはわからなかった。が、やがて気づいた。
 背番号2。やや長い黒髪、するどい眼光。見た目は確かに流川に似ているかもしれない。が、数分眺めて、彼のプレースタイルは、どちらかというと主人公の桜木花道のほうに近いと夏枝は思った。ゴール下でリバウンドをもぎとり、得点につなげる執念。屈強な上半身ととびぬけた身体能力──気づくと持ったままのリモコンを、つぶしそうなほど強く握りしめている。体の奥から、激しい衝動をともなった何かが、つきあげてくるのを感じる。
 小中高と、夏枝はずっとバスケットボール部だった。スラムダンクは連載がはじまった当初から、バスケ部の男子たちにすすめられて読んでいた。一番好きだったのは流川でも花道でもなく、三井だった。まわりの女子はみんな三井が好きだった。三井にあこがれて、必死で3Pを練習するようになった。けれど漫画で描かれるようなきれいなシュートはちっともできなくて、毎日居残りで練習しても、試合で全然決まらなかった。
 引退試合は関東大会予選の二回戦。相手は私立の古豪、対するこちらは弱小中の弱小の都立高。前半で30点近くリードされたが、後半ラスト十分時点で9点ビハインドまで追い上げた。
 そのとき、ボールがすっぽりと、パズルのピースのように自分のところへやってきた。しかもノーマーク。
 心の中に、三井の「落とす気がしねえ」の声がこだました。股関節からまげて腰を落とし、下半身の力を上半身へまっすぐ伝える。すべて練習した通り。そして、ボールが自分の腕から放たれた。
 それがゴールネットをスパッと音もなく潜り抜けるまで、永遠のように感じた。
 ワーッと歓声があがり、仲間たちがかけよってきた。あと二回同じことを繰り返せば、追いつける。そう思ったが、その後、立て続けに相手チームにゴールを奪われ、終わってみれば、再び30点近くのリードをつけられての大敗となった。
 試合終了のホイッスルが鳴った途端、チームメイト全員の顔にわっと涙があふれた。抱き合って、いつまでも泣いていた。試合後の挨拶でも泣きつづけ、監督からの最後の話を聞いているときも泣いて、帰りの電車でも後輩たちと手を握り合って泣いていた。そのとき、電車の窓のむこうに広がる茜色の夕日と、どんどん近づいてくる見慣れた小菅の東京拘置所、その風景をはっきり覚えている。青春のきらめき。それが今、目の前で、ふっと消えた。あとの人生はずっと消化試合かもしれない。そんなようなことを思いながら、べたべたの頬を手の甲で拭った。十七歳だった。
 画面の中の日本代表チームは、勝利を飾って終わった。夏枝はテレビを消すと、ふたたびベッドに寝転がり、スマホで車いすバスケ界の流川楓について調べた。その後、眠たくなるまで、ユーチューブで彼のインタビュー動画や密着動画を見続けた。
 それからほぼ毎日、車いすバスケの試合を見るようになった。はじめは、ベッドに寝たままぼんやり眺めているだけだったが、すぐに、きちんとテレビの放送時間やネットの配信時間を調べるようになった。元気があるときはなるべくその前に風呂と食事を済ませ、テーブルにコーヒーを用意し、リビングの大きなテレビで観戦した。日本代表が出ていない試合もチェックした。
 日本代表は順調に勝ち進み、決勝戦まで駒を進めた。相手はディフェンディングチャンピオン・アメリカ、まさに不足なし。決勝戦は正午開始予定だった。夏枝はそれにそなえて、数日かけて昼夜ぐちゃぐちゃだった睡眠時間を調整し、その日は朝七時すぎに起床した。ジャンプボールまでまだ時間があったので、久しぶりに掃除もした。
 日本代表は開始早々、エースの選手が鮮やかな3Pを決めて序盤はリードする展開となった。が、敵もさるもの、圧倒的なスピードと攻撃で追い上げられ、あっという間に逆転を許した。その後、車いすバスケ界の流川の再逆転シュートなどもあり、一進一退の攻防が続いたが、日本は勝負どころで失点を許し、最終的には60対64で敗れ、銀メダルとなった。
 試合終了のホイッスルが鳴らされると、アメリカ選手たちは涙を流してチームメイトと抱き合い、日本選手の中にも悔し涙に目を赤くしている人が数名いた。夏枝は車いすバスケ界の流川の姿を必死で捜したが、なかなか映らなかった。ようやく見つかった彼は、相手チームをたたえて拍手をしていた。表情は一見おだやかだが、その目は静かに強く燃えていた。かたく結んだ唇で、こみあげる悔しさを必死に飲みこもうとしているように見えた。
 テレビを消した。少し考えてから、部屋の隅にある姿見の前に立った。
 ぞっとした。生気のない、くさった飴玉みたいな目が二つ。肌は真冬に指摘された通りの土色をしていて、頬はこけ、まるでゾンビみたいだ。引きこもりのゾンビババア。自分もかつて、車いすバスケ界の流川のような目をしていたことがあったのだろうか。勝つか負けるか。目の前にあるのはそれだけだった頃。
 ソファに戻り、スマホを手に取った。LINEの未読メッセージが八十二件もあった。しかしそれはまだスルーしたまま、アマゾンのアプリを開いて、ウィルソンのバスケットボールを購入した。
 バスケットボールは翌日の午前中に届いた。昼間に出かける勇気は持てず、誰もいないであろう夜十時過ぎになって、ボールを手に公園へ向かった。
 ジョギングや犬の散歩をしている人が数名いたものの、昼間に少し雨が降ったのもあって、普段より人は少なく思えた。こんな夜でも、というよりこんな夜ほど、バスケットゴールの周囲には若者がたむろしていることが多いが、今晩は無人だった。
 家を出る前にも入念にストレッチしたが、その場でも屈伸運動をした。それから、いつかの晩見たバスケ少年が立っていたのと、ほぼ同じ位置に立つ。よし、と口の中だけで言って、3Pシュートを放ってみた。
 当然、入らない。いや、入らないどころか、ゴールよりだいぶ低い位置までしかボールがあがらなかった。それでも入るまで何時間でもやるつもりだったが、十分もたたないうちに腕がしびれてきた。やむなく帰宅すると、ユーチューブでバスケ動画を漁り、繰り返し見た。翌日も同じぐらいの時間に公園にいった。やはり十分ほどやったが、一度も成功しなかった。そのときになって、暗くてよく見えないのがダメなのだとようやく気づいた。
 さらに翌日、勇気を出して午前中に公園へ向かった。いつも使っているバスケットゴールまでいくと、大学生ぐらいの男子二人が1on1をやっていた。二人はそれぞれ白と黒のTシャツを着ていて、まるでオセロみたいだと思った。黒いほうが夏枝の姿に気づき、はじめは無視したが、何か気になったのかすぐにまた振り返って「いいボール持ってますね」と声をかけてきた。
「し、新品なんです」
 話しかけられるとは予想しておらず、動揺してそんなどうでもいいことを口走ってしまう。
「あ、使います?」と白いほうが、気のよさそうな笑顔を向けながら言った。
「いいです」と断ろうとして、思いとどまった──ここで逃げたら、わたしは引きこもりゾンビババアのままだ。
「あの、3Pシュートの練習をしたいんですけど、なかなかうまくできなくて。あとでいいので、教えてもらえませんか?」
 二人は虚をつかれたように互いに顔を見合わせた。黒いほうが戸惑いながら、「あの、まあ、俺らでよければ」と言った。
 そして、臨時のシュートレッスンがはじまった。聞けば白いほうは近所の小学生チームのコーチをしているらしく、指導はお手の物といった様子だった。アドバイスを受けて五本ほど打っただけで、一人でやっていたときには感じられなかった手ごたえのようなものをつかめた。
「さすが経験者、うまいですよ。あと少しです」
 黒いほうがそう言ってはげましてくれる。そして、十五本目──膝をまげ、モーションに入った瞬間から、これは、という感覚があった。そのとき、白いほうがふざけたような調子で、ふいに言った。
「落とす気がしねえ!」
 自分の体から放たれたボール。永遠とも思える時間。見たこともないぐらい美しい弧を描いて、ゴールネットを静かにくぐった。
「うわー! すげー!」
「やった!」
 まるで一世一代の大会で決勝ゴールを決めたかのように、若い二人は大はしゃぎした。けれど夏枝はその場に立ったまま、わずかに揺れるぼろぼろの今にもちぎれそうなネットを見つめつつ、静かに、こう思っていた。
 ──立ち直った。
 わたし、立ち直った気がする。誰かと一緒に暮らさなくても、配偶者を得なくても、こうして通りすがりの人の親切を少し借りながら、一人で、自分の力で、立ち直った、そんな気がする。
 気づくと頬に涙が伝っていた。それを見て、男子二人は急にゾンビでも出くわしたように顔をこわばらせた。逆にその様子が夏枝にはおかしくて、思わずふふふと笑ってしまった。
「何百万本も打ってきたシュートだ」
 夏枝が言うと二人はぽかんとしていた。黒いほうが「なんすか、それ」とつぶやく。
「いや、流川の名言だけど。しらないの?」
「しらないっす」
 なんで「落とす気がしねえ」はしっててこっちはしらないんだと思ったが、口に出さなかった。その後、二人に礼を言って、公園をあとにした。帰り道の途中にある眼鏡屋で、老眼鏡を買った。

 一日もオーバーすることなく、二カ月ちょうどで、夏枝は休職を終えた。
 体調はまだ万全ではなかったが、改めて受診した更年期障害専門のクリニックでもらった薬の効果が、少しずつ出はじめていた。まだ体のほてりや気分の浮き沈みはあったものの、慢性的なだるさがかなり改善した。何より、一日三十分のジョギングと3Pシュート練習十本を習慣化したおかげか、夜にぐっすり眠れるようになったのが大きかった。
 復帰初日、聖子は午前中半休をとっていた。午後、出社してきた彼女の顔を見て、夏枝は「おはようございます」と大きな声で挨拶をした。聖子はまるでこちらが透明人間でもあるかのように、一瞥もくれずに自席についた。
 ぎゅっと目を閉じ、車いすバスケ界の流川の顔を思い浮かべた。気にするな、自分のことをやれ、と彼が夏枝を励ましてくれる。
 その日一日、これまでにない緊張感の中、仕事をした。幸いにもミスは一つもしなかった。良子が四時前にあがらせてくれた。事務所を出ると、外はまだ明るかった。
 スマホを出して、真冬にLINE電話をかけた。出なかったので、メッセージを送った。

 冬さん、今更だけどごめんね。八つ当たりして、ひどい態度とってしまいました。今日、無事に仕事復帰しました。

 すぐに既読がついて、返事があった。

 わたしも、美人で有能な夏っちゃんに嫉妬して、意地悪を言ってしまったのかもしれない。反省してます。ごめんね。復帰おめでとう。
 今、バイト中で、もうすぐ終わる。この後、うちくる?

 いく!

 と返信して、スマホをバッグにしまうと、腕を伸ばして伸びをした。立ち直った。また思う。たった一人で暮らして、たった一人で立ち直った。きっとまた悪くなるときもあるだろうけど、とりあえす今は、立ち直った。一人で。わたしが生きたかった人生はこれなんだ、と思う。息を大きく吸い込んだら、キンモクセイの匂いが鼻を抜けた。あのボロ家の窓から見ていた小さな空は、もう思い出さない。

 

(第13回につづく)